第245話 第一章「消灯命令」前編
四月十八日 午後四時七分
停電は平等だった。
呼吸は、そうではなかった。
外環共同病院の天井灯が一斉に落ちた瞬間、時雨ミソラは、左手で患者の顎を持ち上げ、右手で酸素袋を押した。
暗闇になるより先に、胸の動きが一つ減った。
「呼吸、八。浅い。サナ、吸引」
「主電源、落ちた」
「知ってる。吸引」
環水三号塔の診療所から応援に来て三日目の阿久津サナは、返事の代わりに金属台の下を蹴った。
床を滑った足踏み式吸引器が、ミソラの踵へ当たる。
電動機の音が消えた病室では、物が動く音だけが大きい。
酸素袋のゴム。
痰が管を通る湿った音。
誰かが呑み込んだ息。
遠くで、ガラス瓶が一本だけ倒れた。
「一、二、三」
ミソラは押した。
「一、二、三」
患者の胸が、遅れて持ち上がる。
非常灯が点いた。
白ではない。古い蜜柑色。
病室の床へ長い影が六本伸びた。
六本目が、途中で消えた。
「また落ちる」
サナが言った。
「落ちる前に吸い切る」
「先生、発電室から――」
「先生じゃない。サナ、管」
「その訂正、今いる?」
「今しかできない」
ミソラは患者の口腔から管を抜いた。
呼吸数、十二。
胸の左右差、小さい。
唇の色、暗くて見えない。
頸動脈、速い。
非常灯が消えた。
今度は、誰も驚かなかった。
驚くための光がなかった。
「呼吸、十二。自発あり。酸素継続。次」
「名前」
「今は症状」
「違う。移す時の名前」
サナの声が低くなる。
ミソラは一拍だけ止めた。
病院には、名前が多すぎた。
患者が生まれた時の名前。
暮らしている場所で使う名前。
旗団が付けた名前。
境界を越えるために借りた名前。
追跡を避けるために捨てた名前。
本人が口にしたくない名前。
そして、医療者が間違えた時に、薬を別人へ届ける名前。
「胸札の左端。二本切り込み。仮名はハル」
「本人が選んだ?」
「昨日、本人が選んだ。今は返事なし」
「了解。ハル、酸素継続」
サナが復唱した。
廊下の奥で、低い警報が一度鳴った。
途中で切れた。
外環共同病院は、病院として建てられた建物ではない。
黒雨の翌年、外環道路の料金宿舎をつなぎ、壁を抜き、配管を引き、診療所にした。さらに塩路の衝突、境界の封鎖、給水塔の占拠で負傷者が増えるたび、倉庫へ病床を置き、事務室へ手術台を運び、階段の踊り場に酸素瓶を固定した。
建物は継ぎ足した責任みたいに複雑だった。
一階は搬入口、処置室、薬品庫。
二階は一般病床。
三階は感染隔離と術後。
四階は旧宿泊室を仕切った家族待機区画。
地下には発電機と水槽。
東棟と西棟を結ぶ廊下は、もとは車寄せの屋根だった。雨漏りする。床材が途中で三度変わる。暗闇なら、足音だけで場所が分かる。
分かる者には。
「ミソラ」
サナが呼んだ。
「第二系統、戻せるって」
声の後ろで、佐渡が何かを叩いている。
金属箱。
端子。
布を噛ませた工具。
「何分」
「戻すだけなら四分。ただし負荷は一つ」
「酸素圧縮機」
「階段灯を落とすことになる」
「酸素」
「三階から担架が降りてる」
「止める」
「止めたら手術前の一人が――」
「症状」
「腹腔内出血疑い。血圧、触れにくい。意識あり」
「手術室まで、今どこ」
「三階西。階段上」
「携帯灯は」
「四つ。二つは処置室、一本は薬品庫、一本は発電室」
選べる物は、選ばなければならない。
選ばなかったふりをしても、停電は勝手に順番を付ける。
ミソラは右手の赤い手袋を外した。
汗で裏返る。
「酸素圧縮機へ第二系統。階段灯は切る。携帯灯一本を三階西へ。手術患者は踊り場で止めない。四人で手すり側。歩ける人は壁へ片手。床へ白布を敷く」
「白布、暗くて見えない」
「踏める」
佐渡が言った。
「拒否した時の処理は」
