第188話 第八章「由良の地図」後編

 次は由良。

 彼女は一歩で越えられる。

 越えない。

 迅が踏んだ位置を同じ速度で踏む。

 自分の方が速くても、借りた道では速さを見せない。

 七瀬は小型機を胸へ抱え、左肩を上げないよう横向きで進む。凱は左膝を深く曲げられないため、轟が箒の柄の位置を少し外へずらす。真琴は眼鏡が曇り、タマキが前から指で足場を示す。

 最後は轟。

 荷重が違う。

 箒の柄一本では足りない。

「戻る」

 轟が言う。

「正規路へ?」

 由良。

「俺だけ」

「置いていく?」

「通れば崩す」

「迂回に二時間」

「三時間でも」

「収容小屋が動いたら」

「墓を崩して追う?」

 轟の声は低い。

「俺が通れる道に直してから来る」

「工具は」

「借りる」

「誰に」

「サエ」

 サエが片目を細める。

「墓の工具を、境界の男へ貸す?」

「境界じゃない」

「天環?」

「今は修理する人」

「返す?」

「直して返す」

「何を」

「崩れた道と工具」

「道は私の物じゃない」

「知ってる。通る人に確認する」

 サエは、轟の橙ベストを見た。

「猫番のユキを呼ぶ。南列の家族にも訊く。許可が出たら、支えを入れろ。出なければ正規路」

「分かった」

 轟は一人、土壁の手前へ残った。

 凱が戻ろうとする。

「俺も残る」

「膝で土を崩す」

 轟。

「手伝える」

「名前を見に行け」

「おまえを一人に」

「人いる」

 サエが箒のない手を上げる。

「私もいる」

「戻って来る」

「道が持てば」

 轟は木箱へ座った。

 置いていくのではない。

 本人が残ると決めた。

 違いは、外から見れば小さい。

 残る人の身体には大きい。

 由良は、先へ進んだ。

 午前十時二分

 旧井戸は、石を積んだ丸い穴だった。

 水はない。

 底へ、古い鈴が吊られている。

 風が入ると鳴る。

 剛嶺の車輪が境界へ近づいた時も鳴る。

 由良は幼い頃、この鈴の音を家の音だと思っていた。

 後で、井戸の空洞が鳴っているだけだと知った。

 空っぽの場所ほど、遠い物を大きく響かせる。

「止まる」

 由良が言う。

 全員が止まる。

 井戸の先は、墓地の中央区画。

 サエの同行が必要だ。

 だがサエは轟のところへ残っている。

「待つ」

 迅。

「言われなくても」

「足、動いてる」

 由良は右足のつま先を上下させていた。

「地面が悪い」

「動いてない」

「だから」

「座る?」

「嫌」

「歩く?」

「許可外」

「じゃあ何する」

「数える」

「何を」

 由良は井戸の鈴を聞いた。

「間隔」

 鈴。

 七秒。

 鈴。

 九秒。

 鈴。

 五秒。

 風は一定ではない。

 一定でない物を数えると、身体が少し落ち着く。

 迅は何も言わず、隣で同じ音を数えた。

「いま八」

「七」

「おまえの呼吸が入った」

「おまえの足音だ」

「じゃあ両方」

「数え方が悪い」

「世界が悪い」

「大きく出たな」

「止まると、考える時間が増える」

「悪い?」

「たまに」

「何考える」

「走ってた方がよかったこと」

「今は」

 由良は答えない。

 赤索を指へ巻く。

 一周。

 二周。

 三周目の前で、迅が言った。

「白くなる」

「見てるな」

「見える」

「目、預ければよかった」

「七瀬が困る」

「どうして」

「借りる」

 由良は索を緩めた。

「行方不明の中に、私の家の者はいない」

 言った後で、自分から話したことに気づいた。

 迅は驚かない。

「昨日聞いた」

「続き」

「あるのか」

「石輪の工房は、私が斥候になる前にいた地区。ナツは糸車の修理をしてた。年下。よく荷台の端へ座ってた。私が速く走ると、落ちた釘を拾って投げた」

「当たった?」

「毎回」

「上手い」

「褒めるところ?」

「当てるの難しい」

「おまえ、喧嘩の話しかできない?」

「釘の話」

「同じ」

 由良は井戸の縁へ手を置いた。

「ナツが剛嶺を出たいと言った時、私は止めた。外は固定されてる。仕事名が通じない。寝床も水も自分で探す。天環へ行けば、剛嶺へ戻れないかもしれないって」

「戻りたいと言った?」

「知らない」

