第576話 第十章「最終決裁の反証」後編
自分の行きたい方角ではなく、署名した位置へ。
地下では、凱が第二封印の外側に立っていた。
原本搬送路は、幅が一・八メートルまで狭くなる。
右壁に紙原本用の乾燥管。
左壁に磁気媒体用の冷却管。
中央を、銀具の認証波形を打刻した鉄箱が二台の低い台車で運ばれていた。
襲撃者は五人。
先頭の二人は、中央警備の旧制服。
後ろの三人は、顔も装備もばらばらだった。
共通しているのは、箱ではなく台車の車軸を狙っていることだ。
「原本を奪わないのか」
凱が問う。
旧制服の男が、折れた封印棒を投げ捨てる。
「原本は重い」
「正直だな」
「落とせば、保管鎖が切れる。誰が触れたか分からなくなる」
「それで、全部疑わせる」
「疑っているのは、おまえたちだろう」
男が短槍を構える。
「決裁が一つなら、原本は一つで足りる。訂正、限定、拒否、そんなものを増やすから、誰も何も信じなくなる」
「信じることと、確かめることを同じにするな」
「王だった男が言うか」
「王だったから言う」
短槍が来る。
凱は左へ避けない。
左側には冷却管がある。
右足を半歩引き、身体を縦にする。
穂先が外套の前を擦る。
右手で槍柄を取る。
引かない。
引けば相手が前へ出て、台車へぶつかる。
押さない。
押せば後ろの三人へ力が伝わり、まとめて箱を倒す。
柄を、上へ持ち上げる。
天井の低い梁へ当てる。
相手は槍を引けない。
凱も下ろせない。
二人の腕が、狭い通路の中央で止まる。
「これで、戦いなのか」
男が歯を食いしばる。
「書類運搬だ」
「おまえの腕で?」
「今日は、腕も備品に含まれる」
後ろの一人が、槍柄の下を潜る。
凱は左膝を深く曲げられない。
蹴りを出せば、装具が台車の取っ手へ当たる。
「三番、前へ」
凱が言う。
台車の向こうにいた運搬係三番が、すぐに返す。
「前進は箱を近づけます」
「人だけ前へ。台車は止める」
「了解。期限、十秒」
「短いな」
「ここでは長いです」
運搬係が台車の車輪止めを踏み、箱の横を滑って前へ出た。
手には武器ではなく、荷締め帯。
潜った襲撃者の足首へ巻く。
引き倒さず、壁の足掛け金へ固定する。
襲撃者が前へ出ようとするたび、足が後ろへ残る。
「これは拘束だ!」
「車両固定具です」
「人に使うな!」
「十秒だけです。嫌なら止まってください」
十秒後、運搬係は本当に帯を外した。
襲撃者は驚いて一歩遅れる。
凱はその一歩の間に、短槍を梁から外し、穂先を床へ向ける。
柄を相手へ返す。
「返すのか」
「持っていけ」
「舐めるな!」
「置くなら、置け」
男は槍を握ったまま迷う。
王だった頃、凱は相手の迷いを弱さとして踏み潰した。
いまは、迷った時間を通路の安全へ使う。
後方の二人が、別の手段へ出た。
黒い粉袋を冷却管へ投げる。
粉が吸気口へ入れば、磁気媒体の温度管理が止まる。
原本はすぐには壊れない。
だが、保存環境が不明になり、証拠能力へ注記がつく。
「左、粉!」
運搬係が叫ぶ。
凱は届かない。
左膝を曲げれば、二メートルは詰められる。
その後、戻れない。
彼は走らない。
「箱二、蓋を開けろ!」
「原本が露出します!」
「外蓋だけ!」
第二台車の担当が、鉄箱の外装板を上へ跳ね上げた。
粉袋が板へ当たる。
黒い粉が、原本箱の外側へ広がる。
外装板は汚れる。
保管鎖は切れない。
「証拠を盾にした!」
襲撃者が叫ぶ。
「外箱だ」
「同じだ!」
「同じなら、中箱を作った技師が泣く」
凱は短槍の柄を下へ押した。
相手の両手が床近くまで下がる。
凱は右前腕を相手の肩へ入れ、壁へ向けて身体を回す。
膝で押さえない。
左脚は伸ばしたまま。
右腰と壁で相手を挟む。
「動くな」
「命令か」
「警備担当の要請」
「断る」
「断ったことを聞いた。次は、動けば槍が自分へ当たる」
「脅迫だ」
「物理の説明」
男は動かない。
後ろの三人のうち、一人が仲間を置いて退こうとした。
凱は追わない。
「退出路は後方右」
「逃がすのか!」
「出るなら、武器を床へ置け」
相手は工具を投げる。
床へ落ちる直前、運搬係が厚布で受けた。
衝撃音を、時刻管の破損音と混同させないためだ。
一人は退出した。
残る四人のうち、二人がそれを見て力を抜く。
旧制服の男だけが、槍を握り続ける。
「仲間を逃がした」
「本人が出た」
