第193話 第十一章「開く柵」前編

一月二十八日 午前八時四十六分

 柵は、開く時にも人を止める。

 鷹取由良は、内柵の錠が外れるのを見ていた。

 一つ目。

 上部横錠。

 二つ目。

 中央回転錠。

 三つ目。

 下部固定爪。

 四つ目。

 非常時だけ使う二重鎖。

 五つ目。

 警備記録用の封印線。

 五つ全部が外れても、扉は動かなかった。

「錆びてる」

 警備兵が言う。

「昨日まで開いた」

「昨日、開けた?」

 由良。

「点検記録上は」

「人の答え」

「私は夜番だ。見ていない」

「点検した人」

「交代済み」

「呼んで」

「時間が」

「じゃあ開ける」

 由良が柵へ手を出す。

「触るな」

 巌門。

「照合経路を開くんだろ」

「設備操作は警備が行う」

「動いてない」

「いま確認する」

「確認中」

「便利な言葉だ」

 巌門が由良を見る。

「おまえたちが使い始めた」

「使ってたのはそっち」

「使い方を変えたのは、そちらだ」

 内柵の向こうで、収容小屋の窓から六つの気配が見ている。

 医療班は到着した。

 担架二台。

 毛布。

 湯袋。

 飲料水。

 だが柵が開かない。

 人間を撃つ命令は止まった。

 錆びた蝶番は、命令を聞かない。

「轟」

 由良が振り向く。

 伏見轟は、柵の下端へしゃがんでいた。工具はない。左肩を上げず、右手で地面の隙間を触っている。

「錆じゃない」

「何」

「下、沈んでる。扉の左端が地面噛んでる」

「持ち上げる?」

「重さ、四百くらい」

「四百何」

「キロ」

「持てる?」

「右だけじゃ無理」

「私の索」

「金具、封印」

「布で巻く」

「引く角度ない」

「じゃあ、警備の工具」

 轟は柵の横にある設備箱を指した。

「鍵」

 警備兵が巌門を見る。

 巌門は古い家の鍵ではなく、腰の鍵束を出した。

 設備箱を開ける。

 中には、手動ジャッキ、短い鉄梃、滑車、木楔。

 轟の顔が少し明るくなる。

「貸せ」

「警備設備だ」

「じゃあ警備が使え。俺が言う」

「おまえが責任者か」

「設備は今、誰」

 凱が箱へ座ったまま言う。

「修理なら轟だ」

 左膝へ冷却布を巻いている。立てるが、立たない。立つ役を終えたからだ。

 巌門は一瞬だけ迷い、警備兵へ命じた。

「作業責任、境界警備。技術指示、伏見轟。記録、真壁。停止条件、扉転倒、内側接触、作業者負傷」

「人、扉の向こう」

 轟。

「分かっている」

「開いた時、飛び出すかもしれない」

「警備が止める」

「止めるな。受ける」

「違いは」

「止めると押し返す。受けると転ばせない」

 巌門は医療班へ目を向ける。

「担架を扉正面から外せ。左右へ一台ずつ。盾兵、盾を地面へ寝かせろ。人の壁にするな。白布の経路だけ空ける」

 由良は巌門を見る。

「学んだ?」

「現場判断だ」

「褒めてない」

「知っている」

 作業が始まる。

 手動ジャッキを扉左端へ。

 木楔を地面との間へ。

 鉄梃を、右下の補強板へ。

「蝶番じゃなく、戸先を上げる」

 轟が言う。

「一気にやるな。二ミリ。楔。二ミリ。楔。左肩より腰。梃子は寝かせろ」

 警備兵二人が鉄梃へ体重を掛ける。

 扉が軋む。

「止め!」

 轟。

 全員が止まる。

「下の鎖、一本残ってる」

「外した」

「外れてない。土に埋まってる」

 警備兵が泥を掘る。

 古い鎖が出た。

 記録にも、錠一覧にもない。

「誰が付けた」

 真壁。

「不明」

「使用開始時期」

「錆から、半年以上」

 轟。

「点検記録には」

「ない」

「これが、扉を開けなかった」

「いや」

 轟が鎖を持つ。

「開けないようにしてた」

 由良の腹が冷える。

 臨時の鎖。

 記録なし。

 誰かが人を入れた後、現場で追加した。

「切る」

 巌門。

「誰の命令で付けたか確認を――」

 真壁が言う。

「切った後に調べる」

「現状保存は」

「写真を」

 七瀬が機械を上げる。

「鎖だけ。周囲の配置は入れない。時刻と発見者」