「聞いてない?」

「聞く前に、止めた」

「今と同じ」

「分かってる」

「だから条件を変えた」

「遅い」

「生きてれば、間に合う」

「死者名簿にいたら」

「生きてるか確かめる」

「簡単」

「やることは」

「できるかは」

「まだ」

「その言い方、嫌い」

「便利だからな」

「自分で言うな」

 鈴が鳴った。

 今度は、風ではない。

 サエが井戸の反対側から紐を引いていた。

「通っていい!」

 声が遅れて届く。

「轟は」

「道を直してる! 猫番が許可した! 南列は三家が連署! 戻る時には通れる!」

 由良は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 自分が決めなくても、道は作られる。

 遅い。

 でも、自分の足だけで開けた道ではない。

 午前十時三十三分

 第三記銘壁は、黒い石板だった。

 高さは人の二倍。

 名前が縦にも横にも刻まれている。

 剛嶺の車輪名。

 天環の氏名。

 仕事名。

 番号。

 家族だけが知る呼び名。

 何もない空欄。

 死者を一つの名へ揃えない壁だ。

 サエが先に立つ。

「探す名を言え」

 由良は一度、息を吸った。

「石輪ナツ」

「他は」

「灰谷ナツ。右手首、糸車の傷。十七歳。石輪工房」

「番号」

 真琴。

「P-B03-071の可能性」

「可能性は刻まれない」

 サエ。

「では、三つの名で」

 サエは木尺を壁へ当てた。

 指で列を追う。

 石輪。

 石輪。

 石輪ナツ。

 あった。

 由良の喉が狭くなる。

 文字の横へ、小さな輪印。

《一月二十一日 路上喪失》

《遺体未収》

《申告者 石輪工房当番》

《照合名 灰谷――》

 最後の二文字は削られている。

「死んだ?」

 七瀬が低く訊く。

「路上喪失は、死亡確定ではありません」

 真琴。

「剛嶺では、連続移動二回以上、所在確認がなく、寝台登録も配給登録も消えた者を、生活上の喪失者として扱う。記銘はできる。ただし遺体未収なら、本人確認で撤回可能」

「誰が書いた」

 由良は文字へ近づいた。

「石輪工房当番」

 サエ。

「名前」

「公開しない選択をしている」

「私には」

「おまえにも」

「理由を聞きたい」

「工房へ行って、本人に訊け」

「ここから遠い」

「だからといって、墓が代わりに答えない」

 由良は拳を作りかけた。

 封印帯が皮膚へ食い込む。

 すぐに開く。

「撮る?」

 サエが七瀬へ訊く。

「許可を」

「一回。石輪ナツの行だけ。周囲は布で隠す。録音なし」

「記銘の申告者欄は」

「入れるな」

「照合名の削り跡は」

「入れていい」

「理由」

「誰かが、別の名を消した証拠だから」

「公開範囲は」

「本人確認班、家族照合、墓地管理。一般公開しない」

「記録します」

 白布を使う。

 旗ではない。

 壁の左右へ七瀬と凱が持ち、無関係な名前を隠す。凱は左膝を曲げず、布の上端を右手で支える。迅は下側を押さえる。タマキは風でめくれないよう、鏡の木縁を重しにする。

 七瀬が小型機を起動した。

「時刻、十時三十九分。第三記銘壁。墓守、槻野サエの許可。一件、一回。石輪ナツ。路上喪失、一月二十一日。遺体未収。照合名の削除痕あり。一般公開なし」

 七瀬は撮る。

 十五秒。

 止める。

「残り」

 タマキ。

「二十一分四十七秒」

「短い」

「一回は終わりました」

 サエ。

「はい」

 七瀬は機械を下ろした。

 由良は、記銘を見た。

 ナツは死者扱い。

 P-B03-071は保護移送中。

 灰谷ナツは家族が待っている。

 三つの処理。

 一人かもしれない人間。

「この壁へ名前を入れた時、警備へ通知は」

 真琴が訊く。

「行く」

 サエ。

「身元照合の扱いになりますか」

「遺体があれば」

「遺体未収の場合」

「生存照合」

「規則番号は」

 サエは壁の横にある古い木箱を開けた。

 中から、油紙で包んだ札を出す。

《共同境界埋葬・照合規則 二十二条》

《遺体または生存の身元照合が開始された区画では、照合終了または中止宣言まで、当該対象および照合者へ向けた射撃を禁ずる。両側警備は銃口を上げ、照合経路を確保する。》

