第246話 第一章「消灯命令」後編

「東棟の三番、移動済み」

 職員の声ではない。

 ミソラは足を止めた。

「誰」

 返事がない。

 担架の後ろで、靴底が一度だけ床を擦った。

 音の薄い靴。

「三番って誰」

 サナが下から聞く。

「病床番号じゃない」

 ミソラは答えた。

 藍の指が、ミソラの手首を掴んだ。

「今の声」

「知ってる?」

「知らない」

 嘘だった。

 脈が、一気に速くなった。

 階段灯の消えた壁へ、金属が触れる小さな音がした。

 名札を裏返す音だった。

 ミソラは追わなかった。

「担架、停止」

 四人の足が止まる。

「どうして」

 サナ。

「藍の脈、百四十二。階段で続けない」

「声は」

「逃げるなら逃げる」

「侵入者かもしれない」

「患者は今いる」

 ミソラは藍の手を外さなかった。

 暗闇の向こうで、もう一度、金属が触れる。

 かち。

 今度は遠い。

 追えば、誰かの背中を見つけられるかもしれない。

 追わなければ、藍の呼吸を一つ多く数えられる。

 病院では、見つけることと助けることが同じ方向を向かない時がある。

「藍。吸って。三つ。吐くのは五つ」

「できない」

「二つでいい」

「声が」

「知っている?」

「知らない」

「今、答えなくていい」

「嘘だって」

「脈が言ってる」

「脈は、私じゃない」

「そう。だから脈だけで全部決めない」

 藍は一度、短く笑った。

 笑うと胸が痛むらしい。

 すぐに息を詰まらせる。

 ミソラは担架の角度を五度上げた。

「下ろさない?」

 サナ。

「ここで二分。呼吸が落ち着かなければ、東処置室へ戻す」

「手術室は」

「今は遠い」

「二階下」

「距離じゃない」

 階段の途中にいる患者を、予定表の上だけで目的地へ近づけてはいけない。

 停電直後につくられた移動計画は、もう古かった。

 上階から、職員が叫ぶ。

「ミソラ! 補助発電、停止! 酸素圧縮機か階段灯、どちらかしか手回しを回せない!」

「酸素」

「階段で転ぶ!」

「床へ紐。人を置く。酸素」

「家族区画が暗い!」

「暗いまま」

「説明は」

「私が後で」

「いつ」

「生きている時」

 言った瞬間、自分で嫌になる。

 生きている時、という期限は広すぎる。

 人は広い期限の中で置き去りにされる。

「十五分ごとに状況を伝える。最初は四時二十五分」

 言い直す。

「誰が」

「手の空いた人」

「手が空かない」

「空いてなくても一人決める」

 返事がない。

 ミソラは叫ぶ。

「サナ、家族区画の説明役」

「私、吸引」

「交代を探す。説明は五分。戻る」

「五分で怒り終わる家族、いる?」

「いない。五分で戻る」

 サナが舌打ちする。

「受けた」

 暗闇では、役目の境界が見えない。

 見えないままにすると、声の大きい人の仕事だけが全員の仕事になる。

 ミソラは短い時刻と人の名を置いた。

 名前を隠す病院で、仕事の担当だけは隠せない。

 藍の脈が、百二十八まで落ちる。

「下りる」

 ミソラ。

「受けた」

 担架が一段動く。

 その時、下階から小さな打音がした。

 こん。

 間を置いて、二度。

 こん。こん。

「八番室」

 サナが言う。

「何」

「少年。呼び鈴が壊れてるから、ベッド柵を叩く」

「一、二は」

「水」

「三は」

「息」

「今、三だった」

「行く」

「あなたは家族区画」

「でも」

「下にいる職員へ三回返して」

 サナが階段の手すりを三度叩く。

 こん。こん。こん。

 下から、同じ数が返る。

 届いた。

 誰が行くかまでは分からない。

 だが、息が苦しいという情報は、名前より早く動いた。

 藍が訊く。

「今の子、名前は」

「言わない」

「知らない?」

「知ってる。でも、今は三回で届いた」

「名前がなくても」

「苦しい人は、苦しい」

「名前があると」

「間違えて運ばれることもある」

 藍の爪の青い染みが、ミソラの手袋へ触れた。

「私、間違えられたことがある」

「どこで」

「答えたくない」

「受けた」

「簡単に言う」

「簡単じゃない。受けた後、忘れない」

 担架が階段を下り切る。

 廊下の床に、細い紐が二本張られていた。

 片方は壁際。

 片方は中央。

 階段灯の代わり。

 人の手で持たれ、足へ触れる高さにある。

「右、壁。左、寝台」

 職員が声を出す。

「右、壁。左、寝台」

 次の職員が復唱する。

 暗闇に道ができる。

 電気ではない。

 声と紐と、人の足で作る道。

 その道の外側で、薄い靴音が一度だけ止まった。

 誰かが、病院の案内を聞いている。

「東処置室、到着」

 担架を入れる。

 藍の脈をもう一度取る。

 百二十四。

「移動記録」

 ミソラ。

「何て書く」

 職員。

「藍。胸部症状。階段途中で二分停止。四時二十八分、東処置室」

「所属」

「空欄」

「空欄だと、後で困る」

「今、書くと困る」

「誰が」

「本人」

 職員が鉛筆を止める。

 紙の所属欄は、名前欄より大きかった。

 病院が何を知りたがっていたか、停電の前から字面に出ている。

 ミソラは所属欄へ斜線を引かない。

 斜線は、確認済みの印に見える。

 小さく書く。

《治療に不要。本人希望により未確認》

「長い」

 職員。

「欄が狭い」

「所属欄を大きくした人に言って」

 四時三十一分。

 廊下の向こうで、車のエンジン音が三つ近づいてきた。

 救難車。

 音の間隔が揃っている。

 病院の中では、名札が裏返される。

 外からは、中立の白い印を付けた車列が来る。

 ミソラは藍の胸へ聴診器を当てた。

 停電で消えたのは、灯りだけではなかった。

 誰が誰を運ぶのか、その境界まで暗くなり始めていた。