第247話 第二章「白衣の中立」前編

四月十八日 午後四時四十一分

 救難車は、走っている時より、止まっている時の方が嘘をつく。

 止まった車体は安全に見える。

 エンジンは熱を持ち、酸素瓶は揺れ、患者の血圧は下がり続けていても、外からはただの箱だ。

「三台。患者十一。歩行二。座位三。臥位六。帰還者、乗員九」

 風祭澪は、外環共同病院の搬入口へ靴先を三度鳴らした。

 一、二、三。

 返事はない。

 停電で誘導灯が消え、搬入口の庇だけが夕方の灰色を残している。奥は黒い。救難車の前照灯を向ければ明るくなるが、病院の窓と患者の顔を外へ晒す。

「前照灯、消灯維持。右車、後退二。中央、停止。左車、扉だけ開く」

「復唱。右車、後退二。中央、停止。左車、扉だけ」

 隊員の声。

「速度、歩行以下。合図は低音一。高音は使うな」

「復唱。低音一」

 右耳の奥で、細い金属音が鳴っている。

 実際には鳴っていない。

 昨年七月の薬品搬送事故から残った高音域の難聴は、静かな場所ほど、聞こえない音を勝手に作る。耳鳴りと笛を間違えないため、澪は右側へ重要な声を置かない。

「隊長」

 左から声。

 若い搬送員が、指を三本立てた。

 三台。

 異常なし。

 澪は頷く。

「誰から」

 搬入口の暗がりから、子どもの声がした。

「帰路班」

「誰へ」

「外環病院」

「何のため」

「負傷者の搬送」

「搬送だけ?」

 環玉樹が出てきた。

 胸より大きい鉄箱を下げ、包帯の束を両腕で抱えている。右側には竜胆迅。彼の右手は添えるだけで、左手へ重さを寄せていた。

「酸素瓶四。乾燥包帯。固定具。帰りに動かせる患者がいれば運ぶ」

「帰り先は」

「北医療路か、西診療所。状態と本人の希望で決める」

「最初から二つある」

「三つ目もある。ここへ残る」

「いい答え」

「答えじゃなく予定」

 タマキは箱を受け取ろうとした。

「置け」

 澪。

「何」

「先に患者。物資は動かない」

「包帯、患者に使う」

「搬入口を塞ぐ」

「どこへ」

「壁側。白線の外」

「白線、見えない」

「足で探せ」

「白い意味ない」

「今は線の意味がある」

 タマキは靴先で床を探った。

 盛り上がった塗料を見つけ、包帯箱を線の外へ置く。

「白じゃなく、でこぼこ線」

「記録」

「誰が」

「今、言った」

「帰路帳に書く?」

「あとで」

「あとでって――」

「二十分以内」

 先に言うと、タマキは少し不満そうだった。

「人は質問の前に答えると怒る」

 迅。

「どうして」

「仕事を取られた気がする」

「決め台詞みたいに言うな」

 タマキが迅へ返した。

「俺の台詞だった」

「配達した」

 左車の後扉を開く。

 血の匂い。

 濡れた布。

 吐瀉物の酸味。

 車体の鉄が冷え始める匂い。

「一人目。仮名、ツバメ。十代後半。腹部穿通。出血制御不十分。意識変動。酸素、毎分六。北西路で収容」

「本人の希望」

 タマキ。

「外環病院」

「聞けた?」

「三十分前。今は返事なし」

「確認」

「記録あり。声は限定」

「搬入」

 澪は担架の頭側へ入った。

 自分で持つのではない。

 隊員の手の位置を確認する。

「頭、二人。腰、一人。足、一人。段差四センチ。左から入る。三、二、一」

 担架が動く。

 病院の奥から、低い声が来た。

「止めて」

 澪は笛へ手を掛けた。

 吹かない。

「理由」

「担架の右を下げて。腹が張ってる」

 淡い水色のフード。

 右手に赤い手袋、左手に青い手袋。

 初対面の少女が、暗がりから手だけを出した。

「右を下げたら、穿通側が下になる」

「今、腹腔内へ溜まってる。水平に戻す。揺らさない」

「北医療路へ出す。ここは停電」

「出さない」

「向こうは発電が動いてる」

「移動二十七分。血圧、今八十を切ってる」

「測れた?」

「脈圧で。橈骨、触れにくい。腹部膨満増加」

「手術灯は」

「携帯灯二。酸素優先で階段灯を切った」

「ここで開ける?」

「開ける」

「資格」

「執刀は資格医。私は救急」

「名前」

「時雨ミソラ」

「責任範囲」

「今の患者を入口から手術室へ入れるまで。手術前の循環維持。順番の決定」

