第191話 第十章「隊長の一歩」前編

一月二十八日 午前七時二分

 銃口は、遠くから見ると穴に見える。

 近くで見ると、誰かの手が付いている。

 獅堂凱は、その違いを忘れないように歩いた。

 第三検問から収容小屋まで、正規経路で千六百四十歩。

 由良が数えた。

 凱なら千四百八十歩。

 迅なら千五百二十歩。

 タマキは途中で数えるのをやめる。

 轟は歩数ではなく、地面の継ぎ目を数える。

 七瀬は時刻。

 真琴は条文。

 同じ道を歩いても、全員が同じものを数えるわけではない。

 隊列の先頭は真壁梓。

 その右に巌門崇牙。

 調査班。

 由良。

 後方に天環側兵八名、剛嶺側兵八名。

 瀬尾直は後方左端にいた。

 昨日の処分待機は解除されていない。だが警戒命令で人員が足りず、《審理待機中の臨時配置》として銃を戻された。銃床には白い札。

《命令違反審理中》

 本人より、武器の方が説明を付けられている。

「歩幅を合わせろ」

 巌門が言う。

「誰へ」

 タマキ。

「全員だ」

「轟さんと私、同じ?」

「隊列速度を揃えろという意味だ」

「最初からそう言って」

「意味は同じだ」

「結果が同じでも」

「出所は違う、だろ」

 巌門が先に言った。

 タマキは凱を見る。

「取られた」

「配った覚えはない」

「値段付ければよかった」

 凱の左膝は、昨夜よりましだった。

 装具を締め直し、朝に温布を当てた。痛みは十のうち二。歩けば三。走れば、まだ分からない。

 分からないことを、できると数えない。

 以前よりは、そうできる。

 道の両側に白杭が並ぶ。

 一本ごとに番号。

 指定経路。

 杭の外へ足を出せば、侵犯。

 墓地の照合申告により、今日だけこの道は《身元照合経路》として登録された。両側の銃口は上向き。見張り台の兵も、空へ照準を上げている。

 ただし弾倉は入っている。

 安全装置も、指一本で外れる。

 空へ向いた銃口が安全なのではない。

 下げないと決めている手が、いま安全なだけだ。

「右、二階窓」

 由良が小声で言う。

「何人」

 迅。

「一」

「左土手」

「三。うち一人、双眼鏡」

「正面」

「柵まで六。小屋の陰は見えない」

「近道」

「ない」

「珍しい」

「道はある。許可がない」

「じゃあない」

「少し学んだ」

「褒めた?」

「事実」

 凱は前だけを見る。

 巌門が二人の会話を聞いている。

 止めない。

 彼自身も、射手の位置を把握している。

 敵と同じ情報を持つことは、同じ側に立つことではない。

 同じ危険を見ているだけだ。

 午前七時二十九分

 最初の停止は、白杭三十七番で起きた。

 道の中央へ、木箱が落ちていた。

 小さい。

 蓋は閉じている。

 印はない。

「停止」

 真壁が手を上げる。

 全員が止まる。

「誰の箱」

 タマキ。

「不明」

「誰へ」

「不明」

「何のため」

「不明」

「全部不明」

「だから触るな」

 巌門。

「道を塞いでる」

「処理班を呼ぶ」

「何分」

「十五」

「箱が爆発するなら、十五分待つ?」

「近づく方が危険だ」

「爆発しないなら、待つのが損」

「どちらか分からない」

「だから見る」

 タマキは首の鏡を外した。

 道へ置く。

 木箱の側面を映す。

 小さな穴。

 穴の奥に、白い毛。

「生きてる」

「何が」