「責任から逃げた」
「逃げたかどうかは、あとで聞く」
「その《あとで》を守るために、いま何人止める」
「四人」
「都市なら」
「今日は通路だ」
凱は、男の肩から力が抜けるまで待った。
急がない。
地下では、上の最終決裁が広がっている。
急ぎたい。
だから、急がない時間を誰が選んだか、残す必要がある。
午前十時十四分二秒。
第二封印の補助錠が閉じられた。
外装板の黒粉は、そのまま封じる。
拭けば、誰が何を投げたか消える。
原本箱二台は、運搬を再開した。
凱は先頭へ立たない。
最後尾へ回る。
左膝の内側が熱い。
運搬係三番が聞く。
「歩けますか」
「歩ける」
「搬送補助を使いますか」
「いらない」
「本当に?」
凱は答える前に、一歩進んだ。
膝が揺れる。
「使う」
運搬係が台車の後ろへ低い手すりを出す。
凱はそこへ左手を置く。
原本を守る台車に、守った人間が支えられる。
「王様を運ぶ車ではありません」
「知っている」
「念のため」
「二度言うと、名言になるぞ」
「なら一度にします」
台車は、ゆっくり法廷へ向かった。
旧制服の男たちは、別経路から警備監査台へ移される。
目的、所属、共謀関係は未確定。
凱は、彼らを《冬城派》とも《反中央派》とも記録させなかった。
武器を持って原本路へ侵入し、封印を二つ破り、保管鎖を切ろうとした者。
その時点で確定しているのは、それだけだった。
午前十時二十一分。
法廷の側扉が開き、黒粉の付いた原本箱が入った。
傍聴席から、安堵の声が起きる。
冬城の《最終決裁》は、その安堵まで上側の結論へ吸い上げようとする。
《中央方針は適法》
白い文字が一段強くなる。
「安堵は、中央支持ではない」
真琴が即座に言う。
第四板へ書く。
《原本到着時の安堵。政策賛否へ換算禁止》
凱は手すりから左手を離し、法廷へ入る。
「原本、到着。第二封印破損。外装板汚染。中箱未開封。保管鎖継続」
報告を終え、冬城を見る。
「あなたが守ったのですか」
冬城が問う。
「運搬係と警備員と、退出した襲撃者が、結果として一本の工具を使わなかった」
「答えになっていない」
「一人の手柄へする質問には答えない」
「王でなくなっても、演説は長い」
「座っている人に言われたくない」
医療担当が凱を睨む。
「患者へ負荷をかける発言をやめてください」
「失礼」
「謝罪の対象は私ではありません」
凱は冬城へ向き直る。
「負荷をかける意図はなかった。発言を撤回する」
「弱くなりましたね」
「膝は前からだ」
「そこではない」
「知っている」
冬城の銀具が、もう一度強く光る。
正面壁の上側表示が、第四板の端まで迫る。
真琴は、原本箱の到着を待っていた。
「証拠番号十八、五十二、七十一、八十九。原本を第三板の前へ」
「能力発動中です」
冬城側補佐官が言う。
「だからです」
「要旨は確定へ向かっている」
「要旨と原本が一致するか、いま確認します」
「最終決裁を妨害する行為です」
「審理中に発動された能力が、審理記録を変更しています。妨害ではなく、反対尋問です」
真琴は右手で一枚目の原本受領票へ署名した。
巴が正式文を左手で持つ。
平文は別の書記が持つ。
綺理は取得時刻札を持つ。
レムは解析原版と訂正版を左右の膝へ分ける。
朝は三稿を机へ固定する。
七瀬は撮影機へ戻らない。
「全画角、代行継続。私は照合だけ」
薄墨が紙板を上げる。
《自分の目で見る?》
「見る。撮るのは渡す」
《遅い》
「あなたに言われたくない」
《十五年》
「数えるな」
真琴が、第一の問いを置いた。
「冬城征士郎。正面表示の上側には、《確認された被害は局地運用者の逸脱》とあります」
「はい」
「証拠十八。銀具反証分配の承認印は、あなたのもの」
「承認しました」
「証拠五十二。反証受領者四十八名の登録枠を中央決裁室が開いた時刻は、午後八時四十分十三秒」
「技術局の運用です」
「証拠七十一。あなたの銀具が分配認証波を出した時刻は、午後八時四十分十八秒」
「決裁機能維持のためです」
「証拠八十九。局地運用者へ送られた平文には、《中央認証済み。受領者選定は現地裁量》とある」
「選定は現地です」
「分配枠の開設、認証波、運用許可は中央」
「はい」
「個人の選定は現地」
「はい」
「なら、中央承認と局地選定は両立します」
「だから、中央方針は適法です」
