第197話 第一章「占拠された給水塔」前編

二月十八日 午前六時四十三分

 助けを求める窓と、放っておけと命じる窓は、同じ八階にあった。

 火群七瀬は、どちらも撮らなかった。

「右から三枚目。白い布。上下に二度」

 代わりに、時刻と位置を紙へ書く。

「その左。板札。《介入不要》。文字は黒。掲示した手は見えない」

 朝の風が、環水三号塔の外周を回っていた。

 十二階建て。

 中央に円筒形の給水槽。

 その周囲へ住戸が輪のように並び、外側を細い避難廊下が巻く。

 遠くから見れば、巨大な水筒へ窓を貼り付けたような建物だった。

 近くから見れば、ひび、増築、洗濯竿、植木鉢、子どもの靴、補修板、勝手に延ばされた配管が、建物を一つの形で理解することを拒んでいた。

 外環壁〈ラスト・ウォール〉から北へ七百二十メートル。

 天環と剛嶺の境界に近い共同住宅。

 昨夜零時十四分、十一階の窓から鏡が三度、月明かりを返した。

 午前一時二分、六階から白布が下がった。

 午前一時九分、塔頂の拡声器が《介入不要》と放送した。

 午前三時四十分、地下排水口から赤い紙片が流れた。

 午前四時十五分、全窓へ同じ板札が出た。

 そして午前六時三十八分、八階の一室だけが白布を二度上下させた。

「救難信号だ」

 天環側の水務隊長が言った。

 七瀬の右で、三脚が雪混じりの泥へ沈む。

 彼女は左肩へ荷重を掛けないよう、腰の支持帯を締め直した。

「救難信号に見えます」

「同じだ」

「違います」

「白布を振った」

「洗濯物を外した可能性があります。上下二度の意味も不明です」

「夜中に鏡を三度返した」

「別の階です」

「塔は占拠されている」

「占拠されていることと、窓の動作の意味が一つであることは別です」

 水務隊長は、七瀬の小型撮影機を見た。

「では、何のために撮っている」

「決めつけた人が、後から決めつけていない顔をするのを防ぐためです」

 隊長の頬が動く。

 撮影機は回っていない。

 七瀬はそのことを言わなかった。

 何を撮るかだけでなく、何を撮っていると思わせるかも、現場では力になる。だからこそ、使った力は後で記録しなければならない。

 紙の余白へ書く。

《六時四十五分。撮影機未作動。水務隊長は作動中と認識している可能性。訂正せず。理由――突入発言の抑制。》

「窓を増やせば、意見も増える」

 環玉樹が言った。

 緑のニット帽を深く被り、胸より大きな配達箱へ双眼鏡を載せている。今日は結び直す時間がなかったらしく、右の黄だけが二重結びで、左の青は一重だった。

「百人住んでたら、百個の窓が要る?」

「住戸は九十六」

 朽葉真琴が書類から目を上げずに答える。

「住民登録は百十八名。昨日の配給記録では百六名が塔内。久我檻の警備班は別に十四名。ただし登録と実在は一致を確認できていません」

 真琴の数字を聞いた七瀬は、塔の窓を人数へ換算しなかった。

 代わりに、見える生活だけを別紙へ拾った。

 一階東。

 干された作業手袋、四組。

 二階南。

 薬草鉢、三つ。昨夜の霜除け布あり。

 三階西。

 小さな靴下、二足。片方だけ濡れている。

 四階北。

 鍋の蓋を窓辺へ立て、蒸気抜き。

 五階南東。

 鳥籠。鳥は見えない。餌皿だけ。

 六階西。

 板札の裏へ、子どもの計算練習。

 七階北。

 縫い糸。赤、青、白。

 八階東。

 白布と《介入不要》。同じ窓。

 九階西。

 湯気で曇った硝子。内側から指で丸が一つ。

 十階南。

 乾草束。

 十一階。

 共同炊事の煙。

 十二階。

 窓の内側へ、耳栓が二組吊られている。

「これ、何の情報」

 タマキが覗く。

「塔内の人が、占拠される以外のこともしている証拠」

「証拠って要る?」

「外側は、住民を《救出対象》と呼び始めています」

「救出される人は、靴下干さない?」

「干します。ただ、呼び名が一つになると、それ以外が見えにくくなる」

 タマキは三階の小さな靴下を双眼鏡で見た。

「片方だけ濡れてる」

「そう書きました」

「もう片方、なくした?」

「分かりません」

「洗ってないだけかも」

「分かりません」

「分からないの、多い」

「百六人いれば、百六人分より多くなります」

 迅が紙を横から見る。

「鳥、逃げたかも」

「鳥籠に鳥が見えない、とだけ」

「死んだかも」

「足さない」

