第186話 第七章「凱の旧い敬礼」後編
「膝帯を締め直してくれ」
タマキが目を丸くする。
「今?」
「今だ」
「会議中」
「だから」
「私、医者じゃない」
「結び目が得意だろ」
「靴紐は管に使った」
「装具の帯だ」
「料金」
「払う」
「定価」
「見栄ではない」
「分かってる」
凱は椅子を少し下げた。
タマキが膝をつき、外套の裾を上げる。黒い装具の留め具を一本ずつ確認する。
兵たちの前で、古傷を見せる。
王の頃なら、しなかった。
「上、緩い。下、きつい」
「直せ」
「命令?」
「依頼だ」
「じゃあ、右足を前。力抜いて」
凱は従った。
タマキが上帯を締め、下帯を一穴緩める。
「痛い?」
「少し」
「少しは数字じゃない」
「十のうち四」
「立つと」
「五」
「走ると」
「七」
「走らない」
「必要なら」
「必要を誰が決める」
凱は迅を見た。
迅が口元を動かした。
「その場」
「便利な上司」
七瀬。
「今日は多いな、その話」
凱。
「便利だからです」
タマキが装具を叩いた。
「終わり。立って」
凱は右足から立つ。
痛みは三。
「ありがとう」
「料金、後」
「払う」
「記録した?」
真壁が鉛筆を上げる。
「九時――」
「そこは要らん!」
室内に、小さな笑いが起きた。
巌門だけは笑わない。
だが古い鍵から、指を離していた。
午前十一時四分
凱は、命令系統を紙へ書かせた。
共同境界室。
境界警備隊長。
副隊長。
各検問班長。
照合官。
規則官。
巡回責任者。
矢印を引く。
命令が下りる方向。
報告が上がる方向。
異議が戻る方向。
最後の矢印だけが、隊長から隊長へ戻っていた。
「ここだ」
凱が指す。
「隊長判断への異議申立て先が、同じ隊長。緊急時は共同境界室へ上申できるが、回答期限がない」
「平時は隊長で足りる」
巌門。
「今が平時か」
「発砲はない」
「行方不明者がいる」
「確認中だ」
「水が止まった」
「復旧した」
「無手の調査班へ検査名目の攻撃が起きた」
「処理中だ」
「処理中が三つあれば、緊急ではないのか」
「境界は、常に三つ以上の問題を抱える」
「慣れた問題は、危険でなくなる?」
巌門は答えない。
凱は紙の余白へ、新しい箱を描いた。
《現場停止確認》
「何だ」
「隊長命令と安全規則が衝突した時、副隊長、規則官、当該班長のうち二名が、共同境界室の回答まで実行を停止できる。停止者の処分は、命令発出者以外を含む審理で決める」
「規則をその場で作るな」
「提案だ」
「承認しない」
「承認しない理由を書け」
「指揮が遅れる」
「どれくらい」
「状況による」
「便利だな」
迅が言った。
「おまえは黙っていろ」
巌門と凱が同時に言った。
迅は肩をすくめた。
「同じ側」
「違う」
二人の声も揃った。
由良が笑った。
「似てる」
凱は無視した。
「承認しなくていい。ただし、本件中に命令と規則が衝突した場合、この提案を異議として記録しろ。副隊長が四条三項を使う権利を妨げない」
「元からある権利だ」
「なら書ける」
巌門は真壁を見る。
「書け」
「隊長署名を」
「異議受領だけだ」
「その旨を明記します」
真壁が炭紙を挟む。
巌門は署名した。
《提案は未承認。既存の緊急停止権〈レッド・ハンド〉を妨げない。》
「これで満足か」
「満足はしていない」
「では何だ」
「入口だ」
「何の」
「おまえの命令を止めるための」
室内の空気が硬くなる。
凱は声を上げない。
「俺は、おまえを敵だと言っていない。おまえが正しい命令を出す日もある。間違う日もある。その両方に備えろと言っている」
「おまえ自身は」
「備え始めた」
「完成していない」
「だから、人を待たせる」
「待っている間に失う」
「今日、失った。灰色荷車を追えなかった」
「なら、迅を渡せばよかった」
「そうかもしれない」
迅が凱を見る。
凱は続けた。
「それでも渡さない。正しい結果が出る取引でも、人を道具にする手続きを残せば、次はもっと安く誰かを渡す」
「王が人を駒と呼ばなくなったか」
「呼んでいた自分を、忘れていない」
巌門はしばらく凱を見た。
「移送日誌の閲覧を、条件付きで認める」
真琴がすぐに訊く。
「条件」
「調査班全員の第三検問通過。剛嶺側照合官立会い。複写不可。指定箇所のみ閲覧。竜胆迅の接触事案は別途審理」
「留置は」
「しない」
「理由」
「古賀班長の証言。映像。副隊長注記。および、現場継続を優先する」
「取引ではない?」
凱。
「判断だ」
「出所は」
「私だ」
「責任は」
「私が負う」
凱は、すぐには頷かなかった。
「その言葉だけでは足りない」
「分かっている」
「なら署名を」
巌門は移送日誌閲覧許可へ署名した。
古い鍵を印肉へ押す。
鍵の歯には、既に開く家がない。
それでも印は、いま開ける扉を一つ作った。
午後零時十二分
第三検問の通過前、兵列がもう一度敬礼した。
二十四の右拳。
二十四の開いた左手。
二十四の踵。
凱は返した。
今度は、顎を引いた後に言葉を足した。
「聞いた命令の内容を、自分で確認しろ」
規格にはない。
兵たちの目が動く。
巌門が言う。
「余計な文言だ」
「今日から俺の礼には付く」
「おまえのものではない」
「なら、真似しなくていい」
一人の若い兵が、右拳を下ろす前に小さく復唱した。
「内容を確認する」
隣の兵が彼を見る。
巌門は叱らなかった。
凱も褒めなかった。
褒めれば、凱へ従ったことになる。
若い兵が、自分で言ったままにしておく。
凱は前へ進んだ。
左膝は痛む。
タマキに締め直してもらった装具が、その痛みを消さず、散らしている。
人へ任せることは、弱さをなくすことではない。
弱さを一人の秘密にしないことだ。
第三白線の手前で、凱は一度だけ振り返った。
兵列はもう敬礼を解いている。
それぞれの手が、それぞれの武器へ戻る。
同じ動作で始まり、違う判断へ戻れるか。
その答えは、まだ誰の号令にもなっていなかった。