「何を」
「暗い階段を降りるのを拒否した患者」
「意識があるなら危険を説明。拒否なら上で止める。無理に運ばない」
「止めた結果、悪化したら」
「私が説明した内容と本人の返事を残す」
「録音は」
「本人が許せば」
「許せない時は」
「二人で復唱。時刻。症状。選択」
佐渡は満足した顔を見せない。
暗くて見えないだけかもしれない。
「四分」
工具の音が地下へ遠ざかった。
ミソラは次の患者へ移った。
右大腿裂創。
止血帯あり。
時間、十五時三十二分。
足先冷たい。
意識清明。
「名前」
「赤津。剛嶺先鋒――」
「所属は聞いてない」
「赤津兵団の――」
「呼ぶ名前」
「赤津でいい」
「薬のアレルギー」
「知らん」
「過去に薬で息が苦しくなったこと」
「ある。白い錠剤」
「大きさ」
「爪くらい」
「いつ」
「十五の冬」
「何を治した」
「歯」
「了解。赤津。大腿裂創。止血帯十五時三十二分。白い鎮痛錠で呼吸苦歴。今は息苦しさなし」
「俺を先にやれ」
「今やってる」
「向こうの白い外套より先に」
「向こうは胸部刺創。今は向こう」
「敵だぞ」
「あなたの?」
「剛嶺の」
「剛嶺は今、診察台にいない」
「ふざけるな」
「ふざける時間がない。止血帯を緩める。痛む」
「待て」
「待たない。三秒後」
「待てって言った!」
「聞いた。三、二、一」
赤津が叫んだ。
叫べる呼吸はある。
足の色は見えない。
触れて確かめる。
ミソラは止血帯を少し緩め、出血の戻りを指で受けた。
温かい。
多い。
再固定。
「今は止血維持。手術優先は胸部。あなたは二番目。二十分ごとに足先を確認」
「二番なら先にやれ」
「一番がいる」
「誰だ」
「病状だけ答える。名前は答えない」
「味方なら」
「味方でも答えない」
「俺が死んだら」
「二番にした理由を、あなたの家族へ私が言う」
「生きてるうちに言え」
「大腿の血管は今保ててる。胸の人は三分で落ちる。だからあなたを待たせる」
赤津は息を荒くした。
罵る言葉を探し、見つけられない。
「二十分」
「十五分にしろ」
「十七分」
「医療を値切るな」
「痛みは値切りたい」
「それは分かる」
ミソラは彼の手へ、折った布片を握らせた。
「角が二つ。二番目の札。見えなくても触れば分かる」
「子ども騙しだ」
「大人ほど札を見失う」
廊下が騒がしくなった。
足音が三組。
軍靴。
硬い革靴。
底の薄いサンダル。
「医療責任者は誰だ」
最初の声は、扉より先に命令として入ってきた。
「今、手が空いてる責任者はいない」
サナが返した。
「外環東警備区の使者だ。わが区の負傷者十三名を優先――」
「十三人の症状を一人ずつ」
「一覧を持っている」
「所属一覧ならいらない」
次の声。
「白冠旧救護会だ。こちらには酸素依存患者が四名いる。発電を第三病室へ回せ」
「酸素は中央供給」
「中央が止まれば全員止まる」
「だから中央を動かしてる」
三人目。
「剛嶺停留区の協定では、戦闘負傷者は到着順――」
「ここは協定の診療所じゃない」
「中立を名乗るなら、順序を公開しろ」
「病状は公開しない。基準は説明する」
「旗ごとの人数を――」
「旗は肺を持ってない」
ミソラは次のベッドの胸札を外した。
赤い三角。
白い輪。
灰色の線。
所属を示す小札が三枚、同じ金属環へ通っている。
誰かが増やした。
「サナ」
「見えてないけど、嫌な声」
「所属札を全部外す。患者の仮名、照合鍵、病状札だけ残す」
使者たちが同時に声を上げた。
「敵味方の識別ができなくなる」
「治療にはいらない」
「警備には必要だ」
「警備札は病床の外へ。患者の手首へ付けない」
「逃亡者がいる」
「逃げられる状態なら、歩行可能として診直す」
「殺人犯もいる」
「出血していれば止める。拘束はその後」
