第187話 第八章「由良の地図」前編
一月二十七日 午前六時三十四分
地図は、道を描く。
鷹取由良の地図は、道を描かない。
通ってはいけない場所。
音を立ててはいけない床。
雨の日だけ沈む石。
子どもが昼寝をする荷台。
犬が縄を切る時間。
水を汲む人が背を向ける方角。
誰かの家だった空地。
誰かの墓になった近道。
線を引くより、線を引けない理由の方が多い。
由良は、第三検問の仮眠室で地図を開いた。
窓は東向き。
朝の光が、紙の凹凸を横から照らす。
紙といっても一枚ではない。薄い布。荷札。古い薬包紙。車輪の内張り。剥がした壁紙。異なる素材を赤糸で縫い、折り畳んである。
描いてあるのは、今いる境界のすべてではない。
由良が自分の足で確かめた場所だけ。
確かめても、通る権利を持たない場所には、線の代わりに小石の印を縫い付けている。
迅が横から覗く。
「撮ってない」
「目で複写するな」
「無理だ」
「忘れろ」
「もっと無理」
「便利な頭」
「昨日、真琴にも言ってた」
「おまえたち、嫌なところが似てる」
「褒めた?」
「剛嶺では、それを褒め言葉にしない」
迅は地図へ指を出さない。
指で触れれば、そこが候補になる。
「移送日誌」
「見た」
「C-9は、二十二日十五時十二分、第三検問を東へ。十五時二十九分、旧墓道入口。十五時四十六分、記録が切れてる」
「切れたんじゃない。巡回車が境界警備から共同確認班へ移った。帳簿が変わった」
「次の帳簿は」
「収容小屋側」
「場所」
「ここ」
由良は、縫い付けた黒い小石を一つ押した。
第三検問から東へ、正規路なら二時間。
検査門が四つ。
乾いた堤防を北へ回り、二重柵に沿って戻る。
旧墓道なら三十分。
「近い」
迅。
「言うと思った」
「行く」
「行かない」
「場所は分かる」
「地図は私の。道は私のじゃない」
「誰の」
「墓守と、そこへ名前を置いた人」
「許可を取る」
「時間がかかる」
「正規路より」
「たぶん短い」
「じゃあ取る」
「おまえ、昨日より少し学んだ?」
「近道は好きだ」
「そこは変わらない」
「帰れる近道なら使う」
「帰れないかもしれない」
「何で」
「墓地は、一度入った人の名前を聞く。答えられないと、帰すまで待つ」
「誰が」
「墓守」
「規則?」
「生活」
迅は地図から顔を上げた。
タマキが仮眠台の端で、靴紐を替えている。昨日、黄色い方を管の修理へ使ったため、右靴だけ境界支給の灰色紐だ。左は青。
「左右、また違う」
迅。
「同じだと迷う」
「何が」
「右と左」
「身体で分かる」
「暗いと靴は見えない」
「じゃあ意味ない」
「朝、見える」
由良は地図を折り畳んだ。
「墓へ入るなら、持ち物を減らす」
「もう武器はない」
「武器じゃない。名前を持ち込みすぎるな」
真琴が眼鏡を上げる。
「どういう意味です」
「墓地では、呼ばれたくない名を大声で言わない。仕事名、借金名、処分名。墓碑にある名だけが本人とは限らない」
「照合に必要です」
「必要だから、許可を取る」
「誰が申請文を」
由良は真琴を見た。
「おまえ」
「私が?」
「言葉を長くする仕事だろ」
「簡潔な申請が求められる場面もあります」
「今回は長くしろ。何を探すか。何を撮らないか。何を写さないか。どの道だけ通るか。全部」
真琴は少し驚いた顔をした。
「あなたが説明するのでは」
「私が説明すると、《剛嶺のため》でまとめる」
「自覚があるんですね」
「昨日、おまえに言われた」
「私はそこまで直接には」
「長く言った」
由良は七瀬を見る。
「機械は入口へ置く」
「小型機だけです」
「それも」
「記銘板の矛盾を証拠にする必要があります」
「墓は証拠倉庫じゃない」
「では、墓守の立会いで、必要な一行だけ。顔、周囲の墓、道順は入れない。拒否されたら紙へ写します」
