第222話 第一章「白い地平」後編
誰が善人かを決める映像より、誰が食べ、誰がまだ食べていないかの方が、今は必要だった。
午前七時三十八分。
第一号車の荷下ろしが始まった。
旗だけが先に外された。
青い車輪の旗を畳もうとした係員へ、蓑原が首を振る。
「掲示は寄贈条件です」
「荷、ない」
轟。
「先導車として、援助車列の表示が必要です」
「空でも援助?」
タマキ。
「護衛と工具を運びます」
「誰へ」
「車列へ」
「初めて受取人がいた」
タマキは、荷札へ《車列》と書いた。
蓑原が止めようとし、途中でやめた。
由良は、受渡場の北端にある崩れた監視台へ登った。
初めての場所では、最も高い点へ上がる。
自分でも、斥候の癖か、話し合いから逃げる癖か、区別できない。
高さ八メートル。
南東、天環の外環壁〈ラスト・ウォール〉が灰色の線を引く。
北西、剛嶺の停止区画は、遠すぎて金属の角だけが光る。
西、塩原を横断する旧料金道。
東、干上がった排水路。
風速、北北西から七。
突風九。
午前中は上がる。
塩の表面に、細い黒線が見えた。
一本。
二本。
違う。
車輪の跡だ。
その先に、黒い点が七つ。
地平の揺らぎから、車体が出る。
低い改造車。
荷台を空にし、速度のために側板を外している。
先頭だけ、屋根へ灰色の帆を張る。
帆の中央に、白い車輪の印。
由良は凧骨を背から抜いた。
金属片が風を受け、低く鳴る。
「西、七台」
下へ声を落とす。
凱が顔を上げた。
「距離」
「四・八キロ。時速六十。十二分」
「識別」
「塩轍運送組合」
蓑原の顔から、風より先に色が抜けた。
「通行協定には参加していません」
「参加してないから来る」
由良。
無線が鳴った。
雑音。
低い女の声。
『旗だけで腹が膨れるなら、そのまま飾っておけ』
蓑原が送話器を取る。
「こちら共同援助車列。通行を妨害すれば――」
『妨害じゃない。回収だ』
「何を」
『受取人のない荷物』
小麦が送話器を奪った。
「食べ物には受取人がいる。まだ名前を書いてないだけ」
『名前のない相手へ配るなら、配る人間が所有者になる』
「ならないように今揉めてる」
『揉めている間も、車輪は止まる』
「止めに来た人が言う?」
『止まった市場を見てから言え』
声の向こうで、エンジンが一段高くなった。
由良は、灰色の帆の下に立つ人物を見た。
短い黒髪。毛先だけ塩で白い。
平たい運転帽。
左肩から斜めに掛けた荷締め帯。
塩戸景。
塩轍運送組合の交渉役。
誓痕はない。
それでも、路上では誓痕者より多くの人間が、彼女の合図で車輪を切った。
「あと九分」
由良が言った。
蓑原は、書きかけの移動保管書を見た。
「署名が終わっていません」
「終わるまで止める?」
小麦。
「無署名で出せば、奪われた時に――」
「奪われる前に出す」
凱が言った。
「全員へ確認する。今から出発する。目的地は暫定。積荷の所有は未移転。離脱は各運転手の判断。拒否できる」
凱は一台目から順に、運転手の名を呼んだ。
「江橋勇」
「出る」
「柿沼リサ」
「出ます」
「郷原慎」
「右後輪を補強してから」
「待つ」
「待たないで」
郷原が言い直した。
「先に行って。追いつく」
凱は一瞬、全車待機と言いかけた。
胸の割れた鐘へ触れる。
「了解。郷原隊は轟が残る。追いつけなければ東の退避地へ」
「俺が決める」
轟。
「訂正。轟と郷原が決める」
名前を一つずつ。
十二人。
誰も、凱を王と呼ばなかった。
王路不退〈キングス・ロード〉は光らない。
それで車は動ける。
七瀬が撮影機を回した。
「三月二十一日、午前七時五十二分。受取代表未確定。移動保管文書、作成途中。出発理由、接近車両と食料劣化。判断者――」
「全員」
蓑原が言った。
「全員は名前ではありません」
七瀬。
蓑原は息を吸った。
「蓑原梢。出発事務を承認」
「鷹取由良。経路証者。受取代表ではない」
「土門小麦。食品状態の判断」
「獅堂凱。運転手ごとの出発確認」
「伏見轟。車体安全」
「環玉樹。荷札確認」
迅は、空になった第一号車の側面へ足を掛けた。
「竜胆迅。先頭が殴られたら、殴られたって記録」
「役割を」
七瀬。
「前を見る」
「抽象的」
「落ちる穴と、来る車を見る」
「採用」
第一号車のエンジンが唸った。
旗が風を受ける。
青い車輪。
金の穂。
赤い太陽。
白い手。
緑の匙。
善意は、よく見える。
誰が運び、誰が受け取り、誰が眠らず数えたかは、旗より小さい。
由良は監視台から飛び降りた。
赤索を梁へ掛け、三メートルを滑る。
着地。
止まった地面に長くいると、脚の中がざわつく。
走り出した車へ飛び乗ると、そのざわめきは消えた。
小麦が同じ荷台へ上がる。
「署名、まだしてない」
「見れば分かる」
「逃げないでね」
「走るだけ」
「それを逃げるって言う時もある」
「鍋を振るのを殴るって言う時もある」
「ある」
小麦は認めた。
車列が、一台ずつ白い地平へ入っていく。
最後尾が動いた時、西の七台は、もう肉眼で形が分かった。
塩戸景の灰色の帆が、風を切る。
双方の間にあるのは、まだ四・二キロ。
紙の上では、受取欄が空白だった。
地平の上では、黒い車輪が、その空白へ向かっていた。