第195話 第十二章「越境者の記録」前編

一月二十八日 午後三時十二分

 顔を撮らない写真には、顔以外が多く写る。

 火群七瀬は、境界診療棟の白い壁を背にした。

 胸の小型機を外し、腰高の台へ固定する。左肩の奥が、朝から熱を持っている。射線の中で構え続けたわけではない。それでも、撮るか撮らないかを決める時、人は気づかない場所へ力を入れる。

「もう一度、公開範囲を確認します」

 机の向こうに、ナツがいる。

 隣に灰谷トワ。

 二人は手を握っていない。

 同じ長椅子へ座っているが、間には湯飲み一つ分の距離がある。

 面会室へ入った時、トワは左手を差し出した。

 ナツも左手を出した。

 指先が触れた。

 その後、どちらからともなく離れた。

 十七日ぶりに会った母娘が、ずっと手を握るとは限らない。

 握らなかった時間まで、再会の失敗にする必要はない。

「本人名、ナツ」

 七瀬が読む。

「天環側呼称、灰谷ナツ。剛嶺側呼称、石輪ナツ。検問番号は別紙。家族照合者、灰谷トワ。現在の宿泊先、境界滞在。一般公開は、生存確認と本人名のみ」

「右手の傷は」

 トワ。

「照合記録として限定保存。一般公開しません」

「最初は、傷を出した」

「捜索中だったからです。本人が見つかり、今は公開理由が変わりました」

「消せる?」

「私が管理する原記録と掲示は停止できます。既に見た人の記憶、写した紙までは消せません」

「また正直で嫌になる」

「仕事なので」

「好きな部分は」

「あります」

 トワはナツを見る。

「この人、最初にも同じこと言った」

「覚えてる」

 ナツ。

「会ってないのに?」

「記録を聞いた」

「誰から」

「小屋で。特徴照合の紙、回ってきた」

「私の字も」

《勝手に名前を出さないで》

 トワの顔が歪む。

「それを、あんたが読んだの」

「うん」

「探してたのに」

「うん」

「名前を言いたかった」

「知ってる」

「知らないよ」

「じゃあ、教えて」

 トワは口を開いた。

 閉じた。

 湯飲みを持つ。

 中身はもう冷えている。

「何から」

「十七日、全部」

「長い」

「今日はここにいる」

 ナツの返事は、慰めではなかった。

 今日だけ。

 明日を約束しない代わりに、今日を嘘にしない。

 七瀬は小型機へ手を伸ばさない。

「今の会話は撮りません」

「頼んでない」

 ナツ。

「確認です」

「撮らない確認もいる?」

「私に必要です」

「変な人」

「よく言われます」

「嬉しそう」

「少し」

 七瀬は台の上へ、黒い布を掛けた。

 撮影機が見えなくなる。

「写真は、手だけでいい」

 ナツが言った。

「どの手を」

「二人の左」

「触れますか」

「触れない」

「分かりました」

 机の上へ、二人の左手が置かれる。

 トワの指は糸車の油で節が黒い。

 ナツの指は細く、爪の際に同じ油が残っている。

 間は、指一本分。

「傷は右ですよ」

 七瀬。

「今日は傷じゃない」

 ナツ。

 七瀬は黒い布を外す。

 静止画。

 一枚だけ。

 二つの左手。

 触れていない距離。

 湯飲みの縁。

 顔は入らない。

 撮った後で、ナツが訊いた。

「仲直りしたように見える?」

「見せる人によります」

「七瀬には」

「話の途中に見えます」

「ならいい」

 トワは、机の下で左手を握った。

 ナツも握った。

 写真には残らない。

 午後四時四十八分

 三欄の名簿は、三欄だけでは足りなかった。

 境界記録室の長机へ、紙が並ぶ。

《本人が現在使う名》

《天環式呼称》

《剛嶺式呼称》

 ここまでは決まった。

 その横に、真琴が細い欄を増やす。

《各呼称の使用範囲》

《公開同意》

《訂正要求者》

《変更履歴》

《本日の行先》

《行先の意味》

「増えすぎ」

 タマキが言う。

「名前を三つから一つに減らさないためです」

 真琴。

「紙が人より大きい」

「紙を折ります」

