第223話 第二章「援助の旗」前編
三月二十一日 午前八時十九分
旗は、風より速く車列を追い越した。
獅堂凱は第二号車の助手席から、先頭の青い車輪を見ていた。
空になった第一号車は、百メートル前を走っている。
工具。
担架。
空袋。
緊急用の水。
食料は載っていない。
それでも屋根の旗は、十二台のうち一番大きかった。
「先頭車両、速度四十二」
運転手の江橋勇が言った。
「こちら四十。間隔、開きます」
「詰める必要はない」
「隊列規則では、視認距離内」
「前方は見える」
「旗が」
「車を見ろ」
江橋は、凱を横目で見た。
五十代。頬に古い凍傷。右手の小指だけ、握り込まずハンドルへ添える。第一号車を運転していたが、積み替えの際に第二号車へ移った。本人が選んだ。
「旗が車の名前みたいなものです」
「江橋勇が車の名前ではないのか」
「俺は降ります」
「車両番号は」
「二」
「なら、江橋が二号車を運転している。それで足りる」
「遠くからは見えない」
「見えない相手へ、誰だと知らせる必要がある」
「味方」
「誰の」
江橋は返事をしなかった。
凱は胸の割れた鐘へ触れかけ、やめた。
人は、返事を待つ間に命令の形へ並ぶ。
白王だった頃、凱はその沈黙をよく使った。
答えが出るまで待つのではない。
相手が、自分の期待する答えへ耐えられなくなるまで待つ。
今は、窓の外を見た。
白い路面。
その上に、十二台の黒い轍。
後方では、塩戸景の七台が扇状に広がっている。
近づきすぎない。
離れすぎない。
速度を上げれば追う。
落とせば左右へ回る。
襲撃というより、車列そのものへ値段を付ける動きだった。
「敵車、右後方二百八十」
無線から由良の声。
『三台が並走路へ。四台は後ろ。風、北西八。十一時方向に水穴』
「全車、左寄り」
凱は言いかけた。
送話器の釦を押さない。
「江橋。水穴がある。どうする」
「右へ一メートル。後続へ車幅灯二回」
「任せる」
「命令しないんですか」
「今の情報で、俺よりおまえが正確だ」
「王様は楽になりましたね」
「楽なら、膝が痛まない」
「それは王様と関係ない」
「そうか」
「そうです」
江橋は、右の車幅灯を二度点滅させた。
後続が、一台ずつ進路をずらす。
同じ角度ではない。
車体の重さも、タイヤ幅も、荷の高さも違う。第三号車は八十センチ。第四号車は一・二メートル。第九号車は轟の判断で、いったん速度を落とした。
一列は崩れた。
崩れたまま、全車が水穴を避けた。
「整ってない」
凱は言った。
「走ってます」
「見れば分かる」
「なら、いいでしょう」
江橋は笑わなかった。
口元だけ、凍傷の線が少し曲がった。
午前八時二十七分。
由良が、第三号車の屋根から第二号車へ飛び移った。
赤索を荷台柱へ掛け、助手席側の窓枠へ足を置く。
「乗る場所じゃない」
凱。
「道も、走る場所じゃなかった」
「乗れ」
「命令?」
「膝を折らずに窓から入るのが難しい。手伝ってほしい」
「最初からそう言って」
由良は助手席の扉を開け、凱と座席を入れ替えた。
凱は中央の狭い補助席へ移る。
左膝を深く曲げないため、脚を前へ伸ばした。江橋がギアを変えるたび、装具の端へ凱の踵が当たる。
「邪魔ですか」
「かなり」
「言えるなら、よい」
「どけられないんでしょう」
「別の車へ移る」
「走行中に?」
「由良はやった」
「あなたは由良さんじゃない」
「知っている」
由良は窓から旗を見上げた。
「寄贈者を隠す必要はない」
「なら、何が不満だ」
「大きさ」
「旗の?」
「記憶の」
由良は、青い車輪の旗を指した。
「袋を食べ終わっても、あれは残る。誰がくれたかは広場に立つ。誰が運んだか、誰が煮たか、誰が受け取らなかったかは小さくなる」
「善意を示すことは、次の援助を集める」
「次も、その旗へ頼る」
「悪いのか」
「悪いと決めてない。決める権利が誰にあるかを聞いてる」
凱は旗を見た。
白冠連〈ホワイト・クラウン〉では、旗は命令より先に人を並べた。
配給が届く。
夜警が来る。
診療所が開く。
旗の下に立てば、生き延びられる。
だから、人は旗の下へ集まった。
集まった人を見て、旗は正しいと証明された。
「俺は、旗で秩序を作った」
「知ってる」
「旗がなければ、餓死者が増えた場所もある」
