第224話 第二章「援助の旗」後編
轟の声が無線を震わせる。
『野々村、ハンドル固定。足ブレーキ離せ。排気制動二段。荷を戻す』
野々村は復唱しない。
それでも、車体の揺れが一つずつ減る。
水溝まで、三十メートル。
二十。
十一。
停車。
右前輪が、崩れた塩の縁へ半分乗った。
誰も落ちなかった。
塩戸車は、金の穂の旗を捨てた。
風に乗った布が、水溝へ落ちる。
『旗は便利だ』
塩戸の放送。
『運転手の名前を知らなくても、車を動かせる』
凱は送話器を握った。
「塩戸景」
『名前を知ってるじゃないか』
「おまえが旗を奪った時刻、八時三十六分。第八号車を誤誘導した時刻、八時四十一分。水溝まで十一メートル。記録する」
『罪状?』
「事実だ」
『王様は、事実まで命令みたいに言う』
「元だ」
『旗を外しても、声に残る』
「残っているから、俺が気づく」
『気づけば治る?』
「治らない。次の命令を変える」
凱は、全車へ告げた。
「寄贈旗は、走行中の識別から外す。車体へ寝かせろ。代わりに番号板を左右へ。運転手名は無線と白板。拒否する者は言え」
蓑原が即座に返す。
『寄贈条件に反します』
「安全条件が変わった」
『旗の掲示は支援継続に必要です』
「走行中に掲げる必要はない。停車時の公開目録へ残す」
『私に権限がありません』
「では、誰にある」
『五団体の共同承認』
「何分」
『最短で二時間』
「水溝まで十一メートルだった」
『比較できません』
「比較している。俺が走行中の安全判断を負う。旗を寝かせる。異議と判断者名を記録しろ」
沈黙。
江橋が、前を見たまま言った。
「命令、うまいですね」
「褒めるな」
「褒めてないです」
凱は、左膝の装具へ手を置いた。
命令が効く感覚は、痛みより甘い。
全車が、一度で返事をする。
自分の声で十二台が動く。
それを正しさだと思えば、王へ戻るのは簡単だった。
「各運転手」
凱は言い直した。
「旗を寝かせるかは、自車の安全判断で決めろ。掲示を続ける場合、誤認防止の番号布を上へ出す。俺の提案に従わないことを、離脱と扱わない」
『三号車、寝かせます』
『四号車、風が強い。寝かせる』
『五号車、寄贈団体から監督員同乗。確認中』
『六号車、旗竿の留め具が固着。轟さんを』
『九号車、最初から外した』
轟。
『言え』
「聞いてなかった」
『車体安全』
「異議はない」
一台ずつ、旗が倒れる。
第五号車だけ、旗が途中で止まった。
赤い太陽の布が、斜めに傾く。
監督員の瀬田が、荷台上から留め具を押さえていた。
『外すな。契約違反になる』
運転手の柿沼リサが返す。
『走行中に視界を塞いでる。右後方が見えない』
『昨日まで見えていた』
『昨日まで追走車はいない』
『旗は、寄贈者が荷を追跡する印だ』
『旗に目はない』
『受取側へ、誰の援助か示す』
『受取側は前じゃなく、着いた先にいる』
旗は、二人の手の間で止まった。
凱が無線へ入る。
「第五号車。旗の管理者は誰だ」
『白冠連です』
瀬田。
『車体の安全責任者は私』
柿沼。
「布は白冠連。走行位置は運転手。分けろ」
『旗を寝かせれば、布が汚れる』
「荷台内へ吊るす」
『掲示にならない』
「停車時に出す」
『到着まで寄贈者が見えない』
小麦が割り込む。
『調理者も見えない』
『今は旗の話です』
『だから。旗を見せるために、旗より小さい人を車から落とさないで』
瀬田の息が無線へ入る。
『あなた方は、寄贈者を悪者にしたいのですか』
『違う』
七瀬。
『寄贈者の名前と、運転判断を同じ物にしない』
『映像には旗が必要です』
『必要なのは、何が届いたか。旗が映れば、届かなかった物も届いたように見える』
『そんな編集はしない』
『しないなら、荷札を撮れる』
七瀬は、第五号車の荷札を読み上げた。
粉乳代替。
油。
石鹸。
積載量。
倉庫名。
積み込んだ時刻。
不足欄。
寄贈者名もある。
『旗より字が小さい』
瀬田。
『大きく撮る』
『一枚ずつ?』
『必要なだけ』
『非効率です』
『人間は、旗より数が多いから』
瀬田は旗を放さない。
柿沼も車を動かさない。
後続が減速する。
一台の契約が、十二台の距離を縮める。
由良が屋根から言った。
「瀬田。旗を持ったまま荷台へ降りられる?」
『できます』
「走行中は、あなたが旗を持つ。外へ出さない。停車したら、本人の判断で掲げる」
『私がずっと?』
「寄贈者を見せたい仕事でしょ」
『危険です』
「だから、車体へ固定する案がある」
『固定すれば掲示できない』
「なら、どの危険を誰が負うか、言って」
瀬田は黙った。
旗を掲げる価値だけを言うのは簡単だった。
旗を持ち続ける腕の痛みを、自分の名前で引き受ける話になると、布は急に重くなる。
『荷台内へ固定する』
瀬田。
『停車時は私が掲示する。走行中に汚損した場合、運転手責任とはしない』
『視界事故は』
柿沼。
『旗が原因なら、私も判断者へ入る』
『了解』
第五号車の赤い太陽が、荷台の内側へ降りた。
消えたのではない。
持つ人の名前が増えた。
その間に、車間は二十メートルまで詰まっていた。
柿沼は発進を急がない。
前車が四十メートル離れるまで待つ。
『遅れます』
瀬田。
『旗を片づけた時間』
柿沼。
『記録へ入れて』
七瀬。
『判断変更に要した四分十一秒。事故なし』
凱は胸の鐘へ触れた。
事故が起きなかった時間は、報告では短い。
車列には、その四分が一番長く効くことがある。
青。
金。
赤。
白。
緑。
色は荷台の内側へ消えた。
代わりに、白い番号板が立つ。
《一/空荷/江橋ではない》
第一号車の板を見て、タマキが無線で怒った。
『運転手名が違う』
「第一号車は柿沼の補助員、峰岸」
『名字だけじゃ足りない』
『峰岸環奈』
本人が答える。
『二十八歳。工具と担架。受取人、車列。目的、故障と怪我を先に拾う』
『受理』
タマキ。
車列の姿が、変わった。
遠くからは、援助団体の行列に見えない。
番号の違う、塩で汚れた車が十二台。
それぞれに違う人が乗り、違う荷を持つ。
それでも同じ方向へ走っている。
「秩序は残ってる」
由良が言った。
「見れば分かる」
凱。
「旗がなくても?」
「旗が作ったものまで否定する気はない」
「じゃあ、何が変わった」
「誰が動かしたかを、旗の代わりに言う」
「毎回?」
「必要なだけ」
「面倒」
「知っている」
江橋が、前を見たまま言った。
「元王様」
「何だ」
「俺は二号車。江橋勇。左の水穴を避けます」
「任せる」
「それでいい」
午前九時二分。
第一号車から、白い空白札が上がった。
旗と同じ大きさ。
何も書かれていない。
塩戸の車が、少し速度を落とした。
遠くからでも、その空白だけはよく見えた。
次の瞬間、鳥飼至が奪った青い旗を、別の車の屋根へ付け替えた。
青い車輪は、塩轍組合の第三車へ移る。
旗だけが、持ち主より先に別の名前を名乗った。