第79話 第二章「読めない同意」前編
九月十四日 午前十時六分
人が多い場所では、聞こえる者ほど会話を見失う。
一文字巴は、南環市場街の入口で人工内耳の外部装置を外した。
金属屋の槌。
魚屋の呼び声。
荷車の車輪。
上階から落ちる洗濯ばさみ。
値切る声。
値切られて怒る声。
怒っていないのに大きい声。
音量だけが一つの塊になる。
巴には、その塊から必要な口を探すより、最初から目で選ぶ方が速かった。
装置を小さな防湿箱へ入れ、透明な喉当てを直す。白手袋の指には、今日は左から疑問符、読点、括弧、句点、空欄が描かれている。
句点は右人差し指。
仕事を終えた時、その指で報告書へ点を打つ。
終わっていない仕事へ打たないための目印だった。
市場の門柱には、札が十七枚重なっている。
《営業時間》
《居住者通用時間》
《共同診療所受付時間》
《搬入業者優先時間》
《火気取扱》
《夜間閉鎖》
《契約更新者のみ通行可》
最後の一枚だけ、赤字だ。
《本日、係争中。既存契約は継続》
係争中なのに継続する。
継続するから係争になる。
巴は折り畳み黒板を門柱へ立て、まず時刻を書いた。
《聞き取り開始 十時六分》
《依頼者 市場住民三十七名》
《支払者 未確定》
《巴の判断は最終決定ではない》
「最後が必要ですか」
真琴が横から訊いた。
口元を見せて、ゆっくり話している。
巴は頷き、手話を使う。
真琴はまだ地域手話を読めない。七瀬が見よう見まねで指の動きを追い、迅は黒板へ目を落とす。
巴は書いた。
《必要。通訳者の訳を契約本文にしない》
「しかし、最終的に解釈を統一しなければ運用できません」
《統一する人を、先に私へ決めない》
「誰が決めるのです」
《今から確認》
「それでは遅い」
《遅いです》
巴はあっさり認めた。
《急いだ誤訳は、速く人を傷つける》
迅が門の札を見上げる。
「傷つく前に、入る」
巴は彼の口元を読んだ。
《勝手に入ると、保証停止》
「昨日から聞いてる」
《聞いた。説明できる?》
「扉を壊したら、店の保証が切れて真琴が払う」
真琴が咳払いする。
「私だけとはまだ確定していません」
「なら、真琴たちが払う」
《合格ではない》
「試験か」
《会話》
「違いは」
《落ちても、追い出さない》
迅は口を曲げた。
「試験より面倒だ」
《そう》
市場の内側から、四十人ほどが彼らを見ている。
来客ではなく、解決役として見られている目だ。
期待は依頼より重い。依頼は断れるが、期待は断った後も相手の顔へ残る。
巴は黒板を持ち、市場へ入った。
南環市場街は、道の上へ家を重ねた建物だった。
一階は店。
二階は倉庫と工房。
三階から五階は住居。
東棟へ診療所。
中央に階段棟。
市場の屋根を上階の廊下が横切り、廊下の下へ看板と洗濯物がぶら下がる。醤油の匂いの上を消毒薬が流れ、乾いた布の粉へ魚の鱗が張りつく。
生活と商売が近い。
近いというより、離す場所がない。
最初の聞き取りは、乾物屋の前で始まった。
巴は三枚の札を並べる。
《この契約で、あなたが約束したこと》
《この契約で、相手が約束したこと》
《やめたい時に起きること》
乾物屋の男は一枚目を指した。
「場所代を払う」
二枚目。
「夜警が店を守る」
三枚目。
「一か月前に言えばやめられる」
真琴が契約書を開く。
「夜警は共同保証の一部です。解約通知は九十日前。市場側の承認が必要です」
「一か月だよ。契約した時、そう聞いた」
「書面には九十日とあります」
「じゃあ、誰が一か月って言った」
男は隣の漬物屋を見る。
漬物屋の女は首を振る。