「搬送は私」

「病院へ入った後は私」

「まだ車輪が外」

「患者の腹は境界線を知らない」

 迅が少し離れた場所で言った。

「格好よくまとめて――」

 タマキが言いかける。

「今のは私じゃない」

 ミソラ。

「じゃあ、言わない」

 澪はミソラの左へ回った。

 右から話しかけない。

 初対面の相手がそれを知っているはずはない。それでも、自分から位置を変える。

「患者、ツバメ。三十分前に外環病院を希望。現在、応答なし。私は北医療路への再搬送を提案する。理由、電力、血液、手術設備」

「私は残留を選ぶ。理由、移動時間、循環不安定、腹部所見」

「血液は」

「適合確認済み二単位。一つは手術中。もう一つを使う」

「次の患者分がなくなる」

「次の患者は、今これより時間がある」

「北へ運べば、血液は四単位」

「着けば」

「帰路班が運ぶ」

「帰路班は血圧を作れない」

「病院は道を作れない」

 二人の間に担架がある。

 議論の机ではない。

 言葉が長くなるほど、患者の脈が細くなる場所だ。

「ツバメ、聞こえる?」

 ミソラが患者の肩へ触れた。

 反応なし。

「痛み刺激」

 胸骨へ圧。

 微かに顔が動く。

「名前はツバメでいい?」

 返事なし。

「北へ運ぶ。ここへ残る。分かる方へ指を動かして」

 動かない。

 澪は患者の右手を見た。

 指先が担架布を掴んでいる。

「車が止まった時から、この握り」

「硬直?」

「違う。段差で強くなる」

「揺れが怖い」

「可能性」

「記録」

 ミソラは脈を取り直した。

「今、移動の危険が上がってる。外科医を入口へ呼ぶ」

「手術室から離せない」

「では私が決める。ここへ入れる」

「誰の命令」

「患者の三十分前の選択と、今の病状。私の医療判断」

「失敗したら」

「私の名で説明する」

「成功しても」

「患者の生存を私の功績にしない」

 言い切る声だった。

 澪は、同じ声を知っている。

 凱の声。

 自分の声。

 命令を出す者は、迷いを消したように話す。

 ミソラの左手は、患者の脈へ触れたまま震えていた。

 迷っている。

 迷いを隠しているのではない。

 迷いながら、時間を使う場所を決めている。

「残す」

 澪は言った。

「帰路班、搬入へ変更。北医療路への車は、次の候補へ回す」

「復唱」

 隊員たちが返す。

「ツバメ、外環病院へ搬入。北医療路、取消」

「取消理由」

「循環不安定。移動二十七分に耐えないと現場判断」

「判断者」

「時雨ミソラ。搬送変更者、風祭澪」

「開始」

 担架が動く。

 ミソラが頭側へ付き、澪は足元の段差を先に確認した。

 搬送の主導権を渡した。

 患者の責任まで渡したわけではない。

 違いを帰路帳へ書かなければ、後でどちらか一人の勝ちになる。

 今は書く手がない。

 だから澪は、靴先を二度鳴らした。

 変更。

 記憶。

 三度目は、患者が手術室へ着いてから鳴らす。

 午後五時三分

 二人目は座位搬送だった。

 仮名、シロップ。

 十九歳。

 左前腕骨折。頭部打撲。嘔吐一回。意識清明。

「北へ行く」

 本人が言った。

「ここで診る」

 ミソラ。

「北へ行く」

「理由」

「弟が北にいる」

「治療の設備は、ここでも足りる」

「弟はここにいない」

「移動で吐く可能性」

「吐いても行く」

「頭の出血があれば、二十七分で悪化する」

「ここで暗いまま待つ方が嫌だ」

「怖いから?」

「理由を小さくするな」

 シロップの声は明瞭だった。

「弟に、生きてるって言う。ここで診ても、それはできない」

 ミソラは一拍置いた。

「北へ連絡は」

「回線がない」

 澪。

「車は」

「一台出せる。座位三、歩行二と同乗。帰路班二名」

「途中で意識が落ちた時の対応」

「旧料金所で一度確認。西水門に臨時処置所。引き返し条件は、反応低下、瞳孔差、繰り返す嘔吐」

「本人へ説明」

 澪はシロップの左側へ立った。

「北医療路まで二十七分。途中、暗い区間九分。頭部出血があれば悪化する。旧料金所と西水門で確認する。反応低下、左右の瞳差、二度目の嘔吐で戻るか最寄りへ入る。弟へ着く保証はない」

