第184話 第六章「射線の中の水」後編

 タマキは濡れた顔のまま、三つの蛇口を見た。

「止まってない」

 轟が泥の中で言う。

「仮止め。圧を半分にしろ。夜まで。明朝、継手交換。銅貨は戻らん」

「経費になる?」

「なる」

「誰へ請求」

 轟は巌門を見た。

「境界管理」

 巌門が答えた。

「三枚」

「額面で」

「顔が変わった分も」

「何だそれは」

「私の銅貨」

「額面以上は認めない」

「じゃあ直した人の工賃」

「別途申請」

「払う?」

「作業記録に基づき」

「長い。払う?」

 巌門は一拍置いた。

「払う」

「記録した?」

 真壁が鉛筆を上げた。

「十七時十一分二秒。隊長、緊急保全費用の支払責任を認める」

「細かい」

 巌門。

「失くした時、殴られないためです」

 真壁は迅の方を見ずに言った。

 午後五時二十三分

 水の順番で、次の喧嘩が始まった。

 最初の一杯を誰へ渡すか。

 由良は医療用を主張した。

 天環側警備は、配管洗浄確認のため管理者が先だと言った。

 剛嶺側兵は、自分たちの配給が少ないので不足分を先に、と言った。

 柵外の家族は、子どもと高齢者を求めた。

 真琴は名簿順ではなく、必要度順の確認を提案した。

 確認する者がいない。

 轟は濡れたまま、管の圧を見ていた。

 凱は全員を黙らせる声を持っている。

 使わなかった。

「環」

 凱が言う。

「おまえが決めろ」

「嫌」

「配分担当だ」

「昨日、決めてない」

「今決めた」

「勝手」

「拒否するか」

「する」

「では、誰が適任だ」

 タマキは三つの蛇口を見た。

 自分が決めれば、自分の順番になる。

 正しい順番を考えるのは得意だ。

 配達では、腐る物を先に運ぶ。薬を食料より先。生き物を家具より先。料金を払った客だけでなく、遅れると損害が大きい物を先。

 だが、人間は荷物ではない。

 必要を外から決めれば、また名簿になる。

「器を三つ」

 タマキが言った。

「同じ大きさ」

「管理杯があります」

 瀬尾直が、金属杯を三つ持って来た。

 朝、第一白線で迅を誘導した兵だ。二十代前半。目の下に寝不足の影。左手の親指に、古い火傷がある。

「一杯、百八十」

「何の単位」

「ミリリットル」

「喉で分からない」

「一人分です」

「誰の一人」

「規定上の成人」

「轟さんも?」

「同じです」

「不公平」

「規定です」

「でも三つある」

「三系統の確認用」

「じゃあ同時に出す。天環、剛嶺、家族」

「家族用の蛇口はない」

「境界管理用から」

「管理者以外へは」

「管理者が汲んで渡す」

 瀬尾が巌門を見る。

 巌門は腕を組んだ。

「登録者へ限る」

「家族は天環側へ登録済み」

 七瀬。

「境界区域外だ」

「さっきと同じ」

 タマキ。

「水道は同じ」

「規則も同じではない」

「じゃあ、最初は管を直した人」

「私はいい」

 轟。

「左肩を冷やした。体温落ちてる」

「湯がいい」

「水しかない」

「じゃあ後」

「本人が拒否。次、薬が必要な人」

 真琴が手を上げる。

「吸入後の喉を洗いたいですが、緊急性は低い」

「低いって自分で決めた。次、子ども」

 柵外から、母親が小さな少年を前へ出す。名前は公開しない。七瀬は撮らない。

「杯を柵へ通せません」

 警備兵。

「なぜ」

「物品移送に当たる」

「水を渡すと、密輸?」

「許可のない物品移送だ」

「許可して」

「隊長判断」

 全員が巌門を見る。

 巌門は動かない。

 固定床の上で、身体だけがわずかに揺れる。

「待機地への補給は天環側の責任だ」

「来てない」

「通路再開後に来る」

「いつ」

「接触事案の確認後」