 箱の中から、かすかな音。

 ひっかく。

 一度。

 二度。

「猫」

 由良。

「分かる?」

「墓地の猫番が使う箱。空気穴の並び」

「なぜここに」

「逃げた」

「箱が?」

「猫が暴れて、運んでた子が落とした」

「持ち主確認は」

 真琴。

「白杭の外に足跡」

 迅が地面を見る。

 小さな靴跡。

 東へ。

 猫番のユキかもしれない。

 指定経路外。

「救出を」

 凱が言う。

「処理班を待つ」

 巌門。

「中で窒息する」

「空気穴がある」

「暴れて怪我をする」

「人ではない」

 タマキの顔が硬くなる。

「猫は荷物?」

「境界規則では動物搬送物」

「生きてる」

「処理班が来る」

「十五分」

 箱の中で、爪の音が速くなる。

 凱は巌門を見る。

「身元照合経路の障害物を、現場責任者が除去できる」

「中身不明だ」

「由良が用途を確認した」

「推定だ」

「タマキが生命反応を確認した」

「推定だ」

「なら、おまえが開けろ」

「隊長を不明物へ近づける?」

「全員を止めているのは隊長判断だ」

「挑発か」

「責任の位置を聞いている」

 巌門は木箱を見た。

 右手が胸の鍵へ動きかけ、止まる。

「副隊長」

「はい」

「現場障害物確認。遮蔽を」

 真壁が盾兵二人へ指示する。

 盾を斜めに立てる。

 巌門が箱へ近づく。

 固定床の上で、身体がわずかに揺れる。

 膝をつく。

 蓋の留め具へ手を掛ける。

「触る前に名前」

 タマキ。

「何の」

「開ける人」

「巌門崇牙。境界警備隊長。現場障害物確認」

「時刻」

 真壁。

「七時三十三分二秒」

 巌門が蓋を開ける。

 白黒の猫が飛び出した。

 巌門の顔へ。

 大きな男が、反射で上体を引く。

 猫は肩板を蹴り、由良の方へ走る。

「ユキの猫!」

 由良がしゃがむ。

 猫は捕まらない。

 迅の足元を抜ける。

 凱の外套へ爪を掛ける。

 白い布を登る。

 凱の胸へしがみつく。

 全員が止まった。

「取れ」

 巌門。

「おまえが開けた」

 凱。

「おまえに付いた」

「結果が同じでも」

「今はやめろ」

 タマキが両手を差し出す。

「おいで」

 猫は唸る。

「料金取らない」

 猫は来ない。

「無料、嫌?」

 由良が赤索の端を地面へ垂らした。

 猫の目が動く。

 索を左右へ振る。

 猫が凱の胸から飛び、赤い端へ飛びつく。

 由良が抱き上げる。

「動物搬送物、確保」

 真壁が記録する。

「猫でいい」

 タマキ。

「正式分類です」

「名前は」

 首輪を見る。

《ジロ》

「ジロ」

「猫番へ返す」

 由良。

「今?」

「帰り」

「誰が」

「私」

「道は」

「許可ある」

「帰り道、増えた」

「重い?」

「軽い」

 猫が由良の腕を引っかいた。

「痛い」

「料金取る?」

「取る。魚一匹」

 隊列は再開した。

 十五分を待たずに済んだ。

 巌門が責任者として蓋を開けた。

 誰も彼を褒めない。

 彼も、猫を助けた顔をしない。

 ただ、空の木箱を道の外へ置く前に、白杭の内側かを自分で確かめた。

 午前八時十一分

 二重柵が見えた。

 外柵。

 内柵。

 間は十歩。

 その奥に収容小屋。

 灰色の低い建物。窓は細い。扉は一つ。屋根へ雪が残っている。煙突から煙はない。

 人がいる気配も、遠目にはない。