「紙も複写」
「本人確認へ使う範囲です」
「本人は墓にいることになってる」
「だからこそ、生きている可能性を守るために必要です」
由良は胸の索を指へ巻いた。
一周。
二周。
指先が白くなる前に止める。
「墓守が決める」
「はい」
「私じゃない」
「はい」
「すぐ返事するな」
「あなたが決めないと決めたことを確認しました」
「面倒」
「よく言われます」
「今度は本当」
午前七時五十分
墓地は、境界の東側にあった。
剛嶺の都市本体は動く。
墓地は動かない。
走る街から落ちた者。
街へ戻れなかった者。
どの車輪区へ置くか決められなかった遺骨。
遺体の見つからない者。
道の途中で名前だけ残った者。
そういう人々のため、外環壁の陰へ石が置かれている。
正式名は《東縁記銘地》。
由良は、みんなが《止まり墓》と呼ぶのを嫌っていた。
止まったのは墓ではない。
置いていった街の方だ。
入口は低い石門。
扉はない。
代わりに、地面へ白い石灰の輪が三つ描かれている。
一つ目で名前を言う。
二つ目で目的を言う。
三つ目で、帰る先を言う。
由良は一つ目の輪へ入った。
「鷹取由良」
二つ目。
「行方不明者の所在照合。道を借りたい」
三つ目。
「剛嶺へ戻る」
迅が後ろへ立つ。
一つ目。
「竜胆迅」
二つ目。
「人を探す」
「短い」
石門の向こうから声がした。
「もう少し言え」
墓守の槻野サエが、箒を持って立っていた。
六十を越えている。髪は灰色。右目は白く濁り、左耳に大きな銅環。冬でも裸足に布靴。腰へ、墓石を測る木尺を差している。
「番号のまま運ばれた人を探す」
迅が言い直す。
「見つけて、どうする」
「本人に訊く」
「何を」
「帰る場所」
「おまえが連れて帰らない?」
「決めない」
「決めない奴は、見つけた後に困る」
「困る」
「正直だな」
サエは三つ目の輪を示した。
「帰る先」
迅は黙った。
「天環」
由良が代わりに言いそうになる。
迅が先に答える。
「帰れる方」
「場所の名を言え」
「天環。入った人が別を選んだら、そこまで送る」
「全部?」
「歩ける範囲」
「範囲外は」
「誰かに頼む」
「王に?」
サエの片目が凱へ向く。
「王ではない」
凱。
「王だった顔だ」
「預けられなかった」
「顔は重い。墓石より運びにくい」
「知っている」
「なら、三つ目」
凱は輪へ入る。
「天環へ戻る。ただし、俺の命令で戻る者はいない」
「長い」
由良が言った。
「迅よりはましだ」
「比べる相手が悪い」
七瀬は一つ目の輪で、自分の名を言った。
二つ目。
「記録の照合。ただし、墓地全体を撮影しない。顔を撮らない。道順を撮らない。許可された記銘だけを、公開範囲を限定して記録したい」
「長い」
サエ。
「必要です」
「機械は」
「入口へ置けと言われています」
「誰に」
「由良」
「由良が墓守か」
「違う」
「なら、私が決める。機械は持って入れ」
由良が顔を上げた。
「サエ」
「壊すな。落とすな。許可なしに回すな。持っている人間が、使わない重さを覚えておけ」
七瀬は小型機へ手を添えた。
「分かりました」
「分かった顔は信用しない。止めろと言ったら止める?」
「止めます」
「記録できなくても」
「紙へ残す許可を、改めて訊きます」
「先に答えを作るな」
「はい」
「三つ目」
「天環へ戻ります。ただ、記録の写しは、本人が選んだ場所へ送ります」
「機械の帰る先じゃなく、おまえだ」
七瀬は少し考えた。
「天環の仮設文書室」
「最初から言え」
真琴は、三つの輪それぞれで長くなった。
サエに二度止められた。
タマキは目的を「運ぶ」と答え、何をと聞かれて「まだ分からない」と言った。
轟は帰る先を「床が持つ方」と答え、やり直しになった。