「人を折らない?」

「そのための紙です」

 七瀬は、名簿の全景を撮る。

 人の顔はない。

 紙の端を押さえる手だけが入る。

 真琴の白い手袋。

 由良の石灰がついた指。

 真壁の鉛筆。

 ナツの右手首。

 巌門の古い鍵。

 鍵は文鎮として置かれている。

「その鍵、記録物?」

 タマキ。

「私物だ」

 巌門。

「紙を押さえてる」

「風がある」

「設備へ転用」

「使用後に返す」

「誰へ」

「私へだ」

「元の家」

 巌門の目が止まる。

「家はない」

「じゃあ鍵だけ帰る」

「そうだ」

「鍵は、家より長生きするんだ」

「人よりもな」

「嫌だね」

「同感だ」

 巌門は鍵の位置を少し変えた。

 名簿の《変更履歴》欄が風で浮かない場所へ。

「剛嶺側へ渡す写し」

 由良が言う。

「本人名、剛嶺名、照合結果、行先」

「行先は公開同意がある人だけ」

 七瀬。

「戻った人まで?」

「剛嶺側へ移動した事実は、受入に必要です。ただし地区は本人が指定した窓口だけ」

「天環へ行った人」

《本人確認済み。剛嶺側への所在公開を拒否》という結果だけ」

「拒否したことが、工房へ伝わる」

「それも追跡理由になる?」

「なる」

「では、《照合済み。詳細非公開》

「それだと、生きてるか分からない」

「本人へ選んでもらう」

「全員へ?」

「全員へ」

「また聞くの」

「一度聞いて終わりにした結果が、ここです」

 由良が紙を睨む。

「聞かれる方は疲れる」

「はい」

「断る選択は」

《今は答えない》を置きます」

「答えないと配給が止まる場合は」

「その不利益を先に説明する」

「説明すれば公平?」

「なりません」

「なら」

「公平でないことを隠さない。次に、止められる不利益を止める」

 七瀬の言葉に、由良はすぐ返さなかった。

 真琴が眼鏡を押し上げる。

「名簿は正しさを保存する紙ではありません。誰が、いつ、どの情報で、人をどう扱ったかを保存する紙です」

「名言?」

 タマキ。

「定義です」

「定義の方が偉そう」

「あなたは何と書くんです」

「人を探す紙。探されたくない人もいる」

「短い」

「長いと読まない」

「短いと足りない」

「だから裏に長いの書く」

 タマキは名簿の表紙へ書いた。

《本人の名が一番上。ほかの名は、誰が使うか書く。》

 真琴は消さなかった。

 その下へ、小さい字で正式な説明を足す。

 由良が剛嶺式の記号を書く。

 真壁が日時を書く。

 巌門が発行責任者を書く。

 七瀬は、最後に撮影範囲を書く。

《名簿全景。個人欄は非判読距離。手のみ。公開用ではない。》

「撮ったのに読めない?」

 由良。

「紙が存在したことと、誰が作ったかを残します。中身は原紙で管理」

「全部撮る人じゃないんだ」

「全部撮ると、見る権限まで全部に見えます」

「面倒」

「はい」

「それ、好き?」

「少し」

 由良は鼻で笑った。

 一月二十九日 午前九時十六分

 共同診療棟二には、窓が四つあった。

 三つは外を見せる。

 一つは、記録室との受渡し窓。

 咳の続いていた人と、右手を傷めた若者は、名前の公開を拒んだ。

 拒否は、身元確認の失敗ではない。

 本人であることを、誰へどこまで知らせるかが決まっただけだ。

 七瀬は、二人の顔を見た。

 撮らない。

 声も回さない。

 医療者が、本人選択欄を読む。

 一人は天環側の呼吸器病床を選んだ。

《本人名非公開。天環式呼称の訂正要求あり。剛嶺側へは生存確認のみ。》

 もう一人は境界滞在を選んだ。

《本人名非公開。家族照会を一週間保留。右手の治療を優先。》

「一週間の後は」

 七瀬が訊く。

「その時決める」

 若者が答える。

「自動公開にはしません」

「忘れられたら」

「確認日を紙と寝台札へ」

「人が来る?」

「来なければ、あなたから呼べる」

「呼ばなかったら」

「保留が続きます。ただし滞在期限や医療費は別に説明されます」