 真琴が紙へ写す。

「改訂日が去年です。現行」

「墓の規則だろ」

 迅。

「対象が生存照合を含む。P-B03-071と石輪ナツが同一人物の可能性を正式照合すれば、本人確認中の発砲は禁止されます」

「どこまで」

「当該対象と照合者。経路確保を含む」

「収容小屋まで?」

「同一性を確かめるために必要な経路なら」

「使える」

 由良が言った。

 サエの木尺が、由良の肩を軽く叩く。

「使うな」

「何」

「墓を盾にする言い方」

「でも、規則がある」

「誰かを生きてるか確かめるためにある。おまえたちが撃たれないためだけじゃない」

 由良は口を閉じた。

「順番を間違えるな」

 サエが続ける。

「まず、石輪ナツとP-B03-071が同じか確かめる。そのために道を開ける。おまえらが生きて通れるのは、その結果だ」

「同じに見える」

「結果が同じでも、命令の出所は違うんだろ」

 サエは凱を見た。

 凱が少し目を見開く。

「誰から聞いた」

「境界は声が響く」

 空の井戸と同じだ。

 人が言った言葉は、言った場所だけに留まらない。

 由良は記銘板へ手を伸ばさない。

 指先には、入口の白輪を避けた時についた石灰が残っている。

 白い粉。

 顎の一本線と同じ色。

「サエ」

「何だ」

「照合を始めたい」

「誰の名で」

 由良は、三つの名を見た。

「本人が最後に使った名は、まだ分からない」

「なら」

「三つ全部。石輪ナツ。灰谷ナツ。P-B03-071。それが同じ人か、違う人かを確かめる」

「一つにまとめない?」

「まとめない」

「誰が責任者」

 由良は答えかける。

 自分。

 剛嶺の者だから。

 斥候長だから。

 ナツを知っているから。

 だが、家族は天環側にいる。記録は七瀬。手続きは真琴。境界経路は巌門。墓地はサエ。本人はまだ誰の前にもいない。

「照合を始める申告は、私がする」

 由良は言った。

「記録は火群七瀬。三方式の接続は朽葉真琴。墓地側の確認は槻野サエ。家族照合は灰谷トワ。本人の名と行先は、本人」

「長い」

 迅。

「真琴に作らせた」

「私の文章ではありません」

 真琴。

「今、直すところでした」

「直すな」

 由良は申告紙へ署名した。

 左手。

 速く書きすぎて、最後の一画が少し跳ねる。

 サエが木尺の墓石印を押す。

「照合開始。十時五十一分」

 七瀬が紙へ書く。

「秒は」

「墓に秒はいらない」

 サエ。

「境界には」

「真壁に聞け」

 由良は井戸の方を見た。

 遠くで鈴が鳴る。

 轟が道を直す音も、かすかに届く。

 急いで走れば、もっと早かった。

 許可を待ち、道を直し、名前を三つ残した。

 遅い道だった。

 遅いまま、帰れる道になった。

 午後零時二十四分

 帰路の土壁には、二本の木梁が入っていた。

 轟は右手と腰だけで土を締め、左肩は使っていない。猫番のユキという少年が、供物棚ではない廃材を運んだ。南列の三家が通行を認める印を、梁の端へ付けている。

「持つ?」

 由良が訊く。

「今日一日」

 轟。

「明日は」

「正式に直す」

「工具」

「申請した」

「いつ返る」

「境界倉庫の担当が、午後に見る」

「長い」

「墓は急がん」

「みんなそれ言う」

「便利だから」

 轟は梁を叩いた。

 一人ずつ渡る。

 今度は轟も通れる。

 最後にサエが箒の柄を拾う。

 少し曲がっている。

「壊した」

 タマキ。

「曲がっただけ」

 轟。

「直す?」

「蒸気当てて戻す」

「明日」

「今日、湯があれば」

「水しかない」

「じゃあ明日」

「墓は急がない」

 タマキが得意げに言う。

 サエは箒の柄で、タマキの帽子を軽く叩いた。

「人の言葉を、早く自分の物にするな」

「借りた」

「返せ」

「料金は」

「掃除一時間」

「高い」

「墓は逃げない」

「私が逃げる」

 由良は、そのやり取りを聞きながら、第三記銘壁の写しを胸へ入れた。

 写しには、周囲の名前がない。

 石輪ナツ。

 路上喪失。

 遺体未収。

 削られた灰谷の名。

 そして、照合開始の印。

 由良の指には、白い石灰が残っている。

 走れば落ちる。

 由良はしばらく、走らずに歩いた。