第81話 第三章「通訳者の値段」前編
九月十五日 午前八時二十二分
善意を無料にすると、最初に値下がりするのは善意ではない。
働いた人間だ。
「一万九千六百円?」
乾物屋の主人が、共同掲示板の前で声を裏返した。
市場の朝は、値札を替える音から始まる。
木札を外す。
白墨を濡れ布で消す。
昨日より二円上げる。
隣の店が一円下げたのを見て、また消す。
その中で、一文字巴の見積書だけが最初から細かかった。
《九月十四日》
《現地聞き取り 四時間三十分》
《事前資料読解 一時間》
《確認補助 柏木秋枝ほか二十八件》
《筆談紙・複写紙・チョーク実費》
《交通費》
《合計 一万九千六百円》
七瀬は見積書を、カメラを回さずに読んだ。
「二十九件で割れば、一人六百七十六円くらいです」
「うちは一言しか訊いてない」
乾物屋。
「長く話した人と同じ額か」
「まだ分担は決めていません」
「じゃあ、通訳さんへ言ってくれ。安くしろって」
巴はすぐ横にいる。
主人は七瀬へ向かって話し続けた。
「本人へ」
七瀬が言う。
「聞こえないんだろ」
「見えています」
主人は巴を見た。
口を動かす。
「高い」
巴は頷き、黒板へ書いた。
《何と比べて?》
「紙を読むだけだ」
《紙以外を読んだ時間が四時間三十分》
「俺たちの話だろ」
《そう》
「話すのにも金を取るのか」
《私が聞く仕事に》
「困っている人間から?」
巴の手が止まる。
怒る時、彼女の動きは大きくならない。
白手袋の指が、見落としそうなほど小さく動く。
《困っていない人からだけ取ると、困っている人ではなく支払う人の言葉を優先する》
「優先しなきゃいい」
《誰が確認?》
「自分で」
《私を信じる?》
「今、それを頼んでる」
《信じることと、確認できることは別》
乾物屋は腕を組んだ。
「難しい言い方で、金を取るんだな」
巴は黒板を消し、短くした。
《無料の通訳は、金を出す人の通訳になりやすい》
「今回は誰が出す」
《未確定》
「じゃあ無料じゃないか」
《未払い》
市場の何人かが笑った。
乾物屋は笑わなかった。
七瀬も、笑いかけて止めた。
昨日、巴は十三時四十八分までに柏木秋枝の処理留保を延長した。秋枝本人の三分割意思を記録し、市場管理側が「分離の可否を検討する」三日間の仮猶予を出したからだ。
母親の吸入薬は緊急診療として先に渡された。
薬代は仮計上。
住居札は黄色のまま。
店は閉められないまま。
助かった、とは言い切れない。
時間を買った。
時間には値段がある。
値段を払えない人ほど、時間を必要としている。
「無料にできませんか」
七瀬は巴へ訊いた。
乾物屋ではなく、自分の質問として。
巴は七瀬を見る。
《誰が無料にする?》
「あなたが」
書いてから、七瀬は自分の言葉の形に気づいた。
巴の時間を、自分が差し出している。
「今のは撤回します」
巴は頷く。
《撤回を記録?》
「音声なし。私の記録票に」
七瀬は鉛筆で書いた。
《八時二十五分。火群七瀬、「無料にできないか」と依頼者へ無断提案。本人指摘後、撤回》
「そこまで書く?」
乾物屋が呆れる。
「書かなかったら、私は次も善人の顔で同じことをします」
「面倒な女だな」
「よく言われます」
巴が親指の句点をなぞった。
少し嬉しい時の癖だと、七瀬はまだ知らない。ただ、怒ってはいないらしいと分かった。
乾物屋の三百円を見て、縫い直し屋の柏木秋枝が人垣の後ろから進み出た。
髪はいつもの布紐で巻き、右の小指には針刺しを嵌めている。針は長さ順。赤い頭、白い頭、黒い頭。一番短い針だけ、横を向いていた。
「金は出せないよ」
秋枝は言った。
「出さない、じゃない。出せない。そこは間違えるな」
巴は頷き、黒板へ二つ並べる。
《払わない》
《払えない》
秋枝は下の文を指した。
「でも、ただで聞けって言うのも嫌だ。白い手袋、見せな」
巴は両手を胸へ戻した。