「終わった」

「車両再手配中だ」

「子どもの喉、再手配待つ?」

 巌門の錆金色の目が、少年へ向く。

 すぐに戻る。

「規則を一度曲げれば、次は薬、その次は手紙、その次は武器が通る」

「水と武器、同じ?」

「柵を越えるという点では」

「人と番号も、同じ?」

 巌門の古い鍵が、右手の中で鳴った。

「環」

 凱が低く言う。

「責めるだけでは、開かない」

「鍵持ってる」

「比喩だ」

「本物も持ってる」

「おまえの質問は正しい。だが、正しい質問で喉は潤わない」

 タマキは黙った。

 自分の得意なやり方が、人を止めている。

 誰が、誰へ、何のため。

 問いを三つ並べれば、荷物の責任は見える。

 でも、答えが出るまで渡さないなら、検問官と同じだ。

 タマキは蛇口から一杯汲んだ。

「これは誰の」

「境界管理用だ」

 瀬尾。

「誰へ」

「まだ決まっていない」

「何のため」

「設備確認」

 タマキは一口飲んだ。

 警備兵がざわめく。

「何をしている!」

「確認」

「おまえは管理者ではない!」

「水、変な味しない。砂少し。飲める」

「勝手に――」

 タマキは残りを地面へ捨てなかった。

 杯を瀬尾へ返す。

「次から、飲む人が決める。私は順番だけ運ぶ。最初、薬の人。次、子ども。次、警備。都市ごとに一杯ずつ。受け取らない人は次へ」

「権限がない」

「だから、決定じゃない。提案」

「拒否されたら」

「拒否した人の名前を書く」

「脅しか」

「記録」

 七瀬が紙を上げた。

「顔は撮りません。時刻、拒否内容、根拠だけ」

 巌門は、しばらく黙った。

「警備隊への配給を先にする」

「理由」

「射線管理を継続するため」

「子どもより」

「境界全体の安全だ」

 瀬尾が三つの杯を見た。

 そのうち一つを、剛嶺側兵へ渡す。

 一つを天環側兵へ。

 三つ目を持ったまま、柵の方へ歩いた。

「瀬尾」

 巌門の声。

 瀬尾は止まる。

「戻れ」

「隊長。第一検問規則十二条、誘導中に発生した負傷または健康危険は、誘導者が初期対応する」

「その子は、おまえの誘導対象ではない」

「家族待機地は、調査班入境の証者〈スタンド〉として登録されています。証者保護は共同境界規則十八条」

「水の配給を定めた条文ではない」

「健康危険への初期対応です」

「戻れ」

 瀬尾の肩が一度上がった。

 銃は背中。

 杯は右手。

 柵の向こうで、少年が見ている。

 母親は手を出さない。

 出せば、許可のない物品受領になるかもしれない。

「受領者の名前を」

 瀬尾が言った。

 母親が答えかける。

 七瀬が首を横へ振る。

「公開しなくていい」

「記録には必要です」

 瀬尾。

「家族名簿の照合符号で」

 真琴。

「F-12。本人名非公開。保護者同意あり」

「F-12へ、飲料水百八十。証者保護の初期対応」

 瀬尾は杯を地面へ置いた。

 柵の下には、物が通るほどの隙間がない。

 彼は銃を外した。

 全員が息を止める。

 銃を地面へ置く。

 両手で杯を持ち、柵の縦棒の間へ斜めに傾ける。杯そのものは通らない。水だけが細い流れになり、向こう側で母親の小さな器へ落ちる。

 一滴も全部は渡らない。

 半分は鉄棒を濡らし、地面へ落ちる。

 それでも、少年の口へ届いた。

「瀬尾直」

 巌門の声は低かった。

「武器を取れ。給水任務から外れる」

 瀬尾は銃を拾った。

「はい」

「命令外物品移送。持場離脱。指揮命令不服従。第三待機所で処分確認まで待機」

「はい」

「異議は」

「あります」

 瀬尾はまっすぐ答えた。

「規則十八条に基づく証者保護でした。命令違反は認めます。規則違反は認めません」