「名前を言わない罰みたいだ」

「そう見える部分があります」

「否定しないんだ」

「否定すると、直す場所がなくなります」

 若者は右手の包帯を見る。

「手だけ撮って」

「公開は」

「しない。俺がいたって、後で俺が疑った時に見る」

「本人閲覧用」

「顔だと、今の俺が嫌になる」

「手なら」

「怪我が治ったら、少し違う」

 七瀬は包帯を撮った。

 指先だけが出ている。

 爪の間に、青い塗料。

 どこの仕事場か分かる者には分かるかもしれない。

「塗料は識別情報になります」

「じゃあ、包帯をもう一枚」

 医療者が白い布を重ねた。

 手は、ただの手になる。

 それでも本人には分かる。

 包帯の巻き始め。

 小指の曲がり。

 自分だけが知る、身体の癖。

 写真は、他人へ証明するためだけにあるのではない。

 未来の自分が、過去の自分を疑った時のためにもある。

 午後一時五十二分

 西の臨時宿へ自分で移った一人から、紙が届いた。

 名前はない。

 照合符号だけ。

《生存確認は両側へ可。現在地は不可。三つの呼称のうち、どれも本人名として使用しない。連絡は境界窓口のみ。》

 署名欄には、指紋も筆跡もない。

 宿の照合員二人が、本人の前で読んだという証者印だけ。

「本人の証拠が弱い」

 巌門。

「本人が署名を拒否した」

 真壁。

「偽装できる」

「署名も偽装できます」

「だから複数照合する」

「宿員二名、診療記録の服薬番号、通過札の破り目。三つです」

「顔は」

「出さない」

「声」

「出さない」

「指紋」

「出さない」

「では、本人が後で否定したら」

「否定を受け付けます」

「記録の意味がない」

 七瀬が口を挟む。

「否定できない記録の方が、本人には危険です」

「記録者は、記録を疑われることを望むのか」

「望みません」

「なら」

「望まないことと、許さないことは違います」

 巌門は紙を見た。

「おまえたちは、扉を開けた後も閉じ切らない」

「閉じた方が楽です」

 七瀬。

「楽を嫌うのか」

「好きです」

「見えない」

「楽を選んだ後で、誰が苦しくなるかが気になります」

「それを全部考えれば、動けない」

「だから、撮らないものも決めます」

 巌門は、照合紙へ印を押した。

《本人選択を優先。再照合要求可。》

「私の印を使って、私を疑える紙を作るのか」

「はい」

「嫌われる仕事だな」

「好きな部分があります」

 巌門は笑わなかった。

 だが、鍵を文鎮にする時より、紙を平らに置いた。

 一月三十日 午前十時二分

 返却される物は、預けた時より多くの説明を背負っていた。

 境界倉庫の鉄網に、番号札が並ぶ。

 七瀬の主記録機。

 真鍮の角。

 青い旗芯。

 外した送信配線。

 金属三脚。

 伏見轟の工具帯。

 大きなモンキーレンチ。

 短い釘抜き。

 折尺。

 滑車。

 鉄線。

 水平器。

 凱の銀留め。

 鐘。

 白い長外套へ付ける装飾具。

 真琴の紙留め。

 タマキの十六枚の銅貨。

 どこでもない橋の木片。

 物は、入った時と同じ順で返されるわけではない。

 検査官は危険区分の低い物から読み上げた。

「木製模型、一点」

「橋」

 タマキ。

「模型です」

「返る時は橋」

「用途が確定したんですか」

「ここから向こうへ行って、戻ってきた」

「倉庫から出ていません」

「私が出た」

「物の移動記録です」

「持ち主の移動は関係ない?」

「所有関係には」

「じゃあ橋」

「模型」

「どこでもない橋」

「名称欄へは長すぎます」

「短くすると、ただの木になる」

 検査官は黙って、《木製模型》の横へ小さく書いた。

《本人呼称:どこでもない橋》

「学んだ?」

「返却記録です」

「褒めてない」

「知っています」

 タマキは木片を受け取り、欠けた端を指でなぞった。

「増えてない」

「何が」

「傷」

「倉庫では投げていません」

