第239話 第十章「公開目録」前編
三月二十二日 午後六時三十四分
数字は、壁に書くと逃げにくくなる。
火群七瀬は、廃料金所の北壁へ白紙を貼った。
紙は十二枚。
一枚目、出発時申告。
二枚目、車両重量からの推定。
三枚目、現物監査。
四枚目、橋上損失。
五枚目、食中毒防止の廃棄。
六枚目、車列内で使用した食料。
七枚目、地元在庫。
八枚目、運送料。
九枚目、車両損傷。
十枚目、襲撃行為。
十一枚目、受取地域の選択。
十二枚目、未確認。
未確認を最後へ置いたのは、残り物だからではない。
最後まで残るからだ。
「高さ」
轟が訊いた。
「一枚目、上端二・一メートル」
「高い」
「全車から見える」
「書き換える人が踏み台を使う」
「踏み台は固定」
「左肩は」
「上げない。あなたが貼る」
「俺の左肩も上がらない」
「右で」
「全員、俺へ右を要求する」
「使える方を頼んでる」
轟は右腕で紙を押さえ、腰の高さから長い刷毛を使った。
七瀬は三脚を低くする。
画面へ壁全体を入れる。
人の顔ではなく、数字が書き換わる過程。
誰が訂正線を引いたかは、手と名札で残す。
午後六時四十一分。
目録箱を開ける六人が、料金台へ並んだ。
鷹取由良。
土門小麦。
伏見轟。
飯尾夏。
蓑原梢。
塩戸景。
蓑原が鍵を差す。
塩戸は箱の取っ手へ触れない。
鍵が回る。
一度、途中で止まった。
「曲がってる」
蓑原。
「奪った時?」
七瀬。
「ボルトを切った時の衝撃」
塩戸。
「誰が修理する」
小麦。
「俺」
轟。
「賃金」
「あとで」
「あとでは、無料になる」
「記録しろ」
「記録した」
轟が箱の右下を五ミリ持ち上げる。
蓑原が鍵を回す。
開いた。
中には紙束が十一。
封筒四。
印章袋二。
車両別変更票。
寄贈団体の契約書。
空白の受取欄。
塩戸が盗んでから書き加えた紙は、一枚だけだった。
《塩轍運送組合 目録箱保管記録》
奪取時刻。
保管車両。
開封なし。
移動距離。
砂塵時の点検穴保管。
返還時刻、空欄。
「開けてない証明は」
蓑原。
「封印糸」
塩戸は箱の内側を指した。
蓋と紙束を結ぶ細い紫糸。
切れていない。
「最初から知ってた?」
「箱を盗る前に見た」
「よく見えたね」
小麦。
「荷役は、封印を壊さず運ぶ」
「盗む時だけ職人」
「盗んだ後も」
「褒めてない」
「知ってる」
由良が最初の紙を出す。
小麦が受ける。
轟が車両番号を照らす。
飯尾が外部監査の写しと比べる。
蓑原が寄贈側の原簿を読む。
塩戸が地元へ流れた荷の有無を確認する。
一枚ずつ。
七瀬は、その遅さを撮った。
午後七時二分。
最初の確定値。
《出発時申告 四十二・六トン》
七瀬が壁へ書く。
大きく。
黒で。
その下。
《車両重量推定 三十六・二トン 誤差±〇・二》
青。
次に、現物監査。
麦粉。
豆。
油。
乾燥芋。
粉乳代替。
塩漬け魚。
固形燃料は食料外へ分ける。
袋と箱を、荷札番号で照合する。
「麦粉、二重計上八十袋」
小麦。
「四十キロ。三・二トン」
「現物は一組」
飯尾。
「寄贈申告は、金の穂と赤い太陽が各全量」
蓑原の声が小さくなる。
「共同購入だった?」
七瀬。
「契約書では、金の穂が購入、赤い太陽が輸送費負担」
「それぞれが、総重量を寄贈量にした」
「そうです」
「不正?」
塩戸。
蓑原は答える前に契約書を読み直した。
「報告規定が、現物寄贈と輸送支援を同じ『援助量』で集計しています。規定どおりです」
「規定どおり二倍」