「生きてるかも」

「それも足さない」

「記録って冷たい」

「冷たくしているのではなく、他人の話を温めて自分の形にしないようにしています」

「長い」

「熱すると縮む、でどうです」

「何が」

「記録」

「名言?」

「洗濯の話です」

 七瀬は紙を三つ折りにした。

 公開用。

 作戦用。

 本人確認まで非公開。

 子どもの計算練習や耳栓は、作戦上必要がない。

 外へ見せれば、物珍しい暮らしとして消費される。

 だから公開用には書かない。

「記録したのに隠す?」

 タマキ。

「必要な人へ渡せるように残し、必要でない人へ見せない」

「誰が必要か、誰が決める」

「最初は私。後で本人へ返す」

「本人が要らないって言ったら」

「消すか、返す」

「撮った人の物じゃない?」

「撮影機の中にあるだけです」

 塔の窓へ、朝日が一枚ずつ入った。

 白布も、板札も、鍋の蓋も同じように光る。

 遠くからは、全てが信号に見える。

 近くで暮らす人にとっては、信号になる前から使っていた物だった。

「じゃあ、窓百二十個」

「意見の数と人数も一致しません。一人が三つの意見を持つ場合がある」

「真琴は七つくらい持ってる」

「但し書きです」

「意見の子ども?」

「親子関係ではありません」

「そこ、今やる話か」

 竜胆迅が言った。

 色褪せた紺の学ランを一番下だけ留め、壁際ではなく、雪除け柵と機材車の間に立っている。塔の正面入口、外周足場、地下排水口の三つが同時に見える位置だった。

 右手首の擦過傷は薄い桃色へ変わっている。

 境界検問で封印帯を外してから十六日。皮膚は閉じた。寒いと小指と薬指が遅れることだけは、まだ右手に残っている。

 迅は双眼鏡を使わない。

 窓ではなく、窓の下の雪を見ていた。

「五階東。雪が落ちてない」

「庇がある」

 七瀬。

「他の庇は落ちてる。あそこだけ窓、開いてない」

「閉じ込め?」

 タマキ。

「断熱しただけかも」

「また《かも》

「分からないのを、別の言葉で埋める方が悪い」

「迅が言うと、名言みたい」

「窓の話」

 塔の上部で、金属が鳴った。

 風の音ではない。

 短く、四回。

 七瀬が顔を上げる。

 塔頂の貯水槽を囲む整備床。その四角い点検口から、濃い栗色の髪が現れた。

 髪は顎の線で、定規を当てたように切り揃えられている。

 格子縫いの黒い短衣。

 左手に四角い金属枠。

 右手に鍵束。

 久我檻。

 年齢は十八。

 剛嶺外縁の治水船団出身。

 捕縛と経路封鎖を専門にしていた追跡兵。

 塔へ入ったのは十二日前だった。

 三号塔の住民が水泥棒に襲われ、外の警備が間に合わなかった夜、久我たちは二時間で襲撃者を追い払い、三つの入口を塞いだ。

 住民代表は、七十二時間の警備を頼んだ。

 七十二時間は終わった。

 襲撃は終わらなかった。

 久我も出なかった。

 現在、正面、裏口、地下ポンプ、屋上、水庫、診療室、食料庫の鍵を彼女が持つ。

 環水三号塔は、もともと城ではなかった。

 城でない建物を城として扱うと、まず窓が射線になる。

 次に階段が進軍路になる。

 最後に、台所と寝室が攻略目標になる。

 外側へ集まった人間は、既にその順番で塔を見始めていた。

 水務隊は正面入口を《第一突破口》と呼んだ。

 境界警備は北側の洗濯足場を《侵入可能点》と呼んだ。

 救護班は九階の赤布を《傷病者存在推定》と記した。

 どれも仕事の言葉だった。

 仕事の言葉は、正確なぶんだけ、そこに暮らす人の言葉を押しのけることがある。

 七瀬は地図の呼称欄へ、住民が使っていた呼び名も併記した。

《正面入口/朝市口》

《北側洗濯足場/風干し棚》

《地下排水口/子どもの船着き》

「船、着くのか」

 迅が紙を覗く。

「雨の日に紙舟を流すそうです」

「排水口へ?」

「外から入れるのではなく、内から出す」

「帰ってこない」

「紙舟なので」

「子どもは、帰らない物に名前付けるの好きだな」

「大人もです。決定、命令、犠牲、責任」

「朝から刺すな」

「時刻は六時五十一分です」

「朝だ」

 伏見轟は、会話へ入らず塔を見ていた。

 橙色の工事ベストの上へ、古い防寒外套を羽織っている。左肩を守るため、双眼鏡は右手で持たず、三脚へ固定してある。覗くより、外した耳当てを右耳へ当て、風の中の音を拾っていた。