全員が終わるまで二十二分。
由良は入口の外で足踏みをした。
「急ぐ?」
迅が訊く。
「急いでる」
「でも待つ」
「許可を取るって、そういうこと」
「嫌い?」
「嫌い」
「使う?」
「使う」
「面倒だな」
「おまえに言われたくない」
午前八時二十八分
サエは、真琴の申請文を読んだ。
読むのは遅い。
文字が苦手なのではない。
一行ごとに、墓地の中を見ている。
《通行希望区間――南石列から旧井戸、第三記銘壁まで。》
サエは南を見る。
《目的――P-B03-071および関連する天環名・剛嶺名の照合。》
第三記銘壁を見る。
《禁止――無関係な墓碑、道順、参拝者、供物の撮影および転記。》
供物台を見る。
《通行者――七名。》
七人の顔を見る。
《同行案内――鷹取由良。》
由良を見る。
「おまえが案内?」
「地図は知ってる」
「墓は」
「知ってる」
「名前は」
「全部は知らない」
「それでいい」
「褒めた?」
「全部知ってると言う奴は、墓で一番信用しない」
サエは木尺を申請文へ置いた。
「南石列から旧井戸まで許可。第三記銘壁は、私が同行する。北列へ入るな。白い輪を踏むな。供物へ触るな。名前を声に出す時は、私へ先に言え。撮影は一件、一回。録音なし」
「一回の定義を」
七瀬。
「機械を回して止めるまで」
「途中で遮られた場合」
「それで終わり」
「必要な文字が入らなければ」
「目で覚えろ」
「私の目は、機械ほど正確ではありません」
「墓は、おまえの正確さのためにあるんじゃない」
七瀬は頷いた。
「分かりました」
「今のは少し分かった顔」
「少しだけ」
「なら通れ」
サエが申請文へ、木尺の端で黒い印を押した。
許可印は、墓石の形だった。
午前八時四十六分
墓地の道は、近かった。
近いが、速くは歩けない。
白い石灰輪が地面のあちこちにある。
輪の中には、小さな石。
石へ名前がないものも多い。
名を残せなかったのではない。
残さないと選んだ者。
借金名で追われていた者。
家族へ所在を知らせたくない者。
都市から消えたかった者。
由良は一つずつ避ける。
迅も、後ろで同じ足跡を踏む。
「自分の道、作らない?」
由良が訊く。
「許可の範囲が分からない」
「私の足跡が正しい保証は」
「案内役」
「信じる?」
「今は」
「今だけ」
「十分だ」
由良は前を向いた。
信じられることは、嬉しくない。
重い。
裏切らない道を選ばなければならなくなる。
南石列を抜ける。
古い墓標の中に、車輪の部品が立っている。
折れた軸。
ひしゃげた歯車。
焼けた板。
動く街では、家の一部が墓石になる。
誰かが暮らした部屋と、誰かが死んだ場所が同じ材料でできている。
迅が、一本の曲がった車軸を見る。
「これ、動かせる」
「触るな」
「道を塞いでる」
「墓」
「分かってる」
「今、動かす角度を見た」
「見ただけ」
「近道」
「通れるか考えた」
「同じ」
「触ってない」
「頭で触った」
「面倒だな」
「おまえが」
旧井戸の手前で、道が崩れていた。
昨夜の冷えで、土壁が落ちている。幅三歩。高さ腰。迂回すれば北列へ入る。
「止まれ」
由良が手を上げる。
全員が止まる。
「迂回は許可外」
「越える」
迅。
「石灰輪が下にあるかもしれない」
七瀬。
「掘る?」
轟が土壁を見る。
「工具ない」
「右手で少しなら」
「墓地で土を動かす許可は取ってない」
真琴。
「サエへ聞く」
由良が戻ろうとする。
「時間」
迅。
「分かってる」
「俺が上を見る」
「上?」
崩れた土壁の脇に、石碑が二つ立っている。その間へ、細い木梁が渡されている。供物を雨から守る古い屋根の骨だ。
「登るな」
由良。
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「顔は同意書じゃない」