「橋は投げない」

「入庫時、あなたが投擲物になり得ると」

「そっちが言った」

「記録では――」

「人は記録へ入りすぎると、自分が言ったことまで預けるんだね」

 検査官は次の品へ移った。

「銅貨、十六枚」

「十九」

「持込許可三枚は、給水設備の仮修理に使用」

「境界管理が払うって言った」

 巌門は返却卓の端に立っていた。

 今日の肩書は、返却責任者。

「額面三枚と、作業工賃の仮払票」

 灰色の封筒を出す。

 中に、新しい銅貨三枚。

 もう一枚、紙。

「顔が違う」

 タマキ。

「貨幣図像は同じだ」

「縁」

「使用した三枚は、管の継手と一緒に証拠保管」

「返らない?」

「返せば、管が漏れる」

「直したんじゃないの」

「継手は交換した。だが、銅貨は破損経緯の確認用に保存する」

「いつまで」

「設備損傷と修理費の審査が終わるまで」

「私の物」

「だから額面を弁済した」

「顔は弁済してない」

「顔はない」

 轟が言う。

「ある」

「描けって言った」

「描いた」

 タマキは配達箱から、小さな紙を出した。

 三枚の銅貨に、それぞれ違う顔が描いてある。

 一枚目は犬。

 二枚目は橋。

 三枚目は、怒った轟。

「俺?」

「顔ある」

「銅貨の話」

「似てる」

「どこが」

「硬い」

 巌門が封筒を閉じる。

「図像損失の賠償規定はない」

「作って」

「作らない」

「できない?」

「しない」

「違いは」

「壊れた時に謝る準備があるか、だったな」

 轟が巌門を見る。

 倉庫の棚の右脚は、鉄板ではなく新しい基礎金具で固定されていた。床の沈下量も、壁へ紙で貼られている。

《五・二ミリ。荷重再配分済み。三か月後再測定。》

「覚えてた」

 轟。

「棚より先には忘れなかった」

「三か月、持つ?」

「保証ではない。測定計画だ」

「壊れたら」

「私が謝る」

「それ、保証」

「違う」

「似てる」

 轟は工具を一本ずつ受け取った。

 左肩を上げず、右腰の帯へ入れる。

 滑車の軸を回す。

 水平器の気泡を見る。

 折尺の節を開く。

「全部ある」

「入庫時と同数です」

「同じか」

「何が」

「数じゃなく」

 轟はモンキーレンチの顎を開閉した。

「油、違う」

「防錆油を塗りました」

「匂い」

「倉庫規格品です」

「俺の油、返せ」

「拭き取った油は廃棄済みです」

「工具、他人の匂いになる」

「性能へ影響は」

「仕事へ入る時、迷う」

 検査官は手を止めた。

「再洗浄を希望しますか」

「自分でやる」

「費用は」

「俺」

「境界側の処置が原因です」

「なら油だけ出せ」

「同じ製品はありません」

「成分表」

「あります」

「それでいい」

 検査官は成分表を添えた。

 返却は、同じ物を同じ数だけ渡せば終わるわけではない。

 人は道具へ癖を付ける。

 道具も人へ癖を返す。

 その間に他人の手が入れば、性能表へ出ない違いが残る。

 凱の鐘は、鳴らさずに返された。

「音響確認を」

 検査官。

「ここで鳴らす必要はない」

 凱。

「破損確認のためです」

「目視で」

「内部の舌は音でしか」

「では、私ではなくあなたが鳴らせ」

「所有者確認は」

「音が命令と誤解されるなら、返す側が責任を持て」

 検査官は小さく鐘を振った。

 澄んだ一音。

 倉庫の鉄網が、細く返す。

 外で待つ兵の何人かが、反射で姿勢を正した。

 すぐに、自分で力を抜く。

 凱はその動きを見た。

「音は同じです」

 検査官。

「聞く側が少し違う」

 凱は鐘を受け取った。

 外套へ付けない。

 布で包み、鞄へ入れる。

「王の音を隠すの」

 タマキ。

「ただの鐘だ」

「じゃあ鳴らして」

「必要な時に」

「必要、誰が決める」

 凱は一拍置く。

「聞く者へ訊く」

「全員?」

「できる範囲で」

「長い王様」

「王ではない」

「短い」

 七瀬の主記録機が返る。