「認める」

 撮影。

 鎖の輪。

 地面の埋まり方。

 工具痕。

 切断前。

 七瀬が止める。

「誰が切る」

 タマキ。

「警備」

 巌門。

「名前」

「私が」

 巌門は設備箱から大型切断具を取った。

 肩板を外す。

 右肩の古い手術痕が、外套の襟から少し見える。

 切断具を両手で持つ。

 右肩を庇い、腰を落とす。

「一人では」

 轟。

「できる」

「できると、壊さないは別」

 巌門が轟を見る。

「右手を上。左、支点。肩じゃなく脚で閉じる」

「おまえが持て」

「左肩、上げられん」

「では、誰が」

 瀬尾が前へ出る。

「補助します」

 巌門の目が動く。

 処分待機中の兵。

 二度命令違反をした兵。

「右側へ」

 巌門が言う。

 瀬尾が切断具の片方を持つ。

「三で」

 轟。

「一、二、三」

 二人が脚で押す。

 鎖が潰れる。

 一度では切れない。

「戻せ。歯を半分ずらす」

 もう一度。

「一、二、三」

 鎖が切れた。

 音は、銃声より小さい。

 収容小屋の中で、誰かが泣いた。

 午前九時七分

 内柵は、四十センチだけ開いた。

 一人ずつ通れる幅。

 広く開ければ速い。

 広く開ければ、人が一斉に動く。

 由良は、狭さを嫌った。

 同時に、今は必要だと分かっていた。

「最初、医療班」

 巌門。

「本人へ説明が先」

 真琴。

「医療緊急性がある」

「拒否権を説明する時間は」

「担架を入れながら行う」

「誰が」

「医療班と、照合者一名」

「由良が行く」

 由良が言う。

「理由」

 巌門。

「中の言葉を知ってる」

「全員を?」

「仕事名は」

「天環名は」

「七瀬の紙」

「手続きは」

「真琴が外から言う」

「一名だ」

「じゃあ、私」

「撮影は」

 七瀬。

「まだ入れない」

 由良。

「顔を撮らない」

「中の人へ、まず訊く」

 七瀬は頷いた。

 由良は内柵を通る。

 封印帯。

 赤索。

 畳まれた凧骨。

 全部が身体へ重い。

 収容小屋の扉前へ行く。

 鎖を外す。

 鍵は開いている。

「ナツ」

「いる」

「扉、開ける」

「誰を連れてる」

「医療二人。武器なし」

「兵は」

「柵の外」

「由良は」

「ここ」

「知ってる」

 扉が、内側から少し開く。

 ナツの顔が見える。

 由良が覚えていた十七歳の顔より、頬が細い。髪は肩で切れている。右手首の傷。左頬に新しい擦り傷。

 由良は名前を呼ぼうとした。

「帰ろう」

 先に出た。

 ナツの顔が変わった。

「どこへ」

「剛嶺」

「また決めた」

 由良の胸へ、釘が飛んできたようだった。

「違う。帰れる場所を――」

「私は、帰るって言った?」

「言ってない」

「天環へ行くとも言ってない」

「分かってる」

「分かってない顔」

 昔と同じ返し。

 由良は喉の言葉を全部飲んだ。

「……扉を開ける」

「それだけ?」

「それだけ」

「遅い」

「知ってる」

 ナツは扉を開いた。

 午前九時十四分

 収容小屋には、六人いた。

 一人目。

 ナツ。

 天環側申告名、灰谷ナツ。

 剛嶺側呼称、石輪ナツ。

 検問番号、P-B03-071。

 本人が今使う名、ナツ。

 二人目。

 間宮努。

 剛嶺では北梁二番のツトム。

 検問番号は二つあった。P-B03-074とP-B03-079。同じ人間が、天環名と剛嶺名で別々に受付された。右足首を捻挫。歩けるが、長距離は無理。

 三人目。

 相良ミイ。

 剛嶺では焼炉ミイ。

 高熱。脱水。天環名簿では年齢二十四、剛嶺名簿では作業年数七。年齢欄が空白だったため、別人扱い。

 四人目。

 紙屋セツ。

 白車セツ。

 六十六歳。左耳が聞こえにくい。名前を三度聞かれ、三度目に苛立って違う番号を言い、それが正式登録された。

「私が悪いみたいに書くな」

 セツが言う。

「本人申告として記録します」

 真琴が柵の外から答える。