白手袋は仕事道具だ。各指へ句読点が描かれ、手話の切れ目と質問の種類を示す。勝手に触らせない。
秋枝は手を出さず、待った。
「触らないよ。見るだけ」
巴は右手を机へ置いた。
人差し指の付け根だけ、糸が少し痩せている。黒板を畳むたびに擦れる場所だ。まだ穴ではない。
「一回、直す」
秋枝が言う。
《何を?》
「これから破れた服か手袋。一か所」
《材料》
「普通の糸と布なら私が出す。革、金具、特別な染めは別」
《いつまで》
「三十日。頼まれた次の日の昼まで」
《また開いたら》
「同じ場所なら一回縫い直す。濡らした、刃物で切った、違う場所が破れたなら別」
《使わなかったら》
「借りにする」
巴の眉が動いた。
《借りは残さない》
「じゃあ、受け取らない?」
《三十日で終わる。使わなくても、次の仕事を自動で負わせない》
「私だけ得する」
《使うか決めるのは私。聞き取り順は変えない》
「次に頼む時、あんたが断るのは?」
《できる》
「私も断れる?」
《できる》
秋枝は鼻で笑った。
「細かいね。手袋の穴より細かい」
巴は親指の読点を示す。
《細かくないと、穴から借りが出る》
「名言にしては、縫いにくい」
秋枝は作業着の替え釦を入れた小箱から、乳白色の一つを取り出した。四つ穴。縁に小さな欠けがある。
「支払い札。仕事が終わったら返す」
《釦を預かる理由》
「私が忘れない」
《私が失くしたら》
「同じ大きさの釦を返す」
《思い出の品?》
「ただの釦」
《ただ、を確認》
「夫の形見でも、娘の祝い着でもない。昨日仕入れた。予備は箱に百個」
《なら預かる》
巴は小さな紙へ書いた。
《衣服または仕事用手袋一か所。通常材料込み。九月十五日から三十日間。依頼翌日正午まで。同所再縫製一回。未使用時の残債なし。聞き取り順へ影響なし》
「長い」
秋枝が言う。
《短くする?》
「いや。針仕事は、裏が長い方が抜けにくい」
七瀬は、そのやり取りを撮っていなかった。
代わりに、秋枝へ訊く。
「この支払い方法を、他の人へ見せてもいいですか」
「手袋の擦れた所だけなら」
「釦は?」
「映すな。真似して、そこらじゅう釦だらけになる」
「会話は」
「金がないことは言っていい。私の顔と店は出すな」
七瀬は記録票へ四つの範囲を書き分けた。
秋枝はそれを読み、最後へ自分で付け足す。
《貧乏を、美談にしない》
「承――」
七瀬は言葉を止めた。まだ扉の事件は起きていない。それでも、巴が相手の言葉をそのまま受ける前に一呼吸置く姿を見ていると、簡単な返事が急に重くなる。
「その条件で記録します」
「面倒だね」
「はい」
「嫌いじゃないよ」
秋枝は支払い箱へ釦を落とさず、巴の前へ置いた。
硬貨より軽い音がした。
「その釦で、俺の分も払えるか」
乾物屋が訊いた。
巴はすぐ首を横へ振る。
《これはお金ではない》
「でも支払いだろ」
《秋枝さんと私の、一回だけの約束》
「俺が釦を持っていけば」
《秋枝さんが受けると決めなければ、何にもならない》
「市場で回せない?」
《回したら、誰が何を直す約束か分からなくなる》
真琴が会計票へ欄を増やした。
《現金》
《作業》
《物品》
《特定当事者間の未履行約束》
「長い欄名だな」
乾物屋が言う。
「短く《釦》とすると、次の釦が同じ意味にされます」
「釦にまで身分があるのか」
「身分ではありません。関係です」
秋枝が小箱を振った。百個の釦が鳴る。
「同じ形でも、あれは在庫。これは約束。服につけば部品」
迅が一つ取ろうとして、秋枝に手の甲を叩かれた。
「それは在庫」
「見ただけだ」
「指で見るな」
巴は釦を小袋へ入れ、秋枝の名ではなく、二人で決めた仕事の内容を外へ書いた。
軽いものほど、何の代わりかを決めなければ、後で重くなる。
支払いの話は、通訳より多くの言葉を必要とした。
市場側の共同基金は使える。
ただし、基金を管理するのは現行契約の管理台だ。管理台が全額を払えば、巴は管理側の依頼を優先したと見られる。
