第244話 第十二章「届けた者の名前」後編

 運んだ人の名前は、届けた時だけではない。

 戻した時にも要る。

 三月二十八日 午前九時四十三分

 迅の右掌から包帯が外れた。

 傷は閉じている。

 握力試験。

 右は左の八割。

 以前より少し戻っている。

 冷たい金属を握ると、小指と薬指へ痺れ。

「殴っていい?」

 迅。

「誰を」

 診療員。

「確認」

「三日間は強打禁止。今日から軽い把持。明日、痛みが増えなければ段階的に」

「殴る相手はいない」

 小麦。

「診療員が困る聞き方をするな」

「拳の用途を言わない患者の方が困る」

「用途、救助」

「拳で?」

「時々」

 診療員は迅の右手を裏返した。

「救助の方が、殴り合いより無理をします。相手が倒れたら止める、が無いから」

 迅は黙った。

「痛みを隠さない。痺れが増えたら止める。手袋を使う。今日の荷役は禁止」

「明日は」

「今日を守ったら話す」

「医者は明日の許可を今日出さない」

 小麦。

「何の話?」

「何でもない」

 迅は手袋を受け取った。

 黒い布。

 右掌だけ、厚い革が縫われている。

「格好悪い」

「どこが」

「片方だけ」

「両方傷つける?」

「やめろ」

「じゃあ、そのまま」

 迅は手袋をはめた。

 右手を開き、閉じる。

 まだ、全部は戻らない。

 戻らないことを、敗北とは呼ばなかった。

 使い方を変えるための数字にした。

 三月二十九日 午後六時十二分

 仮倉庫の保留食料は、一・二六トンまで減った。

 すべて配ったわけではない。

 品質不安の油、〇・三六。

 公開範囲の確認待ち、〇・二。

 受取を撤回された豆、〇・四。

 帰路用の非常食、〇・三。

 理由が残る。

 蓑原は、寄贈団体へ最終速報を送る。

《配布率九十六・三パーセント》

 小麦が首を振る。

「一行目にしない」

「成果を示す数字です」

「食べた量と、所有を移した量が混じる」

「分けます」

《所有移転・保管合意 九十六・三パーセント》

《実際に調理・使用済み 四十一・八パーセント》

《地域保管中 五十四・五パーセント》

《返却・再調整 〇・八パーセント》

《品質確認・受取保留 二・九パーセント》

「足すと」

「百・〇」

「橋で捨てた分は」

「出発実在量を分母にすると別欄。損失五・七パーセント」

「二重計上分は」

「申告訂正。配布率へ入れない」

「調理者賃金」

「支払済み六十八人。未確認七人」

「睡眠」

 小麦。

「必要ですか」

「必要」

「何の成果」

「次も同じ人が働けるか」

 炊事労働台帳から、連続勤務時間を集計する。

 六時間超。

 十二人。

 十時間超。

 三人。

 最長。

 土門小麦。

「消して」

 蓑原。

「なぜ」

「あなたが公開したくないなら」

「公開する。嫌だけど」

「自分だけ例外にしない?」

「次は、私の条件に休息を入れる」

「命令されなくても?」

「怒られたから」

「誰に」

「鍋」

 蓑原は、初めて大きく笑った。

 笑ってから、すぐ真顔へ戻る。

「報告書に鍋とは書けません」

《調理設備と同様に、調理者にも休止時間が必要》

「それなら」

「採用?」

「書式にします」

「もっと面倒」

「仕事です」

 前日の朝、蓑原が凱へ返した言葉が、今度は小麦へ返る。

 同じ台詞でも、持ち主が変わると少し違って聞こえた。

 三月三十日 午後二時二十七分

 鷹取由良は、赤索を修理していた。

 塩橋で擦れた箇所を切り、短くなった分を結び直す。

 一センチずつ、赤い線が縮む。

「そのまま使う?」

 小麦。

「長さを測った」

「新品は」

「剛嶺で買う」

「援助品に索はある」

「知ってる」

「使わない?」

「今は」

「値段を払えば」

「必要な人が他にいる」

「遠慮?」

「優先順位」

「誰が決めた」

「私」

「受取代表じゃないのに」

「自分の索の受取人は私」