《苛立って虚偽番号を申告》ではなく、《同一質問の反復に対する抗議として任意番号を発言》

「長い」

「短くすると、あなたが嘘をついたことになります」

「じゃあ長くしろ」

 五人目。

 牧田蓮。

 端索レン。

 十九歳。両手に縄擦れ。移送車の荷留めを外そうとして負傷。拘束ではなく《安全作業》として車内の固定索を結ばされていた。

「賃金は」

 タマキが外から訊く。

「ない」

「仕事じゃない」

「命令だった」

「誰の」

「番号しか知らない」

「後で探す」

「何を」

「賃金」

「今?」

「後」

「面倒な人だな」

「よく言われる」

 六人目。

 川路オト。

 剛嶺では風棚オト。

 本人は、どちらも使わないと言った。

「じゃあ、何と書く」

 由良。

「オト」

「家族名は」

「今はいらない」

「性別欄」

「空けて」

「医療確認で必要な場合は」

「その医療者にだけ言う」

「分かった」

「すぐ言うんだ」

「真琴じゃないから」

「聞こえてます」

 柵の向こうから真琴が言った。

 六人。

 十二の名。

 十三の番号。

 同じ人が増え、別の人が減っていた。

 由良の名簿は十二行。

 天環は八人。

 剛嶺は十人。

 現実は、どの数にも従わない。

「他の人」

 由良が訊く。

 ナツが答える。

「二人は診療棟。咳がひどい人と、手を怪我した子。名前を出したくないって」

「生存確認は」

「昨日、医療員が来た。番号だけ書いた」

「場所」

「共同診療棟二」

「もう一人」

「自分で出た。夜に境界滞在札をもらって、西の臨時宿へ。場所は言わないでって」

「何人分の名を持ってた」

「三つ。外輪三十二号、石灰番キリ、天環では氏名不詳」

 同じ人だった。

 十二の名は、九人。

 六人がここ。

 二人が診療棟。

 一人が、自分で出た。

 全員の顔を今ここで確認できるわけではない。

 だが、少なくとも、数字が人の数と一致しない理由は見えた。

「診療棟の二人へ、こちらから連絡する」

 七瀬。

「本人同意が取れた範囲だけ。西の人は所在非公開のまま、生存と自発的退出だけを両側へ通知」

「剛嶺へも?」

 由良。

「本人が拒否すれば、照合済み・詳細非公開だけ」

「寝台登録は」

「空欄になる」

「配給が」

「本人へ、生活上の不利益も説明する」

「それでも拒否したら」

「拒否を優先する」

 由良は、すぐに頷けなかった。

 剛嶺で名前がない人間は、生活が難しい。

 だが、名前を戻すことが、本人を戻すことになる場合もある。

「説明は私もする」

 由良が言う。

「剛嶺で名前を伏せると何が起きるか。戻せば誰が追うか。私が知ってる範囲」

「戻れって言わない?」

 ナツ。

「言わない」

「言いそうな顔」

「顔は同意書じゃない」

「それ、誰の言葉」

「借りた」

「返して」

「料金は」

「釘」

「まだ投げる?」

「走ったら」

 由良は、少し笑った。

「じゃあ走らない」

「嘘」

「今は」

「便利」

 午前九時四十二分

 医療班が入った。

 最初にミイ。

 高熱。

 担架を拒否した。

「歩ける」

「脈が速い」

 医療員。

「歩ける」

「倒れたら、誰が運ぶ」

「私」

「倒れた本人は運べません」

「由良」

 ミイが言う。

「何」

「背負って」

 由良は一瞬、戸惑った。

「担架より揺れる」

「剛嶺みたいでいい」

「私は街じゃない」

「知ってる」

 由良は背を向けた。

 ミイを背負う。

 熱い。

 軽い。

 人が軽くなりすぎているのは、嬉しくない。

「どこへ」

 由良が訊く。

「今は医療」

「その後」

「後で決める」

「分かった」

「すぐ言う」

「熱ある人と喧嘩しない」

「元気なら?」

「する」

「じゃあ治る」

 次に努。

 足首を固定する。

 セツの左耳へ、正面から説明する。

 レンの手を洗う。

 オトは、医療員一人だけを小屋の奥へ呼んだ。

 七瀬は撮らない。

 真琴は病名を聞かない。

 タマキは、必要な荷物だけを入口へ並べる。