八旗協議の調査費も申請できる。
ただし、成果報告の所有権が八旗側へ寄る。
空白の旗が払う案も出た。
迅が財布を開き、七百二十円しか入っていないことが判明した。
「旗芯の保管料、三日分が先」
タマキが言う。
「あとで」
「昨日も」
「払う」
「いつ」
「今日」
「何時」
「飯の後」
「朝飯、終わってる」
迅は三円を渡した。
残り七百十七円。
「全額出せない」
七瀬。
「見れば分かる」
「見える貧乏は説明が早い」
「撮るな」
「撮ってません」
轟は工場から受け取った修理監査の報酬を出そうとした。真琴が止めた。
「治療費へ残してください」
「肩はもう縫った」
「リハビリが残っています」
「腕は一本ある」
「二本ある前提で生まれています」
「迅は一本半」
「比較対象を下げないでください」
凱が白い長衣の内袋から金を出す。
「俺が――」
「元王の個人資金は最悪です」
真琴が即座に切った。
「なぜだ」
「市場住民があなたへ政治的な借りを負います」
「返済を求めない」
「求めなくても、相手が感じます」
「なら、おまえの案は」
真琴は共同掲示板へ四つの列を書いた。
《市場共同基金》
《八旗調査費》
《空白の旗》
《当事者負担》
「複数から、同額ではなく上限を決めて出す。どの支払者も、通訳内容へ指示できない。依頼範囲、作業時間、確認件数を公開。追加作業は別承認」
巴が読み、二か所へ線を引く。
《同額ではなく》
《当事者負担》
手話で質問する。
真琴は分からず、巴が書く。
《払えない人の発言時間が短くならない条件》
「件数単価ではなく、全体作業として契約します」
《長く話す人が、他人の時間を奪わない条件》
「一人あたりの標準時間を設け、延長は理由を記録」
《言葉が遅い人は?》
「速度を理由に切らない」
《どう測る?》
真琴は白手袋の指を見る。
答えがない。
七瀬は、以前の工場で見た作業帳を思い出した。
誰が何時間働いたかだけでなく、休んだ時間も書いた帳面。
人の善意を無限に使わないための記録だった。
「話した時間ではなく、確認した回数を出しませんか」
七瀬が言った。
「一つの内容を、本人が自分の言葉で言い直す。巴さんが戻して確認する。そこまでを一回。時間は別に公開するけど、長い人を高くしない」
巴が手を動かす。
今度は真琴が一部を読めた。
「確認回数だけだと、簡単な人を多く回した方が実績が良く見える、と?」
巴が頷く。
「では、未確認も残す」
真琴は新しい列を足す。
《確認済み》
《保留》
《質問あり》
《通訳方法未確保》
巴がさらに書く。
《拒否》
「拒否は作業件数ですか」
《断れる場を作った仕事》
「成果として数えるのは違和感があります」
《成果ではなく、発生》
真琴は少し考え、見出しを変えた。
《作業結果》ではなく、《作業状態》。
その下に五つを並べる。
七瀬はカメラを回したくなった。
紙の上で、専門家二人の考えが近づく瞬間だ。
だが、撮影許可を訊けば、二人はカメラへ説明する言葉に変えるだろう。
七瀬は回さない。
代わりに、自分の手帳へ時刻だけを書く。
八時五十一分。
何かが決まった時より、言い直された時刻を残す。
「分担は」
乾物屋がまだ待っている。
真琴が案を読む。
市場共同基金から四割。
八旗調査費へ三割申請。
空白の旗が二割。ただし現金でなく、記録、机設営、複写、人員整理の作業を金額換算し、巴が承認。
当事者負担一割。払えない者はゼロ。払った額による優先なし。
「俺は一言だった」
「払う額を自分で選べます。ゼロでも聞き取りは同じです」
「なら皆ゼロにする」
「そうなれば共同基金が不足し、作業時間を減らします」
「脅しか」
巴が書く。
《予算》
「丁寧な脅しだ」
《生活は、だいたい丁寧な脅しで動く》
迅が横から言った。
「家賃とか」
巴が頷く。
乾物屋は財布から百円玉を三枚出した。
