第192話 第十章「隊長の一歩」後編

 午前八時二十九分

 銃列が割れた。

 命令へ従う者。

 副隊長を見る者。

 収容小屋を見る者。

 巌門を見る者。

 安全装置へ指を掛ける者。

 指を外す者。

 同じ敬礼をした二十四人が、違う手になった。

「射撃配置を継続!」

 巌門が命じる。

「銃口は上。警告を準備。内柵接触が再開した場合、隊長判断で――」

 小屋の中で、鎖が鳴った。

 青布の者ではない。

 誰かが扉を押した。

 一度。

 警備兵の銃口が下がりかける。

「上げろ!」

 凱が叫んだ。

 命令権はない。

 それでも声は届く。

 兵の一人が反射で上げる。

 別の兵は巌門を見る。

「警告!」

 巌門。

 班長が拡声筒を取る。

「内部の者へ! 扉から離れろ! 継続すれば発砲する!」

「照合中だ!」

 凱が規則冊子を掲げる。

「警告は規則違反ではない」

 巌門。

「発砲は」

「まだだ」

「まだを、一人で決めるな」

「私が隊長だ」

「だからだ」

 凱は内柵と銃列の間へ進んだ。

 白杭の内側。

 許可された照合経路。

 一歩。

 左膝が痛む。

 二歩。

 銃口が、凱を追う。

「止まれ」

 巌門。

「停止位置は」

 凱。

「現在位置」

 凱は止まる。

 内柵まで四歩。

 銃列まで九歩。

「俺は身元照合者だ。二十二条の対象」

「分かっている」

「俺へ向けて撃てない」

「内柵へ近づかなければな」

「近づかない」

「なら戻れ」

「戻れば、小屋へ射線が通る」

「盾になるつもりか」

「一人分だけだ」

「英雄気取りか」

「膝が痛い。長くは立てない」

 凱は、自分から言った。

 兵たちが見る。

 英雄は弱点を隠す。

 人間は、持ち時間を申告する。

「十分」

 タマキが言う。

「何が」

「立てる時間。朝、三だった。歩いて五。今、顔が六」

「顔で決めるな」

「じゃあ本人」

「十のうち六。十分なら持つ」

「八分」

「なぜ減らす」

「帰り道」

 凱は返事をしなかった。

 タマキは白布を取り出した。

 旗にしない。

 内柵の足元へ、細長く置く。

「ここから先、本人確認の列。命令じゃない。目印」

「誰が許可した」

 巌門。

「救護・位置・選択の表示へ使える。持込許可」

 真琴。

「内柵へ触れていません。指定経路内」

 白い布が、凱の足元から窓の下まで続く。

 短い。

 収容小屋へは届かない。

 足りない分を、七瀬が自分の黒い雨合羽の帯でつなぐ。

 由良が赤索を地面へ置く。

 能力は使わない。

 ただの線。

 三色の道。

 白。

 黒。

 赤。

 誰の旗でもない。

「照合経路を視認化」

 真壁が記録する。

「隊長許可は」

 巌門。

「規則二十二条の経路確保です」

「勝手な解釈だ」

「現場判断です」

 真壁は、地面の銃を拾わない。

 凱の後ろへ立つ。

 武器なし。

 その横へ、瀬尾直が歩いて来た。

「持場へ戻れ」

 巌門。

「後方左端の射撃位置です」

「なら戻れ」

「射線上に身元照合者がいます」

「銃口上向きで待機しろ」

「上位命令は、内柵接触時の発砲を命じています」

「判断は私がする」

「水を渡した時も、隊長判断を待てと言われました」

「今は別件だ」

「同じ規則です」

「何が」

「証者保護。身元照合。目の前の人を、分類の後ろへ置かない」

 瀬尾は銃を地面へ下ろした。