「どうだ」

 凱が訊く。

「寒い」

「建物が」

「建物も」

「質問を省略した俺が悪かった」

「壁、三種類」

 轟は折尺の背で塔を示す。

「一階から四階。旧い鉄筋コンクリート。五階から九階、後補強。十階以上、軽量壁。外から同じに見える。違う」

「破れる場所は」

 水務隊長が聞いた。

 轟は答えなかった。

「聞こえなかったか」

「聞こえた」

「なら」

「先に、破ったら落ちる場所を言う」

 折尺が正面玄関の上を指す。

「あそこ、庇と二階床が同じ梁。爆薬、駄目。車で引くのも駄目」

 次に北側。

「洗濯足場。後付け。足場だけ落とすつもりでも、七階の排水管を引く」

 南側。

「窓から入るなら、室外の補強帯を切る。切ったら、九階より上の揺れが増える」

「何ならできる」

「まだ分からん」

「分からないなら、専門家を名乗るな」

 轟は欠けた前歯へ舌を当てた。

 笑う前の癖だったが、笑わなかった。

「分からん物を、分かった顔で壊さないのも専門だ」

 水務隊長は鼻で息を吐く。

「百人を人質にした集団へ、建物の都合を聞くのか」

「百人が人質か、確認したか」

「窓に救難」

「窓一つ」

「介入不要は強制だ」

「それも確認してない」

「では、いつまで待つ」

 凱が塔から視線を外さずに答えた。

「今朝の配給と医療が終わるまで」

「誰が決めた」

「俺が提案する」

「同じだ」

「違う。拒否できる」

「拒否した。八時に突入する」

「拒否を受けた。次に、八時突入の責任者と、破損時の補償者を出せ」

 凱の深い声は、命令ではなかった。

 だからこそ、水務隊長は従う理由を持たない。

 それでも周囲の隊員が、無意識に書類と上官を探した。

 王をやめた男の声は、王でなくなった日から急に小さくなるわけではない。

 効く声を持ったまま、効かせる範囲を減らす方が難しい。

「補償は市が」

「誰が署名する」

「緊急時だ」

「緊急時の署名欄を空けるな」

 真琴が書類を差し出した。

《突入時構造損傷責任》

《給水停止による医療被害》

《退去後住居確保》

《残留希望者への対応》

「用意がいいな」

「悪い事態は、用意している人のところへ来やすいので」

「迷信か」

「書記の経験です」

 隊長は受け取らない。

 真琴も引っ込めない。

 二人の間で紙だけが風に鳴る。

 タマキが紙の下へ石を置いた。

「飛ぶ」

「ありがとう」

「料金」

「石一個に?」

「拾った場所へ返す料金」

「請求書を」

「毎回それ」

「金銭は条件が明確です」

「友だち、少ない?」

「論点を戻してください」

 迅は、塔の影を見ていた。

 日の出とともに、円筒の影が雪原を移動する。

 影の端で、外側の兵が一歩ずつ塔へ近づいている。

「八時まで待つって言って、七時五十分から並べる気だ」

「準備は突入ではない」

 水務隊長。

「殴る前に拳を上げるのも準備だ」

「あなた方の理屈なら、七歩後退するのも攻撃準備だろう」

「そう書いた検問があった」

「ここでは書いていない」

「なら、書いてからやれ」

 迅は雪へ踵を擦った。

 塔から見れば、攻撃の合図に見えるかもしれない。

 彼は二歩目を取らない。