 迅は、何もしないように見える。

 小屋の扉と内柵の間へ立ち、人が出た時にぶつからない幅を測っている。

 巌門も、柵の外で待つ。

 命令を出さない。

 出さないことも、隊長の仕事になるかを試しているようだった。

 午前十時三分

 人を外へ出す前に、外へ出た後を決める必要があった。

 それは、由良が一番嫌いな種類の正しさだった。

 目の前の扉が開いたのに、まだ歩かせない。

 けれど、行先のない開門は、放り出すことと似ている。

「臨時開門は天環側への退去に限る」

 巌門が境界手順書を開いた。

 真琴が、柵越しに同じ頁を読む。

《内柵から外柵への退去》です。都市名はありません」

「この内柵の外は、天環側通路だ」

「剛嶺側通路も、八十歩先の分岐から接続しています」

「そこまで警備区域だ」

「だから、警備区域内で分ければいい」

「留まる者は」

「境界滞在札を発行する」

「定員がある」

「九人全員が選んでも、昨日の空床数は十一です」

「昨日だ」

「今朝の退去は二名。入所は一名」

 真壁が炭紙から顔を上げた。

「現在十二床」

「なぜ知ってる」

 巌門。

「副隊長です」

「今は停止命令の当事者だ」

「停止命令を出すと、算数ができなくなる規則はありません」

 真壁の声は平らだった。

 由良は、少し好きになった。

 少しだけ。

「三つ」

 タマキが言った。

 地面へ、小さな木札を三枚置く。

「天環。剛嶺。ここ」

《ここ》は曖昧です」

 真琴。

「じゃあ《まだ》

「何がまだなのか分かりません」

「決めてない」

《境界滞在/行先未決定》

「長い」

「短くすると、迷っている人が怠けているように見えます」

「じゃあ長い」

 セツが小屋の中から言った。

「耳の悪い年寄りにも、字は大きくしろ」

「紙が足りません」

「布がある」

 ナツが、入口の白布を指した。

 境界倉庫から持ち込んだ、空白の白布。

 灰色の許可印。

《救護表示用品として持込可。旗芯なし。指揮用途不可。》

 棒へ結べば、旗に見える。

 高く掲げれば、誰かの行先を命じる印になる。

「地面に敷く」

 七瀬が言った。

「三本へ切らない。折って幅を分ける。上に札を置く。誰も持たない」

「汚れる」

 タマキ。

「洗う」

「誰が」

「あなたが、料金を請求する」

「正しい」

 白布は、内柵の外へ敷かれた。

 扉の前で一つ。

 十歩先で三つへ折り分ける。

 左。

《天環側へ。今日の医療・宿泊先。後で変更可。》

 右。

《剛嶺側へ。今日の医療・宿泊先。後で変更可。》

 中央。

《境界滞在/まだ決めない。定員十二。期限と費用を説明。》

 天環式の下へ、由良が剛嶺の地区記号を書く。

 真琴が文章を直す。

 由良が戻す。

《剛嶺へ帰還》じゃない」

「行先を表すなら――」

「帰るとは限らない」

 真琴の鉛筆が止まる。

「分かりました。《剛嶺側へ》

「すぐ直すんだ」

「法律は、間違いを直すためにもあります」

「間違えないためじゃなく?」

「その売り文句を信じると、間違いを隠します」

 由良は右の札を置いた。

 剛嶺側。

 帰る、ではない。

 たった二文字を外すのに、ずいぶん長い道を歩いた。

「選択は、いつまで変えられる」

 ナツ。

「分岐の先の第二線を越えるまで」

 巌門。

「越えた後は」

「各側の受入規則による」

「ずっとは変えられない?」

「今日の開門で保障できるのは、第二線までだ」

「正直」

「嘘をつく理由がない」

「理由があればつく?」

「質問を一つにしろ」

「それ、答えてない」

 巌門は黙った。

 代わりに、真壁が書く。

《選択は第二線通過まで変更可。通過後の再移動は各受入窓口で申請。現在、将来の移動を保証しない。》

「保証できないものまで、できる顔をするな」

 巌門が言った。

「はい」

「私へ返事をするな。本人へ読め」

 真壁は三枚の札を、六人へ一枚ずつ読んだ。

 左耳の聞こえにくいセツへは正面から。

 高熱のミイへは短く区切って。

