第428話 第八章「英雄役を降りる」後編

「これでは、英雄再演の評価ができません」

「中止した」

 カナタ。

「運営は認めていない」

「現場がもう演じていない」

「私は、事故対応を再演へ統合できます」

「私たちは統合を拒否する」

「誰の総意ですか」

 カナタは六十四枚を見る。

「総意にはしない。演じない人は演じない。続けたい人は?」

 二人が手を上げた。

 公認救助者の動作を最後まで試したい。

 認証を取らなければ仕事に戻れない。

 カナタは二人を責めない。

「続ける場所は、安全確認後に別で作る。ただし今日の事故を結末へ使わない」

「それでは認証が」

「認証を失う損害も記録する。補償の対象にする」

 レムが言う。

「補償があれば、歴史を失ってよい?」

「補償で歴史は戻らない。だから別々に扱う」

「あなたは物語を分解しすぎる」

「あなたは人をまとめすぎる」

 場内の水位が、また一センチ上がった。

 議論の間も、水は進む。

 凱は兜を持ち上げた。

 一瞬、かぶるように見えた。

 観覧席の事前映像では、英雄が最終場面で兜を戻す。

 凱は、兜を技能札の机へ置いた。

 紙が濡れないよう、重しにした。

「英雄役の道具を、紙押さえに?」

 進行係。

「今、役に立つ」

 兜の下で、六十四人の名前と技能が水風を受ける。

 歴史の意味は消えない。

 重さが変わった。

 六十四枚の役札を外す作業は、号令で一斉には行わなかった。

 外したい人。

 残したい人。

 役名だけ隠したい人。

 認証のため、表向きは残す必要がある人。

 凱が最初に兜を置いたからといって、全員が同じように降りる義務はない。

「英雄役を続けます」

 一人の青年が言った。

 配役は《北門先導者》

 実際の技能は、階段搬送、短距離走、木工。

「理由」

 カナタ。

「この役の認証がないと、来月の救難採用へ応募できません」

「事故が起きている」

「だから、役を完遂できると証明したい」

「完遂の条件は脚本」

「知っています」

「現在の経路と違う」

「経路が戻れば」

 カナタは、役を外せとは言わない。

「現在の事故対応中は、役の命令を他者へ使わない。役として危険動作を実施しない。札を残すなら、その二条件を併記」

「認証が無効になる」

「その損害は補償申告へ」

「補償される保証は」

「ない」

「なら、あなたに決められない」

「決めない。あなたが残す。ただし、他者を巻き込む権限にはしない」

 青年は札を外さない。

 その裏へ書く。

《役名を本人希望で保持》

《現事故では役命令を使用しない》

《危険動作を停止》

《認証損害、異議》

 別の人は、役札を床へ置いた。

「燃やして」

「燃やさない」

 七瀬。

「なぜ」

「あなたが拒否したことも記録。原札は封印。役名を公衆へ出さない」

「存在自体が嫌」

「破棄の権限を確認する。貸与品でも、裏にあなたの身体情報がある」

「待つ?」

「待たせる」

「今すぐ消したい」

 七瀬は迷う。

 記録保全。

 本人の拒否。

「裏の身体情報を切り離す。あなたへ返す。役名側は、使用停止の証拠として封印。閲覧はあなたの同意」

「同意しなければ」

「見ない」

「運営も?」

「鍵を二つ。あなたと事故調査。調査利用も個別確認」

「面倒」

「必要なら、もっと面倒にする」

 本人は、役札を切り離すことへ同意した。

 紙を裂く音。

 役と身体が、初めて別の紙になる。

 凱は六十四人の前へ立つ。

「全員へ同じことを求めない。役を外す者は外す。残す者は残す。ただし、現在の事故で使う情報は技能札へ統一する」

「役札を残した人も?」

「役では指示しない」

「英雄役の順番が必要です」

 進行係。

「何のため」

「混乱を防ぐ」

「技能札で組む」

「誰が先頭」

「地図を知る者」

「英雄役でなく?」

「地図を知らない英雄を先頭へ置く理由がない」

 凱自身の技能札には、《地図は他者へ》とある。

 言った者が先頭を譲る。

 地図担当の女性が前へ出る。

「この模型の地図は、昨日の配置です」

「現在図」

「タマキの札と七瀬さんの時刻記録を合わせれば」

「できる?」

「途中まで」

「途中の先は」

「現場で確認」

「受領」

 先頭は、全部を知る者ではない。

 知らない場所を言える者になる。

 八城レムの技能札は、まだ名前だけだった。

 内線がつながる。

「八城。書くか」

 凱。

「保留と答えました」

「現在、必要」

「何に」

「予定動作と実際の差を読む」

「型を捨てたのでは」

「差を知るには型が要る」

「都合がいい」