「責任を取れるのか」
ミソラは一瞬、手を止めた。
暗闇では、顔が見えない。
顔が見えない相手へ、責任の顔を作るのは簡単だ。
「治療順は私が付ける」
「医師資格は」
「ない」
「なら責任者ではない」
「資格を持つ医師は手術室。今、胸を開けてる。呼んだら一人死ぬ。呼ぶ?」
返事がない。
「私の資格不足は記録する。判断した時刻も。待たせた人の名前も。あとで審理する。今は札を外して」
「命令か」
「医療区画へ入る条件」
「従わなければ」
「外で待つ」
「負傷者を見捨てるのか」
「患者は入れる。旗だけ外へ」
サナが箱を持ってきた。
木製。
蓋に五つの仕切り。
「外した札は、誰のか分からなくなる」
「病床番号と時刻を別紙に」
「別紙はなくなる」
佐渡が地下から戻ってきた。
息が切れている。
「紐へ結ぶ。病床番号は結び目の数。札は箱へ。本人名簿と離す」
「それ、誰が管理」
「今聞く?」
サナ。
「今決めないと、後で警備が全部持つ」
「正しい。腹立つ」
「よく言われる」
使者の一人が、患者の胸札へ手を伸ばした。
ミソラは丸刃の救急鋏で、その手の袖口を挟んだ。
刃は皮膚へ向いていない。
布だけを噛む。
「触らないで」
「脅すのか」
「鋏は丸い。あなたの指より安全」
「離せ」
「手を離せば」
「命令形を使うな」
「では選んで。手を離す。袖を切られる。外へ出る」
「三択に見せた脅迫だ」
「四つ目。患者の病状を一人ずつ聞く」
男は手を引いた。
「一人目。白井。腹部打撲」
「呼ぶ名は白井でいい?」
「知らない」
「本人へ聞いて」
「意識がない」
「所持品と薬歴。家族照合。所属札は外す」
男は、命令をしに来たはずだった。
気づけば患者の情報を一人ずつ読み上げている。
権限は大声で来る。
仕事は、名前を一つずつ運ばせる。
札を外す作業は、旗を燃やすより時間がかかった。
赤い札の裏に、薬の禁忌が書いてある。
白い札の端に、家族の呼び方が刻んである。
灰色の札には、搬送元の道順が穴の数で残っている。
所属だけを外すつもりで、必要な情報まで捨てれば、それは中立ではない。
ただの忘却だった。
「この札、裏に《左足固定》」
タマキが箱の脇へ座り込んだ。
緑のニット帽。胸より大きい鉄箱。左右で色の違う靴紐。
塩路の車列で使った荷札の残りを、百枚持ってきている。
食料の行先が決まらなかった時、空欄へ無理に代表名を書かなかった紙だ。
「所属だけ切る?」
「切ったら、元の札へ戻せない」
サナ。
「じゃあ折る。所属の面を中へ。医療情報は外」
「濡れたら開く」
「糸」
「患者の誰の札か分からなくなる」
「病床番号」
「病床が動く」
「動く物に番号つけたら駄目?」
「駄目じゃない。番号が人の名前になるのが駄目」
タマキは紙片を膝へ置いた。
「じゃあ、呼ぶ名前と、動く番号と、薬のこと。三つ別」
「箱が三倍いる」
「箱はある」
鉄箱の蓋を開けた。
靴紐。
硬貨。
小さな鏡。
古い切符。
針。
白墨。
使いかけの蝋燭。
紙を切るための短い鋏。
「配達箱で薬札を運ぶ?」
ミソラ。
「中身、聞いた」
「誰から」
「患者から」
「誰へ」
「治す人へ」
「何のため」
「間違えないため」
タマキは蓋の裏の三欄を指した。
「合ってる」
「今だけ借りる。返す時刻は」
「病院が明るくなって、全部確認した後」
「期限が長い」
「明るくなる時刻、分かる?」
「分からない」
「じゃあ、時刻で約束したら嘘」
十四歳に言われると、正しいことは少し腹が立つ。
「返却条件で」
「記録」
タマキは箱の底を二度叩いた。
「空になったら、返ってきたって分かる」
「中身が一枚なくなったら」
「誰のがないか分かるようにする」
「どうやって」
「今考える」
「自信があるのか、ないのか」
