第196話 第十二章「越境者の記録」後編
「礼は言わない」
由良が言った。
「誰も求めてない」
迅。
「言われる前に」
「何で」
「助けてもらったって形にすると、剛嶺の仕事が天環の善意になる」
「助けてない?」
「一緒に間違えた。一緒に直した。費用も分ける」
「工具代」
轟が言う。
「剛嶺側負担、一覧にした」
「墓道の石」
「三枚」
「二枚」
「サエは二枚って」
「俺は三枚」
「交渉して」
「おまえの仕事」
「帰る前に増やすな」
「仕事は帰るまで仕事」
「帰った後もだよ」
由良は三枚と書いた。
その下に、小さく《墓守提示 二枚》と併記する。
「両方書く?」
轟。
「値切られた」
「俺が負けたみたいだ」
「勝ち負け?」
「石の話」
「なら三枚持ってきて、サエに二枚渡す。残りは次の沈下用」
「それでいい」
「最初から言え」
「交渉、必要」
「面倒」
「生きてる人は」
タマキが口を開く。
「だいたい面倒」
由良と轟が同時に言った。
タマキが不満そうな顔をする。
「私の」
「誰の言葉か、書く?」
七瀬。
「書かない。みんな使う」
由良は剛嶺側の白線へ向く。
巌門が待っている。
石灰色の外套。
壁のような肩板。
古い鍵。
彼は、由良へ敬礼しない。
「写しを確認する」
「読んだ」
「受領時に」
「今、開けると風で飛ぶ」
「受領印だけ」
「中身を見ずに押す?」
「封印番号を確認する」
「番号が合えば、中身も正しい?」
「正しいとは言わない。受け取ったと記録する」
「学んだ?」
「現場判断だ」
「便利」
巌門は紙束の封印番号を読む。
由良の控えへ、受領印を押す。
「私の停止記録も入っている」
「抜く?」
「抜かない」
「剛嶺で、隊長が上命を止めたって出る」
「出せ」
「期限付き城主が?」
「肩書も出せ」
「処分される」
「審理される」
「同じになることもある」
「だから記録が要る」
由良は、巌門の顔を見た。
「後悔してる?」
「質問が広い」
「撃たなかったこと」
「していない」
「もっと早く止めなかったこと」
「している」
「隊長を続けること」
「今日の引継ぎが終わるまでは」
「その後」
「今日の紙にない」
「逃げた」
「境界を越えるな」
「私の側だ」
由良は白線を跨いだ。
赤索で縛った紙束を、自分の胸へ抱える。
先導する相手はいない。
連れ戻す相手もいない。
彼女が持ち帰るのは、九人ではなく、九人を十二人にした理由と、その理由を直す仕事だった。
「由良」
七瀬が呼ぶ。
由良は振り返らない。
「何」
「あなたの顔は、一枚も撮っていません」
「訊いてない」
「報告です」
「背中は」
「二枚」
「消して」
「一枚は墓地通行の記録。もう一枚は、いま」
「いま撮った?」
「まだ」
「じゃあ一枚」
「いまは撮っていい?」
由良が肩越しに、顎の石灰線だけを見せる。
「紙を持ってる手だけ」
七瀬は撮った。
赤索。
紙束。
由良の左手。
剛嶺側へ向いた靴。
顔はない。
「礼は」
七瀬。
「言わない」
「はい」
「また《はい》」
「記録しました」
「嫌な人」
「好きな部分があります」
由良は、今度こそ振り返らなかった。
歩く地面の振動へ、足の速さを合わせる。
赤い索は、人ではなく紙を離さないように張っていた。
二月二日 午後四時二十一分
内柵を閉じる前に、白布を洗った。
タマキが、境界給水所の横へ桶を三つ並べる。
「一つ目、泥」
「二つ目」
検査官。
「石灰」
「三つ目」
「人の足」
「足を洗うんですか」
「布」
「同じ水で?」
「順番」
「三つ目の説明が違います」
「人が歩いた汚れ。油、薬、雪、何か分からない物」
「洗浄規格は」
「白くなるまで」
「許可印が消えたら」
「また押す」
「印の再発行には、用途確認が」
「もう使った」
「過去の用途と今後の用途は別です」
「今後は、布」
「分類不能です」
「洗濯物」
「洗濯後は救護表示用品として返却します」
「旗じゃない?」
「旗芯なし。指揮用途不可」
「じゃあ同じ」
「同じ物でも、返却時に確認します」
「面倒」
検査官は少し考えた。
「生きている手続きは、だいたい面倒です」
タマキが目を細める。
「それ、私の」
「返却記録に出所を書きますか」
「みんな使うから、いらない」
白布は、三つの桶を通った。
泥が落ちる。
石灰が薄くなる。
靴油の黒い筋は、完全には消えない。
灰色の許可印も、半分だけ残る。
「汚い」
タマキ。
「使用済みです」
「新しい方がいい?」
「新しい布には、誰も歩いてない」
迅が言う。
「名言?」
「洗濯の話」
布は乾燥棒へ掛けられた。
旗芯はない。
高く掲げるためではなく、水を落とすために風へ出る。
その下で、内柵の修理確認が行われる。
記録外の鎖は、証拠袋へ入ったまま。
代わりに、扉の沈下を受ける調整金具が付いた。
轟が折尺を当てる。
「開口、五百三十」
真壁が書く。
「全開時」
「千八百二十」
「閉鎖時の隙間」
「下、十八。左、九。右、十一」
「規格は」
「下、十五以下」
「不合格」
「地面、凍ってる。春に下がる」
「現在の規格です」
「じゃあ下の板、三ミリ」
「誰が」
「警備。俺が言う」
初めて扉を開けた朝と同じ役割。
