第194話 第十一章「開く柵」後編
午前十一時二十分
九人の所在を、九人として確かめた。
六人は内柵から出た。
二人は診療棟で照合を続ける。
一人は所在を伏せたまま、自発的退出だけを記録する。
十二の名と十三の番号は、消さない。
誤りだったから消すのではない。
なぜ九人が十二人になったのかを残すために、横線を引き、同一人符号を付ける。
真琴が言う。
「訂正履歴を保存します。元の記録を削除すると、誰がどの名で扱われたか証明できません」
「間違った名前を残すの」
由良。
「本人名の下に置きます。順番が大事です」
「一番上」
「本人が現在使う名」
「次」
「天環式」
「次」
「剛嶺式」
「番号」
「別紙。人の名前と同じ欄へ置きません」
「死者扱い」
「訂正理由と、誰が訂正を要求したか」
「誰」
真琴はナツを見る。
「本人です」
ナツが頷いた。
「母じゃない」
「家族申告は照合根拠として残します。訂正主体は本人」
由良は紙を見た。
一番上に、ナツ。
灰谷でも、石輪でもない。
どちらも消えてはいない。
上に置かれていないだけだ。
順番は、街の大きさより軽く見える。
だが、人を街へ押し込む時、最初に変えられるのは順番なのかもしれない。
「署名」
真壁が言った。
巌門の前へ、三枚の書面を出す。
一枚目。
《発砲準備停止記録》
二枚目。
《身元照合中発砲禁止条項の優先適用》
三枚目。
《臨時三方向開門および現場責任》
「一枚にできない?」
タマキ。
「できる」
真壁。
「じゃあ」
「一枚にすると、停止判断と名簿訂正と開門判断が同じ責任になります」
「違う?」
「停止は巌門隊長。緊急停止は私。最初に武器を下ろしたのは瀬尾。本人確認は各照合者。開門設備は警備。三方向の行先は本人」
「いっぱい」
「いっぱいです」
巌門が筆を取る。
右肩がわずかに揺れる。
古い手術痕。
固定地面に長く立った時の、微かな身体の揺れ。
由良はそれを知っている。
歩く街で育った人間が、止まった地面を信じ切れない時の揺れ。
「副隊長の命令違反を、隊長判断へ統合しますか」
真壁が訊く。
「しない」
「統合すれば、私への処分理由は消えます」
「消せば、おまえが止めた事実も消える」
「瀬尾の発砲拒否は」
「別記録」
「隊長命令へ従わなかった」
「その時点では、私が間違った命令を維持していた」
「上位命令は」
「受領した。現場で停止した。責任は私」
巌門は書く。
《八時三十五分二十七秒。身元照合対象の存在および命令相互矛盾を現認。現場隊長権限により発砲準備を停止。上位命令受領の事実は消去しない。副隊長真壁梓の緊急停止、兵員瀬尾直の発砲拒否を独立記録とする。両名の行為を隊長判断へ遡及統合しない。現場判断の最終責任は、巌門崇牙。》
最後に、肩書を書く。
《剛嶺期限付城主兼、共同境界臨時警備隊長》
長い。
長い肩書は、権限が多いことを表す。
責任も多いと書かなければ、ただ便利なだけになる。
巌門は署名した。
筆先から落ちた墨が、時刻欄の横へ小さく滲む。
「おまえも」
巌門が真壁へ筆を渡す。
「私は停止者欄へ」
「そうしろ」
瀬尾も書く。
字が震えた。
「処分は」
瀬尾が訊く。
「別に審理する」
巌門。
「なくならない」
「なくならない」
「水を渡した件も」
「残る」
「銃を置いた件も」
「残る」
「分かりました」
「怖いか」
「はい」
「書け」
「何を」
「怖かったと」
瀬尾は余白へ書いた。
《処分を恐れた。命令確認が終わる前に撃つ方を、もっと恐れた。》
巌門は消さなかった。
正午
迅は、巌門の前へ立った。
封印帯の巻かれた両手。
七歩を取れば攻撃行為と扱われる。
一歩でも、今は必要ない。
巌門は石灰色の外套を着直した。肩板はまだ脇へ置かれている。鎖を切った時についた鉄粉が、右の袖へ残っていた。
「殴らないのか」
巌門が訊いた。
「理由」
「おまえは、王を殴った男だと聞いた」
「凱は王じゃない」
「当時は」
「殴った時には、少し違った」
「私も違うと?」
「知らない」
「では、確かめろ」
巌門は顎を少し上げた。
挑発ではない。
自分の判断が身体で裁かれるなら、それを受ける覚悟に見えた。
迅は右拳を作ろうとした。
封印帯が皮膚へ擦れる。
小指と薬指に、冬の痺れ。
拳は途中で止まる。
「殴ったら」
迅が言う。
「おまえ一人の負けになる」
「違うのか」
「今日は、瀬尾が銃を置いた。真壁が止めた。おまえが署名した。ナツたちが歩いた」
「だから」
「一人にしない」
巌門は、迅の手を見る。
「私を許すのか」
「してない」
「では何だ」
「扉、まだ四十センチ」
「必要幅だ」
「担架、擦る」
迅は柵へ向かった。
医療員が次の搬送のために、扉をあと十センチ開けようとしている。
地面の木楔がずれた。
迅は左足で楔を押さえ、左手で扉の端を支える。
右手は使わない。
「殴るより先にやることがある、か」
巌門。
「殴って直るなら、後」
「直らない」
「じゃあ、なし」
轟が横から言った。
「喋ってないで持て。隊長」
「技術責任者はおまえか」
「いまは俺」
巌門が扉へ手を掛けた。
迅と反対側。
「五センチ」
轟。
二人が持ち上げる。
警備兵が楔を入れる。
「止め」
十センチ広がる。
担架が通る。
人が、誰にも押されずに出る。
白布は地面にある。
旗ではない。
左、右、中央へ折れた布の上を、靴がそれぞれの速さで進んでいく。
由良は赤索を胸へ巻き直した。
帰すための索ではない。
迷った人を引くためでもない。
転びそうな時だけ、差し出す。
それなら、案内人の仕事として持っていられる。
内柵は開いた。
全開ではない。
開いた幅を、誰が決めたか。
切った鎖を、誰が付けたか。
歩いた人が、どちらへ行ったか。
全部、別の紙へ残る。
紙の端で、巌門の署名だけがまだ乾いていなかった。