第183話 第六章「射線の中の水」前編
一月二十五日 午後四時十八分
水には、宛先がない。
環玉樹は、昔そう思っていた。
雨は屋根を選ばない。
川は名前を呼ばない。
喉が渇いた人間へ、誰の許可も取らずに入っていく。
だが、配達の仕事を始めてから考えが変わった。
水にも宛先はある。
人間が勝手に書く。
飲料用。
工業用。
兵舎用。
避難者用。
未登録者には支給不可。
文字を書いた瞬間、水は喉より先に帳簿へ届く。
乾河床の給水点には、蛇口が三つあった。
天環側。
剛嶺側。
境界管理用。
三本とも、同じ太い管から分かれている。
三本とも、水が出なかった。
「凍結です」
境界兵が言った。
「音がする」
タマキは耳を管へ近づけた。
「離れろ」
「水が走ってる」
「内部圧が残っている。破裂の危険がある」
「じゃあ凍ってない」
「一部が凍結している」
「どこ」
「設備担当を待て」
「いつ」
「明朝」
「喉は今」
「携行水を使え」
「誰の」
「各自の」
「持込検査で、一人一瓶に減らされた」
「規定量だ」
「規定は、喉の大きさ測った?」
「環玉樹。設備から離れろ」
名前で命じられた。
タマキは一歩離れた。
離れたが、見ないとは言っていない。
乾河床は、昔の川をそのまま境界にした場所だった。幅は五十歩ほど。両岸に低い土手。冬の川底は白い砂利と灰色の泥。中央へ給水管が一本、橋の代わりに渡されている。
人間が通る道は、管の南側。
北側は射線。
土手の上に見張り台が二つ。銃眼は細く、内側が見えない。第二検問からここへ来るまで、ずっと銃口の気配が背中へ付いていた。
由良は「二人いる」と言った。
七瀬は撮らなかった。
場所が公開されれば、次にここを通る者が射手を避けるためではなく、射手を狙うために使うかもしれない。
見えることと、見せていいことは違う。
「残り、どれくらい」
タマキが訊く。
「誰の」
七瀬。
「機械」
「二十二分九秒」
「水は」
「私の瓶は三分の一」
「時間で飲む?」
「あなたが単位を混ぜた」
「どっちもなくなる」
調査班の携行水を集める。
迅、半分。
凱、四分の一。
七瀬、三分の一。
轟、ほぼ空。
真琴、半分。ただし喘息薬を飲むために残す必要がある。
由良、空。
タマキ、二口。
「由良、いつ飲んだ」
「朝」
「何を」
「粥」
「水」
「粥に入ってた」
「それは朝ご飯」
「水でもある」
「配達票なら別品目」
「身体は一緒にする」
「身体、雑」
「おまえに言われたくない」
由良の唇は乾いている。走っていないのに、呼吸が少し速い。止まっていることへの苛立ちもある。水不足もある。
タマキは自分の瓶を差し出した。
「一口」
「いらない」
「料金は後」
「だからいらない」
「無料じゃない方が受け取りやすい人いる」
「おまえ、相手を見て値段を変える?」
「変える。払える人から取る。払えない人には、後で運んでもらう」
「何を」
「その時、重い物」
「街は断っただろ」
「分ければ運べる」
由良は瓶を受け取った。
ほんの一口。
口を付けた位置を布で拭き、返す。
「神経質」
「共同瓶で病気を運ぶな」
「正しい」
「褒めた?」
「事実」
凱が二人を見る。
「似てきたな」
「どこが」
二人の声が揃った。
凱は返事をしなかった。
午後四時三十一分
柵外の家族待機地にも、水が届いていなかった。
乾河床の上流側、鉄柵を二枚挟んだ向こうに、灰谷トワたちがいる。朝は湯桶が二つあった。今は空。境界倉庫から補給車が来る予定だったが、第二検問の接触事案で通路が閉じ、戻されている。
警備兵の水も減っていた。
天環側は一人一瓶。
剛嶺側は二人で一瓶。
なぜ違うか訊くと、規定が違うと言う。
同じ管の前で、違う規定が渇いている。
「配る順番を決める」
由良が言った。
「水が出てから」
タマキ。
「出る前に決めないと、出た時に奪う」
「誰から」
「全員」
「誰へ」
「全員」
「答えになってない」
「急ぐ時は、だいたいそうなる」
由良は川床へ、靴先で線を引いた。