「うちは十五日。親父の代からそうだ」
魚屋は言う。
「やめるなら後継ぎを出せば即日だ」
布屋は言う。
「店はやめても、住居費を払えば上に住める」
診療所の受付係が否定する。
「店舗組合から外れれば医療負担が変わる。住居だけでは今の診察券を使えない」
「そんな話は聞いてない」
「受付では説明している」
「誰に」
「契約者へ」
「親父は死んだ」
「名義継承の時に――」
「俺は十六だった」
同じ署名が、口から出ると別の契約になる。
巴は答えを直さない。
それぞれの言葉を黒板へ書く。
《一か月》
《九十日》
《十五日》
《後継ぎ》
《店だけ終了可》
《店終了=診療負担変更》
文字が増えるほど、住民は不安そうになった。
「で、どれが正しい」
乾物屋が訊く。
巴は黒板へ書く。
《原文上の答え》
真琴へ視線を送る。
「九十日前の通知と市場側の承認。名義継承者にも原則適用。ただし、説明内容と慣行が異なれば争う余地があります」
巴は次に書く。
《暮らし上の答え》
住民を見る。
誰もすぐには言わない。
巴は待つ。
三秒。
十秒。
二十秒。
急かす視線が背中へ刺さる。
待つ時間は、何もしていないように見える。
通訳の仕事では、何も言わない時間ほど料金を説明しにくい。
漬物屋の女が、やがて言った。
「店を閉めたら、家も病院もどうなるか分からない。だから閉められない」
巴は、そのまま書いた。
《分からないから、やめられない》
真琴が眉を寄せる。
「それは契約内容ではなく、理解状態です」
巴は彼を見る。
両手を使う。
真琴は読めない。
巴は一度止め、紙へ書き換えた。
《理解状態が、契約の効果です》
「効果ではありません。不知は原則として――」
《知らない人が店をやめられない。起きている》
「法的効果と心理的萎縮を区別してください」
《暮らしは区別してくれない》
真琴の口が細くなる。
「区別しなければ、直す場所が分かりません」
巴は少し考え、黒板を二列に分けた。
《紙の作用》
《人の行動》
さっきの言葉を、右列へ移す。
《分からないから、やめられない》
左列へ、真琴が説明した条項を書く。
真琴は黒板を見た。
「それなら賛成です」
巴は句点の指で空中へ小さな丸を描いた。
勝ちではない。
一行、同じ場所へ置けただけだ。
聞き取りは店先を一軒ずつ移った。
刃物研ぎの老人は、契約を「夜間の盗難を市場全体で弁償する約束」だと説明した。
契約書には、盗難補償の上限が月額場所代の三倍とある。老人の刃物は一本でその額を超える。
「昔は全部出た」
「いつですか」
真琴が訊く。
「十五年前」
「現行版は七年前に改訂されています」
「紙が若くなったら、包丁の値段まで若くなるのか」
真琴が答えに詰まる。
巴は《昔の運用》と書き、日付へ空欄を置いた。
次の陶器屋は、場所代に清掃費が含まれると思っていた。
清掃担当は、割れ物の処理だけ別料金だと言う。
陶器屋は毎月、自分で破片を拾いながら清掃費も払っていた。
「返してもらえる?」
巴はすぐに頷かない。
《請求できる可能性。返金確定ではない》
「難しいな」
《難しいと書く》
巴は札へ、そのまま《返金は難しい。理由を確認》と記した。
簡単な言葉は、明るい言葉ではない。
悪い知らせを分かりやすくする仕事もある。
香辛料店の女主人は、口元を布で覆っていた。巴が合図すると、女は慌てて布を下げる。胡椒の粉で咳が出るからだという。
「口を見せないと駄目?」
女が訊く。
巴は首を横へ振り、筆談板を渡す。
《見せなくていい。方法を変える》
女は少し安心し、筆談で答えた。