「これは、俺の一言の値段じゃない」
巴は黒板へ質問を書く。
《何の値段?》
「次に俺が分からないって言う時、馬鹿にされない場所代だ」
巴はその文を、領収書の摘要欄へそのまま書いた。
九時十二分。
支払い案を決める会議は、乾物屋の軒先で始まり、魚屋の氷が溶ける前に三度場所を移した。
最初は共同掲示板の前。通行人が立ち止まりすぎた。
次は診療所の待合。患者の咳より会計の声が大きくなった。
最後は空き店舗。椅子が七脚しかないので、誰が座るかでもめた。
「払う側が座る」
市場基金の会計係が言った。
「話す側が座る」
秋枝が返した。
巴は折り畳み黒板へ書く。
《立てない人が座る》
それで六脚が埋まった。残る一脚を誰も取らず、迅が背もたれへ腕を掛けたので、タマキが外した。
「壊す」
「掛けただけだ」
「右腕を守って左へ体重を逃がす。古い背もたれは横荷重に弱い」
「おまえ、椅子にも帰路を作るのか」
「壊れた後の運び先も考える」
会計係は、作業換算二割の欄を指で叩いた。
「人手を金として扱うなら、単価を決める必要がある。机運び一時間と通訳一時間を同じにするのか」
轟が言った。
「同じにする必要はねえ」
「では、あなたの作業は」
「肩を上げられん。半人前でいい」
真琴が即座に首を振る。
「身体制限を理由に単価を下げると、負傷者へ負担が集中します」
「できる仕事が減ってる」
「成果ではなく、拘束時間と責任で見ます」
「俺は紙を落とすかもしれんぞ」
「落とした場合の修復責任も含みます」
「高くなるのか」
「場合によっては」
轟は真剣に考えた。
「じゃあ、落とさねえ」
「最初からそうしてください」
七瀬は笑いながら、左肩を庇って椅子の背へカメラ三脚を固定する。録画はしていない。会計資料を拡大して読むためだ。
「記録作業を金額換算すると、撮る量が多いほど働いたことになります」
七瀬は言った。
「それは困る。撮らない判断に時間がかかることもあるから」
「撮らなかった証明はできますか」
会計係。
「できません。撮らなかった映像は存在しないので」
「なら換算できない」
「判断記録は残せます。撮影依頼、本人の許可、範囲、停止時刻。映像の長さではなく、確認件数で」
巴が先ほど作った《作業状態》の表を差し出す。
確認済み。
保留。
質問あり。
方法未確保。
拒否。
「拒否にも金を払うのか」
会計係の眉が上がる。
「拒否させたわけではありません」
七瀬。
「拒否できるよう確認した時間へ払う」
「何も得ていない」
「勝手に得なかった」
巴が黒板へ補う。
《取らなかった仕事》
会計係は納得しない顔で、しかし表を消さなかった。
次にもめたのは、八旗調査費だった。
申請書には《市場契約問題に関する統一見解の作成》と印字されている。
真琴が《統一見解》へ二本線を引き、《確認可能な相違点の一覧》と書き換えた。
「これでは調査成果が弱いと判断されるかもしれません」
会計係が言う。
「弱くても事実です」
「八旗は結論へ金を出す」
凱が腕を組んだ。
「結論を先に買うなら、調査じゃない」
「元王が言うと皮肉だな」
「王だった時は、結論を出すのが仕事だと思っていた」
「今は」
「結論の後に誰が片づけるかまで仕事だと思ってる」
「遅い」
「遅いな」
凱は怒らず認めた。
会計係の方が困った顔をする。反省を武器にされると、責める側は振り上げた手を置く場所がなくなる。
巴は申請書へ条件を足した。
《八旗が支払った割合にかかわらず、未確認を削除しない》
《調査結果の所有者は各発言者。集計表は共同利用》
《原記録の提出は本人が選ぶ》
「契約書みたいだ」
迅が言う。
《料金を守る契約》
「言葉を分かりやすくする人が、言葉を増やしてる」
《短い契約が、簡単とは限らない》
タマキが申請書の余白を測った。
「あと三行」
《足りない》
「裏」
「両面記入不可です」
真琴。
「別紙」
「別紙を綴じる紐がない」