ただし、今度は工具がある。
警備兵が板を調整する。
轟は左肩を上げず、右手で角度を示す。
巌門は作業責任者欄へ名前を書く。
真壁は検査者。
瀬尾は操作担当。
あの朝、別々に止まった三人が、今日は同じ扉を閉じる。
同じ判断ではない。
同じ作業を、違う責任で行う。
「閉める」
瀬尾が言う。
「待って」
七瀬。
白線の向こうを見る。
天環側へ、努の足跡がある。
固定具を付けた右足は、左より浅い。
レンの靴は大きく、踵が外へ開く。
呼吸器病床を選んだ一人の車椅子跡が、二本の細い線を残している。
剛嶺側へ、ミイを乗せた医療車の轍。
オトの細い靴。
由良の速い歩幅。
中央には、セツの短い歩幅。
ナツとトワが面会室へ往復した足跡。
右手を傷めた若者が、決めずに歩いた四角い跡。
三つの方向。
まっすぐな跡ばかりではない。
途中で戻った跡。
立ち止まった跡。
誰かと並んだ跡。
片方だけ深い跡。
「撮影していい?」
七瀬は、その場にいる全員へではなく、記録範囲を言う。
「足元だけ。顔、声、現在地の先は入れない。一般公開用は、個別の靴を識別できない遠景。照合用は原記録へ」
「私の靴、撮らないで」
ナツが中央から言った。
今日はトワと並んでいない。
一人で、境界滞在棟へ戻る途中だ。
「どれ」
「教えない」
「では、中央の近景は撮りません」
「全部遠くして」
「分かりました」
「簡単に言う」
「撮らない方が早いので」
「好き?」
「少し」
七瀬は主記録機を三脚へ載せた。
左肩へ重さを掛けない。
手回し軸を回す。
画面の下半分に白線。
上半分に柵。
人の顔は入らない。
足跡は、一人ずつ見分けられない距離。
撮影を始める。
「二月二日、十六時三十九分。行方不明者名簿の同一人照合、医療確認、本人選択による当日行先の記録を終了。九人の生存または本人選択を確認。氏名・所在の公開範囲は個別。三方式併記名簿を暫定採用」
言葉を止める。
言い足したくなる。
事件は解決した。
境界は変わった。
誰かが勝った。
どれも、画面の中にない。
あるのは足跡と、閉じる前の柵だけだ。
「閉鎖作業を」
真壁が言う。
瀬尾が扉を引く。
巌門が反対側の沈下を確認する。
轟が下の隙間を見る。
「あと二十」
扉が進む。
「十」
金属が擦れる。
「五」
内柵が閉じる。
上部横錠。
中央回転錠。
下部固定爪。
非常時の二重鎖は、新しい番号札を付け、記録へ載せる。
封印線。
五つ。
土の中に、六つ目はない。
「閉鎖時刻」
真壁。
「十六時四十一分十二秒」
瀬尾。
「操作異常」
「なし」
「負傷」
「なし」
「未返却工具」
「なし」
「未確認者」
真壁が一拍置く。
「所在非公開一名を含め、照合手順上はなし。ただし、全員の将来行先は未確定」
巌門が頷く。
「そのまま書け」
七瀬は撮影を止めた。
最後の画面は、錠ではない。
真壁が紙をめくる手。
八時三十五分二十七秒の停止記録。
巌門の署名。
真壁の署名。
瀬尾の震えた文字。
《処分を恐れた。命令確認が終わる前に撃つ方を、もっと恐れた。》
その下へ、今日の閉鎖確認が続く。
同じ紙ではない。
同じ綴じ紐の中にある。
「公開しますか」
七瀬が三人へ訊く。
「停止記録は、審理関係者と当事者へ。一般公開は、警備位置と個人住所を伏せる。瀬尾さんの文は本人希望どおり残す。異議は」
「ない」
真壁。
「ない」
瀬尾。
巌門は少し遅れて言う。
「私の肩書を削るな」
「理由は」
「権限の多い者が署名したと分からなければ、部下が止めた責任だけ大きく見える」
「分かりました」
「期限付きも」
「残します」
「なぜ訊かない」
「何を」
「期限の後を」
「本件の記録ではないので」
「訊かないの」
タマキが顔を上げる。
「今日、確定していない将来を、今日の紙へ書きません」
「知りたくない?」
「知りたいことと、書いてよいことは違います」
「面倒」
「人間なので」
凱が低く笑った。
左膝には、新しい冷却布。
医師の診断は炎症増悪。
新しい損傷はない。
四日間、階段と長時間立位を避ける。
その指示書を、彼は自分の鞄へ入れている。
「守る?」
タマキ。
「守る」
「誰が見張る」
「私が」
「信用ない」
「なぜ」
「射線に立った」
「あれは必要だった」
「医師の紙にも《必要なら立ってよい》って?」
「書いてない」
「じゃあ守らない」
「今回は守る」
「王の約束?」
「凱の返事だ」
「なら、少し信用」
迅は右手首の包帯を見た。
「少しばかりだな」
「全部信用すると、確認しなくなる」
タマキ。
「誰の言葉」
「私」
「名言みたい」
「料金取る」
七瀬は主記録機を止めたまま、三人の会話を聞く。
撮らない。
記録が終わった後にも、人は喋る。
記録に入らない冗談で、痛みの場所を確かめる。
内柵の向こうで、風が白線を撫でた。
洗った白布は、乾燥棒から外される。
畳まれる。
旗ではない。
三方向の道でもない。
ただの布へ戻る。
地面には、布が覆っていた時には見えなかった足跡が残っている。
天環へ向いたもの。
剛嶺へ向いたもの。
境界の中を何度も往復したもの。
柵の錠は閉じた。
八時三十五分二十七秒の署名は、開いたままだった。