「考えるって言った人を、自信ないって呼ぶの、大人の悪い癖」
サナが小さく笑った。
「ミソラ、弟子にしたら」
「先生じゃない」
「そこから?」
「資格がない」
「私もない」
「だから二人で先生ごっこをしない」
「患者は呼ぶ」
「止める」
「治療より先に?」
「時々」
タマキは、二人を見比べた。
「先生って、治す人の名前?」
「違う」
二人が同時に答えた。
「じゃあ何」
サナが口を開き、閉じた。
ミソラも答えなかった。
病院では、答えられない問いへ、誰かが死なない範囲で時間を使う必要がある。
「今はミソラとサナ」
タマキが決めた。
「後で聞く」
「後でって何分」
ミソラ。
「言い返さないで」
タマキは作業へ戻った。
札を三つに分ける。
一つ目。
呼ぶ名。
二つ目。
動く番号。
三つ目。
薬歴と処置。
呼ぶ名は本人へ確認する。
返事ができない人は、家族、所持品、以前の診療記録へ照合する。
それでも分からなければ、番号を名前の代わりにせず、仮の呼び方を選ぶまで《未確認》のまま置く。
「未確認って呼ぶの?」
「呼ばない」
「でも、何て呼ぶ」
「本人が選べない時は、病床で使う仮名を二人で付ける。起きたら変えられると伝える」
「勝手に付ける」
「勝手に固定しない」
「違いは」
「起きた後に捨てられる」
「付けた人が嫌がっても?」
「本人の名だから」
タマキは一枚目へ《窓》と書きかけた。
「どうして窓」
「この人、窓側」
「場所が変わる」
「じゃあ、薬袋から」
「薬が変わる」
「難しい」
「人を一言で固定するのは、難しいくらいでいい」
「今の、覚えやすい」
「誰から習った」
「迅」
「悪い人」
その迅は、一階搬入口で濡れた箱を運んでいた。
塩路の車列で開いた右掌は、包帯こそ外れているが、厚い革を縫った手袋で覆っている。冷えた金属を握ると右小指と薬指が痺れる。本人は《握れる》としか言わない。
「その箱、右で持たない」
ミソラが声を飛ばした。
「左で持ってる」
「右も添えてる」
「落ちる」
「二人で持つ」
「軽い」
「軽い物は一人で持っていい、って医学書はない」
「医学書に箱の持ち方ある?」
「職業病の章」
「資格ないのに詳しいな」
「喧嘩なら外」
「会話」
「顔が喧嘩」
暗闇でも分かるらしい。
迅は箱を置いた。
中身は乾燥包帯。土門小麦の鍋帳から切り離された搬送票が上へ貼ってある。
《病院へ。四十巻。返却不要。余った分は在庫へ記録。寄贈名を患者へ見せる必要なし》
「小麦は」
「北の厨房。ここへ来たら、患者より先に働く人を寝かせるって言ってた」
「正しい」
「ミソラも寝ろって言ってた」
「間違い」
「自分だけ例外?」
「今は」
「みんなそう言う」
迅は右親指で赤い紐を押さえた。
「今は、って何分」
タマキが遠くから返した。
「おまえ、よく聞こえたな」
「病院、静か」
「静かじゃない」
「機械が止まってる音が大きい」
それは正しかった。
普段なら隠れる音が、停電で剥き出しになる。
点滴の滴。
布の擦れ。
吐息。
痛みを隠すための歯ぎしり。
医療者が次の患者へ行く時の、ためらいの一歩。
ミソラの足も、今日は少し遅かった。
能力の反証で残った慢性痛は、寝不足と低気圧で骨の内側から増える。右膝。左肘。肋骨の下。誰かの傷を一瞬自分へ通した場所が、天気より正確に過去を知らせる。
「歩き方、左右違う」
迅が言った。
「箱を持つ手が左右違う人に言われたくない」
「俺は怪我」
「私も」
「何」
「診察の時間じゃない」
「患者なら順番を付けろ」
「私は職員」
「だから後回し?」
「そう」
「それ、医療の順番じゃない」
ミソラは迅を見た。
暗くて、輪郭しか見えない。
「あなた、医療者?」
「違う」
「なら、今は包帯を運んで」
「命令?」