 弾倉は抜かない。

 銃口を上へ向けたまま、横倒しに置く。

 すぐ取れる。

 撃たない意思だけが見える。

「命令確認が終わるまで、発砲を拒否します」

「瀬尾」

「命令違反を認めます。規則違反は認めません」

「二度目だ」

「はい」

「二度目は、処分が重い」

「はい」

「怖くないのか」

「怖いです」

「なら従え」

「怖いまま、拒否します」

 タマキが瀬尾を見る。

 昨日の祖母の話を覚えている。

 怖くない人が規則を破ると、他人へ払わせる。

 瀬尾は怖い。

 自分の分が分かっている。

「武器を取れ!」

 巌門の声が初めて大きくなった。

 見張り台まで届く。

 兵列が揺れる。

 瀬尾は取らない。

 真壁も取らない。

 二人は巌門の前へ背を向けてはいない。

 横へ立っている。

 巌門が二人を撃つなら、銃を持つ兵へ命じるか、自分で真壁の拳銃を拾う必要がある。

 命じれば、身元照合者だけでなく、命令確認を求める自分の部下へ銃口を向ける。

 規則を守るために命令がある。

 彼自身が言った言葉が、足元にある。

 収容小屋の鎖が、また鳴った。

 凱の左膝が震える。

 まだ六分。

 迅が凱の横へ来ようとする。

「来るな」

「膝」

「おまえが来ると、敵対動作へされる」

「立てる?」

「立つ」

「質問に答えろ」

「六分」

「今は」

「五」

「減った」

「時間は減る」

「名言みたいに言うな」

「言ってない」

 凱は規則冊子を持つ手を下げない。

 腕が重い。

 左膝が熱い。

 群衆の前で退けない癖を、利用している。

 能力ではない。

 傷と記憶と見栄の集合だ。

 だからこそ、長くは持たない。

「巌門」

 凱が言う。

「俺を倒しても、規則は残る。真壁を処分しても、受領時刻は残る。瀬尾を二度処分しても、水を渡した事実は残る」

「事実だけでは境界を守れない」

「命令だけでも守れない」

「では何が守る」

「いま、武器を持っている一人ずつだ」

「指揮を解体する気か」

「確認する気だ。おまえの命令を聞いた手が、自分の指で撃つんだと」

 兵たちの顔が動く。

 凱は彼らへ向けて言う。

「俺へ従うな。巌門へ反抗しろとも言わない。受けた命令の内容を確認しろ。誰を撃つのか。どの規則で。撃った後、誰の名へ書くのか」

 昨日、敬礼へ足した言葉。

 命令を聞いた者は、内容を確認する。

 一人の若い兵が、銃口をさらに上げた。

 別の兵が安全装置から指を外す。

 班長が叫ぶ。

「隊列維持!」

 維持しようとする声の中で、隊列はもう同じ形ではない。

 午前八時三十四分

 巌門は、真壁の拳銃を見た。

 地面にある。

 彼から三歩。

 拾えば、撃てる。

 撃たなくても、武器を持った隊長として命令を戻せる。

 瀬尾の銃は、さらに二歩。

 兵へ命じれば、誰かが二人を拘束する。

 拘束しようとすれば、調査班が動く。

 迅は殴らないかもしれない。

 由良は走るかもしれない。

 凱は退かない。

 収容小屋の人々は、扉を押す。

 その瞬間、上位命令の文面どおりになる。

 侵犯。

 発砲。

 命令は、現実を予測するだけではない。

 人をその形へ押す。

「隊長」

 真壁が言った。

「現状報告を共同境界室へ送ります。小屋内押圧は停止。本人一名を暫定照合。六名中、二名に医療支援必要。調査班は指定経路内。副隊長および瀬尾兵、発砲拒否。照合規則二十二条の適用継続を求める」