「知ってる」
「では、旗を畳めとは簡単に言えない」
「言ってない」
「おまえは、言っていないことが多い」
「凱は、言ったことが多い」
「それは批判か」
「数」
江橋が咳をした。
「二人とも、運転中に旗の歴史を始めないでください」
「何分ならいい」
凱。
「停車後」
「時刻で」
「停車した時刻」
「具体性が足りない」
「王様、少し面倒になりましたね」
「元からだ」
「そこは知ってます」
無線へ、タマキの声が割り込んだ。
『受取人の表示、案がある』
「言え」
『寄贈者名と同じ大きさで、受取人名を書く』
「受取人が決まっていない」
『じゃあ空白を同じ大きさにする』
由良が笑った。
声は短い。
「それなら、誰も無視できない」
「空白の旗〈ブランク〉と混同される」
凱。
『こっちの旗も中央は空白』
「そういう意味ではない」
『見た人は、意味まで分かる?』
凱は答えなかった。
旗が意味を持つのではない。
旗を見て、人が同じ行動を取るとき、意味が力になる。
それを誰より知っている自分が、見た目と意味を分けて考えていた。
「大きな空白札を作れ」
凱が言った。
「寄贈旗の下へ。受取地域が決まるまで、空白のまま掲示する」
『誰が書く』
「決めた地域の三名」
『三名はまだ決まってない』
「なら、空白だ」
『分かった。空白を届ける』
「それは何のためだ」
『決まってないのを、決まってないって見せるため』
「受理する」
タマキの声が切れる。
由良は、凱の胸の鐘を見た。
「王様が空白を掲げる」
「元だ」
「王様だった人は、元になれば全部消える?」
「消えない」
「なら、今の案も信用しない人がいる」
「いるだろう」
「怒らない?」
「怒る」
「認めるんだ」
「怒ったまま、決定権を渡す」
「それ、難しい?」
「膝より痛い」
江橋が、また咳をした。
「今のは名言にしないでください。運転日誌に書きづらい」
午前八時三十四分。
塩戸の先頭車が、右の並走路へ出た。
灰色の帆を畳み、車高を落とす。
路面は本線より荒れている。
それでも速い。
荷を積んでいない車は、凹凸の上を跳ねる。四輪が同時に地面へ触れている時間の方が短い。
塩戸景は、屋根のない運転席に立つような姿勢でハンドルを握っていた。
黒髪の毛先が白い。
平たい帽子の縁に、三枚の古い荷札を留めている。
助手席には、十七歳ほどの少年。
鳥飼至。
長い前髪を右へ流し、左頬へ黒い油筋。荷締め鉤を肩に掛け、笑う時だけ上の犬歯が見える。
『二号車』
無線。
塩戸の声だった。
『青い車輪は、去年も見た』
蓑原が別車両から応答する。
『接近を中止してください』
『去年、青い車輪が麦を二百袋配った。翌月、粉屋が二軒閉じた。旗は残った。粉屋の看板は薪になった』
「援助量と廃業の因果は確認されていません」
『確認する頃には、店はない』
「略奪を正当化する理由にはなりません」
『略奪ってのは、値段を払わず持っていくことだ』
「その通りです」
『無料で市場へ入れるのは?』
「寄贈です」
『言葉は荷より軽いな』
由良が送話器を取る。
「塩戸。受取側は決まってない。無料配布も確定してない」
『鷹取由良。帰ってきたのか』
「帰る場所を、あなたに決められる筋はない」
『なら、こっちも同じだ。運送組合を襲撃者って呼ぶな。仕事を取り戻しに来た』
「仕事なら、車列へ乗り移る必要はない」
『仕事を取った側が、窓口を閉めてる』
塩戸の車が、第二号車へ二十メートルまで近づく。
鳥飼が助手席の床へ足を掛けた。
荷締め鉤の先に、細い綱。
狙いは荷台ではない。
屋根の旗。
「右から来る」
由良。
江橋はハンドルを左へ切ろうとした。
「待て」
凱。
「ぶつけられます」
「左は塩殻が薄い」
由良。
「速度を三落とす。進路は維持」
「命令ですか」
江橋。
「提案だ」
「今は命令でいい」
江橋は速度を三落とした。
塩戸車が前へ出る。
鳥飼が鉤を投げた。
金属が、旗竿の横棒へ噛む。
綱が張る。
青い車輪の旗が、大きく傾いた。
凱は扉を開けた。
「運転を続けろ」
「降りるんですか」
「旗を外す」
「膝で?」
「手でだ」
由良が先に窓から出た。
「私が行く」
「旗を守るのか」
「竿が折れたら後ろへ飛ぶ」
「旗ではなく、人を守る」
「同じ動作でも、理由は違う」