小麦。
「はい」
「じゃあ、規定が嘘をついた?」
「規定は話しません」
七瀬。
「書いた人と使った人がいる」
蓑原は、自分の名札を外した。
壁の二重計上欄へ貼る。
「共同援助調整所。集計担当、蓑原梢。二重計上を出発前に検出できず」
「あなた一人?」
七瀬。
「私が最終確認者です」
「入力者と承認者も出す」
「団体側の許可が」
「名前を隠すなら、役職と人数。許可待ちにしない期限を」
蓑原は迷う。
「明日正午」
「遅い」
小麦。
「今夜、全員へ連絡できません」
「役職だけ今。個人名の公開可否は明日正午」
七瀬。
「採用」
蓑原は書いた。
《入力二名/団体承認五名/調整所最終確認一名》
誰か一人の悪意へ縮めない。
だから責任が薄くなるのではない。
八人へ増える。
午後七時十九分。
豆。
二重計上、五十四袋。
一袋三十キロ。
一・六二トン。
油。
二重計上、三十六箱。
一箱平均四十五キロ。
一・六二トン。
合計、六・四四トン。
申告四十二・六から引く。
三十六・一六。
車両重量推定の範囲内。
壁へ書く。
《実在した出発積荷 三十六・一六トン》
数字の下へ、七瀬は二重線を引かなかった。
確定に見せるための線は、後の訂正を難しくする。
右端へ小さく書く。
《現時点確定/異議受付継続》
「異議」
瀬田が言った。
白冠連の監督員。
第三号車から、ずっと車列にいる。
襟の金の穂は、砂塵で白い。
「共同購入物資を二重計上と呼べば、支援実績を不当に減らす」
「現物量は一つ」
小麦。
「資金と輸送は二つの貢献だ」
「別欄に書く」
「総援助量から削る必要はない」
「食べられる量へ、輸送費の重さを足す?」
「金額換算なら」
「今はトン」
「報告様式が違う」
「腹の様式は同じ」
瀬田の目が鋭くなる。
「恩知らずだ」
「二回目」
小麦は鍋帳を見る。
「昨日十時二十五分にも言われた。記録あり」
「私ではない」
「同じ言葉。別の人。だから二回目」
「支援者を侮辱すれば、次の寄付はない」
「次の寄付のために、今の袋を増やして書く?」
「言葉を曲げるな」
「重さを曲げたのは、そっち」
七瀬は、二人の顔ではなく、壁の四十二・六と三十六・一六を撮った。
数字の差は、怒鳴り声より長く残る。
午後七時三十五分。
損失。
橋上廃棄、千九百二十キロ。
塩水・油・防錆剤混入。
回収不能。
食料安全上の廃棄、百四十キロ。
夜露による重度湿損、裂け袋、砂塵混入。
車列内使用、二百二十キロ。
運転手、整備、負傷者、監査参加者の食事と栄養補給。
「使用を損失へ入れる?」
凱。
「残量計算では減る」
小麦。
「損失と同じ欄にすると、食べた人が損害に見える」
七瀬。
「別紙」
小麦は六枚目を指す。
「使った量。食べた人の顔は出さない。人数と役割。本人が希望したら名前」
「俺は出す」
凱。
「何食べた」
「平焼きパン一、塩漬け魚少量、湯」
「王様の食事としては弱い」
「元だ」
「元王様の食事」
「おまえは」
「味見三、黒糖、炒り豆、夕方にパン半分」
「少ない」
「今、記録係へ言われたくない」
七瀬は、自分の欄へ書く。
《平焼きパン半分/水/撮影交代中》
「少ない」
小麦と凱が同時に言った。
「撮影中」
「食べて」
「あとで」
「十一番の欄」
タマキが、交渉卓の休憩欄を叩いた。
「記録者の休憩」
「覚えてた」
「書いた」
七瀬は撮影機を飯尾へ渡した。
「五分」
「十」
小麦。
「公開中」
「固定カメラがある」
「音声の確認」