 意図が違っても、見える形が同じなら、相手の恐怖まで間違いとは言えない。

 鍵束は、遠目でも異様に大きかった。

 鍵だけではない。

 青い木札。

 白い骨札。

 赤い金属札。

 小さな紙筒。

 何を開ける物か、外からは分からない。

「火群七瀬」

 拡声器が低い女声を塔の円周へ回した。

「機械を下ろせ」

「回していません」

「嘘だな」

「正確には、あなたが出てくるまで回していませんでした」

 七瀬はクランクを回した。

「今、始めました。午前六時四十八分」

「顔を撮るな」

「理由は」

「必要ない」

「理由は公開しません。顔は撮りません。鍵束と、あなたが立っている位置は撮ります」

「位置も要らない」

「塔を占拠した人が、塔のどこから話しているかは必要です」

「占拠ではない」

「では、現在の権限名を」

「警備」

「誰から」

「住民」

「何人」

「生きている人数」

「委任の期限」

「外が安全になるまで」

「安全を判断する人」

「私」

 真琴が眼鏡の左つるを上げた。

「自己更新型の委任です。委任を受けた者が終了条件を判定し、その判定に異議を出す出口を同じ者が施錠している」

「長い」

 久我。

「短く言えば、あなたが終わりを決める」

「そうだ」

「住民は撤回できますか」

「外へ聞かせる必要はない」

「できるか、できないか」

「塔内で聞く」

「塔内へ入れません」

「だから外で黙れ」

 タマキが配達箱の留め具を鳴らした。

「誰から、誰へ、何のため」

「何だ」

「その鍵。誰から預かった。誰へ返す。何のため」

「子どもへ説明する義務はない」

 タマキの声が丁寧になる。

「それは、説明できない大人がよく言う言葉です」

 迅が小さく笑った。

 久我の青灰色の目が、タマキではなく迅へ向く。

「七歩の男」

「名前が短い」

「出口を探している」

「癖だ」

「癖は閉じられる」

 久我の右手首に、四角い線が淡く浮いた。

 誓痕〈ヴァウ・スカー〉

 相手が視線か言葉で確認した退路を、一度だけ物理的に封じる力。

 退路狩り〈エグジット・ハント〉

 迅は塔の出口から目を逸らさなかった。

「閉じたいなら閉じろ」

「強がりか」

「今、俺は外にいる」

「中へ来れば、出口を見る」

「中の人が来るなって言ったら、行かない」

「私が言っている」

「おまえは中の人を何人分やってる」

 久我の鍵束が揺れた。

 返事の代わりに、塔の南側で白煙が上がる。

 水務隊の一人が叫んだ。

「排水管だ!」

 七瀬はカメラをそちらへ向けない。

 先に目で確認する。

 地下外壁から伸びる排水口。白い蒸気ではない。冷気に晒された温水の霧だ。量は少ない。

 その霧を横切って、赤い紙片が一枚、濡れた雪へ落ちた。

 タマキが走ろうとする。

 迅が腕を出す。

「待て」

「配達」

「宛先がない」

「拾って見ないと分からない」

「踏まれた跡がある」

 排水口から紙片まで、雪に細い足跡が続いていた。

 塔の内側から出た足ではない。

 外側の水務隊員の靴跡。

 誰かが排水口近くへ紙を置き、内部から流れたように見せた。

 水務隊長が部下を見る。

「誰だ」