由良は屋根へ上がった。
赤索を旗竿へ巻き、鉤の綱へ足を掛ける。
塩戸車と第二号車の間隔、六メートル。
鳥飼が綱を巻く。
由良は引き返さない。
旗竿の根元へ左手を置き、留め具を外した。
「外すのか」
凱。
「守る物じゃないなら、車から切る」
旗ごと竿を抜く。
風が青布を持ち上げた。
鳥飼が綱を強く引く。
旗は由良の手から離れ、塩戸車へ飛んだ。
『もらった』
鳥飼が笑う。
「返せ」
凱は言った。
『寄贈?』
塩戸。
「違う。奪った」
『旗だけだ』
「なら、返せる」
『返す先は誰だ』
塩戸車が前へ出る。
第一号車が、塩戸車の前へ斜めに入った。
空荷の車体が跳ねる。
助手席の外へ、迅が立っていた。
右手を使わず、左手で屋根枠を持つ。前輪が段差を越えるたび、学ランの裾が旗のように持ち上がる。
「迅、戻れ」
凱の声は無線へ入らなかった。
言ってから、釦を押していないことに気づく。
迅は聞かなくても戻らない。
第一号車と塩戸車の間隔が、三メートルへ縮む。
迅が跳んだ。
塩戸車の後部枠へ左足。
荷台側板はない。
着地した場所から、右へ半歩ずれれば塩路だ。
鳥飼が荷締め鉤を横へ振る。
迅は上体を倒した。
鉤が灰色の前髪をかすめる。
膝で枠を押し、鳥飼の手首へ左掌を当てる。
打たない。
鉤の軌道だけを上へ変える。
「旗泥棒」
鳥飼が笑った。
「おまえが言うのか」
「返してほしい?」
「竿が人に刺さらなきゃ、布はどうでもいい」
「どうでもいい物に、ずいぶん走る」
「運転手を間違わせる」
「間違える方が悪い」
「罠を作るやつは、よくそう言う」
鳥飼の踵が迅の脛へ来る。
迅は足を引いた。
一歩。
赤い結び目が、右手首で熱を持ちかける。
だが、塩戸車の上の一歩は、地面に対する後退ではない。車そのものが前へ進んでいる。相手から距離を譲っても、路上では追い越している。
七退一還〈セブン・リターン〉の数は、灯らなかった。
「道が数えない」
塩戸景がハンドルを切りながら言った。
「おまえの誓い、車酔いするらしい」
「誓いが酔うなら、運転が悪い」
「いい運転は、客を眠らせる」
「荷台に客を乗せるな」
「乗ったのはそっち」
塩戸は右の旧標識へ車体を寄せた。
錆びた柱が、迅の肩へ迫る。
避ければ鳥飼の間合いへ入る。
屈めば屋根枠の固定具が首に当たる。
迅は前へ出た。
塩戸の座席背へ左手を置き、車体の内側へ身体を投げる。
柱が背中をかすめた。
その先、道路管理の老人が、倒れた誘導板を拾おうとしていた。
青い旗を見て、塩戸車を援助先導車だと思っている。
進路へ半歩出る。
「右!」
迅が叫ぶ。
老人は左へ避けた。
塩戸が左へ切った。
逆だ。
迅は旗ではなく、老人の襟を掴んだ。
荷台から身を伸ばし、塩戸車が通過する一瞬だけ、身体を外へ落とす。
左手で襟。
右肘を枠へ掛ける。
掌の古傷が開くように痛む。
老人を路肩側へ引く。
迅自身の靴が塩を削った。
鳥飼が、その背を蹴れる位置にいた。
蹴らなかった。
代わりに、青い旗の綱を切る。
布が、塩戸車の後ろへ流れた。
「守る側は遅いな」
塩戸。
「奪う側は軽い」
迅は老人を立たせた。
「荷がないから」
「こっちにも、持ってる物はある」
「名前を言え」
「運賃表」
「人じゃない」
「人を食わせる紙だ」
塩戸はアクセルを踏んだ。
迅は車体へ残らず、第一号車へ戻った。
旗を取り返せば、追う理由が一つ増える。
老人を路肩へ戻せば、追う理由が一つ減る。
選んだ結果は、遠くから見ると逃げたようにしか見えなかった。
凱は、扉の縁を握った。
追え、と言えば江橋は追う。
第二号車は重い。
右へ寄れば、薄い塩殻が割れる。
旗を奪われたことより、追うよう仕向けられたことの方が問題だった。
「追わない」
凱は扉を閉めた。
由良が屋根から戻る。
「旗を取られた」
「見た」
「善意の可視化は?」
「今、向こうでよく見える」
「皮肉?」
「事実だ」
塩戸車は、青い車輪の旗を屋根へ立てた。
寄贈車列の先頭のように見える。
そのまま、本線へ戻った。
第一号車のさらに前へ出る。
遠くの監視台から、誘導灯が振られた。
青。
進行許可。
塩戸車へ向けて。
「前方、旧分岐所」
由良。
「旗を見て開けた」
凱は無線を取る。