「私がする」
飯尾。
「車列外の監査者へ、撮影まで」
「嫌なら、七瀬さんが食べながら撮る?」
「それはぶれる」
「なら、任せて」
七瀬は十秒迷った。
撮影機を離す。
左肩から重さが抜ける。
重さがなくなっても、痛みは残る。
小麦が、芋を潰した小さな餅を渡した。
「誰から」
「私」
「誰へ」
「七瀬」
「何のため」
「タマキじゃない」
「答えて」
「記録者が、空腹を美学にしないため」
七瀬は食べた。
味は薄い。
塩を入れなかったのではない。
唇に塩埃が付いているため、十分塩辛い。
午後七時五十一分。
残存量。
三十六・一六トン。
橋上廃棄、一・九二。
安全廃棄、〇・一四。
車列内使用、〇・二二。
残り、三十三・八八トン。
壁へ書く。
《現在配布・保管可能量 三十三・八八トン》
誰かが息を吐いた。
申告より、八・七二トン少ない。
消えたのではない。
最初からなかった六・四四。
橋で捨てた一・九二。
傷んだ〇・一四。
食べた〇・二二。
四つの理由を、一つの不足へまとめない。
午後八時三分。
地元在庫。
九店、申告七・四トン。
販売希望四・八六。
品質確認済み三・五四。
確認待ち一・三二。
「援助残量に足す?」
蓑原。
「足さない」
小麦。
「配布可能総量を示すには」
「所有が違う。値段がある。店へ残す分もある」
「同じ食事へ使う」
「同じ鍋に入っても、同じ物じゃない」
塩戸が壁へ近づいた。
地元在庫欄へ書く。
《地元所有/売買成立分のみ移転/援助量へ算入しない》
「同意」
小麦。
「嫌そうだな」
「あなたの字がきれい」
「悪い?」
「意外」
「荷札は読めないと死ぬ」
「人は?」
「読めなくても運ぶ」
「それが問題」
「知ってる」
午後八時十一分。
襲撃責任の紙へ移る。
七瀬は撮影機を戻した。
「塩轍運送組合。旗の窃取。旗付け替えによる第八号車誤誘導。目録箱窃取。走行中の車体下作業。偽目録の放送。車列への並走圧迫」
一項目ずつ。
「異議」
塩戸。
「どこ」
「走行中の車体下作業は、遠野個人ではなく、俺の指示」
「訂正する」
「橋上の並走は、全車ではない。塩轍二番、三番」
「訂正」
「偽目録は俺が作った」
「組合決定?」
「幹部三人へ相談。内容は俺」
「三人の名」
「公開同意を取る。今は役職」
「期限」
「明日正午」
「蓑原さんと同じ」
「合わせた」
七瀬は書く。
「目的」
「車列を止め、地元商店と組合を交渉へ入れる」
「結果」
「第八号車が水溝まで十一メートル。車列停止。受取地区の混乱。環水三号塔への十八・二トンという誤認」
「利益」
「まだない」
「要求」
「今から言う」
塩戸は、料金台へ六枚の紙を置いた。
一、地元商店在庫の運送料。
二、買い取り成立分の荷役賃金。
三、橋上接触の車両損傷。
四、負傷者治療費。
五、目録箱保管料。
六、偽目録と旗窃取に対する組合員の処分は、外部一括処分でなく個別審理。
「五は払わない」
迅。
「盗んで保管した」
「保管した」
「盗品の保管料」
「盗品と認める。だから、窃取の賠償と保管の実費を別にする」
「自分で作った仕事」
「その間、箱は燃えず濡れなかった」
「盗らなければ必要なかった」
「そうだ」
「なら拒否」
「交渉はおまえが決める?」
迅は口を閉じた。
小麦が言う。
「保管に使った防水布と人の時間は記録する。でも支払わない。窃取賠償から差し引くんじゃなく、別々にゼロと理由を書く」
「理由」
「本人が作った不法状態を維持した費用」