「まだ法的評価を聞いていません。事実の形を確認しています」
真琴は、正面の二行を指す。
「上側は、《被害は局地運用者の逸脱》とだけ表示している。中央承認の事実が抜けています」
「中央承認は維持のため」
「目的の評価と、行為の存在は別です」
冬城の銀具が鳴る。
上側の文へ、小さく一行が加わる。
《中央は技術的運用を承認したが、個別被害は局地選定に起因》
「変わった」
七瀬が言う。
「決裁後に要旨を修正した時刻、記録」
代行記録係が読み上げる。
「午前十時二十四分十一秒」
「最終なのに、修正できるんだ」
迅が言った。
冬城が彼を見る。
「状況を正確にする修正です」
「じゃあ、最初は正確じゃなかった」
「完全な要約はない」
「異議欄と同じこと言ってる」
傍聴席に、低いざわめき。
最終決裁は、一つへ固定する。
固定した後も、固定した人間自身が修正を必要とした。
真琴は、そこへ勝利の言葉を置かない。
「次へ進みます」
証拠五十二の登録枠には、四十八の番号がある。
名前は限定閲覧。
綺理が、公開画面へ番号だけを出す。
「このうち、十五名は未成年でした」
真琴が言う。
「成人決裁の維持へ、未成年登録者が反証を受領した」
「年齢基準は技術局が設定した」
「監督責任者は」
「私です」
「事前に年齢分布を見ましたか」
「集計で見ました」
「十五という数を」
「見ました」
「個別名を」
「見ていません」
「見ない設計を承認した?」
「匿名化は保護です」
「保護と、決裁者が被害者を知らないことは両立します」
「個人名を知れば、恣意が入る」
「知らなければ、責任が薄くなる」
「どちらを選べと」
「二択ではありません。匿名のまま独立監査へ出す、年齢下限を置く、受領拒否を認める、停止条件を設ける。提出された代替案は四つあります」
朝が、自分の第二稿を上げた。
「私は、年齢下限と停止条件を原案へ入れました」
冬城が朝を見る。
「同時に、自動更新を提案した」
「はい」
「あなたの案も、被害を生んだ」
「はい」
「なら、中央だけの責任ではない」
「はい」
朝は、否定しない。
「でも、私の責任があることは、あなたの監督責任を消しません」
「責任を足し続ければ、誰も決めなくなる」
「責任は、人数で薄まるものではありません」
「全員が悪いと?」
「全員という言葉を使っていません」
巴が、正式文と平文の対応線を示す。
正式文には《中央承認》。
平文には《使ってよい》。
局地命令には《受領者は現場で選ぶ》。
登録者の同意欄には《治療・訓練への協力》。
「同じ命令鎖の中で、違う人へ違う言葉が使われています」
巴が言う。
「誰も全体を読んでいません。読めなかったことを、全員の同意とも、全員の無責任とも呼べません」
冬城側補佐官が立つ。
「一文字巴。あなたの能力を用いれば、理解の有無を確認できるのでは」
「今日は使いません」
「なぜ」
「能力で理解できた人だけを、正しい証人にしたくないからです」
「では、誤解が残る」
「残ります」
「法廷で?」
「だから言い直します。分からないを残します。訂正を残します」
「非効率だ」
「人間は、効率よく誤解します」
迅が小声で言う。
「それ、名言?」
「いまは黙ってください」
「はい」
正面壁の上側表示に、また文字が加わる。
《中央承認あり。局地選定あり。責任は分担》
下側は灰色のまま。
第四板には、別の文が手書きされる。
《分担は相殺ではない》
冬城の銀具の光が、そこで一度揺れた。
八城レムが、膝の上の二枚を持ち上げる。
「次、同期命令の試験解析」
彼女は立たない。
右膝装具へ荷重を掛けず、机上の滑車へ板を載せる。
「原解析では、同一歩調への移行率を九一%と評価しました」
「訂正版は」
「自発選択と、列車・配給の不利益告知後の選択を分離。自発確認できたのは三七%。残りは強制、不明、群衆圧、身体的追随」
「あなたの誤りですか」
冬城が問う。
「はい」
「中央の指示で改竄した?」
「いいえ。私は、自分のモデルを信じた」
「なら、中央承認は誤った専門家情報に基づく」
「一部は」
「中央の故意ではない」
「故意の有無は、私の解析誤りからは決まりません」
「あなたの誤りを、私の責任へ使うのか」
「私の誤りを訂正した後も、異議申立てを削る指示と、同期命令の自動更新が続いたかを見てください」