「行く」

「途中で変更できる」

「行く」

「呼ぶ名はシロップでいい」

「それはやめる」

「何と呼ぶ」

「近江」

「公開範囲」

「車の中と北医療路。弟には全部」

「家族確認の鍵」

「右足の小指。生まれつき爪が二つ」

「薬歴」

「青い抗菌薬で発疹」

 ミソラが復唱した。

「近江。北へ搬送。本人選択。家族鍵、右足小指の爪。青い抗菌薬で発疹歴。頭部打撲。途中変更可」

「行かせる?」

 澪。

「行くと本人が言った」

「さっきは残した」

「さっきは答えられなかった」

「設備はここで足りる」

「設備だけで行先は決まらない」

「患者の希望だけでも決まらない」

「だから危険を説明した」

「弟に会うことは治療?」

「本人には」

 ミソラは近江へ向いた。

「弟に会えなければ、何が起きる?」

「弟が、俺が死んだと思う」

「あなたの症状にどう影響する」

「眠れない。暴れる。たぶん、車から降りる」

「それは治療方針に入る」

 澪は、担架の留め具を確認した。

「北へ。帰還予定は」

「車両だけ、二十一時。患者は戻さない」

「帰路帳に分ける」

「車と人を同じ帰還欄に入れないで」

「分かってる」

「前に入れた人の声」

「今は入れない」

 ミソラは、勝った顔をしない。

 澪も負けた顔をしない。

 一人を残し、一人を運ぶ。

 正反対の判断が、同じ専門の中に並ぶ。

 それを矛盾と呼べば、患者はどちらかへ押し込まれる。

 午後五時二十七分

 獅堂凱が搬入口へ来た。

 白い長外套の裾は膝下で切られ、左膝に黒い装具。暗い中でも、人が無意識に道を空ける。

 凱は中央へ立たず、壁側へ寄った。

「何が要る」

「命令以外」

 澪。

「具体的に」

「家族待機区画の整理。階段を塞がない。所属ごとに並べない。名前を叫ばせない」

「俺が行えば、旧白冠の患者が従う」

「だから、あなた一人でやらない。各区画から一人ずつ。あなたは時刻と理由を読む」

「了解」

「復唱」

「家族待機区画を整理する。所属別の列を作らない。通路幅一・二メートルを保つ。患者名を廊下へ叫ばせない。俺は命令者ではなく、変更時刻と理由を読む」

「最後」

「二十分ごとに交代を確認する」

「あなたも」

「何が」

「立位」

 凱の膝装具が、歩くたび小さく鳴る。

「問題ない」

「問題が起きる前の言葉」

「一時間ごとに座る」

「三十分」

「四十五」

「医療を値切るな」

 ミソラが遠くから言った。

 凱は少しだけ口元を動かした。

「四十分」

「三十五」

 澪。

「隊長が値切っている」

「私は救難」

「膝は医療」

「三十五」

 凱は頷いた。

「誰が確認する」

「タマキ」

「聞いてない」

 タマキ。

「今頼む」

「何のため」

「凱が座るため」

「本人は座りたい?」

「必要だ」

「本人に聞いて」

 凱はタマキへ向く。

「三十五分ごとに、俺へ座るよう言ってくれ」

「命令?」

「依頼」

「断ったら」

「別の人へ頼む」

「料金」

「いくら」

「一回、椅子一脚運ぶ」

「俺が?」

「座る椅子」

「分かった」

「今のは依頼を受けた分かった」

「細かい」

「真琴に言って」

 凱は、言わなかった。

 午後五時五十分

 左車が出発した。

 近江を含む座位三名。

 歩行二名。

 帰路班二名。

 運転一名。

「進行、低音一」

 澪は一番太い真鍮笛を吹いた。

 低い音が、搬入口の壁へ当たる。

 右耳では輪郭がぼやける。

 左耳と足裏へ、音の戻りが来る。

 車体が動く。

 乗員七。

 患者五。

 計十二。

 靴先を三度。

 一、二、三。

 帰還欄には車両と乗員だけ。

 患者は北医療路の受領が成立するまで移動中。

 澪は帰路帳へ書こうとした。

 暗い。

「灯り」

 七瀬が小さな覆い付き灯を出した。

「手元だけ。顔へ向けない」

「記録中?」

「映像は止めています。時刻だけ」

「なぜ」