 巌門の目が動く。

「処分記録へ書け」

「自分で?」

「自分の異議だ」

「はい」

 瀬尾は第三待機所へ歩く。

 銃を持ったまま。

 だが、銃口は地面よりさらに下へ向いていた。

 真壁が受領時刻を書いた。

「十七時三十一分五十六秒。瀬尾直、命令違反を認め、規則違反を否認」

「細かい」

 巌門。

「後で、どちらを処分したか分かるように」

 巌門は返事をしなかった。

 タマキは柵の根元を見た。

 水が鉄棒を伝い、両側へ落ちている。

 どちらの地面も、同じ色に濡れた。

 午後六時四分

 給水は、三系統同時になった。

 巌門が許可したわけではない。

 拒否もしなかった。

 真壁が《緊急保全後の暫定配分》として記録し、山科へ照会を送り、返答を待つ間だけ実施する形になった。

 確認中。

 朝、迅が便利だと言った言葉。

 今日は、水が通る余地になった。

 天環側の兵。

 剛嶺側の兵。

 柵外の家族。

 一杯ずつ。

 順番は、本人の申告と周囲の確認。

 薬。

 子ども。

 高齢者。

 警備。

 調査班。

 誰かが「自分は後で」と言えば、次へ回す。断った理由は記録しない。善意を後から義務に変えないためだ。

 轟は最後から二番目に飲んだ。

「湯じゃない」

「水しかないって言った」

 タマキ。

「冷たい」

「知ってる」

「銅貨、三枚」

「請求する」

「楔としては、いい厚さ」

「返ってきても使える?」

「曲がってる」

「顔、変わった」

「前から顔はない」

「ある」

「今度、描け」

「誰を」

「銅貨」

「肖像権ある?」

「真琴に聞くな」

 真琴がすでに眼鏡を押し上げていた。

「貨幣図像に人格権は――」

「聞いてない!」

 タマキと轟の声が揃う。

 由良は水を一杯受け取った。

 今度は一口ではなく、全部飲む。

「料金」

 タマキ。

「外套の帯を一本」

「高い」

「返せ」

「もう管に巻いた」

「じゃあ、貸しなし」

「もったいない」

「何が」

「借りを返す仕事」

 由良は空の杯を返した。

「帰って来たら、何か運ぶ」

「剛嶺まで?」

「街は分けろって言っただろ」

「何を分ける」

「説明」

「重い?」

「たぶん」

「じゃあ料金高い」

「払う」

 タマキは頷いた。

 約束の紙はない。

 水を飲んだ人間の声だけ。

 それでも、番号よりは覚えやすい。

 第三待機所の前で、瀬尾が一人、処分書を書いている。

 銃は壁へ立てかけられていた。

 手元には水がない。

 タマキは管理杯を一つ満たした。

「持ってく」

「許可は」

 真琴。

「聞く?」

「……本人へ」

 タマキは瀬尾の前へ行った。

「誰から」

「管」

「誰へ」

「瀬尾直」

「何のため」

「喉」

 瀬尾は杯を見た。

「処分待機中です」

「水飲むの禁止?」

「書いてない」

「じゃあ飲む?」

「受け取る」

 瀬尾は銃を置いたまま、両手で杯を持った。

 飲み終えてから言う。

「さっきの子は」

「名前、聞かない」

「無事か」

「飲んだ。咳、止まった」

「そうか」

「後悔してる?」

「命令違反を?」

「水を渡したこと」

「してない」

「処分、怖い?」

「怖い」

「両方?」

「両方だ」

 瀬尾は空の杯を返した。

「怖くない人が規則を破ると、たいてい他人へ払わせる。怖いままやった方が、自分の分が分かる」

「名言?」

「違う。祖母に怒られた時の話」

「誰かの言葉、だいたい前に怒られてる」

 タマキは杯を受け取った。

 底に一滴だけ残っていた。

 第三待機所と白線の間に、その一滴を落とす。

 地面は、どちらの都市にも登録されていない。

 水は、そこへも届いた。