 返事はない。

 隊列の後ろで、一人の若い隊員が顔を伏せた。

 右の長靴に、赤い紙の繊維が付いている。

 七瀬は顔を撮らず、長靴と排水口の距離を撮った。

「紙を置きましたか」

 問いは水務隊長ではなく、七瀬から出た。

 隊員の肩が上がる。

「答えなくていい」

 隊長が遮る。

「内部調査する」

「答えない選択はあります。ただし、隊長が代わりに答えないでください」

「部下を守るのは私の責任だ」

「部下の発言を奪うことも?」

「敵前だ」

「塔の住民は敵ですか」

「久我の武装集団が敵だ」

「紙を置いた相手は」

「味方だ」

「味方の捏造は、敵の強制より軽い?」

 隊長は黙る。

 若い隊員が顔を上げた。

「俺が置いた」

 声が裏返った。

「昨日、六階の女が手を振った。助けてくれって言った。今朝は札が出た。あれは久我に書かされた。証拠がなければ、上は動かない」

「女の名前は」

「知らない」

「何と言った」

「声は聞こえなかった」

「手の動きは」

「こう」

 隊員は右手を横へ二度振る。

 由良が眉を寄せた。

「それ、追い払う合図だ」

「剛嶺の?」

「この塔でも使う。洗濯竿に鳥が来た時と、下で騒ぐ酔客へ」

「違うかもしれない」

「そう。だから紙を作るな」

 由良は若い隊員へ近づいた。

 速い女が、走らずに歩く。

 それだけで周囲が少し緊張する。

「助けたい?」

「当たり前だ」

「誰を」

「住民を」

「名前」

「知らない」

「住み続けたいか」

「占拠されてるんだぞ」

「出た後、どこへ行く」

「避難所」

「何日」

「そこまで俺の仕事じゃない」

「助けるの、どこまで?」

 若い隊員の口が止まる。

 由良は責める顔をしなかった。

「私も、前はそこまでだった」

「何が言いたい」

「分からない所から先を、敵のせいにすると早い。早い道は、帰り道をなくす」

 迅が言う。

「今度は名言だ」

「うるさい」

「道の話?」

「おまえを雪へ埋める話」

「帰り道、残せよ」

「一本だけ」

 若い隊員が、赤い紙片を拾う。

「処分を受ける」

「先に、訂正を」

 七瀬が言った。

「救難信号として扱った人へ、捏造だったと伝えてください。処分はその後です」

「公開するのか」

「氏名は出しません。行為と訂正は出します」

「俺がやったって言わなきゃ、また誰かが」

「名乗りたいなら止めません。ただし、名前が責任の全部に見えないよう、指揮系統も出します」

「隊長まで?」

「救難証拠を必要とした運用まで」

 水務隊長が低く言う。

「私が紙を置かせたわけではない」

「置かせていないことと、置きたくなる仕組みを作っていないことは別です」

「便利な言葉だな」

「不便です。調べる範囲が増えるので」

 七瀬は撮影機を止めた。

 訂正文は、すぐには掲示されなかった。

 水務隊長は「確認中」の札を要求した。

 若い隊員は、自分の名前を先に書こうとした。

 七瀬は、どちらも止めた。

「確認中にすると、偽物だった可能性と本物だった可能性が同じ重さで残ります」

「事実確認は必要だ」

「足跡、紙の繊維、本人の申告は確認した。未確認なのは、これを生んだ指示と運用です」

