第82話 第三章「通訳者の値段」後編
巴は最後の頁まで読んだ。
六頁の中央へ、白手袋の指を置く。
《受任通訳者が作成した訳文は、本件における最終解釈とし、当事者はこれを争わない》
「意味の統一が必要だ」
槙司が言う。
「複数の訳を残せば、執行できない」
巴は紙を戻した。
《受けない》
「報酬か」
《最終》
「責任を与える」
《権力を与える》
「同じ場合がある」
《違う場合を契約に書いて》
「最終解釈者がいなければ、争いが続く」
《続く争いを終わらせるため、私の言葉を争えなくする?》
「専門家へ委ねるのは合理的だ」
《専門家が間違えたら》
「訂正手続きがある」
《誰が開始》
「黒板会」
《誰が審査》
「黒板会」
《誰が最終》
槙司は答えなかった。
答えは紙にある。
黒板会だ。
巴は契約書の余白へ、自分のペンで書いた。
《通訳は最終解釈にならない》
《当事者は自分の言葉を訂正できる》
《分からない、保留、拒否を有効な返答とする》
《支払者は訳へ指示できない》
槙司が読む。
「それでは契約にならない」
巴は声を使った。
「ならなくて、いい」
音量が一語目より二語目で上がった。
彼女は気づかない。
七瀬は指摘しない。
声の揺れは、誤訳ではない。
「今は、聞く仕事です」
巴は続ける。
「決める仕事では、ない」
槙司の口元がわずかに歪む。
怒りではない。
言葉が定義の箱へ収まらなかった時の顔だった。
「市場の処理留保は、明日正午まで延長する」
「条件は」
真琴。
「一文字巴の聞き取り記録を、黒板会へ毎日提出。改変履歴を付す。未確認事項を確定事項として公表しない」
七瀬が訊く。
「映像は?」
「当事者の許可がある範囲だけ。黒板会は原本を要求しない」
「理由」
「契約通訳を最終解釈へしないなら、記録者も最終記録者へしない」
七瀬は少し驚いた。
槙司は敵なのだと、周囲の空気が教えている。
しかし、敵がいつも間違ったことだけを言うなら、戦いは早く終わる。
正しい一言を持つ敵は、その一言を捨てずに越えなければならない。
「同意します」
七瀬は答えた。
「ただし、提出できない記録があることも一覧にします」
「拒否記録か」
「拒否した人の名前は出しません」
「人数だけでよい」
槙司は受け入れた。
凱が彼を見る。
「約束は、守るためにある」
槙司。
「同意する」
凱。
「なら、なぜ撤回を広げる」
「守れない約束を、守ったことにしないためだ」
「撤回可能なら、相手は約束を信じられない」
「撤回不能なら、相手は署名する自分を信じられない」
「王の誓いも撤回するのか」
「王はやめた」
「それが答えか」
「責任は残った。権限は返した。二つを分けた」
槙司の左手が、また空中へ括弧を描く。
「分ければ、軽くなると思うか」
「軽くするために分けるんじゃない。誰が何を持っているか見るためだ」
凱の声は低い。
命令する時より、説明する時の方が遅い。
「重いままでも、持ち主が分かれば返せる」
槙司は返事をしなかった。
黒い長衣を翻し、白線の上を戻る。
線の外へ一歩も出ない。
彼が去った後、乾物屋が巴の契約書を覗いた。
「高い報酬だったな」
巴は頷く。
「惜しくない?」
《惜しい》
「正直だな」
《胡麻団子、百九十六個分》
「数えたのか」
《今》
「断った後で?」
《断る前に数えると、負ける》
今度は乾物屋も笑った。
槙司が去ったあと、巴は高い報酬の契約書を断った手で、魚屋の少年の話を聞いた。
少年は十三歳で、学校では標準手話を習い、市場では祖母の地域手話を使う。声も出せるが、緊張すると最初の音が喉に残る。
「ぼ、ぼくの――」
乾物屋が先回りした。
「祖母ちゃんの家を残したいんだろ」
少年は首を振った。
「店か」
また首を振る。
巴は周囲へ、口の前で括弧を閉じる合図をした。待つ、の意味だ。
少年は三度息を吸い、手話へ切り替えた。
《祖母は、家を残したい。僕は、祖母が死んだ後に、家を返せるようにしたい》
巴は祖母へ同じ内容を戻す。
祖母は屋根の手話を作り、その下から少年の指人形だけを外へ出した。
《この子を家に縛らない》
真琴が紙へ制度語を書き始める。
《居住権の期限設定および相続義務の――》
巴は止めず、少年と祖母へ見せた。
二人とも読める。
しかし、祖母は《相続》の字で止まった。少年が指文字で説明しようとし、途中で首を振る。
巴は絵を描いた。
屋根。
祖母。
少年。
鍵。
祖母から少年へ鍵が渡る矢印。
矢印の途中に、開いた手。
少年はその手へ×を付け、別の絵を足した。管理台へ鍵を返す箱だ。
祖母は頷いた。
「一文にすると」
真琴が言う。
「祖母の死亡後、孫へ自動承継せず、市場へ返還する選択権を――」
少年が手を上げる。
《死亡後、ではなく、祖母が住めなくなった時》
「施設入所や長期入院も含む?」
巴が戻す。
祖母は頷き、さらに《自分で返せる時は自分で決める》と加えた。
一つの希望が、三人で確認すると四つの条件になった。
乾物屋は黙って見ていた。
「今のに、いくらかかった」
巴は時計を見る。
《十七分》
「紙を読むだけじゃなかったな」
《そう》
「さっきの一万九千六百円、安いとは言わないぞ」
《言わなくていい》
「でも、高い理由は一個分かった」
巴は領収書を出さなかった。理解へ請求書は付かない。
代わりに、少年と祖母の絵を二枚複写し、一枚ずつ渡した。原本をどちらが持つかは二人に決めさせる。
通訳者が持ち帰らなかったものも、仕事の一部だった。
共同掲示板の下には、支払い箱が四つ並んだ。
基金。
調査費。
作業換算。
当事者任意。
当事者任意の箱へ、百円玉が三枚。
五十円玉が一枚。
釦が一つ。
釦には紙が結ばれている。
《現金なし。服の修理一回》
真琴が外そうとする。
「通貨ではありません」
巴が止めた。
《価値を決めるのは、後》
「会計が合いません」
《合わないと書く》
七瀬は、箱を撮影した。
金額だけでなく、空いている場所も入るように。
好条件の契約書は、巴の手元に残っていない。
代わりに、百円玉三枚と、五十円玉一枚と、釦ひとつ。
通訳者の値段は、まだ合計されていなかった。