 オトの医療情報には触れない。

 レンには賃金請求の窓口が行先によって変わることを付け足した。

 努には、天環側の診療棟までの距離と、剛嶺側の車椅子到着時刻を伝えた。

 行先を選ぶには、道の名前だけでは足りない。

 その先に何があるか。

 何がないか。

 誰が迎えるか。

 誰へ名前が渡るか。

 由良は説明するたび、自分の街が少しずつ重くなるのを感じた。

 剛嶺へ戻れば安全だ、とは言えない。

 天環へ行けば自由だ、とも言えない。

 境界に留まれば中立だ、というのが一番大きな嘘だった。

 中立地にも、寝台数と食費と夜間規則がある。

 どこも、ただの矢印ではない。

 午前十時三十一分

 最初に出たのは、努だった。

 右足首を固定し、医療員二人へ脇を支えられる。

「天環」

 彼は左の札を見た。

「理由は」

 真壁が訊く。

「診療所が近い」

「永住意思は」

「今日は足だけ」

「記録します。《本日の医療先として天環を選択。居住意思は未決定》

「長いな」

「短くすると、勝手に住民にされます」

「じゃあ長く」

 努は白布の左を歩く。

 四歩目で止まった。

「剛嶺の兄へ、生きてるって」

「兄の名は」

「言いたくない」

「では、あなたが指定する伝言窓口へ」

「面倒だな」

 タマキが横から言う。

「生きてる人は、だいたい面倒」

「死んだら?」

「もっと面倒」

 努は笑って、また歩いた。

 二人目はミイ。

 由良の背中にいる。

「右」

 ミイが言った。

 剛嶺側。

 由良の胸が、先に喜びかけた。

 喜ばないようにするのは難しい。

「どの地区」

「焼炉じゃない」

「じゃあ」

「白車の医療棚。空きがあれば」

「あると思う」

「思うじゃ困る」

「確認する」

「私が着く前に」

「分かった」

「由良が背負うのは、第二線まで」

「その後は」

「車」

「私が――」

「決めない」

 釘。

 二本目。

「分かった」

 由良は右の白布へ足を置いた。

 巌門が言う。

「案内人は選択者ではない。布の外を歩け」

「背負ってる」

「では、選択者の足として記録する」

「細かい」

「細かくなかった結果が、あの小屋だ」

 由良は何も返さなかった。

 右へ歩く。

 ミイの熱が、首筋へ伝わる。

 第二線の前で、剛嶺側の医療車が来た。

 受入地区。

 氏名公開範囲。

 熱の記録。

 由良は一つずつ確認する。

 自分で背負って街へ帰れば、速い。

 でも、速さで決めないと約束した。

「ここで下ろす」

「うん」

「また会う」

「仕事なら」

「仕事じゃなくても」

「それは後で決める」

 ミイは担架へ移った。

 三人目、セツ。

「中央」

「理由」

「耳」

「医療なら両側に」

「誰が説明したか、まだ聞き分けられない。聞こえないまま帰ると、また違う名前を書かれる」

「境界滞在は二日分を仮確保できます」

「三日」

「規則は二日」

「今日を一日へ数えるな。もう昼だ」

 真壁が時刻を見る。

「滞在日は零時更新です」

「馬鹿な規則」

「はい」

「認めるんだ」

「私が作っていません」

「作ってない人ほど、守る」

 巌門が横から言った。

「作った者を呼べない時、現場はそうなる」

「じゃあ、あんたが三日に変えろ」

「個人だけ変えると、次の者へ説明できない」

「年寄りを見捨てる?」

「本日分の医療観察を滞在日へ算入しない。明日から二日。全員へ同じ扱いを出す」

「できるじゃないか」

「今、理由を作った」

「理由は私」

「記録する」

 セツは中央へ歩いた。

「顔は撮るな」

 七瀬へ言う。

「何なら」

「左手。指輪は外す」

「なぜ左手」

「右は、昔の亭主に似てる」

「手が?」

「殴り方が」

 七瀬は聞き返さなかった。

 四人目、レン。

「左」

「天環側」

 真壁。

「仕事がある」

「何の」

「まだない」

「では、求職」

「先に、剛嶺の賃金を取る」

 タマキが頷く。

「正しい」

「取れる?」

「取れなくても、請求した記録は残す」