「最初、医療。次、子どもと高齢者。次、警備。次、調査班。都市で分けない」
「警備が三番?」
「銃を持つ人間が脱水で倒れると、指が変なところへ入る」
「説得力が嫌」
「現場は嫌な理由で回る」
真琴が手帳を開く。
「《医療》の定義を」
「喉が乾いてる人」
「全員です」
「薬を飲む人。傷を洗う人。熱がある人」
「順番内の配分量は」
「一口ずつ」
「一口の量」
「口で違う」
「器を統一すべきです」
タマキは首の鏡を外した。
「これ、器じゃない」
「鏡です」
「裏が少し凹んでる」
「飲料用途は衛生上――」
「真琴」
迅が言った。
「何です」
「水がない」
「だからこそ、出た後に争わないよう――」
「出す方が先」
「順序を無視すれば、出た瞬間に――」
「二人とも止めろ」
轟の低い声が、管の中へ響いた。
全員が見る。
轟は給水管から五歩離れた場所へしゃがんでいた。右掌を地面へ付け、耳を砂利へ近づけている。
「漏れてる」
「どこ」
タマキ。
「下」
「下のどこ」
「管の北。三、四……七歩」
迅の目が動く。
「別の単位にしろ」
「おまえの歩幅じゃない。俺の」
「遠い」
「九メートルくらい」
「最初からそう言え」
「地面なら歩数が早い」
轟は砂利を一つ拾った。
湿っている。
表面は乾いているのに、下だけが濃い。
「漏れた水、砂の下へ走ってる。凍結じゃない。どこかで管が割れて、圧が落ちてる」
「北側は立入禁止だ」
警備兵。
「射線だから?」
タマキが訊く。
「設備保護区域だ」
「銃が守ってる?」
「近づくな」
「直す人は」
「明朝来る」
「それまで、漏れた水は誰へ届く」
「排水溝へ」
「宛先、穴」
「設備から離れろ」
タマキは離れなかった。
鏡を地面へ置いた。
木の縁を指で押し、反射角を変える。
鏡面に、北土手の空が入る。
白い雲。
見張り台の角。
銃眼。
小さな光。
一つ。
二つ。
「二人」
由良が横から覗く。
「一人は寝てる?」
「照準が下がってるだけ」
「誰へ向けてる」
「管」
「管を撃つ?」
「管へ近づく人間」
「じゃあ、管が人を呼んでる」
タマキは鏡を少し動かした。
射手の光点が追う。
鏡そのものへではない。
鏡を持つ手へ。
「環、下げろ」
凱。
「撃たない。まだ」
「まだを確認するな」
「確認しないと、いつか分からない」
「撃たれてからでは遅い」
「撃たれる前に、撃つ人の位置を知らないともっと遅い」
タマキは鏡を伏せた。
「右の人、動きが遅い。左はずっと追う。交代してない」
「なぜ分かる」
「光の高さ。左は息で揺れる。右は一回しか動いてない」
「記録した?」
七瀬が訊く。
「頭」
「公開しないで」
「誰に言ってる」
「全員」
七瀬は小型機を起動しなかった。
午後四時四十七分
巌門崇牙は、川床へ下りて来た。
石灰色の外套の肩板が、夕方の光を鈍く返す。背は轟より少し低いだけ。歩幅は大きい。だが固定された地面へ足を置くたび、上半身がほんのわずかに揺れる。
船酔いに似ている。
動く都市で育った身体は、動かない地面を逆に異常と感じるのかもしれない。
タマキは訊いてみたくなった。
今はやめた。
人は、弱点を見つけられたと思うと、強い顔をする。
「給水設備へ接触するな」
巌門の声は、見張り台まで届いた。
「漏れてる」
タマキが言う。
「設備担当を待て」
「明日」
「そうだ」
「今日の喉は」
「携行水を配分しろ」
「足りない」
「不足は双方同じだ」
「同じなら公平?」
「不公平ではない」
「背の高い人と低い人に、同じ長さの布を配ると、どっちか裸になる」
轟が自分の橙ベストを見た。
「俺だな」
「例えです」
「分かってる」
巌門はタマキではなく、凱を見た。
「調査班の指揮者は誰だ」
「案件ごとに違う」
凱。
「今は」
「給水設備なら轟。配分なら環。境界規則なら真琴。全体の命令権を持つ者はいない」
「軍ではないのか」
「軍ではない」
「だから遅い」
「一人の間違いで全員が速く崖へ行くよりましだ」
「崖の前で議論している間に、背後から敵が来る」