 真鍮の角に、新しい擦れはない。

 青い旗芯の封印線も切れていない。

 手回し軸を一度回す。

 音が滑らかだ。

「入庫中の映像閲覧は」

「なし」

 検査官。

「旗芯接続は」

「封印継続」

「主機の時刻」

「入庫時から停止」

「ずれは」

「停止なので、経過時刻分」

「返却時刻を記録します」

 七瀬は主機へ紙札を結ぶ。

《一月二十四日十一時十二分停止。一月三十日十時四十三分返却。停止中記録なし。》

「機械が何も見ていなかった時間まで書くんですか」

 検査官。

「見ていないことを、後で見たことにされないためです」

「借用小型機の記録は」

「公開用、照合限定、非公開、削除保留へ分けて移します。立会いを」

「削除するなら」

「まず複写を作らない状態で、本人へ確認する」

「保存義務がある映像は」

「命令書、受領時刻、発砲停止、設備鎖、本人同意のある照合。家族面会と医療情報は別」

「発砲停止の瞬間は撮れている?」

 真壁が訊いた。

「全部ではありません」

「どこから」

「あなたの停止宣言。瀬尾さんの銃が地面へ落ちた音。巌門隊長の命令。銃口が一人ずつ上がるところ」

「私の顔は」

「入っています」

「公開範囲は」

「規則審理と当事者閲覧。一般公開は、あなたたちの意見を取った後」

「意見が割れたら」

「顔と声を分ける。必要なら動作だけ」

「銃を置いた動作だけ出すと、勇敢に見える」

 瀬尾が言った。

 返却卓の奥で、自分の個人装具を点検している。

「勇敢ではなかった?」

 七瀬。

「怖かった。手が滑った。銃を置くつもりで、落とした」

「落とした音も残っています」

「格好悪い」

「消しますか」

 瀬尾は考えた。

「残す。音だけ」

「理由は」

「同じことをする人が、綺麗にできなくてもいいように」

 真壁が彼を見る。

「名言ですか」

 タマキ。

「事故報告です」

 瀬尾。

「事故の方が、使える」

 七瀬は公開条件へ書いた。

《落下音を含む。本人希望。動作の英雄化を避けるため。》

 記録は、格好よくするだけで嘘になる。

 格好悪くするだけでも嘘になる。

 怖かった手が何を選んだか。

 そこまで残して、やっと一人分に近づく。

 午前十一時二十七分

 迅の封印帯は、最後に外された。

 入境時とは逆の順番。

 透明細管。

 灰色の帯。

 保温布。

 赤い七結びの紐。

 細管の中央に赤液は走っていない。

 縁へ、小さな赤い点が三つある。

「衝撃記録」

 検査官。

「第二検問、給水管、内柵」

 迅。

「敵対準備判定はなし」

「帯が決めた?」

「現場記録と照合しました」

「誰が」

「各担当者」

「古賀は」

「第二検問接触について、《反撃ではなく転倒防止》と署名しています」

 迅の目が少し動く。

「怪我」

「頸部捻挫。頭部打撲なし。右肩に軽い打撲。勤務停止は二日」

「聞いてない」

「いま訊かれたと判断しました」

「俺の手」

「封印帯を切ります」

 検査官が細い鋏を入れる。

「皮膚へ触れます」

「分かった」

「動かさないで」

「犬みたいだな」

「待てとは言っていません」

「同じ」

 鋏が進む。

 灰色の帯が開く。

 迅は拳を作らない。

 最初に、右手首の内側を見る。

 赤い擦過傷。

 帯の縁が、保温布の隙間で皮膚へ当たっていた。

 小さな水疱が一つ。

「傷」

 七瀬が言う。

「軽度です」

 検査官。

「程度ではなく、原因」

「長期装着による摩擦」

「装着規格は」

「保温布を下へ」

「入ってた」

 迅。

「ずれた可能性」

「誰の動作で」

「本人の」

「門を通るために巻いた帯が、歩いた本人のせいで傷を作った?」

 七瀬の敬語が増える前に、迅が言った。

「写真」

「撮っていい?」

「手首だけ」

「公開は」

「しない。返却記録」

「治療は」

「洗う」

「医療者へ」

「タマキでいい」

「よくない」

 タマキ。