「異議を残す」
「残して」
「四、治療費」
七瀬。
「襲撃側だから拒否、にはしない」
小麦。
「治療は先にする。費用負担は、本人の行為と指揮命令を個別審理」
「鳥飼は俺の指示で旗を取った」
塩戸。
「急ブレーキは本人」
「そう」
「久慈原の頭部打撲」
「牽引作業中。俺の指示」
「遠野の左肘」
「車体下作業。俺の指示」
「全部、自分へ集める?」
七瀬。
「命令した分」
「組合員が選んだ分もある」
「ある」
「その二つは、別々に残す」
「しない」
午後八時二十七分。
瀬田が、寄贈契約書へ手を伸ばした。
「この資料は白冠連の所有だ。公開前に本部確認を行う」
蓑原が止める。
「目録箱へ移した時点で、共同調整所の保管資料です」
「原本作成者は当連」
「現物量の証拠です」
「誤解を招く」
「すでに誤った量を出しました」
「言葉を選べ」
瀬田の後ろから、白冠連の警備員二人が進んだ。
武器は抜かない。
契約書を持ち去るだけの動き。
塩轍側から遠野が前へ出る。
「紙だけなら、盗んでもいい?」
「おまえが言うな」
迅。
「だから言える」
七瀬は固定カメラの画角を確認した。
北壁。
料金台。
両者の手。
顔は端へしか入らない。
「全員、手を止めて」
誰も止めない。
瀬田が契約書を掴む。
蓑原が反対端を持つ。
紙が裂けかける。
塩戸が箱を押さえる。
迅が一歩前へ。
「手を離せ」
「誰に」
瀬田。
「紙を持ってる全員」
「強盗へ渡せと?」
「卓へ置け」
「これは援助者の権利だ」
「受け取る人の量を書いた紙」
「資金を出したのはわれわれだ」
「だから、名前は残す」
「決定権もある」
「ない」
迅の声は低い。
瀬田は契約書を離さない。
「拳で決めるのか」
「今は紙」
「近づくな」
警備員が迅の胸へ手を出した。
迅は手首を取らない。
半歩下がる。
その時、第三号車のエンジンが唸った。
誰も運転席にいない。
砂塵で車輪止めがずれ、料金所の緩い下りへ動き出した。
荷台には、まだ豆袋が一・四トン。
車体重量、三・八。
合計、五・二。
進行方向。
北壁。
公開目録。
その前にいる二十七人。
「車!」
七瀬が叫んだ。
全員が振り向く。
第三号車まで、三十八メートル。
速度、まだ時速六。
傾斜で上がる。
運転席へ乗るには、右扉まで回って十秒。
壁まで、十二秒以下。
「散れ!」
凱。
人が左右へ動く。
壁の紙は動かない。
料金台の目録箱も。
蓑原が契約書を離した。
瀬田は持ったまま、後ろへ下がる。
足元のケーブルへ踵を取られた。
倒れる。
車の正面。
迅が走った。
第三号車と瀬田の間へ入る。
「迅、どかせ!」
轟。
「車輪止め!」
轟は料金台の横に置いた鋼製楔を指す。
重さ、四十二キロ。
鎖で地中の係留環へつないである。
人力で車輪前へ運ぶには、二人で八秒。
迅は楔ではなく、車を見る。
同じ脅威。
同じ進行。
安定した路面。
車から退く。
一歩。
前輪まで、二十五メートル。
二歩。
二十。
三。
十五。
瀬田の外套を左手で掴み、後ろへ引く。
自分も退く。
四。
契約書が瀬田の手から離れる。
紙が舞う。
七瀬は追わない。
固定カメラが、飛ぶ頁も車も撮っている。
五。
前輪まで、八メートル。
車のバンパーが、迅の胸の高さへ迫る。
右掌の包帯が、赤く滲む。
六。
踵が鋼製楔の鎖へ当たる。
後ろは北壁。
もう下がれない。
七。
七つの結び目が、右手首から黒く光った。
迅は車を殴らない。
人も。
係留環の横にある、錆びた方向転換滑車を殴った。