「敵は誰だ」
「線を越える者だ」
「俺たちは許可を受けた」
「許可を受けた者が、設備区域を越えようとしている」
「直すために」
「理由は越境を消さない」
「規則は、設備故障時の緊急保全を認めているはずだ」
真琴が口を挟む。
「担当者到着までに人命または基幹供給へ重大な損失が見込まれる場合、現場管理者が代替保全を許可できる。但し、作業範囲、責任者、停止条件を明示する」
「現場管理者は私だ」
「では許可を」
「重大な損失を認定しない」
「飲料水停止が重大ではない?」
「一夜だ」
「一夜で死ぬ人もいます」
「ここにはいない」
「確認を」
「医療名簿に該当なし」
七瀬が顔を上げる。
「柵外の家族待機地の名簿は、あなたの医療名簿へ接続されていますか」
「天環側管理だ」
「では《ここ》に含めていない」
「境界管理区域外だ」
「水道は同じです」
「管が同じでも、管轄は別だ」
タマキは三つの蛇口を見た。
同じ太い管。
三つの札。
水は管轄を読まない。
読まない物ほど、人間が何度も札を付ける。
「この水、誰が送った」
タマキが訊く。
「上流共同貯水所」
巌門。
「誰へ」
「境界施設へ」
「何のため」
「給水」
「施設に喉ある?」
「人員へだ」
「どの人員」
「登録された者」
「家族は登録されてる」
「天環側で」
「警備兵も登録されてる」
「双方で」
「行方不明の人は」
「拘束者はいない」
「聞いてない。登録」
「未確認者は、保護移送中だ」
タマキの頭の中で、二つの言葉がぶつかった。
拘束者はいない。
未確認者は移送中。
「いない人を運んでる?」
巌門の目が細くなる。
「拘束と保護は違う」
「本人が出られる?」
「確認が終われば」
「終わる前は」
「安全のため待機する」
「扉は開く?」
「警備上答えられない」
「じゃあ水は届く?」
「保護区画へは配給される」
「どこから」
「境界備蓄」
「その記録」
「閲覧権限外だ」
タマキは、巌門の外套の内側に紙の角があるのを見た。
真壁が後ろに立ち、炭紙へ時刻を書いている。
「隊長」
真壁が言う。
「共同境界室からの命令書二通を、調査班へ提示する必要があります。第一検査時の照合申請に基づきます」
「第二検問記録庫で行う」
「乾河床通過前の現状確認が条件です」
「誰が追加した」
「山科担当官。十三時五十二分。剛嶺側の杜野記録兵が連署しています」
巌門は古い鍵を握った。
「現場を紙で止める者が増えたな」
「紙が現場を追えるようにしています」
「紙は走らない」
「だから時刻を書きます」
真壁は鉛筆を差し替えた。
一本目が短くなっている。
巌門は外套から二枚の命令書を出した。
同じ灰青色の印。
同じ共同境界室。
一枚目。
《当境界区域に拘束者は存在しない。両都市は不法拘束の申立てを否認する。》
二枚目。
《身元未確認者を安全確保のため共同確認区画へ移送し、照合完了まで区域外移動を制限する。》
「同じ日?」
七瀬。
「一枚目は一月二十日。二枚目は二十一日」
「後の命令が前を取り消す記載は」
真琴。
「ない」
「定義上、区域外移動を制限された者は拘束者ではない?」
「保護対象だ」
「本人が拒否しても」
「身元確認前の判断は、本人の安全を損なう可能性がある」
「本人は、自分の安全を判断できない?」
「誰かも分からない人間の判断へ、都市は責任を持てない」
「名前がないと、大人も子どもになる」
タマキが言った。
巌門は答えない。
「水、出そう」
「話が飛んだな」
「飛んでない。いない人にも配るなら、人数分、水が減ってる。境界備蓄が減る。だから警備の水が少ない。家族へ回らない。管は漏れてる。全部つながってる」
「推測だ」
「備蓄帳を見せて」
「権限外」
「じゃあ管を直す」
「許可しない」
「理由」
「射線へ入る」
「撃たなければいい」
「侵入者へ備えた射線だ」
「修理する人は侵入者?」
「許可のない者は」
「許可して」
「堂々巡りだ」
「水は巡ってない」
タマキは蛇口をひねった。