 小麦は黙った。

「それは、そう」

 由良は、切った索片を捨てない。

 紙へ縫い付けた。

 小麦へ一枚差し出す。

《三月二十一日から二十三日。経路確認。赤索損耗二十七センチ。四共同体の一日許可。受取代表権なし。次回、地図代と案内賃を事前提示》

「請求書?」

「報告」

「私へ?」

「厨房から、受取地別のページを一枚」

「何に使う」

「剛嶺側へ見せる。援助が店を潰さなかったとは、まだ言えない。何を買ったかは見せる」

「全部は渡さない」

「知ってる」

「個人の名前は消す」

「地区と量と値段。調理者賃金。返却量。廃棄」

「由良の失敗も?」

「署名を拒んで出発が遅れたこと」

「失敗?」

「遅れは事実」

「拒んだ理由も書く」

「書く」

 小麦は鍋帳から一枚を外した。

 受取地別の量。

 地元買い取り三・一四トン。

 店名は公開許可のある四軒だけ。

 調理者賃金。

 保留理由。

 四十八袋の廃棄。

 自分の睡眠不足。

「最後、要る?」

 由良。

「要る」

「剛嶺に見せる?」

「見せる」

「恥ずかしくない?」

「恥ずかしい」

「じゃあ、消せば」

「消したら、次の小麦が同じ働き方をする」

「次の小麦」

「私じゃない人」

「名前が同じみたい」

「鍋の前では、みんな少し小麦」

「意味不明」

「少し」

 由良はページを受け取った。

 抱き合わない。

 握手もしない。

 小麦は油で手が汚れ、由良は索の繊維が指に刺さっていた。

 紙を一枚ずつ交換する。

 それで十分だった。

「次に会ったら」

 小麦。

「約束しない」

「何も言ってない」

「言う前に断った」

「そういうところ、嫌い」

「知ってる」

「またね」

「聞こえなかった」

「耳は悪くないでしょ」

「言葉を受け取るかは私が決める」

「面倒」

「小麦ほどじゃない」

 由良は赤索を肩へ掛けた。

 立ち止まると脚の中がざわつく癖は残っている。

 それでも、すぐには走り出さなかった。

 一枚の紙を折らずに、乾くまで待った。

 三月三十一日 午前十一時三分

 鳥飼乾物の価格板から、古い文字を消す。

《援助車列到着につき、本日無料》

 塩戸が作戦前に書かせた宣伝文だった。

 澄江は、板を捨てなかった。

 裏返して使う。

《麦粉 一袋 時価》

《豆 百グラム》

《運送料 北塩七区まで公開表》

《援助品は販売しません》

《返却・保留の相談可》

「時価って、値段がない」

 タマキ。

「毎朝書く」

 澄江。

「今日は」

「まだ仕入れ車が来てない」

「援助麦粉がある」

「それは店の物じゃない」

「売らない?」

「売らない」

「お客が欲しいって言ったら」

「共同厨房を教える。買いたいなら、仕入れを待つ」

「待てない人は」

「先に食べる」

 価格板の横へ、共同厨房の案内を貼る。

 無料の食事。

 有料の店。

 二つを敵にしない。

 店で買える人だけが立派でもない。

 無料で食べる人が、感謝を証明する必要もない。

 午前十一時二十六分。

 塩轍の車が、一台ずつ出る。

 葛西。

 遠野。

 塩戸。

 三台は同じ方向へ行かない。

 葛西は白沼。

 遠野は北塩七区。

 塩戸は壊れた第三号車の部品を運ぶため、料金所へ戻る。

「組合の灰色帆は」

 凱。

「修理してから」

 塩戸。

「掲げる?」

「仕事による」

「旗をやめたわけではない」

「旗が悪いんじゃない。旗だけ見て荷主と運転手と受取人を消したのが悪い」

「同意する」

「簡単に同意するな。おまえの旗で消えた人もいる」

「知っている」

「知ってる顔をするな」

「では、何をする」

「次に同じことをしたら、名前を出して止める」

「今も止めていい」

「今は出発する」

 塩戸は運転席へ上がる。

 右耳側から凱が言う。

「景」

 塩戸は聞こえない。

 凱は左へ回る。

「塩戸景」

「何」

「目録箱を盗んだ責任は、運んだことで消えない」

