第80話 第二章「読めない同意」後編
秋枝の住居札へ入った黄色い印が、階段扉の受信盤へ伝わったのだ。
二階へ上がる格子戸が、天井から降り始める。
「母さん」
秋枝が走った。
執行員が腕を広げる。
「再審査者は仮札発行まで住居区画へ入れません」
「薬の時間なんです」
「代理人を指定してください」
「今、上に一人でいる」
「管理員が確認します」
「何分」
「順番です」
格子戸の下端が、秋枝の頭の高さまで落ちる。
迅が低く入った。
左肩で戸を受ける。
金属が鳴る。
右腕は使えない。左手で床の溝をつかみ、背中を丸めて隙間を残す。
「通れ」
秋枝が屈む。
執行員が迅の脚へ手を伸ばした。
凱がその手首を押さえず、行く先へ自分の掌を置く。
「今、誰の安全を守っている」
「契約者全体です」
「目の前の契約者は」
「再審査中です」
「人でなく状態を見ているのか」
「状態を見なければ、公平に運用できません」
轟が格子戸の機構を見上げた。
左肩を吊ったまま、右拳で壁を二度叩く。
「荷重、百八十。迅だけじゃ長く持たん」
「壊せる?」
七瀬。
「壊せる。上の巻き取り軸も落ちる」
「落とさず止める」
「右だけだと、楔を入れる角度がない」
タマキが工具箱を開ける。
「何番」
「薄い木片。二つ。金槌はいらん」
タマキが木片を渡す。轟は右手で一枚を溝へ滑らせ、靴底で蹴り込む。反対側へ回れない。
「もう一枚」
迅の声が、戸の下から出る。
タマキが腹ばいになり、木片を隙間へ送る。迅は左指で受け取り、見えない反対側の溝へ差す。
格子戸が二センチ戻る。
秋枝が通り抜けた。
その直後、上階から別の女が駆け下りてくる。
「秋枝さん、お母さんが息を苦しそうにしてる。診療所へ連絡したけど、診察券が保留で――」
秋枝の顔から血の気が引く。
巴は診察券を見る。
黄色い丸は、負担資格の停止待ち。診療自体を拒む印ではない。だが、受付端末は自動で保留へ回す。
真琴が診療条項を探す。
「緊急診療は資格状態にかかわらず先行できます」
「緊急の定義は」
執行員。
「医師が判断します」
「医師へ届く前に受付判定が必要です」
「循環しています」
「規則です」
迅の膝が床へつく。
格子戸の重みが左肩へ食い込んでいる。
「話は、上でやれ」
凱が秋枝へ言う。
「おまえは母親のところへ。七瀬、診療所へ連絡を。轟、この戸は」
言い切る前に、凱は止まった。
命令の形になっていた。
「――頼めるか」
七瀬はもう走り出している。左肩を揺らさない短い歩幅だ。
「受ける。撮影なし。伝達だけ」
轟は格子戸の溝を見た。
「五分なら。迅、交代」
「肩」
「右背中で受ける。おまえの左手より長い」
「褒めてない」
「荷重の話だ」
迅が抜け、轟が身体を横へ入れる。左肩を守り、右肩甲骨と腰で戸を受ける。大きな背中が、二階分の生活を二センチだけ持ち上げた。
巴は執行員の記録票へ、第五十七条の留保を示す。
男がようやく格子戸の停止鍵を回した。
機構が止まる。
轟がゆっくり身体を抜く。
「勝った?」
タマキが訊いた。
巴は書く。
《十二分》
「短い」
《十二分を取った》
「その言い方だと長く見える」
《通訳の詐欺》
巴が書くと、七瀬が少し笑った。
真琴は笑わない。
「二時間で、秋枝さんの理解不一致を立証し、分離の根拠を作る必要があります」
巴は真琴を見る。
《立証ではない》
「では何です」
《聞く》
「聞いた結果を、何に使うのです」
《本人が決める》
「本人の決定を通すには根拠が必要です」
《根拠のために聞くと、必要な答えを言わせる》
「時間がない」
《時間がない時ほど、質問者が答えを作る》
「では、何も教えず、二時間後に三枚とも失効させますか」
真琴の言葉は鋭い。
巴の手が小さくなる。
《教えない、ではない》
《答えを置かない》
「違いを説明してください」
巴は秋枝を見る。
秋枝は二人の専門家の間で、自分の札を握っている。
議論が正確になるほど、本人が小さくなる。
巴は黒板を秋枝の前へ置いた。
白い線で、三つの箱を描く。
《店》
《家》
《診療》
その下へ、同じ問いを書く。
《残したい? 終えたい? 分からない?》
秋枝はチョークを持った。