一滴だけ落ちた。
凍った金属の先で丸くなり、地面へ落ちる。
三つの札のどれにも入らず、白い砂へ消えた。
午後五時二分
許可は、出なかった。
代わりに、管が破れた。
最初の音は小さかった。
氷の下で、薄い皿が割れるような音。
轟だけが顔を上げた。
「下がれ」
誰より低い声が、誰より早く届いた。
タマキは鏡を掴んで飛び退いた。
給水管の北側、砂利が一列に持ち上がる。
次の瞬間、白い水柱が地面から噴いた。
高さは人の胸。
夕方の光を散らし、細い氷片を周囲へ撒く。
管の中に残っていた圧が、地中の割れ目を開いた。
見張り台の銃口が動く。
「全員、伏せろ!」
巌門。
命令は速かった。
タマキは伏せる前に鏡を立てた。
左の銃眼。
光が下がる。
右の銃眼。
動かない。
「左、追ってる!」
「鏡を捨てろ!」
「割れる!」
「命が先だ!」
「これも仕事道具!」
迅がタマキの襟を掴まない。
封印帯がある。
代わりに自分の身体を横へ入れた。拳ではなく背中を向ける。タマキの視界が紺の学ランで塞がれる。
「見えない!」
「見なくていい」
「私が決める!」
「今は俺」
「誰の命令!」
「背中」
「意味分かんない!」
水柱がさらに広がった。
地面へ溜まらない。
砂の下へ吸われ、北側の排水溝へ流れていく。
飲める水が、誰の口にも入らず逃げる。
轟が給水管へ走った。
「停止!」
警備兵が叫ぶ。
轟は止まらない。
走ると言っても、左肩を守るため歩幅は短い。大きな身体を前へ倒し、右腕だけで均衡を取る。
「伏見轟、設備区域へ侵入!」
「修理!」
轟は水柱の手前で膝をついた。
左肩へ水が当たる。
冷たさで筋肉が縮む。
右手を砂へ突き込み、管の位置を探る。
「工具がない!」
タマキが叫ぶ。
「知ってる!」
「どうする!」
「見る!」
轟は水に顔を打たれながら、地面を掘った。
指が泥へ沈む。
太い管の継ぎ目。
古い締め輪が片側だけ外れている。
凍結ではない。固定具の腐食。圧が掛かった時に継ぎ目がずれた。
「管、ずれ三センチ! 戻すなら、反対から持つ!」
「反対は射線だ」
凱。
「知ってる!」
「俺が行く」
「左膝、泥で滑る!」
「右で持つ」
「持つ場所、高い!」
「では私が」
由良が赤索を解く。
封印金具は開けられない。索の長さだけは使える。
「索を管の下へ通す。こちらから引く」
「角度、足りない」
「土手を使う」
「許可は」
真琴が巌門を見る。
巌門は水柱の向こうを見ていた。
見張り台。
柵外の家族。
警備兵。
管。
すべてが一つの現場にある。
「緊急保全を認める」
低い声。
「作業責任者、伏見轟。範囲、破損継手から半径十歩。停止条件、射撃警告、二次破断、作業者の負傷。射手へ通達、保全作業中は照準を外せ」
「時刻、十七時三分四十七秒」
真壁が記録する。
「射手、復唱!」
巌門が叫ぶ。
左の見張り台から鐘が一度。
右からは返らない。
「右塔、復唱!」
返事がない。
由良の顔が変わる。
「右は寝てるんじゃない」
「何」
「人がいない」
「光があった」
「鏡か固定金具。照準の代わり」
「誰が置く」
「人がいるように見せたい人」
「何のため」
「二人いると思わせれば、一人で両側を抑えられる」
巌門が右塔の兵へ合図を送る。
返答なし。
「作業継続。左塔、銃口を上げろ」
左の光点が空へ向く。
タマキは鏡で確認した。
「上がった」
「おまえは行くな」
迅。
「鏡が要る」
「ここから見ろ」
「継ぎ目の下は見えない」
「俺が持つ」
「鏡の角度、分かる?」
「見れば」
「見えないところを見る道具」
「じゃあ教えろ」
「口で?」
「容量ないんだろ」
「それ七瀬」
「似たようなもんだ」
「全然違う!」
タマキは腹ばいになり、鏡を地面へ滑らせた。
封印帯の範囲内。設備へは触れない。
鏡面に水柱の根元が映る。
轟の右手。
ずれた管。
締め輪。
「締め輪、上が割れてる!」
「下は」
「残ってる。右側、溝から外れた」
「楔が要る」
「何センチ」
「指二本」
タマキは配達箱を預けている。