 だが物干し索へ、濡れた布が六枚掛かっている。

 風がないのに、一枚だけ揺れた。

 中から誰かが触れた。

「六」

 由良が言う。

「布の数?」

 七瀬。

「人かもしれない」

「一人一枚とは限らない」

「分かってる」

 外柵の前に、警備兵が十二人。

 右六。

 左六。

 銃口は上。

 内柵の左右に、さらに八。

 屋根上に二。

 窓の陰は見えない。

 真壁が照合申告書を掲げる。

「身元照合班。石輪ナツ、灰谷ナツ、検問番号P-B03-071の同一性確認。規則二十二条に基づく経路確保を求める」

 外柵の班長が答える。

「照合対象は収容小屋内に存在しない」

「確認を」

「記録上、収容者はいない」

「未確認保護対象は」

「回答権限外」

 真琴が小さく息を吐く。

「また分類です」

 凱。

「分類の人間は、扉の向こうにいる」

「断定するな」

 巌門。

「布が動いた」

「風だ」

 由良が地面の砂を指で落とす。

 砂は真下。

「風はない」

「内部換気」

「煙突は止まってる」

「手動換気かもしれない」

「可能性ばかり」

「おまえたちもだ」

 巌門が前へ出る。

「外柵を開けろ。照合班は、間区画まで。内柵は閉鎖維持」

「隊長」

 班長が声を下げる。

「上位命令では、調査班の二重柵内進入を侵犯と」

「間区画は二重柵内ではない。二重柵間だ」

「解釈が」

「私が現場隊長だ」

 外柵が開く。

 一人ずつ。

 真壁。

 凱。

 七瀬。

 真琴。

 由良。

 迅。

 タマキ。

 轟。

 巌門。

 警備兵四人。

 外柵が閉まる。

 前に内柵。

 後ろに外柵。

 左右は銃列。

 間区画は、檻より広い。

 逃げ道は、檻より少ない。

「名前を呼ぶ」

 真琴が言う。

「応答があれば、照合開始を確認」

「既に開始している」

 由良。

「墓地の申告上は。現地対象への呼掛けを記録します」

 七瀬は小型機を胸へ固定する。

「顔は、本人同意まで撮らない。手、声、傷、所持品だけ」

「声も個人情報です」

 真琴。

「音声公開はしない。照合用」

「本人へ説明を」

「扉が開いてから」

「開かなかったら」

「記録しない」

 由良が内柵へ近づく。

 白杭の内側。

「石輪ナツ!」

 返事はない。

「灰谷ナツ!」

 布が一枚、動く。

「P-B03-071!」

 小屋の中で、金属が鳴った。

 三度。

 間隔は、短い、長い、短い。

「何の合図」

 凱。

「糸車工房の停止音」

 由良の声が震える。

「機械へ手を入れた時、三回叩く。ナツが使ってた」

「本人と断定は」

 真琴。

「まだ」

 由良は内柵へ手を掛けない。

「ナツ。右手を見せろ。顔はいらない。糸車の傷」

 小屋の細窓が、内側から少し開いた。

 手が出る。

 細い右手。

 手首に、斜めの白い傷。

 指に、黒い糸屑。

 七瀬は機械を起動する前に叫ぶ。

「撮影していい?」

 手が止まる。

 中から、かすれた声。

「顔は」

「撮らない。手首だけ。照合班、母親、墓地管理。一般公開しない」

「剛嶺は」

「本人が選ぶまで、特徴照合だけ」

「……一回」

「一回」

 七瀬が撮る。

 手首。

 傷。

 窓枠。

 周囲の顔は入らない。

「名前を、今言える?」

 由良。

 中の声が答える。

「ナツ」

「どっちの」

「今は、ナツだけ」