「洗う料金、高い」

「払う」

「境界が」

 タマキは巌門を見る。

「払う」

 巌門。

「すぐ言った」

「三枚で学んだ」

 七瀬は迅の手首を撮る。

 赤い紐は外さない。

 帯の跡。

 古い骨折のわずかな盛り上がり。

 冬になると痺れる小指と薬指。

 拳ではない手。

「先に握らないんだ」

 凱。

「皮、剥けてる」

「能力が戻ったか確かめない?」

「消えてない」

「帯は」

「使ったら殴ったことにする道具」

「能力を消す道具ではない」

 真琴が確認する。

「そこは記録へ明記します。誓痕抑制具は能力消去装置ではなく、合意条件下の使用または規定動作を敵対行為として記録する契約道具」

「名前が嘘だな」

 迅。

「社会で流通する呼称と、実際の機能が一致しない場合があります」

「名前の方が偉そう」

 タマキ。

「契約道具は、名前で怖がらせる面もあります」

 真琴が眼鏡を押し上げた。

「それ、認めるんだ」

「機能を説明しない方が危険です」

 迅は、切られた帯を見た。

「それ、どうする」

「攻撃準備なしの確認後、規定廃棄」

 検査官。

「傷の証拠」

「写真があります」

「帯の縁」

 七瀬。

「装着不良の検証に必要です。廃棄を保留してください」

「契約道具は再利用しません」

「再利用ではなく、原因確認」

 巌門が手を出した。

「証拠袋へ。装着者、装着担当、医療者、記録者の四者印。皮膚損傷の調査終了まで保管」

「軽度です」

 検査官。

「軽度なら、記録も軽くていい規則はない」

 巌門。

 迅は右手を開く。

 握る。

 小指が少し遅れる。

 能力は戻っている。

 というより、ずっとあった。

 使わなかっただけだ。

「七歩、試す?」

 タマキ。

「ここで?」

 七瀬。

「返却検査」

「倉庫を壊す」

 轟。

「棚、直った」

「床が五・二ミリ沈んでる」

「じゃあ外」

「要らない」

 迅は右手へ薬を塗られた。

 包帯を巻く。

 赤い七結びの紐は、包帯の上へ戻す。

「拳より先に包帯」

 凱。

「拳も皮でできてる」

「名言か」

「手の話」

 迅は返却卓から離れた。

 七歩を取らない。

 普通に、三歩。

 扉まで。

 倉庫の外には、雪が残っている。

 一月三十一日 午後二時四分

 墓は、間違いを消す場所ではなかった。

 東縁記銘地の風は、行きに通った時より弱い。

 雪の上へ敷いた板は外されている。

 ただし、伏見轟が直した石段の三枚だけは残った。

 墓守の槻野サエが、一本ずつ杖で叩く。

「前より鳴らない」

「下、詰めた」

 轟。

「水は」

「抜ける」

「春に沈む」

「沈んだら呼べ」

「天環の人を?」

「俺を」

「料金は」

「石三枚」

「高い」

「肩、使えん」

「なら二枚」

「値切るな」

 サエは口の端を上げた。

 猫番のユキが、板を運んでいる。

 猫のジロは、運ばない。

 人が直した段の中央へ座って、出来を検査している顔をしていた。

「合格?」

 タマキが訊く。

 ジロは欠伸をした。

「不合格」

「何で」

「猫、褒めると働かされる」

「働かないよ」

「なら合格」

 記銘板の前に、由良が立つ。

《石輪ナツ》

《一月二十一日 路上喪失》

 遺体未収。

 灰谷名削除。

 人が生きていると分かっても、文字は石から自分で降りない。

「削る」

 由良が工具へ手を伸ばす。

「待ちな」

 サエが杖を横へ出した。

「本人確認は終わった」

「だから、本人へ訊いた」

「何て」

「今すぐ削るな」

 由良の手が止まる。

 七瀬は、サエから紙を受け取った。

 ナツの署名はない。

 本人名《ナツ》

 証者、灰谷トワ。

 記録者、火群七瀬。

《石輪ナツの死亡記銘は誤り。ただし、誰が、どの記録で、死者として扱ったかを確かめるまで、石を破壊しない。表面へ訂正札を置き、一般の追悼対象から外す。訂正完了後、石の扱いを本人が再度決める。》