「私の判断を待て」

「待っています」

「何秒だ」

 真壁は時計を見た。

「八分五十一秒」

「細かい」

「回復不能な損害の前では、長いです」

 巌門が一歩、前へ出た。

 真壁と瀬尾の間。

 凱まで六歩。

 内柵まで十歩。

 兵たちは、隊長が前へ出たことで銃を整えようとした。

「動くな」

 巌門が言う。

 誰へ向けた命令か、分からない。

 兵。

 真壁。

 瀬尾。

 調査班。

 収容小屋。

 自分自身。

 全員が止まった。

 巌門は右手を外套へ入れた。

 銃ではない。

 古い鍵を出す。

 存在しない家の鍵。

「この鍵で、家を守れなかった」

 声は低い。

 兵へ聞かせる声ではなく、自分へ言う声だった。

「門を開けたからだと思っていた。確認を飛ばしたから。例外を認めたから。だから、次は一つも飛ばさないと決めた」

 由良が何も言わない。

 凱も待つ。

「だが、閉じた門の内側で、人を番号にした」

 巌門は鍵を握る。

「それも家を守ることだと、まだ思っている」

「思っていていい」

 凱が言った。

 巌門の目が上がる。

「ただし、今撃つかは別だ」

「おまえは、いつも話を分ける」

「一つにすると、誰かが消える」

「迷っているように見える」

「迷っている」

「王は迷いを見せない」

「だから王をやめた」

「やめても、皆がおまえを見る」

「見られることと、従わせることは違う」

 巌門は兵列を見た。

 一人ずつ。

 銃口。

 指。

 目。

 瀬尾の空いた手。

 真壁の炭紙。

 凱の震える膝。

 窓から出たナツの手。

「隊長命令」

 巌門が言った。

 兵の身体が揃いかける。

「発砲準備を停止。安全装置を確認。弾倉は装着のまま、銃口上向き。照合規則二十二条を優先し、共同境界室へ現状訂正を送る。内柵は、医療班到着後、一名ずつの照合経路として開く」

 班長が息を呑む。

「上位命令への違反になります」

「現場隊長判断だ」

「責任は」

「私が署名する」

「副隊長の停止は」

「有効と認める」

 真壁の顔が、初めて少し動いた。

「時刻を」

 巌門。

「八時三十五分二十七秒」

「記録しろ」

「はい」

 巌門は、一歩退いた。

 前へ出た位置から。

 射撃指揮線の白い短線を越え、後ろへ。

 王と呼ぶ者はいない。

 七歩でもない。

 ただの一歩。

 それでも、彼が作った隊列では、隊長の後退は命令より大きく見えた。

 兵たちの銃口が、一斉ではなく上がる。

 右から二本。

 左から一本。

 遅れて四本。

 迷っていた一本。

 屋根上の二本。

 誰かの号令へ同時に従うのではない。

 一人ずつ、自分の手で。

 瀬尾は地面の銃を拾った。

 弾倉を抜くのではなく、安全装置を確認し、空へ向ける。

「命令を受領」

 彼は敬礼しなかった。

「内容を確認しました」

 真壁も拳銃を拾う。

 弾倉は戻さない。

「緊急停止を解除。身元照合へ移行」

 凱の左膝から、力が抜けた。

 倒れる前に、迅が右ではなく左肩を差し出す。

「来るなと言った」

「終わった」

「まだ扉がある」

「立つ仕事は終わり」

「誰が決めた」

「膝」

 凱は迅の肩を借りた。

 一瞬だけ。

 すぐにタマキが装具を確かめる。

「七」

「六だ」

「顔が七」

「顔は同意書ではない」

「でも痛い」

「……七」

「座って」

 内柵の前へ、警備用の低い箱が置かれる。

 凱はそこへ座った。

 英雄の立ち姿ではない。

 膝を両手で押さえ、汗を拭う人間の姿。

 その前で、医療班が到着する。

 内柵の錠が一つずつ外される。

 巌門は後退した位置に立ったまま、古い鍵を握っている。

 白い射撃指揮線の上に、彼の右踵の跡だけが残った。

 前へ出た跡。

 後ろへ戻った跡。

 二つは重ならなかった。