 由良は唇を噛んだ。

「分かった」

「分かった顔じゃない」

 窓の向こうから言われる。

 由良の目が大きくなる。

「覚えてる?」

「釘、当たった時の顔」

「毎回痛かった」

「走るから」

「止まってたら、街に置いてかれる」

「私は止まった」

「……今、見つけた」

 由良は内柵へ額をつけそうになり、止めた。

 触れれば、許可外接触。

「本人応答。右手首の傷、家族申告と一致。石輪工房停止音を共有。本人は現時点で《ナツ》のみ使用」

 真琴が記録する。

「身元照合中。規則二十二条、継続」

 真壁が復唱した。

「銃口、上向き維持」

 兵たちが、少し姿勢を変える。

 その時、収容小屋の扉が内側から叩かれた。

 一回。

 二回。

 六人分ではない。

 複数の手。

「他にもいる」

 タマキ。

「何人」

「分からない」

「扉を開ける」

 由良。

「許可は」

 真琴。

「本人確認」

「内柵を越える必要がある」

 巌門の顔が硬くなる。

 真壁の鉛筆が止まらない。

「隊長。照合経路の延長を」

「内柵以降は収容管理区。上位命令では、調査班の進入を侵犯とする」

「対象へ到達しなければ、照合できません」

「窓で一人は確認した」

「他の人は」

「記録上、いない」

 扉が、また叩かれる。

 今度は、声が混じった。

「ここにいる!」

「名前が違う!」

「出して!」

 銃列が揺れた。

 人の声は、番号より遠くへ届く。

 警備兵の中には、初めて収容小屋の中身を聞いた者もいる。

「静止させろ」

 巌門が班長へ言う。

「どうやって」

「小屋内へ待機命令」

 班長が拡声筒を取る。

「内部の者へ。身元確認中だ。扉から離れ、待機しろ」

「いつまで!」

 中から声。

「確認が終わるまで」

「誰の確認!」

「境界照合官」

「名前を三つ言った! まだ足りないのか!」

 別の声。

「番号が違う!」

「俺は二人分になってる!」

「私は死んだことになってる!」

 内柵へ人影が集まる。

 小屋の扉の留め具が、内側から軋む。

「後退させろ」

 巌門。

「誰を」

 凱。

「調査班。外柵まで戻る」

「身元照合中だ」

「安全確保のためだ」

「後退すれば、窓の人と声が切れる」

「記録は取った」

「人は記録の後ろに残る」

「隊長命令だ」

 凱は、後ろへ下がらなかった。

 群衆がいる。

 王と呼ぶ者はいない。

 誓痕は発動しない。

 ただ、昔からの癖だけが身体へ残っている。

 退くなと言われる前に、退かない位置へ立つ癖。

「獅堂凱」

 巌門の声が低くなる。

「外柵へ戻れ」

「理由を、規則番号で」

「上位警戒命令。二重柵内への調査班進入を侵犯とする」

「俺たちは間区画だ」

「内柵へ対象が接近している。突破されれば接触する」

「本人確認のためだ」

「制御できない」

「誰を」

「内部の者を」

「名前も知らずに?」

「だから照合する」

「照合するために近づくなと言う」

「安全な方法を選ぶ」

「今までの方法で、人が消えた」

「命令だ。戻れ」

 凱は、規則冊子を真琴から受け取った。

 ページは開いてある。

 二十二条。

 凱は読み上げる。

「《遺体または生存の身元照合が開始された区画では、照合終了または中止宣言まで、当該対象および照合者へ向けた射撃を禁ずる。両側警備は銃口を上げ、照合経路を確保する》」