「使える部分だけ頼む」

「役を小さくする」

「技能へ分ける」

 レムは黙る。

「私の《型通り》は、既知動作の三手先を読む」

「停止区画では使えない」

「外からなら、映像を見て予測できます」

「何を」

「可動街区の次の位置。演目制御の予定列」

「設備故障は」

「読めません」

「人の即興」

「精度が落ちます」

「身体」

「疲労軽度。古傷なし」

「恐れ」

「技能ではありません」

「今、判断へ影響する」

 長い沈黙。

「型が使われなくなること」

 レムが言う。

「書く?」

「公開しない。現場担当だけ」

「受領」

 凱は、空白札へ本人の言葉だけを書く。

《既知動作照合》

《演目制御予定列》

《新規条件の予測精度低下》

《疲労軽度》

《型が使われなくなることを恐れる/現場限定》

「最後は消してください」

「事故後、本人の選択で」

「今は」

「使う人だけ見る」

 レムは了承とも拒否とも言わない。

 しかし、次の可動街区位置を読み上げた。

「住宅模型は、予定上、あと二分で北へ九十センチ。故障がなければ」

「故障がある」

 轟。

「なら、九十を上限として警戒」

「使える」

「評価ですか」

「荷重条件」

「その言い方なら受けます」

 型は、現実を命令しない。

 現実が外れた距離を測る道具になる。

 役を降りても、覚えたことまで捨てる必要はなかった。

 技能札を並べるだけでは、指揮系統にならない。

 《声》が四人。

 《地図》が六人。

 《担架》が十一人。

 《結索》が八人。

 《応急手当》が九人。

 《設備》が五人。

 《子ども対応》が三人。

 《休憩中》が七人。

 《分からない》が二人。

 人数は重複している。

 凱は、昔なら一枚ずつ配置した。

 声を高所。

 地図を分岐。

 担架を医療路。

 結索を倒壊区画。

 今も、配置案は頭に浮かぶ。

「言え」

 イオ。

「何を」

「顔が命令表」

「案がある」

「案として言う」

 凱は白板へ書く。

《案》

《声二人を東と西》

《地図二人を伝令同行》

《担架は三組、予備二》

《結索は黄区画》

《応急手当は十夜の受付へ》

 大きく《案》と書く。

「拒否、変更」

 イオ。

 声担当の一人が言う。

「私は大声を出すと過呼吸になります。短い復唱なら」

「変更。西の文字板」

 地図担当。

「私はこの模型の地図を知りません。市街図です」

「変更。現場図を読める者と組む」

 担架担当。

「右手首を痛めています」

「変更。搬送経路の段差確認」

 結索担当。

「水に濡れた索は未経験」

「タマキと検査員の補助」

 案が、本人の申告で崩れる。

 凱は消さず、線を引く。

「失敗を残す?」

 イオ。

「岳の記録を見た」

「真似?」

「真似に見えるか」

「見える。でも、悪くない」

「褒めるな」

「元王、難しい」

 《分からない》の二人が、白板の前に来る。

「何をすれば」

 一人目。

「今、できること」

「分からない」

「したこと」

「倉庫で箱を数える」

「在庫」

「でも、救助じゃない」

「人数を数えられる?」

「できます」

「名簿照合」

 二人目。

「私は、何も」

「今日ここまで、何をした」

「役を演じた」

「どの場面」

「泣く母親」

「演技以外」

「衣装の留め具を直した」

「裁縫」

「少し」

「濡れた札の紐を替えられる?」

「できます」

 《分からない》が消えるわけではない。

 札へ二行が増える。

《在庫・人数》

《裁縫・紐》

 その下に、まだ残す。

《他は分からない》

 分からないことを全部埋める必要はない。

 八城レムの声が、外部回線から入る。

「技能表は、再演の指揮を代替できません」

「代替している」

 凱。

「現場ごとに人が変わります。統一された判断がない」

「統一が必要な仕事は」

「全体避難」

「終了条件を共有する。方法は現場」

「方法が異なれば、結果を比較できない」

「比較のために同じ方法へするのか」

「次の訓練へ、何を教えるのです」

「誰が何をできなかったか」

「失敗の羅列です」

「失敗を持つ」

「岳の能力名へ寄せています」

「記録を読んだからな」

「歴史の意味を、今の都合へ使っている」

「おまえも使っている」

「私は、原動作を守る」

「原動作に、撤回が四回ある」

「撤回も型へ入れられます」

「何を撤回するか、先に決める?」

「条件分岐として」

「全部の条件を知っている?」

「増やし続けます」

「終わらない」

「終わらないから研究です」

