第75話 第十二章「空白の規約」前編

八月二十一日 午前八時三分

 壊れた物を直す会議では、最初に椅子が足りなくなる。

 直す人間は座らず働いていると思われるからだ。

 竜胆迅は赤錆大工場の食堂へ、昨日の十三脚に加えて九脚を運んだ。

 右腕は胸の固定帯。

 左手で二脚ずつ。

「一脚ずつ」

 七瀬が言う。

「軽い」

「片手です」

「左ある」

「右の負傷者が左を酷使するのは、治療ではありません」

「撮影機、持ってない?」

「三脚です」

「左肩」

「固定です」

「似てる」

「あなたと一緒にしないでください」

「何が違う」

「私は医師の指示を守っています」

「俺も」

「一脚ずつ、と書かれていますか」

「書かれてない」

「つまり守っていません」

 迅は一脚を七瀬へ渡した。

 七瀬は受け取れない。

 左腕を吊っている。

 二人で椅子を見た。

「置く?」

「置いてください」

「誰が」

「あなたが一脚ずつ」

「長い」

「治療は長いものです」

 迅は一脚ずつ運んだ。

 九往復。

 七瀬が時刻を記録する。

「撮る?」

「撮りません」

「なぜ」

「椅子を運ぶ負傷者の美談にすると、あなたが次も二脚持ちます」

「一脚」

「今は」

 迅は最後の椅子を置いた。

 座らない。

 七瀬が一脚を出口へ向ける。

「座ってください」

「会議、始まる」

「だからです」

 迅は座った。

 椅子の脚を一度揺らす。

 三ミリ短かった椅子ではない。

 あれは修理札がついたまま、壁際にある。

 未修理の物を、来客用のきれいな椅子へ交換しない。

 今、直せない事実を残す。

 会議には四十三人が集まった。

 工員。

 保全。

 給湯。

 救難。

 共同食堂。

 住民。

 白布の現場員。

 鉞谷鉄志は診療所から遠隔の筆記板で参加する。

 伏見轟は食堂の端。

 左腕を固定し、工具帯を右腰へ移している。

 まだ使わない。

 ただ、置き場所だけ変えた。

 身体の形が変わる前に、仕事の形を変える準備をしている。

「再稼働の条件を決めます」

 真琴が言った。

 机に紙を三枚置く。

「開始条件。終了条件。途中撤退条件」

「開始だけでいい」

 運転統括補佐。

「今回は工場を動かす会議だ」

「動かした後に、誰がいつまで何をするかがなければ、また止められません」

「止める話ばかりだな」

「停止できない設備は、開始してはいけない設備です」

「法文か」

「今日は平文です」

「十分、法文だ」

 轟が低く言う。

「建物で言え」

 真琴が眼鏡を上げる。

「出口のない部屋へ、人を入れない」

「分かった」

「なぜ私が説明すると分からず、あなたが言うと」

「壁、見える」

「比喩は不正確です」

「通じた」

「不本意です」

 会議の空気が少し緩む。

 真琴は紙を示した。

「開始条件。赤戻り継手三か所の交換。手動弁の安全楔除去機構の修理。旧調整槽から通常系統への切替確認。工員の休憩表。救難退避路。以上が全て確認された時」

「全部で何日」

 工員。

「最短二日」

「二日も湯を」

 住民が声を上げる。

「旧槽はあと十八時間」

 小麦。

「足りない」

「途中から冷水中心。診療所と乳児室を残し、清拭湯は減らす」

「昨日は二十三時間と言った」

「使ったから減った」

「当たり前みたいに」

「当たり前です」

「怒ってるのか」

「寝てない」

「休めよ」

「今日の交代、十時」

「誰と」

「共同食堂の二人」

「決まってる?」

「書いた」

 小麦は鍋帳を見せた。

 自分の休憩も名前付きで書いてある。

 昨日まで、他人を座らせる側だった。

 今日は自分の欄がある。

「終了条件」

 迅が言った。

 全員が彼を見る。

 真琴が訊く。

「案がありますか」

「修理が終わったら、白布は工場から出る」

「当然だ」

 補佐。

「当然を、書く」

「信用してない?」

「自分を」

「何」

「仕事が終わっても、残る理由は作れる」

 迅は壁の白布を見る。

 中央が空いた布。

 期限付き認証を示すため、工場入口へ掛けてある。

「事故記録が残る。苦情が残る。修理費が残る。守るって言えば、ずっといられる」

「いたいのか」

 凱。

「いたくない」

「なら出ればいい」

「言った奴が変われば、残る」

「規約にする」

「白布を使う仕事は、開始前に終わりを書く。終わったら、設備と指揮を持ち主へ返す」

「持ち主は誰」

 タマキ。

 工員。

 共同会計。

 工場長。

 住民。

 答えが複数上がる。

「分からない」

 迅が言った。

「では返せません」

 真琴。

「使う人へ返す」

「曖昧です」

「決める人を、作業ごとに書く」

「設備所有権ではなく、運用責任ですね」

「難しい」

「あなたが難しくしたのです」

「建物で」

 轟。

 真琴は考える。

「鍵を、出ていく前に、次の当番へ手渡す」

「分かった」

「毎回これをするのですか」

「通じる」

「法務職の尊厳が」

「出口より軽い」