「患者の顔と所属札が同じ画面へ入る。赤外線なら撮れるけれど、外部から顔の輪郭を復元される」

「見えない時の記録は」

「考えています」

「今?」

「今しかない」

 ミソラと同じ言い方だった。

 澪は帰路帳へ記す。

《十七時五十分。北医療路へ一台。患者五。本人選択一、継続搬送四。乗員三。車両帰還予定二十一時。患者帰還欄へ入れず》

「残り車両」

「中央一、右一」

 隊員が答えた。

「中立車は」

「地下搬入口へ回した」

 澪の鉛筆が止まる。

「誰の命令」

「隊長の変更札」

「私は出してない」

 隊員の顔は見えない。

 声だけが硬くなる。

「橙札でした。三角穴二つ。署名、風祭」

「見せて」

「車へ渡しました」

「運転手」

「南野」

「同乗」

「一人。白衣。名前は――」

 隊員が言い淀む。

「確認してない?」

「病院の人だと」

「名前」

「聞いてない」

「用途」

「酸素瓶を地下へ」

「誰へ」

「発電室」

「発電室は酸素瓶を頼んでない」

 澪は一番小さい笛を握った。

 吹かない。

「中立車、車番」

「四号」

「積荷」

「酸素瓶二。空担架一。予備腕章。無記名患者札。燃料缶半分」

「出た時刻」

「十七時三十二分」

「十八分前」

 澪は搬入口の床へ左手を付いた。

 車の振動は、もうない。

 地下へ入ったなら、斜路の鉄板が三度鳴る。

 誰も聞いていない。

「地下、確認」

 迅が動く。

「待って」

 澪。

「十八分」

「だから、一人で追わない。地下出口、東西二つ。病院車を見たら警備は通す」

「どうする」

「車を探す前に、同じ札を止める」

 澪は隊員全員へ向いた。

「変更命令は、声と札の二つ。声が聞けない時は、本人へ三歩以内で復唱。私の署名だけで車を動かすな」

「復唱。声と札。三歩以内」

「私が右側にいたら」

 隊員たちは一拍迷った。

「左へ回る」

「復唱」

「隊長の左へ回る」

「聞こえなかった報告は、報告者の失敗にしない。変更記録へ残す」

「復唱」

 声が重なる。

 暗闇で、命令は届いたように聞こえやすい。

 誰の口も見えないからだ。

「南野へ連絡」

「無線、応答なし」

「車載発信は」

「切れてる」

「切断時刻」

「十七時三十六分」

 出発四分後。

 計画されている。

「四号車は中立印を付けてる」

 凱。

「どの検問も止めにくい」

「病院の印で人を運び出せる」

 七瀬。

「患者札は無記名」

 タマキ。

「誰でも患者にできる」

「違う」

 ミソラが来た。

 手袋に血。

 淡水色のフードの縁まで汗が濡れている。

「札があっても患者にはならない。診察と本人確認が要る」

「今、病院の外はそう思わない」

 澪。

「なら、外の誤解も直す」

「車を先に止める」

「中の患者を先に守る」

「またそれ?」

「まだ終わってない」

「車が戻れば、酸素と札が戻る」

「車を追って病院の人を減らせば、ここで死ぬ」

「追わなければ、車で誰かを連れ去られる」

「だから分ける」

「人数」

「迅、轟、帰路班二。病院内は私、サナ、残りの班。凱は家族区画。七瀬は記録。タマキは札」

「誰が決めた」

「今、私が案を出した」

「搬送路の指揮は私」

「院内は私」

「車は外」

「盗まれた理由は中」

 二人の声が近づく。

 間に立った迅が、左右を見た。

「俺、今、何か言う役?」

「黙って」

 二人が同時に言った。

「分かった」

「今の分かったは、どっちへ」

 タマキ。

「黙る方」

 迅は本当に黙った。

 澪は息を一度吐いた。

「四人出す。院内から追加は取らない。追跡は車の回収より、経路と誰を載せたかの確認。発見しても単独接触しない」

「同意」

 ミソラ。

「患者を運び出す場合は」

「本人の呼ぶ名、照合鍵、治療同意がなければ止める」

「検問へ何を伝える」

「中立印だけでは患者搬送を証明しない」

「それでいい」

 和解ではない。