《契約は、仕入れを皆で安くする約束。やめたら単独仕入れ》
真琴が原文を探す。
「共同仕入れは別規約です。複合契約の終了後も、参加費を払えば継続できます」
女の目が丸くなる。
《夫が、店をやめたら胡椒が三倍になると言った》
「夫はどこです」
《死んだ》
真琴の指が止まる。
巴は《説明者不在》と書いた。
死人の説明を訂正することはできる。
死人へ、なぜそう言ったかは訊けない。
市場契約には、紙に書かれた条項だけでなく、家族の忠告、昔の噂、隣人の失敗が何層も塗られている。
七瀬はすべてを撮らなかった。
撮影許可を一人ずつ訊き、断った人の顔へレンズを向けず、黒板だけを撮る。
「断ったことも記録する?」
陶器屋が訊いた。
「人数だけ。名前は残しません」
「何も残さないのは駄目なのか」
「断った人がいなかったことにされるから」
「断った証拠を残すために、断ったと残す」
「面倒です」
「そうだな」
「面倒だから権利なんです。楽なら、誰も奪いません」
七瀬はそう言って、カメラの蓋を閉じた。
市場の北端には、手話を使う老女がいた。
巴と同じ地域の手話ではない。
老女は「保証」を、両手で屋根を作る形で表した。巴の学塔区では、胸の前で輪を閉じる。
同じ意味に見えて、老女の動きには「雨を防ぐ」「家族の頭上」という含みがあった。
巴は標準手話へ直さず、動きを絵にして残す。
真琴が横から覗く。
「語義が不明確です」
巴は老女へ質問し、返答を待つ。
老女は屋根の下へ、二人の指人形を置いた。次に、片方だけを外へ出し、首を振る。
巴は訳した。
《店をやめても、娘と同じ家に住めること》
「それが保証の意味?」
迅。
《この人には》
「辞書と違う」
真琴。
《辞書を直す? 人を直す?》
「契約では、共通の意味が必要です」
《共通に入れない意味を、先に捨てない》
巴は老女の手の形を、紙へ二度写した。
その絵が、後でどの条項になるかはまだ分からない。
分からないものを捨てずに持つことも、通訳の料金へ含まれる。
十一時四十八分。
柏木秋枝は、縫い直し屋の看板を外した。
四十歳前後。髪を布紐で巻き、右の小指へ針刺しを嵌めている。二階に母親と住み、週に二度、東棟の診療所で母の肺を診てもらう。
「店だけやめます」
秋枝は市場管理台へ、解約申請を置いた。
「昨日も出しました。今日は、本人の前で処理してください」
管理台の向こうには、黒い腕章を巻いた執行員が三人いた。
黒板会〈チョーク・コード〉の契約執行補助。
先頭の男が申請書を読む。
「複合契約第十二条により、店舗利用の終了は関連資格の再審査を開始します」
「店だけです」
「契約は一体です」
「住む」
「再審査中は仮住居札を発行できます」
「母の診察は」
「組合負担が停止します。自費診療は可能です」
「いくら」
「診療内容によります」
「今日の吸入薬」
「受付で算定してください」
「払えなかったら」
「診療所の判断です」
秋枝は巴を見た。
助けを求める視線だった。
巴はすぐに言葉を返さない。
その沈黙が、秋枝の顔を傷つけた。
「通訳なんでしょう」
巴は黒板へ書く。
《今の説明で、何が起きると思いますか》
「店をやめる。家は仮札。母の薬は高くなる」
《家を出る可能性》
「ある」
《いつ》
「分からない」
《薬の値段》
「分からない」
《それでも申請しますか》
「店を続けたら、縫い代より場所代が高い。母の世話もできない。やめるしかない」
巴は頷いた。
執行員へ向き直る。
《本人は、店を終了。住居継続。診療継続を希望》
男は口元を巴へ向けた。
「希望は確認しました。現行契約では分離できません」