「なら隊員の氏名を出せ」

「一人の名前へ全部を吊るすと、運用が軽くなる」

 彼女は紙を二枚に分けた。

 一枚目には、赤紙を置いた行為と訂正。

 二枚目には、救難証拠がなければ動けない判断手順、六階の手振りを誰も確認しなかったこと、捏造を止める再確認者がいなかったこと。

「名前は、本人が名乗る場合だけ別欄」

「庇いすぎだ」

 若い隊員が言った。

「庇っていません。あなた一人へ収めないだけです」

「俺がやった」

「はい」

「それでも、俺だけじゃないって?」

「あなたが置いたことと、あなた一人だけの問題ではないことは両立します」

 七瀬は左肩を押さえた。

 冷えた朝に長時間撮影すると、炎症のある肩が熱を持つ。痛みは映像へ写らない。写らないから、無いことにしやすい。

 彼女は三脚の高さを下げた。

 無理に目線を合わせず、自分が撮れる姿勢へ画角を変える。

「記録する人間も、画角の外にいる」

 由良が言った。

「いる」

「痛いなら交代」

「撮る範囲を減らす」

「それ、同じじゃない?」

「違う。交代者へ何を撮らないかまで渡せない」

 七瀬は若い隊員へ、完成した訂正文を見せた。

「公開範囲を選んでください」

「俺の名前も」

「理由を聞いてよいですか」

「次に誰かが紙を作ろうとした時、ばれるって思わせたい」

「処罰の見せしめではなく?」

「……半分は、それもある」

「では、氏名は三日間だけ掲示。以後は行為記録へ置き換える。あなたが後から撤回した場合、氏名を外す」

「そんなに変えていいのか」

「一度名乗ったら、一生その名前で呼ばれる方が不自然です」

 隊員は署名した。

 七瀬は署名する手を撮った。

 謝る顔ではない。

 責任を引き受ける瞬間は、顔より、何へ名前を置いたかの方が長く残る。

 二十八分容量の境界機ではない。自分の機材だ。それでも、回せるから回し続けるとは限らない。

 若い隊員が訂正文を書く間、顔を撮らない。

 紙へ何度も線を引く手だけを、本人の許可を取って撮った。

《救難信号を発見》

 彼は消す。

《救難信号と思われる紙片を回収》

 また消す。

《自分が置いた紙片を、内部から流れた物として報告した》

 そこで手が止まる。

「長い」

 タマキ。

「短くすると?」

《捏造した》

「何を、が消える」

 真琴。

「じゃあ長いまま」

「採用します」

 紙を置いた人間を見つけても、塔の窓の意味は分からない。

 分からないものが一つ減ったのではなく、外側にも窓を勝手に喋らせる人がいると分かっただけだった。

 七瀬は、ようやく撮影機を向ける。

 紙ではなく、靴跡。

 排水口。

 距離。

 周囲の隊員の足元。

「救難信号の捏造か」

 由良の声が、背後から飛んだ。

 鷹取由良は、塔の陰から歩いてきた。

 黒髪を高く結び、顎に白い石灰線。片肩だけ厚い灰色外套。胸から伸びる赤い牽引索は、人ではなく、地図と書類の束へ結ばれている。

 二週間前、彼女は剛嶺へ戻った。

 境界で起きたことを説明するために。

 今朝、剛嶺側から再び来た。

 迅たちへ会うためではない。

 三号塔の住民から、剛嶺の斥候長へ照会が届いたからだった。

「由良」