「全車、旗を識別に使うな。車両番号、運転手名、積荷を復唱」
『第三号車、柿沼リサ。乾燥芋、豆、折り畳み竈』
『第四号車、郷原慎。麦、布、固形燃料』
『第五号車――』
一台ずつ。
旗の色ではなく、名前と中身。
第八号車から返事がない。
「第八号車」
凱。
雑音。
後方映像を見ていた七瀬の声が入る。
『第八号車が右へ出ました。金の穂の旗を追っています』
「金の穂は第八号車の旗ではない」
蓑原。
『運転手は、前方車を寄贈団体の案内車と誤認』
「名前は」
『八号車、野々村葉。無線故障。助手が手信号』
「由良、距離」
「本線から五十。前方に水溝。二百八十で交差」
「第一号車へ。八号車の前へ入れ」
『先頭、了解』
「江橋、速度二上げる」
「二号車が?」
「追わない。見える位置を保つ」
「了解」
今度は、命令だった。
誰が決めたかを隠さない。
第一号車が、空荷の軽さで右へ出た。
野々村の第八号車と水溝の間へ入る。
工具箱の蓋を開き、赤い布を二枚振る。
停止。
凱は扉を開けた。
「停車したら、俺が行く」
「あなたが行く必要は」
由良。
「命令した」
「だから?」
「結果を見る」
「運転手が嫌だと言ったら」
「戻る」
第二号車が速度を落とす。
凱は車体が止まる前に降りなかった。
由良なら飛べる。
迅なら転がれる。
自分が同じことをすれば、左膝を壊し、誰かに担がせる。
能力ではなく、身体が役割を決める場面もある。
完全停止。
凱は装具を確かめてから塩路へ降りた。
十一メートル先で、第八号車の右前輪が崩れかけている。
運転席の野々村葉は、四十歳ほどの小柄な女性だった。厚い眼鏡。赤い髪留め。額へ汗が集まっている。
「旗が、案内だと思った」
野々村は凱を見るなり言った。
「私の判断です。誰かに命令されたんじゃない」
「分かった」
「分かってない顔」
「責める言葉を探していた」
「探さないで」
「では、聞く。なぜ旗を追った」
「金穂救済社の車を十五年運んでる。旗が先へ行ったら、ついていく契約。無線が壊れた時も」
「車両番号より?」
「番号は毎回変わる。旗は変わらない」
凱は、水溝へ落ちた金の穂を見た。
変わらない印は、変わる人間より信用される。
その信用を作ったのも、十五年の仕事だった。
「旗を寝かせろと、俺は言う」
「仕事をなくせって?」
「安全のためだ」
「塩戸も、同じこと言う。援助が市場をなくす。安全のために止めるって」
「俺と同じにするな」
「何が違う」
凱は即答できなかった。
理由が正しいことではない。
自分が善意であることでもない。
「拒否できる」
ようやく言った。
「俺の提案は、拒否できる。拒否した後も、車列へ残れる」
「拒否したら、旗を掲げて走る」
「番号布を上へ付ける。誤認させない」
「面倒」
「知っている」
「王様、面倒を覚えたんだね」
「元だ」
「そこは、毎回言う」
「消えないから言う」
野々村は、ハンドルを握ったまま考えた。
「旗は畳まない。十五年の仕事まで泥棒に渡したくない」
「分かった」
「でも番号布を一番上へ出す。私の名前も書く」
「誰が書く」
「私。字が汚いから、読めなかったら止まって聞けって添える」
凱は頷いた。
轟と第一号車の整備員が、右前輪へ荷重板を入れる。
凱も持とうとした。
「そこ、持つな」
轟。
「手は空いている」
「膝、空いてない」
「上半身だけで」
「上半身、膝に乗ってる」
「では何をする」
「野々村の右を見る。板、沈んだら言え」
凱はしゃがまず、立ったままタイヤと塩殻の隙間を見る。
自分の身体を使わない仕事は、何もしていないように感じる。
だからこそ、見落とさない。
「右、二ミリ」
「まだ」
「四」
「木楔」
整備員が差す。
「六」
「止める」
轟が作業を止めた。
荷重板を一段戻し、位置を変える。
力を入れれば早い。
早い作業が、正しい場所へ力を入れているとは限らない。
十分後、第八号車は本線へ戻った。
野々村は金の穂の旗を畳まなかった。
その上へ、白い番号布を結ぶ。
《八/野々村葉/麦・油/旗だけを追わない》
「最後の文、必要か」
凱。
「私には」
野々村は運転席へ戻った。
「同じ間違いをした時、旗のせいだけにしないため」
第八号車のブレーキ灯が点いた。
荷が前へ寄る。
車体が蛇行した。
「左へ切るな!」