七歩分の反力が、拳から鉄へ入る。
滑車の軸が折れる。
張っていた鎖が横へ走る。
四十二キロの楔を、右前輪の前へ引き込む。
車輪が楔へ乗った。
車体が跳ねる。
右へ傾く。
そのままでは横転する。
轟が叫ぶ。
「左へ逃がせ!」
江橋と峰岸が、車体左側へ肩を当てる。
塩戸が料金所の古い遮断棒を引く。
棒は車を止めない。
左前輪の進路を一メートルだけ変える。
第三号車は北壁を外れ、空の第一通行口へ斜めに入った。
前輪が計量台の窪みへ落ちる。
車体が止まる。
壁まで、二・三メートル。
誰も轢かれない。
豆袋が二つ裂けた。
豆が路面へ散る。
迅は右手を抱え、膝をついた。
車を止めた。
目録は公開されたまま。
だが、契約書の三頁が風へ飛んでいる。
「拾う!」
タマキが走る。
由良が赤索を投げ、二枚を地面へ押さえる。
小麦は豆を拾わない。
先に迅の右手を見る。
「骨」
「平気」
「答えになってない」
轟が前腕を触る。
「変形なし。握るな」
「契約書」
迅。
「人が拾う」
「紙は」
「逃げる」
タマキの声が遠くから来た。
「風だと逃げる!」
最後の一枚を、鳥飼が固定具をつけた足で踏んだ。
「取った!」
「足を使うな!」
小麦。
「動かしてない!」
「そのまま!」
七瀬は、固定カメラを止めなかった。
決め技の瞬間だけへ寄らない。
人が散ったこと。
楔を置いた轟。
鎖を引いた迅。
車体を押した江橋と峰岸。
遮断棒を動かした塩戸。
紙を押さえた由良。
拾ったタマキ。
踏んだ鳥飼。
その全部が、同じ画面の中で別々に動いていた。
午後八時四十一分。
第三号車は、第一通行口の窪みで止まったままだった。
エンジンを切る。
前後へ二重の車輪止め。
轟が床下を見る。
右前輪の軸に、軽い歪み。
走行は不可。
牽引するまで動かさない。
豆袋二つ、六十キロ。
一袋は路面へ散った。
一袋は裂けただけで、内袋が保たれている。
小麦が区分する。
「路面の豆、食用不可。内袋の豆、外側を洗浄して品質確認」
「拾えば食べられない?」
瀬田が訊いた。
「路面に車軸油。発炎筒の粉。靴底」
「水で洗えば」
「豆が水を吸う。今夜中に全部煮る水と火がない」
「もったいない」
「だから食べない」
同じ会話を、橋でもした。
もったいないは、安全を飛び越す許可ではない。
小麦は六十キロのうち、食用保留三十、廃棄三十と書いた。
残存可能量は、三十三・八八から三十三・八五へ変わる可能性がある。
可能性。
まだ確定ではない。
七瀬は壁へ、赤い小札を貼った。
《第三号車事故/豆三十キロ廃棄確定、三十キロ品質確認待ち》
数字がまた動く。
公開目録は、完成した表ではない。
変わるところを見せる壁だった。
迅は料金所の旧休憩室で、右手を診られている。
小麦が包帯を外す。
古い裂傷の端が、再び開いた。
深さは浅い。
拳の第二関節に打撲。
骨の変形はない。
轟が、迅の指を一本ずつ押す。
「痛い」
「どこ」
「全部」
「答えになってない」
「小麦の真似?」
「検査だ」
「小指と薬指は、前から痺れる」
「今、増えたか」
「少し」
「握力は三日制限。打撃禁止。冷やす。明朝、腫れを再確認」
「三日」
「交渉に拳は要らない」
「車が来た」
「次は車輪止めを置く」
「間に合わない時は」
「人を逃がす。壁と紙は諦める」
迅は北壁を見た。
十二枚の紙。
車が当たれば、破れる。
「人が先」
自分で言う。
「今回は、両方守った」
小麦。