「金にならない」

「最初は紙」

「紙は食えない」

「紙がないと、食べた人へ金が行く」

「誰の言葉」

「私」

「名言みたいに言うな」

「料金は取らない」

 レンは手の包帯を上げた。

「手だけ撮れ。縄の傷。仕事だったって書くな。命令されたって書け」

「はい」

 七瀬が答えた。

 五人目、オト。

 中央の札を見る。

 右を見る。

 左を見る。

「どれも嫌」

「選ばなくていい」

 真琴。

「中央も選択だろ」

「では、小屋へ戻る?」

「それも嫌」

「柵の内側で待つ場所は」

 由良が巌門を見る。

「現在の規則にない」

 巌門。

「規則がないと、人もいない?」

「そうは言っていない」

「じゃあ場所」

 巌門は内柵と三本の布の間を見る。

 細い三角形。

 どちらの第二線にも属さない。

 警備上は通路。

 人が立ち止まる想定はない。

「十分」

 オトが言った。

「十分だけ、ここ」

「通路を塞ぐ」

「一人分」

「後続が」

「避ければいい」

「避けた動線が白布を跨ぐ」

「布が偉いの?」

 タマキが白布の端を折った。

 通路が一人分、広がる。

「布は動く」

 巌門はタマキを見る。

「勝手に設備を変更するな」

「設備じゃない。洗濯物」

「許可印がある」

「救護表示用品」

「なら、救護のために変更したと記録しろ」

「料金」

「後で出せ」

 オトは三本の分岐の前へ座った。

 誰も隣へ立たない。

 由良も。

 天環側の係も。

 剛嶺側の迎えも。

「十分」

 真壁が時計を始めた。

 七分四十秒で、オトは右へ立った。

「剛嶺」

「地区は」

「風棚じゃない」

「氏名公開」

「オトだけ」

「性別欄」

「非公開」

「家族照会」

「まだしない」

「分かりました」

 由良は、何も言わない。

 オトが横を通る時だけ、赤索を少し上げて足へ絡まないようにした。

 六人目。

 ナツ。

 天環側の柵の向こうに、灰谷トワが立っている。

 ここからは顔が見えない。

 灰色の毛糸帽。

 胸の名札。

 上げた右手。

 ナツの右手首にも、糸車の傷がある。

 母親が上げた手と、娘の傷のある手。

 柵が二人の間にある。

「ナツ」

 トワの声が届いた。

 名前一つ。

 呼び戻す命令にも、見つけた報告にも聞こえた。

 ナツは左の布へ一歩出た。

 由良の胸が沈む。

 次に、ナツは足を戻した。

 中央へ。

 トワの手が下がる。

「会わないの」

 声が掠れた。

「会う」

「じゃあ、こっちへ」

「今日は、こっちに住むって決めない」

「家へ帰るだけ」

「家が、今も家か決めてない」

「私がいる」

「知ってる」

「それじゃ足りない?」

 ナツは答えない。

 由良は口を出しかけた。

 帰ればいい。

 母親が待っている。

 天環に家がある。

 自分が言えば、ナツは怒る。

 怒らせても、母娘が会えるなら。

 その考えが、さっきの《帰ろう》と同じだと気づく。

「灰谷さん」

 七瀬が、トワへ言う。

「境界滞在の面会室があります。今日はそこで会えます。ナツさんが同意すれば」

「連れて帰れない」

「はい」

「母親なのに」

「母親だから、連れて帰れるわけではありません」

 七瀬の敬語が増えた。

 また怒っている。

 正しい言葉が、トワを切ることへ。

「冷たいね」

「はい」

「否定して」

「否定すると、もっと冷たくなります」

 トワは毛糸帽を引き下げた。

「ナツ。面会は」

「する」

「手を握っていい」

 ナツは右手首を見る。

「左なら」

 トワは左手を上げた。

 ナツも左手を上げる。

 柵を挟んだまま。

 二つの手は、まだ触れない。

「中央」

 ナツが言った。

「今日の宿泊先は境界滞在。家族面会を希望。居住先は未決定。本人名はナツ」

 真壁が読み上げる。

「いい」

 ナツは中央の白布を歩いた。

 由良は、見送った。

 勝った気がしない。

 負けた気もしない。

 人が自分で歩く時、案内人には勝敗がない。