「射撃していない」

「経路を確保しろ」

「窓まで確保した」

「扉の人は」

「照合対象と確定していない」

 凱は冊子を閉じなかった。

「なら、確定する」

「どうやって」

「扉を開ける」

「許可しない」

「規則と命令が衝突した」

 真壁が顔を上げる。

 巌門も彼女を見る。

「副隊長」

 凱は言った。

「四条三項。回復不能な損害は予見できる。内部の者が扉へ集中し、圧迫または発砲の危険。照合規則と後退命令が直接衝突している。確認が終わるまで停止を」

「おまえに指揮権はない」

 巌門。

「だから頼んでいる」

 真壁は規則冊子と、命令衝突確認簿を見た。

 まだ答えない。

 扉の留め具が、また軋む。

 内側の人々が、一斉に押している。

 外側の兵が銃口を保とうとする。

 上へ。

 だが視線は扉へ下がる。

 身体は、命令より先に危険を追う。

 午前八時二十三分

 扉の留め具が外れた。

 壊れたのではない。

 内側から、誰かが正しい順番で解いた。

 上の閂。

 下の閂。

 中央の回転錠。

 管理方法を知っている人間が、中にいる。

 扉が指一本分、開く。

 外側の鎖が張る。

 収容小屋の扉は開いている。

 鎖が、開いていないことにしている。

「扉から離れろ!」

 班長が拡声筒で叫ぶ。

「照合が終わるまで待機しろ!」

「終わらせて!」

 中から女の声。

「名前を聞いて!」

「一人ずつだ!」

「三日前から一人ずつ!」

「順番を守れ!」

「順番で死んだことにされた!」

 鎖がまた鳴る。

 内柵の兵が、一歩下がる。

 下がった分だけ、銃口が傾く。

 まだ上。

 空と屋根の間。

「内柵を開けろ」

 由良が言う。

「許可しない」

 巌門。

「小屋の鎖を外すだけ」

「同じだ」

「違う。柵は閉じたまま。小屋から間へ出す」

「間区画へ出れば、調査班と接触する」

「照合だ」

「集団移動になる」

「一人ずつ」

「内部統制が取れない」

「取る」

「誰が」

「私」

「おまえに収容管理権はない」

「収容じゃない」

 由良の声が切れる。

「人だ」

 巌門の目が細くなる。

 由良は内柵へ手を出さない。

 代わりに、窓から出ているナツの手へ言う。

「中、何人」

「六人。ここには」

「他は」

「診療棟へ二人。ひとりは自分で出たって聞いた。でも確かめてない」

「六人、立てる?」

「四人。ひとり熱。ひとり足を痛めた」

「扉を押してるのは」

「三人」

「止められる?」

「止める理由を言って」

 由良が口を開く。

 《剛嶺へ帰すから》

 言いかけた言葉が、喉まで来る。

 昨日の条件。

 本人へ選択を返す。

 由良は言い直した。

「一人ずつ名前を確認して、行く場所を自分で決めるため。今、押すと兵が銃を下げる。下げさせたくない」

「兵のため?」

「おまえたちのため。私たちのため。全部」

「全部って、誰」

「今ここにいる人」

「外の家族は」

「入れる」

「いつ」

「……分からない。分からないけど、名前を聞く」

 窓の向こうで、ナツが何か言う。

 扉を押す音が弱くなった。

 一度。

 二度。

 鎖が静まる。

 完全には止まらない。

 中の六人は、由良の命令に従ったのではない。

 ナツの説明を聞いた。

 何を言ったか、由良には聞こえない。

 聞こえない場所で人が動くことを、由良は受け入れた。

「今だ」

 凱が真壁へ言う。

「停止を」

 真壁は鉛筆を置いた。

 置く音が小さい。

 銃の金属音より小さい。

 それでも、巌門が聞いた。

「副隊長」

「四条三項の適用要件を確認します」

「まだ直接矛盾していない」

「照合規則は経路確保を命じる。隊長命令は調査班の後退と内柵閉鎖を命じる。対象は扉へ接近し、圧迫危険。銃列は弾倉装着済み。回復不能な損害は予見可能」

「経路は窓まで確保した」

「六人のうち一人しか照合できていません」

「一人ずつ窓へ呼べる」

「熱のある者と、足を負傷した者は」

「内部で補助する」

「誰が」

「内部の者だ」

「その者の身元も、健康状態も確認していない」

「だから待機させる」

「循環しています」

 真壁の声は細い。

 細いまま、途切れない。

「私は、命令実行を一時停止する要件があると判断します」

 巌門の肩板が、わずかに上がった。

「まだ停止を命じるな」

「進言です」

「隊長判断を待て」

「待っています」