「知ってる」

「運んだ仕事も、盗んだことで消さない」

「それを言うために回った?」

「名前は、聞こえる側から呼ぶ」

「王様みたいだな」

「元だ」

「それ、便利な肩書き」

「不便に使っている」

 塩戸はエンジンをかけた。

 灰色の帆は荷台内へ畳まれている。

 車体の扉には、白い字が残る。

《積載六・四》

《右後輪要交換》

《三月二十二日 目録箱窃取》

《三月二十三日 地元在庫輸送》

 仕事と罪を、同じ扉へ書いていた。

「消さないの」

 小麦。

「塗り直す金がない」

「嘘」

「少し」

 車が動く。

 誰も手を振らない。

 塩戸も振らない。

 窓から硬貨を一枚見せた。

 豆粥の釣りだった。

 澄江が鍋蓋を上げる。

 拍手の代わりではない。

 厨房から車へ、ただの合図。

 道へ出ても腹を空かせるな、という意味だった。

 午前十一時四十一分。

 援助車列の最後の車も、帰路へ向かう。

 空荷ではない。

 返却箱。

 修理工具。

 公開目録の写し。

 受取を保留した油。

 運転手の私物。

 地元で買った針二本。

 届けた車は、届けた場所の物を少し載せて戻る。

 一方通行ではない証拠みたいだった。

 七瀬は、車列全体を撮らない。

 空になった棚。

 まだ残る袋。

 閉じられた倉庫。

 開いた店。

 秤の零。

 鍋を洗う手。

 値札を書く手。

 運賃を受け取る手。

 返却箱を結ぶ手。

 名前を消してよいと指す手。

 一つずつ撮る。

 最後に、カメラを止めた。

「終わり?」

 迅。

「車列の記録は」

「その後は」

「知らない」

「撮らない?」

「今は」

 七瀬は左肩を回さない。

 機材をタマキへ渡す。

 自分の目で、鳥飼乾物の価格板を見る。

「映像に残さない方がいい?」

 タマキ。

「いいんじゃない。残さないことと、見なかったことは違う」

「忘れたら」

「また見に来る」

「約束?」

「予定」

「由良みたいに断らないんだ」

「私は私」

 小麦は、最後の鍋帳を開いた。

 届けた者の名前。

 寄贈した者。

 積んだ者。

 運転した者。

 道を許した者。

 道を断った者。

 荷札を直した者。

 箱を盗んだ者。

 箱を返した者。

 橋で袋を捨てた者。

 廃棄を記録した者。

 料理した者。

 皿を洗った者。

 値段を付けた者。

 無料で食べた者。

 代金を払った者。

 返した者。

 受け取らなかった者。

 名前を出さなかった者。

 そこまで書いて、鉛筆を止める。

「受け取った人の名前が少ない」

 凱。

「公開したくない人が多い」

「では、帳面の題と合わない」

「届けた人は、運転手だけじゃない」

「受取を拒否した人も?」

「次の行先を決めた」

「なるほど」

「分かった顔」

「分かった」

「本当に?」

「王だった時、届けるとは、俺の旗が着くことだった」

「今は」

「俺が帰った後も、店が値段を書けること」

 小麦は凱を見た。

「それ、誰の言葉」

「今作った」

「借りる」

「運賃」

「高い」

 同じ会話を、遠野から借りた形で返す。

 言葉も、運ばれる。

 運んだ人の名前を忘れることがある。

 それでも、使われ方が変われば、道を通った痕は残る。

 小麦は鍋帳の最後へ、自分の名を書いた。

《土門小麦。調理・集計・条件提示。睡眠不足。次回、休息担当を別に置く》

 少し迷い、もう一行。

《この帳面は、誰か一人の所有にしない。厨房、受取地区、運転手会へ写し》

 原本を閉じる。

 価格板には、新しい値段がまだない。

 仕入れ車が地平から見えた。

 鳥飼澄江が白墨を持つ。

 車が止まる前に、値段を書かない。

 荷を見て、量を量り、運賃を聞き、傷みを確かめる。

 それから、一袋の値段を書く。

 誰も祝わない。

 誰も旗を掲げない。

 ただ、店が開く。

 白い塩路の向こうで、帰る車と、仕入れに来る車が、別々の轍を残した。