 レムの声には、初めて苛立ちではないものが混じる。

 恐れ。

 型がなければ、過去から何も渡せないという恐れ。

「八城」

 凱は名を呼ぶ。

「おまえは、何を失う」

「意味」

「誰の」

「記録された人々の」

「自分は」

「試験官です」

「役を訊いていない」

 返答が遅れる。

「私が覚えた動作が、役に立たないと証明される」

「役に立つ時もある」

「慰めですか」

「事実。既知の足場、既知の目的、同じ身体条件なら、おまえは早い」

「事故は条件を変える」

「そうだ」

「では、役に立たない」

「全部に役立たないと、無価値か」

 凱は、かつて自分へ向けられた問いを返す。

 能力が減衰した時。

 王路不退が以前のように働かなくなった時。

 王でない凱に、何が残るのか。

「俺の声は、ただの声になった」

「届いています」

「全員には届かない」

「復唱がある」

「地図は苦手だ」

「他者へ渡した」

「能力は、全部を一つにした」

「技能札は、分けた」

「分けても、俺はいる」

 レムはしばらく話さない。

「私も、分けろと?」

「自分で決めろ」

「指示しない」

「英雄役を降りた」

「便利ですね」

「不便だ」

 回線の向こうで、紙をめくる音。

「私の技能札を作るなら」

「本人が作る」

「既知動作の照合。反復誤差の測定。群衆動線の比較。八段ごとの休止。新規条件への対応は低い」

「身体」

「古傷なし。現時点で疲労軽度」

「苦手」

「即興」

「書け」

「命令?」

「提案」

「受領はしません。保留します」

「保留、受領」

 回線が切れる。

 技能札の配置案は、最初の十分で三度崩れた。

 地図担当二人が、同じ分岐で逆を指した。

「東です」

「西」

 凱が訊く。

「どちらが正しい」

 二人とも、自分の図を出す。

 一枚は、訓練開始時の配置。

 一枚は、事故後にタマキが歩数で直した現在図。

「両方」

 タマキ。

「時刻が違う」

「東は十時。西は十三時二十二分」

「今は」

「十三時四十分。西寄り。でも模型が動いてる」

「地図担当が、答えられない」

 進行係。

「答えられる」

 現在図を持つ女性。

「私の図は、十三時二十二分まで。今の先は現地確認」

「不完全です」

「完全と嘘を言うより使える」

 凱は白板の《地図二人を伝令同行》へ線を引く。

《旧図一/現在図一/先頭に現地確認一》

「三人」

「増えた」

「遅い」

「迷うより」

 次に、担架担当が減った。

 十一人のうち三人は、実際に濡れた担架を持つと手首や腰へ痛みが出た。

「申告では持てると」

 進行係。

「乾いた状態で」

 イオ。

「能力停止も初めて」

「認証値を下げます」

「今の値へ上書き」

「下がった人ばかりでは」

「増えた人もいる」

 避難者役だった女性が手を上げる。

「水に濡れた布を絞るのは得意です。洗濯場で働いています」

「救助訓練歴」

「ない」

「担架は」

「布のたるみを見る。人を持つのは教えて」

 轟が布担架を見せる。

「ここが伸びる。濡れると中央が落ちる。絞りすぎるな。水が抜けても布が硬くなる」

「洗濯と逆」

「だから、知ってる奴が違いを言える」

 彼女は担架担当へ入らず、布状態の確認へ入る。

 技能は、似た仕事からそのまま移らない。

 違いを知るために、似た経験が役立つ。

 《声》の四人も、全員が大声を出せるわけではない。

 一人は発声訓練。

 一人は市場の呼び込み。

 一人は難聴者向けの口形。

 一人は短い復唱だけ。

「声担当を一つにまとめない」

 凱。

「役割が増えます」

「声量。明瞭。視覚。復唱」

「誰が統括」

「質問が戻る場所」

 凱は自分を指す。

「俺が全部答えるのではない。答えを持つ人へ返す」

「それは統括ですか」

「中継」

「元王が中継」

 イオ。

「笑うな」

「笑ってない。便利」

 最初の質問が来る。

「南の水深は」

 凱は水位班へ。

「四十六。変化、三分で一」

「一センチ上昇?」

「低下」

 凱は聞き返し、復唱する。

「南中央、四十六センチ。三分で一センチ低下。膝以下でも転倒例あり。通行解除ではない」

 声が届く。

 返事。

「いつ解除」

 凱は答えない。

「未定。十五分ごとに更新」

 王なら、期限を示した。

 中継は、未定を未定のまま運ぶ。

 それでも人は、次の十五分を待てる。

 技能表の端に、一枚だけ空白が残る。

《八城レム》

 名前だけ。

 凱は何も書き足さなかった。

 他人の空欄へ、本人より先に答えを入れない。

 兜の重しの下で、六十四枚の札は濡れずに残った。