乾物屋が値札用の細紐を投げた。
「一本五円」
「共同作業です」
「だから四円」
真琴が四円を払った。迅が横から見る。
「俺の三円より高い」
「あなたの三円は何の支払いです」
「参加」
「参加費ではありません」
「じゃあ返せ」
タマキが首を振る。
「帳簿へ《使途未定三円》で入れた」
「返せないのか」
「返すなら、返却理由と受領時刻」
「面倒だな」
巴が黒板へ書く。
《面倒を、誰か一人へ押しつけないための会計》
九時五十八分。
四つの負担枠と五つの作業状態が、ようやく一枚へ収まった。
会計係はまだ不満そうだった。秋枝も完全には安心していない。巴も、これで正しいとは書かなかった。
全員が少しずつ不満を持つ案は、公平とは限らない。
ただ、誰の不満が見えなくなっているかを探すには使える。
午前十時十一分。
市場の中央通路へ、白い線が一本引かれた。
誰も引くところを見ていなかった。
魚屋の氷台から、管理台の前まで。
線は細い。
チョークの粉が、朝の湿気を吸って床へ貼りついている。
「踏まないでください」
黒い腕章の執行員が言う。
通路の人々が左右へ分かれる。
線の先から、榊槙司が歩いてきた。
墨色の髪を襟足で結び、四角い眼鏡を掛けている。黒い長衣の内側には、白、青、黄のチョークが長さ順に並ぶ。左の唇に古い傷。細い身体だが、歩幅が一定だった。
彼は巴の正面で止まった。
巴の肩を叩かない。
視線が合うまで待つ。
それから手話を使った。
学塔区の標準手話。
速く、正確で、方言がない。
《読解官。一文字巴》
巴の手が小さく返す。
《その職務名は、今の依頼では使わない》
《黒板会所属は変わらない》
《依頼者が違う》
槙司は頷いた。
「ここでいう依頼者は、報酬を負担し、作業範囲を定める主体を指す」
声は細いテノール。
一語ごとに、見えない読点を置く。
巴は黒板へ書いた。
《三十七人。共同依頼。支払者は複数》
「定義が不安定だ」
《だから聞いている》
「聞き取りが増えるほど、版が増える」
《生活が増えた》
「生活は、契約の外部だ」
迅が割り込む。
「家賃は生活じゃないのか」
槙司は迅を見る。
「ここでいう外部は、契約が直接記述しない個別事情を指す。家賃支払い義務は契約内部。何のために住むかは外部」
「住むためだ」
「循環定義だ」
「家で寝るため」
「宿でも寝られる」
「宿代を払えるならな」
「それは経済条件だ」
「生活だ」
二人の会話は、同じ扉を別の側から押している。
凱が間へ入った。
「榊槙司。黒板会の主幹だな」
「そう定められている」
「自分で名乗らないのか」
「名乗る。榊槙司。二十歳。黒板会主幹。南環市場複合契約の運用責任者」
「責任者なら、なぜ本人が分からない契約を動かす」
「署名があるからだ」
「署名は理解の代わりか」
「代わりではない。理解確認の証拠だ」
「後で分からなかったと言ったら」
「当時の説明記録を照合する」
「説明記録が署名だけなら」
「適法だ」
「正しいとは訊いていない」
槙司の左手が空中へ括弧を描く。
「正しい、を定義してくれ」
「約束した本人が、守る内容とやめる方法を言えることだ」
「口頭説明が苦手な者は」
「手でも、絵でも、他の方法でもいい」
「言えない者を契約から排除するのか」
凱は止まった。
巴が二人の間へ黒板を入れる。
《どちらも、本人の前で本人を定義しない》
槙司は黒板を読む。
眼鏡の左端を押した。
「一文字巴へ正式な依頼を持ってきた」
執行員が黒い筒から契約書を出す。
槙司はそれを、巴の手へ渡さず、机へ置いた。
接触を勝手に決めない。
その礼儀が、かえって彼の危険を見えにくくする。
契約書は八頁。
《黒板会契約通訳委任》
報酬は市場共同基金から全額。
巴の時間単価は現在の見積もりより高い。
補助者二名。
資料アクセス無制限。
黒板会の保管庫も閲覧できる。
「好条件ですね」
七瀬が言った。