どこでもない橋も倉庫。
銅貨は三枚。
靴紐は、左右違う色。
予備は預けた。
今履いている方ならある。
タマキは右靴の黄色い紐を抜いた。
「これ」
「紐じゃ管は止まらん」
轟。
「結ぶ」
「圧で切れる」
「何と何を」
「締め輪を固定する。楔が先」
タマキは銅貨を一枚出した。
「薄い」
「二枚」
「まだ」
三枚目。
「足りる?」
轟が鏡越しに見る。
「欠けたやつ、上。古いの、真ん中。新しいの、下」
「何で」
「硬さ。欠けたのが一番薄い」
「顔で覚えた銅貨、使う?」
「水の方が高い」
タマキは三枚を重ね、黄色い紐で縛った。
「投げる」
「設備区域へ物品投擲は――」
真琴が言いかける。
「許可!」
巌門が先に言った。
「作業責任者へ補助具を渡す行為として認める!」
「投げた物が外れたら」
「拾う!」
「誰が」
「私が!」
「隊長が?」
「今は投げろ!」
タマキは笑った。
「命令、短くなった」
「投げろ!」
投げる。
三枚の銅貨は水柱を抜け、轟の右手前へ落ちた。
泥へ半分刺さる。
轟が掴む。
「由良、索!」
由良は赤索を管の下へ滑らせた。
金具は使えない。端を二重に折り、手で輪を作る。
反対側へ回り込めないため、タマキの鏡で位置を見る。
「もう少し右!」
「どっちから見て」
「私!」
「分からない!」
「管の下流!」
「最初から言え!」
由良が索を動かす。
轟が右手で受ける。
管の下を一周。
「引くぞ!」
「待って。締め輪へ楔!」
轟は銅貨三枚を、ずれた溝へ押し込んだ。
右手の親指だけでは入らない。
左手を使おうとする。
肩が上がる。
顔が歪む。
「左、使うな!」
迅が叫ぶ。
「他にない!」
「足!」
「見えん!」
「鏡!」
タマキは角度を変える。
轟の右足と管が同じ面へ入る。
「踵を管の下! 右手で銅貨! 腰で押す!」
「管、滑る!」
「索を張る!」
由良が身体を後ろへ倒した。
胸の封印金具が軋む。
赤索は能力を発動しない。
ただの丈夫な索として、管を引く。
凱が由良の後ろへ立ち、索の途中を白布で巻いた。直接持てば手が滑る。白布は旗ではなく、握り布になった。
「引くぞ」
「王に命令されるの、嫌」
「今は補助者だ」
「もっと嫌」
「三で引け。轟が一と言ったら止めろ」
「それは轟の命令」
「そうだ」
「ならいい」
轟が叫ぶ。
「三、二、一!」
由良と凱が引く。
管が二センチ動く。
水柱の向きが変わり、タマキの顔へ直撃した。
「冷たい!」
「鏡!」
「持ってる!」
「角度!」
「見えない!」
七瀬が雨合羽の裾を伸ばし、水を横へ流す。左肩を上げないよう、右腕と腰で布を張る。
「これで」
「見えた!」
タマキは鏡面を拭いた。
「銅貨、入った! あと半分!」
轟が右踵で管を浮かせる。
腰を捻る。
左肩は低いまま。
右親指で銅貨を押す。
三枚が溝へ噛む。
「一!」
由良と凱が止まる。
轟は黄色い靴紐を締め輪へ回した。
一周。
二周。
紐は水を吸って伸びる。
「これだけじゃ持たん!」
「何が要る」
「幅のある帯!」
迅が自分の保温布を外そうとする。
「封印帯の下です」
真壁。
「外せば規則違反か」
「医療補助材の変更。再封印が必要」
「時間」
「三分」
「遅い」
由良が自分の片肩外套の留め帯を引き抜いた。
「これ」
「装備の一部だ」
「布」
「申告品の形状変更は」
「真琴!」
由良が怒鳴る。
真琴は口を閉じた。
一秒後、言い直す。
「緊急保全用の消耗を記録します。鷹取由良、外套留め帯一本。所有者同意あり」
「それでいい!」
由良が帯を投げる。
轟が受け取る。
締め輪と管を八の字へ巻く。
結び目を上へ。
右手だけで締める。
「由良、あと一寸!」
「一寸ってどっち!」
「引け!」
由良が引く。
管が溝へ戻る。
水柱が細くなる。
轟が帯を締める。
噴出が霧になり、やがて一筋の漏れへ変わった。
蛇口の中で、空気が咳をした。
一度。
二度。
境界管理用の蛇口から、茶色い水が出る。
砂。
錆。
しばらく流す。
透明になる。