「死んだ名前を残すの」

 由良。

「名前じゃない」

 サエ。

「間違えた跡だよ」

「見るたび、ナツが」

「だから布を掛ける」

 サエは灰色の布を出した。

 石を隠す。

 中央へ白い札。

《本人確認済み。死亡記銘は無効。訂正調査中。本人の行先を尋ねないこと。》

「長い」

 タマキ。

「墓の人は、時間がある」

 サエ。

「生きてる人は」

「急ぐから間違える」

「死んだ人は?」

「待つ。文句を言わないから、勝手なことを書かれやすい」

 七瀬は訂正札を撮った。

 石の名前は布で隠す。

 サエの手。

 由良の手。

 布を留める紐。

 顔は入らない。

「ナツは来ない?」

 由良。

「今日は母親と糸車を直してる」

 七瀬。

「帰った?」

「境界面会工房を二時間借りました」

「そんな場所ある?」

「面会室へ、持込工具の許可を取った」

「家じゃない」

「はい」

「工房でもない」

「はい」

「何なんだ」

「二人が今日、糸車を直す場所」

 由良は、灰色の布を見た。

「それで足りる?」

「足りるかは、二人が決めます」

「またそれ」

「便利なので」

「嫌い」

「知っています」

 由良は赤索をほどいた。

 訂正札の下端へ、一本だけ通す。

「牽引索を墓へ使うな」

 サエ。

「貸すだけ」

「いつ返す」

「訂正が終わるまで」

「仕事で要るだろ」

「予備がある」

「赤いから目立つ」

「目立たせる」

「誰の許可」

 由良は止まった。

「ナツへ訊いてない」

「なら使うな」

 由良は索を抜いた。

 代わりに、サエの灰色の紐を使う。

 自分の物だから、自分で決めてよいとは限らない。

 他人の名前へ触れる時、道具の所有者より、名前の持ち主が先だ。

「学んだ?」

 七瀬。

「褒めてない顔」

「少し褒めています」

「少しならいらない」

「全部はまだ」

「正直で嫌になる」

「よく言われます」

 由良は赤索を胸へ巻き直した。

 ジロが端へじゃれつく。

「猫には貸す?」

 タマキ。

「許可を取る」

「誰に」

「ジロ」

「どうやって」

 由良が索を少し振る。

 ジロが飛びつく。

「同意した」

「誘導した」

「猫は難しい」

「人より?」

「人と比べるな。猫に失礼」

 サエが言った。

 ユキだけが、大きく頷いた。

 二月一日 午前七時四十分

 剛嶺側の地面は、朝から微かに揺れていた。

 街そのものが、遠くで歩いている。

 境界の固定床に立つ由良の身体が、その振動を先に見つける。

 踵。

 膝。

 腰。

 地面が動くと、彼女の揺れは止まった。

 帰るからではない。

 自分の身体が覚えているリズムだからだ。

 由良の荷物は少ない。

 畳んだ凧骨。

 赤索二本。

 境界地図。

 医療費の写し。

 賃金請求の受付票。

 三欄名簿の剛嶺側写し。

 発砲停止記録。

 墓地訂正票。

 紙の束は、赤索で四角く縛られている。

「人じゃなく紙を引くんだ」

 迅が言った。

「紙は勝手に歩かない」

 由良。

「人は」

「勝手に歩く」

「怒る?」

「道を間違えたら」

「誰の地図で」

 由良が迅を見る。

「覚えた?」

「何を」

「今の」

「訊いただけ」

「ずるい」

「近道?」

「違う」

 由良は紙束の結び目を締める。

「剛嶺へ、この写しを持って戻る。天環が人を奪ったって言う人もいる。私が連れ戻さなかったって言う人も」

「言わせる?」

「言う。止めない」

「説明は」

「する。本人が選んだ。選べる条件が十分だったかは別。戻った人も、戻らなかった人も、全員を勝ちに使うなって」

「長い」

「真琴が移った」

「嫌?」

「便利」

「嫌いって言ってた」

「嫌いな物が便利なことはある」

「好きな物は」

「邪魔なことがある」

「何」

「速い道」

 由良は境界地図を出した。

 墓地の細道へ、灰色の線を引いてある。

《共同体許可がある場合のみ。目的・人数・修復責任を明記。》

「地図、直した」

「道は同じ」

「使える人が違う」

「短くなった?」

「長くなった」

「じゃあ、いい」

「どうして」

「長い道、嫌いだろ」

「嫌い」

「持って帰るなら、必要」

「名言みたいに言うな」

「道の話」

 由良は地図を畳んだ。

 七瀬は、その手を撮らない。

 由良はもう、記録の対象ではなく、記録の持ち手として立っている。