 仕事の境界へ、一本線を引いただけだ。

 線は、暗い床の白塗料と同じだった。

 見えなくても、足で確かめられる。

 午後六時十一分。

 轟が地下斜路から戻ってきた。

「鉄板、二回しか鳴ってない」

「何が分かる」

「四号車、地下へ最後まで下りてない。途中で右へ切った」

「右は廃洗濯路」

 サナ。

「車幅、足りない」

「鏡、畳んだ」

 轟は壁の擦過痕を指でなぞった。

「新しい。右側面、擦ってる。急いだ」

 迅が床へ踵を擦る。

「追う」

「四人」

 澪。

「分かってる」

「復唱」

「迅、轟、帰路班二。車の回収より経路と乗員確認。見つけても単独接触しない」

「右手」

「殴らない」

「用途を勝手に決めるな」

「じゃあ、使わない」

「それでいい」

 迅は、少し不満そうだった。

 四人が廃洗濯路へ入る。

 澪は一番太い笛を一度だけ鳴らした。

 進行。

 意味を事前に知る者だけが動く。

 それでも、笛を聞いた全員が同じ方向へ行くわけではない。

 ミソラは病室へ戻る。

 凱は家族区画へ上がる。

 七瀬は録音機を持って暗闇へ立つ。

 タマキは札を三つに分ける。

 命令が届いた証拠は、同じ動きをすることではない。

 自分の役割へ戻れることだった。

 午後六時二十五分。

 廃洗濯路の外から、無線が入る。

『車体発見』

 迅の声。

「乗員」

『いない』

「酸素瓶」

『一本ない。担架もない』

「南野」

『運転席に血。量は少ない。外へ続く足跡、二人分』

「病院側へ戻る足跡は」

 少し間。

『一人分』

「靴底」

『音の出ない布。病院へ入ってる』

 澪は右耳の耳鳴りを指で押さえた。

 盗まれた車は、病院から敵を運び出したのではない。

 病院へ、誰かを戻した。

 四号車の白い中立印だけが、夕闇の路肩で光っていた。

「白印を覆う」

 澪が言った。

 無線の向こうで迅が聞き返す。

『車ごと?』

「側面と屋根。回収中は中立車として扱わない」

『見つけやすい印なのに』

「使われた」

『悪いのは印じゃない』

「印を見て、病院が扉を開ける」

『じゃあ悪いな』

「復唱」

『四号車の白印を覆う。回収中、中立車として扱わない』

「受けた」

 澪は無線を切る。

 隊員の一人が訊く。

「覆ったら、こちらの車だと分かりません」

「番号で確認」

「暗い」

「前後二人。呼びかけ、番号、乗員名、積載」

「時間がかかる」

「白いだけで開けるより短い」

「今までは、それで通れた」

「今までが終わった」

 言ってから、澪は右耳を押さえた。

 耳鳴りの向こうで、細い音が続いている。

 高い笛ではない。

 救難車の冷却金属が、夜気で縮む音。

 音を間違えると、命令を間違える。

 命令を間違えると、人を運ぶ車が、人を奪う道になる。

 中央車の中から、近江が顔を出した。

 移送を自分で選んだ患者。

「白い車なら安全じゃないの」

「安全にするための印」

「同じこと」

「違う。印だけでは安全じゃない」

「じゃあ、何のため」

 澪は答えを探した。

 病院を急いでいる患者へ、制度の失敗を長く説明する時間はない。

「見つけるため」

「味方が?」

「助ける人と、利用する人が」

「怖い印ね」

「そう」

「外す?」

「今は覆う」

「また使う?」

「使い方を変えてから」

 近江は窓を閉めない。

「私が乗ってる車は」

「二号。白印あり。乗員、患者、行先を三者確認した」

「安全?」

「今、ここでは」

「先のことは」

「言わない」

「正直」

「仕事」

 近江が笑う。

「正直を仕事にすると、嫌われるわよ」

「もう」

「誰に」

「多い」

 窓が閉まる。

 澪は車体を一周した。

 荷室扉。

 酸素固定具。

 担架受け。

 床の水。

 動かせる車でも、今動かすかは別だ。

「一号車、患者搬入。二号車、近江を含む残留者。三号車、空荷化して病院前待機。四号車、回収後は封鎖」