「次もできると思わない」
「思ってない」
「顔が思ってる」
「どんな顔」
「また七歩あれば、って顔」
「七歩あった」
「八歩目はなかった」
小麦は消毒布を強く当てた。
迅の眉が動く。
「痛い」
「知ってる」
「怒ってる?」
「紙の前に人を置いた全員へ」
「俺も?」
「一番」
「俺が行かなければ、瀬田が」
「行くのはいい。戻れる身体まで賭けるな」
「戻った」
「結果で正当化しない」
「それ、俺の台詞?」
「便利だから使う」
「使用料」
「包帯代」
包帯には、今度は無地の白を使った。
迅が見る。
「印がない」
「選んだ」
「赤い匙は」
「使い切った」
「どっちでもいい」
「なら、白」
午後八時五十三分。
契約書三頁が戻った。
角に泥。
一頁は、由良の赤索で押さえた跡が付いている。
一頁は鳥飼の靴底で黒い。
一頁はタマキが追い、料金所外の草へ引っかかったものを拾った。
七瀬は頁番号を確認する。
欠落なし。
ただし、瀬田が持ち去ろうとした事実は消えない。
「記録へ異議」
瀬田が言った。
「持ち去るつもりではない。本部確認のため、一時保管」
「卓から離した」
七瀬。
「所有者の元へ戻そうとした」
「所有者は誰」
「白冠連」
「受取側の現物量と、他団体との共同契約が書かれている」
「原本作成者は白冠連」
「だから、誰の物かが争われている」
「窃盗と同じにするな」
塩戸が言った。
「同じではない。俺は盗った。おまえは、所有を主張して持ち去ろうとした」
「犯罪者に分類されたくない」
「分類を嫌がるなら、自分の行動を自分の言葉で書け」
瀬田は塩戸を睨んだ。
「あなたに言われる筋合いはない」
「ある。紙を持って走ると、何て呼ばれるか知ってる」
「私は走っていない」
「車が走った」
瀬田の顔が白くなる。
「車輪止めは、砂塵でずれた」
轟が事故調査表を持ってきた。
「第一原因、右後輪の車輪止めが一個のみ。規定は二個」
「二個置いた」
第三号車の運転手が言う。
「砂塵前に。片方が見当たらない」
「誰かが外した?」
七瀬。
「断定できない」
轟。
「第二原因、変速機が中立。駐車制動は半掛かり」
「すぐ移動できるように」
運転手。
「誰の指示」
「瀬田監督」
全員が瀬田を見る。
「交渉が決裂した場合、資料を本部へ持ち帰る必要があった」
「車ごと?」
蓑原。
「契約書と監督員だけ」
「食料は」
「第三号車の管理物資だ」
「受取側の選択前に戻す?」
「虚偽公開を防ぐためだ」
七瀬は壁へ新しい紙を貼った。
《第三号車逸走》
原因候補。
一、車輪止め一個欠落。
二、変速機中立。
三、駐車制動半掛かり。
四、監督員が即時離脱可能な状態を指示。
五、砂塵後の再点検未実施。
六、料金所の下り勾配。
「迅が止めた、は」
誰かが訊いた。
「結果欄」
七瀬。
「原因欄には入れない」
「英雄名を大きく書かない?」
「事故原因が小さくなるから」
迅は休憩室の入口で、包帯を巻いた手を上げた。
「名前、いらない」
「本人の希望だけで消さない」
七瀬。
「行動は記録する。表示の大きさは、原因と救命を同じ面積にする」
「面積まで」
「映像は、大きい物を重要に見せる」
「迅の顔は」
「出さない。固定映像の全景。拳の近接は撮っていない」
「撮れなかった?」
「撮らなかった。壁と人が同時に見える画角を変えなかった」
迅は、少しだけ頷いた。
午後九時十二分。
交渉を再開する。
今度は、全車の車輪止めを二人ずつ確認した。
確認者名を車体へ貼る。