「選択肢。運ぶ。座る。外へ出る」
「三択に見せた脅迫」
「四つ目。私の痛みの話を今ここで続ける」
「運ぶ」
迅は箱の反対側へタマキを呼んだ。
「子ども扱い」
「二人で持てって言われた」
「僕より軽い人、いる」
「名前」
「自分で探して」
「忙しい」
「じゃあ二人」
鉄箱を胸に下げたタマキが片側を持つ。
迅は左手だけで反対側。
力のある方が全部持たない。
小さい方を飾りにしない。
箱の高さを二人の中間へ合わせる。
病院の仕事は、正しい持ち方を決めるだけで遅くなる。
遅くなるから、誰か一人が全部やろうとする。
全部やった人から壊れる。
ミソラは、その順番を何度も見た。
患者より先に倒れた医療者を、英雄と呼ぶ人がいる。
倒れず交代した医療者を、逃げたと呼ぶ人もいる。
どちらの呼び方も、次の勤務表を作らない。
「十八分」
ミソラはサナへ言った。
「何が」
「二十一時までに、私を十八分寝かせる」
「今、言ったね」
「記録」
「患者が増えたら」
「変更理由を書く」
「約束」
「勤務条件」
「言い換えると逃げる人がいる」
「私」
「知ってる」
午後四時十三分。
第二系統が戻った。
階段灯は点かなかった。
代わりに、病棟の壁の向こうから酸素圧縮機が低く唸り始めた。
誰かが泣いた。
機械の音に安心したのか、暗さが戻ったことに気づいたのかは分からない。
「圧、戻る」
サナが中央管を触った。
「三十秒」
ミソラは、使者たちへ言った。
「札を外して。患者ごとに、呼ぶ名と薬歴を確認。病状で順番を付ける。異議はここで言う。患者の前で所属を叫ばない」
「中立なら全員同じに扱え」
白冠旧救護会の使者が言った。
「同じには扱わない」
ミソラは答えた。
「息が止まりそうな人を先にする。歩ける人を待たせる。感染している人を離す。薬が効かない人へ別の薬を使う。全員を同じにしたら、同じ順で死ぬ」
「では中立ではない」
「中立は、順番を付けないことじゃない。旗の色を理由に順番を変えないこと」
言ってから、ミソラは赤い手袋を見た。
右手は赤。
左手は青。
初対面の人間は、よく敵味方の色だと勘違いする。
赤は圧迫。
青は器具。
役割が違うから色が違う。
価値が違うからではない。
午後四時十九分。
三階西から担架が下りてきた。
白布を踏みながら、四人が一段ずつ進む。
先頭は壁へ左手。
二人目は担架の頭側。
三人目は腰。
四人目は足。
「止まる」
踊り場から声。
「理由」
「患者が拒否」
ミソラは階段下へ行った。
携帯灯は担架の下に置かれている。
顔を照らさない。
足元と手すりだけ。
担架の患者は、腹を両手で抱えていた。
意識あり。
息が速い。
「私はミソラ。下に手術室。移動中に血圧が下がる危険がある。上に残れば、ここでできるのは圧迫と点滴。どちらも危険」
「下、暗い」
「暗い」
「落ちる」
「四人で持つ。白布の上。三段ごとに止める」
「名前、言わないとだめか」
「呼ぶ名が必要。本人確認は別の鍵でもいい」
「藍」
「色?」
「名前にする」
「今から藍と呼ぶ。公開範囲は」
「病院だけ」
「記録する。藍。病院内呼称。外部非公開。移動は」
患者は手すりを握った。
「下へ」
「途中で止められる」
「止めたら死ぬ?」
「可能性が上がる」
「嫌な言い方」
「好きな言い方を探す時間は、今は使わない」
藍は短く笑った。
笑った直後、痛みで息を止める。
「下へ」
「復唱」
「下へ行く。名前は藍。外へ出さない」
「開始」
担架が動いた。
ミソラは先に降りない。
患者の左側へ付き、脈を取りながら一段ずつ下がる。
暗闇では、誰も顔で覚えられない。
声、体温、皮膚の湿り、握った強さ。
藍の手は冷たかった。
爪の根元に、古い青い染みがあった。
階下で、誰かが言った。