 真壁は時計を見る。

「八時二十五分九秒から」

 巌門は内柵を見た。

 収容小屋。

 兵。

 調査班。

 上位命令。

 規則。

 全部が彼の判断へ集まる。

 彼が望んだ形だ。

 彼が一人で支えられると信じた形だ。

 凱には、それがよく分かる。

 自分も、その位置を好んだ。

 全員が自分を見る瞬間は、孤独で、同時に楽だった。

 他人の遅さを待たなくていい。

 決めれば世界が進む。

 間違えば、自分が責任を負うと言えばいい。

「内柵は開けない」

 巌門が言った。

「対象を一人ずつ窓へ。照合班は現在位置。兵は銃口上向き。小屋の鎖は、管理兵が内側の押圧を確認後に緩める」

「熱の人は」

 タマキ。

「担架を入れる」

「誰が」

「警備医療班」

「いつ」

「呼ぶ」

「今」

「副隊長」

「医療班要請。時刻、八時二十六分三十一秒」

 真壁はすぐに合図を出す。

 由良が凱を見る。

「遅い」

「進んだ」

「一人ずつ窓」

「扉へ人が集中するよりいい」

「本人は」

「聞く」

 凱は内柵へ向かって声を上げた。

「中の者へ。窓での確認を受けるか。拒否して扉の開放を求めるか。今すぐ出たいか。別々に答えてくれ」

「大声で、全員に?」

 七瀬。

「まず選択肢を伝える」

「声で周囲に知られたくない人は」

 凱は言い直す。

「答えは声でなくていい。窓へ手を出す。布を出す。何もしない。拒否も記録する」

 小屋の中が静かになる。

 一枚の布が窓から出る。

 白ではない。

 青い布。

「意味」

 真琴。

「石輪工房では、作業保留」

 由良。

「まだ決めない」

 二枚目。

 赤い布。

「停止」

 三枚目。

 何も出ない。

 窓の奥で、手が一度だけ枠を叩く。

「何」

「分からない」

 由良は正直に言う。

「本人へ訊く」

「窓へ来られない人かもしれない」

 タマキ。

「医療班を待つ」

 凱。

 小さく進む。

 一つずつ。

 だが上位命令は、待たない。

 第三検問側から、警笛が六回鳴った。

 最上位緊急命令。

 伝令兵が走って来る。

 指定経路の白杭だけを踏み、息を切らす。

「隊長!」

 巌門が振り向く。

 伝令は紙を差し出す。

「共同境界室。収容小屋内の集団移動を《離脱開始》と認定。内柵への接触を侵犯予備動作とする。警告後、停止しない場合は発砲」

「誰が離脱開始を報告した」

 真壁。

「屋根監視班」

「小屋の鎖は閉じたままです」

「扉が開いた」

「指一本分」

「報告は《開扉》

「押圧は現在停止」

「報告時点では継続」

「時刻」

「八時二十三分」

「命令発行」

「八時二十七分」

「受領」

「八時二十八分――」

「十四秒」

 真壁が書く。

「現状は変わっています。上位命令は、五分前の情報に基づく」

「命令は有効だ」

 巌門。

「訂正照会を」

「照会する。その間、射撃配置」

「四条三項を適用します」

 真壁が言った。

 今度は進言ではない。

「上位発砲命令と、照合規則二十二条が直接矛盾。現状報告との時間差あり。回復不能な損害が予見される。命令内容の確認が終わるまで、発砲実行を一時停止します」

 巌門の目が真壁へ向く。

「撤回しろ」

「しません」

「副隊長命令権を停止する」

「停止処分の受領前に、緊急停止は発効しています」

「私が上位だ」

「はい」

「従え」

「規則へ従っています」

 巌門の顔は変わらない。

 だが、声が一段低くなる。

「真壁梓。発砲線から下がれ」

「命令の適法性を確認します」

「下がれ」

「発砲停止中です」

「停止を認めない」

「隊長が認めなくても、条項は副指揮者に一時停止権を与えています」

「処分する」

「記録してください」

 真壁は腰の拳銃を抜いた。

 凱の身体が硬くなる。

 迅も動きかける。

 真壁は銃口を上げたまま、弾倉を抜いた。

 遊底を引く。

 薬室の弾を掌へ落とす。

 銃を地面へ置く。

「発砲線から下がるのではなく、発砲能力を下げます」

 巌門の後ろで、兵たちが息を呑む。

「武器を取れ」

「確認が終わるまで拒否します」

「命令違反だ」

「はい」

「規則違反ではないと?」

「はい」

 昨日の瀬尾と同じ答え。

 真壁は膝をつかない。

 敬礼もしない。

 両手を見える位置へ置き、立っている。

 命令へ反抗する姿ではない。

 規則の中へ、動かない場所を作る姿だった。