「七瀬の真似するな」
迅は土壁へ近づかず、地面を見た。
「足跡」
崩れた土の上に、小さな靴跡がある。
新しい。
片道ではない。
向こうへ行き、戻っている。
「誰か通ってる」
「墓守の子か、猫か」
「靴」
「分かってる」
由良は跡の位置を見る。
石灰輪を避け、土壁の左端だけを踏んでいる。
「この線なら、下に輪はない」
「推定」
真琴。
「戻って許可を取る」
由良はそう言った。
迅が頷く。
反論しない。
「何」
「待つ」
「急げと言わない?」
「言っても戻るだろ」
「戻る」
「じゃあ言わない」
「腹立つ」
「何で」
「分からない」
由良は来た道を走った。
誓痕は使わない。
凧骨は畳まれ、金具は封印されている。
ただの脚で走る。
墓の白輪を一つも踏まない。
止まるのが嫌いな身体は、走る時だけ静かになる。
午前九時十七分
由良は、サエと一緒に戻った。
サエは走らない。
由良が三度先へ行き、三度戻る。
「急ぐなら、私を背負え」
サエが言った。
「嫌」
「なぜ」
「右目が見えない人を背負って、左耳が悪い人の横を走ると、私だけが全部見ることになる」
「それが斥候だろ」
「墓では違う」
「じゃあ待て」
「待ってる」
「足が待ってない」
由良はまた一往復した。
迅が土壁の前で座っている。
地面ではなく、倒れた木箱の縁。足裏を床へ付けず、踵を浮かせている。
「おまえも止まれない?」
「冷える」
「手」
「足」
「嘘」
「両方」
迅は右手を開いた。
小指の動きが鈍い。
「保温布、封印帯の下?」
「ある」
「赤い紐は」
「真壁」
「預けたまま?」
「第二検問を越えたら返すって言ってた」
「忘れてる」
「記録してる」
「記録したら返したことになる?」
「ならない」
「言わないの」
「あとで」
「物を大事にしない」
「紐だ」
「意味ある」
「おまえも検査官と同じこと言う」
「私は意味を取り上げない」
「返ってくれば同じだ」
「返らなかったら」
「その時考える」
由良は胸の索を一度引いた。
大事な物を、あとで考える。
迅はそう言う。
大事ではないふりをする。
なくした時に、なくした顔をしないためだ。
由良はそれを指摘しなかった。
人の隠し場所を見つけても、勝手に開けない。
墓と同じだ。
サエは土壁の前へ着き、木尺で地面を測った。
「左端、通っていい」
「足跡は」
「猫番のユキ。朝、供物皿を運んだ」
「子ども?」
「十四」
「許可は」
「私が出した」
「じゃあ、同じ道を」
「一人ずつ。土を蹴るな。壁へ手をつくな。崩れたら戻れ」
「支えを入れた方が」
轟が言う。
「今日は触るな。明日、工具を持って来い」
「工具、預けてる」
「返してもらえ」
「境界倉庫」
「なら、境界へ申請しろ」
「長い」
「墓は急がない」
「人は急ぐ」
「だから墓へ来る」
轟は土壁をもう一度見た。
「下、空洞ある。三人目までに割れるかも」
「どこ」
「左端の内側。靴一枚」
サエが木尺を差す。
土が沈む。
「本当だ」
「板、要る」
「供物棚の板は使うな」
「使わん」
タマキが、自分の右靴を脱いだ。
灰色の新しい紐。
「靴底、板になる?」
「一人分」
轟。
「後の人、どうする」
「戻して渡す」
「裸足で?」
「靴下ある」
「冷える」
「迅の靴、借りる」
「嫌だ」
迅。
「大きいから二人入る」
「入らない」
「試す?」
「しない」
サエが箒の柄を地面へ置いた。
「これを渡せ。横にして荷重を散らす」
「墓守の道具」
由良。
「私が貸す」
「折れたら」
「轟が直す」
「工具ない」
「明日」
「長い」
「墓は急がない」
「さっき聞いた」
箒の柄を土壁へ渡す。
迅が最初。
足の外側だけを置く。
体重を前へ移さない。
白輪を避ける。
通過。