《その説明を、契約時にした記録》
「署名があります」
《説明の記録》
「同意確認欄があります」
《本人の言葉》
「署名です」
男の返答は同じ場所へ戻る。
巴は秋枝の申請書を見る。
署名は本人の字だ。
細い線。
日付。
《全条項の説明を受け、理解し、同意しました》
その一文の横に同じ署名がある。
巴は十歳の時の紙を思い出した。
《一時退避》
役所の男は、短い言葉へしてほしいと言った。
家を離れる。
戻る時刻は未定。
巴は「立ち退く」と手話へした。
従兄は家へ荷物を取りに戻り、崩れた壁で脚を折った。
正確ではなかった。
だから、正確であれば救えたと信じた。
今、目の前の署名は正確だった。
正確な一文が、分からないことを分かったことにしている。
執行員が三枚の札を取り出した。
住居鍵。
職場札。
診察券。
すべて同じ真鍮の輪へ通っている。
「再審査状態へ移します」
黒い押印器が下りる。
一枚目、職場札。
赤い斜線。
二枚目、住居鍵の木札。
黄色い丸。
三枚目、診察券。
迅の左手が、押印器の下へ入った。
金属が手の甲へ当たる。
止まる。
「離してください」
執行員が言う。
「説明が終わってない」
「本人は署名しています」
「今、分からないって言った」
「理解の撤回は、契約の撤回ではありません」
「同じだ」
「異なります」
迅は押印器を持ち上げる。
右腕を使わない。
左手だけで、機械の蝶番へ力をかけている。
執行員の二人が動いた。
一人は迅の手首。
一人は秋枝の札。
凱が間へ入る。
「触れる相手を言え」
低い声で、二人の足が一瞬止まる。
「契約妨害者を排除します」
「名前は」
「竜胆迅」
「触れる部位は」
「左手首」
「目的は」
「押印器から離す」
「その後は」
「処理を継続」
「柏木秋枝の住居と診療は」
「再審査」
「時刻」
「規定内」
「何時だ」
執行員が答えに詰まる。
凱は命令していない。
質問だけで、動作を遅くする。
遅いことは、巴の仕事では味方になる。
しかし、秋枝の母の薬には敵になる。
巴は契約書をめくった。
解約。
再審査。
異議。
説明。
通訳。
第五十七条。
《意思疎通に合理的な疑義がある場合、処理担当者は確認補助者を置き、確認終了まで不可逆な処理を留保できる》
古い障害者対応の条文だ。
対象は聴覚、視覚、言語、識字。
秋枝に障害はない。
条文の末尾に、括弧がある。
《その他、説明と理解の間に合理的な不一致が認められる場合を含む》
巴は黒板へ大きく書いた。
《第五十七条。理解不一致。処理留保》
執行員が読む。
「本人は聴覚障害者ではありません」
《末尾》
「通常の契約者へ適用した例はない」
《禁止もない》
真琴が横から原文を確認する。
「適用できます。ただし、留保は確認補助者の選任まで。期間上限は二時間」
執行員は真琴を見る。
「白冠の書記か」
「元です」
「元書記の解釈に従う義務はない」
「原文に従ってください」
執行員の顎が硬くなる。
迅の手首へ伸びていた手が止まった。
先頭の男は押印器を上げる。
「二時間。十二時を開始とする。十四時までに確認を終えなければ処理を再開する」
巴は首を横へ振った。
《十一時四十八分》
「端数を切る」
《切らない》
「十二分だ」
《秋枝さんの十二分》
執行員は巴の手を見た。
怒るほど小さくなる手話を、読めるらしい。
「十一時四十八分開始。十三時四十八分終了」
彼は記録票へ書いた。
迅が押印器から手を離す。
左手の甲に、四角い赤みが残っている。
その時、中央階段で鉄の歯が噛み合った。
がしゃん。