レムは、訂正版の端を指す。
訂正提出日。
その三日後の更新命令。
更新者欄は、中央決裁室。
「訂正は受領されています」
真琴が確認する。
「受領後も、同じ同期率を根拠に更新した」
「混乱を避けるため、試験を継続した」
冬城が答える。
「混乱を避ける判断をした主体は」
「私です」
「局地運用者ではない」
「はい」
正面壁の上側表示が、もう一度書き換わる。
《中央承認・中央継続判断あり。局地運用にも責任》
文字は長くなった。
最終決裁が、最終であるために、異議を取り込もうとしている。
一つの文へ入る言葉が増えるほど、何を結論としたのか分かりにくくなる。
「要旨が、平文より長い」
七瀬が言う。
巴が答える。
「要約の反証ですね」
「能力にも校正が要る」
「校正者へ決裁権を渡さないでください」
「分かってる」
冬城の呼吸が、そこで一度途切れた。
右手が銀具から離れそうになる。
彼は左手で右手首を押さえる。
医療担当が脈を見て、赤い停止札を上げた。
「強制中断。心室性不整脈。意識清明ですが続行不可」
「あと一項」
「不可」
「表示が」
「表示より心拍です」
「決裁者が止まれば」
「患者が止まります」
医療担当は、冬城の銀具へ触れない。
本人の右手へ、手を差し出す。
「能力を解除してください」
「解除すれば、未決へ戻る」
「はい」
「襲撃も起きた」
「はい」
「都市は、待たない」
「あなたの心臓も待ちません」
冬城は、正面壁を見た。
上側の文は長く、白い。
下側の文は短く、灰色。
第四板の異議は、床近くまで増えている。
彼は解除しない。
医療担当が首席審理官を見る。
「本人拒否。強制医療中断を申請」
冬城側補佐官が異議を出す。
「能力解除は、審理結果への介入です」
真琴が答える。
「続行条件は開廷前に本人が受領しています。医療中断は結果でなく手続きです」
「冬城評議官が拒否している」
「拒否も記録します。強制中断の適法性は、別途審理対象です」
首席審理官は、赤札を見た。
「医療中断を認めます。決裁表示は、発動中断時点の状態で凍結。最終要旨として採用しない」
「異議!」
「異議を第四板へ」
冬城は、そこで笑った。
小さな、疲れた笑いだった。
「結局、決めるのは審理官だ」
首席審理官は答えない。
真琴が答える。
「決めた人の名前が残る。それが、今日ここまでの違いです」
冬城の右手へ、医療担当が絶縁布を巻く。
銀具の光が弱まる。
正面壁の白い文字が震える。
《中央承認・中央継続判断あり。局地運用にも責任》
最後の《責任》だけが、二つに割れた。
一方は中央。
一方は局地。
どちらも消えない。
能力は、二つから一つを選ばせる。
しかし、原本は、二つとも起きた時刻を持っている。
冬城の瞼が閉じた。
「意識低下!」
医療担当が椅子を倒さず、背もたれを支える。
酸素。
心電図。
静脈路。
法廷は、勝ったという声を出さない。
迅が、傍聴席の方へ向いた。
「立たないで」
今度は、警備手順と言い直す前に、真琴が付け加えた。
「医療路を空けるための要請です。退出は右。残留は着席」
人々が、別々に選ぶ。
立つ者。
座る者。
退出する者。
医療路のために荷物だけ動かす者。
一つの拍手も起きない。
冬城は担架へ移される。
銀具は外さない。
外せば、医療上の影響が不明だからだ。
右手は絶縁布の中にある。
担架が空いた証人席の前を通る。
冬城は一度だけ目を開けた。
曲がった椅子を見る。
「判決は」
声が掠れる。
真琴が答える。
「今日は、出ません」
「逃げるのか」
「事実認定を続けます」
「同じだ」
「同じかどうかも、記録します」
冬城は、もう答えなかった。
午前十時三十九分。
医療搬出。
生存。
意識は断続的。
不整脈と腎機能悪化。
審理は四十五分休止。
正面壁には、能力が凍結した長い一文が残る。
第四板には、もっと長い異議と訂正が残る。
そして第三板の前には、黒い粉で汚れた外箱と、まだ開かれていない原本が置かれていた。
真琴は休廷札を上げる前に、一行だけ確認した。
「《最終決裁》の発動回数、一回」
記録係が復唱する。
「一回」
「表示変更、三回」
「三回」
「医療中断。最終要旨として不採用」
「不採用」
真琴は右手で署名した。
決裁を倒した署名ではない。
決裁を、まだ結論にしないと決めた人間の署名だった。