店の下へ、×。
家の下へ、○。
診療の下へ、○。
少し考え、家の○の横へ書き足す。
《母が生きている間だけ、とは言われたくない》
巴はその文を直さない。
法律用語へ変えない。
真琴も、すぐには口を挟まなかった。
市場の人々が黒板を囲む。
「俺も書く」
「紙をくれ」
「店は残す。住居だけ名義を変えたい」
「診療は組合じゃなく自分で払えるか知りたい」
「分からない欄へ丸でいいのか」
巴は頷く。
七瀬がカメラへ手を掛け、止めた。
「撮っていい人だけ、後で確認します。今は紙へ」
タマキが配達箱から余りの伝票を出す。
轟が右手で長机を運ぶ。左肩が上がり、真琴に睨まれてすぐ下げる。
凱は人の列を作ろうとして、口を閉じた。
「どこから書けばいい」
乾物屋が訊く。
凱は命令ではなく、答えた。
「あなたが明日も必要なものから」
巴は市場の中央へ、三十枚の紙を並べた。
すべて同じ契約へ署名した人々が、それぞれ違う最初の一語を書き始める。
《店》
《母》
《夜道》
《借金》
《薬》
《名前》
《分からない》
紙が三十枚あっても、三十人が同じ速さで書けるわけではなかった。
手の震える老人は、店の欄へ丸を描く途中で線を切った。識字を隠してきた魚箱運びの青年は、鉛筆を持ったまま隣の文字を盗み見た。香辛料店の女主人は、咳を止めるため口元を布で覆い、絵で胡椒袋と寝台を描いた。
「代わりに書こうか」
真琴が青年へ言う。
青年は頷きかけ、巴を見た。
巴は二枚の札を出す。
《あなたの言葉を、そのまま書く》
《書く内容を、こちらで整える》
青年は一枚目を指した。
「字、間違っても?」
《間違いも残す。直したい時だけ直す》
「契約に出す紙だぞ」
乾物屋が口を挟む。
「字が汚いと、馬鹿にされる」
巴は青年ではなく、乾物屋へ黒板を向けた。
《読む側が馬鹿にした記録を残す》
「そっちを記録するのか」
《字より、仕事に関係する》
青年が笑い、ゆっくり言った。
「店は、やめない。夜警も、いる。上の部屋は、姉貴に渡す。俺は、別のところで寝る。でも、荷物運びには来る」
真琴が一語ずつ書く。
「『居住資格を姉へ承継し、本人は就労通行権を――』」
巴が手を上げた。
「今のまま」
真琴はペン先を止める。
「しかし提出用には――」
「二枚」
巴は声にして、原文の紙と制度へ直した紙を横へ並べた。二枚の間を、太い矢印ではなく点線で結ぶ。
《同じか、本人へ戻す》
青年は真琴の文章を三度読んだ。二度目で眉を寄せ、三度目で《就労通行権》へ線を引いた。
「荷物がない日も、店の連中へ会いに来る」
「就労だけでは足りない、と」
「そう」
真琴は《来訪・交流》を足した。
青年は今度こそ頷く。
制度の言葉へ直す作業は、短くする作業ではなかった。本人の一文へ隠れている明日を、一つずつ落とさず移す作業だった。
階段の上から、秋枝が降りてきた。母親の呼吸は落ち着き、診療所から看護師が来ている。秋枝は自分の三つの印を見てから、診療の○の下へ一行加えた。
《母だけでなく、私も使えるまま》
「さっきは書かなかったな」
迅が言う。
「母さんのことで頭がいっぱいだった」
《変えた?》
巴が訊く。
「増えた」
《前の答えは間違い?》
「違う。足りなかった」
巴は最初の紙を捨てず、二枚目を綴じた。
「同意って、後から増えるのか」
迅。
真琴が答える。
「同意内容が増えたのではなく、確認できた事情が増えたのです」
「同じに聞こえる」
「法律では違います」
巴が黒板へ書いた。
《暮らしでは、どちらも増える》
真琴は反論しかけ、紙の列を見た。
店だけを見ていた人が家を書く。家だけを守ろうとした人が夜道を書く。夜警を要らないと言った女が、隣の店の夜番を週一回代わると書く。答えは人の中から一度で出てくるのではない。他人の答えを見て、自分の抜けを知り、それでも同じにするか違わせるかを選ぶ。
「増えますね」
真琴は認めた。
「記録の版も」
《だから日付》
巴は各紙へ時刻を入れた。
十二時一分。
残り時間は減った。
分からないことは、ようやく数えられる形へ増えていた。
十三時四十八分まで、あと一時間四十七分。
巴は黒板の句点を、まだ空欄のままにした。