 迅が言った。

 真琴は口を閉じた。

「撤退条件」

 凱が続ける。

「途中で白布側が作業できなくなった場合、誰へ何を残して出るか」

「逃げる条件を先に書く?」

 住民。

「帰る条件だ」

「同じだろ」

「違う。逃げれば、仕事を置いていく。撤退は、置く物を数える」

 凱は自分の左膝へ手を置いた。

「今回は、負傷者が出ても作業を続けた。次も同じにすれば、負傷を計画へ入れたことになる」

「轟が抜けても回った」

 工員。

「回した」

 轟。

「俺なしで」

「悔しい?」

「少し」

「正直だな」

「構造」

「何が」

「一人抜けて持つ。いい」

「肩は」

「悪い」

 轟は右手で紙へ丸をつける。

 字は大きく、少し斜め。

《作業者一名が負傷した時点で、代行者がいなければ中断》

「一名で?」

 補佐。

「軽傷でも止めるのか」

「状態確認で一度止める。続けるかは本人と救難が決める」

「本人が続けたいと言えば」

「救難が止められる」

「権限強すぎる」

 澪が答える。

「救難は工程を止められる。ただし設備の所有はしない。止めた理由、解除条件、代替作業を署名する」

「あなたが毎回来るのか」

「来ない」

「じゃあ誰」

「現場の救護担当」

「いない区画は」

「作るまで始めない」

「人が足りない」

「それが開始条件」

 澪の声は低い。

 譲らない。

 だが、自分が永久に担うとは言わない。

 仕事を、自分の身体から手順へ移そうとしている。

 八月二十二日 午後二時十七分

 修理は、轟が壁を壊さないところから始まった。

 赤戻り継手の一本は、隔壁の向こうにある。

 最短は、壁へ穴を開けること。

 轟は椅子へ座り、右手の棒で図面を指した。

「ここ、開けない」

「遠回り」

 保全工員。

「緑管、裏」

「知ってる」

「前は知らなかった」

「今は知ってる」

「二時間増える」

「飲料水、止めない」

「肩が壊れて、慎重になった?」

 工員は悪気なく訊いた。

 食堂が静かになる。

 轟はすぐ答えない。

 怒りは大声より、作業停止で表す人間だ。

 右手の棒を机へ置く。

「肩が壊れる前に、慎重になった」

「悪かった」

「何が」

「怪我したから学んだみたいに」

「怪我でも学ぶ」

「じゃあ」

「でも、壁は十四日に壊さなかった」

「記録ある」

 七瀬。

「映像を出す?」

「本人が必要なら」

「いらん」

 轟は棒を取り直す。

「遠回り。狭い。俺、入れん」

「誰が入る」

 タマキが手を上げる。

「駄目」

 轟と鉄志の筆記板が同時に答えた。

 鉄志は診療所から映像なし、文字だけで参加している。

《狭所作業資格なし》

「二人とも同じ」

 タマキ。

「仲いい?」

《悪い》

「俺も」

 轟。

「同じ」

 狭所へ入ったのは、保全の女性工員だった。

 身長百五十四センチ。

 十年間、配管内視鏡を扱っている。

 轟は工具を渡さない。

「必要な物、言って」

「魚骨三十一。短柄。照明二。耐熱紐」

 タマキが一つずつ確認して渡す。

「送り主、保全室。受取人、川瀬。目的、継手交換。返却、同じ」

「毎回言うの?」

 川瀬が訊く。

「毎回」

「面倒」

「失くしたらもっと」

「正しい子ども、面倒だな」

「子ども関係ない」

「訂正。正しい配達員、面倒」

「成立」

 川瀬は狭い点検路へ消えた。

 轟は入口に立たない。

 椅子に座ったまま、音を聞く。

 壁の二回打ち。

 返事。

 一回、正常。

 二回、工具。

 三回、退避。

 轟の身体は門にならない。

 代わりに、打音表が門を支える。

 彼は左腕を一度も上げなかった。

 それは戦闘より地味で、戦闘より難しい勝ち方だった。

 八月二十二日 午後六時四十分

 修理初日の終わりに、タマキは返却台を食堂の中央へ出した。

 借りた物を並べる。

 銀盆十九枚。

 救助索六本。

 保全工具四十一点。

 浴場の温度計二本。

 議事堂の折り畳み椅子九脚。

 工場鍵三本。

 仮設給湯の操作権一件。

「操作権は物じゃない」

 石上が言う。

「返せる?」

「返すというより、終わる」

「終わった証拠」

「給湯責任者を工場側へ戻す文書」

「じゃあ物」

「違う」

「返却票は要る」

「それは要る」

 タマキは《物ではないが返すもの》という列を作った。

 真琴が嫌そうな顔をする。

「分類名が口語的すぎます」

「短い」

「権限・裁量・個人情報・複製物等」

「長い」

「物じゃない返すもの」

 迅。

「あなたまで」

「分かる」

「不本意です」

 返却確認をすると、足りない物が五つ見つかった。

 銀盆一枚。

 耐熱楔一個。

 救助索の留め具二個。

 浴場の温度計一本。

「楔は使用済み」

 轟。

「返せない理由を書く」

「変形。証拠保管」

「受取人」

「工場保全」

「じゃあ返却済み、状態変更」

 銀盆は鉞谷が曲げた一枚。

 救助索の留め具は排水溝で切断した。

 温度計だけが見つからない。

「誰が最後に」

 七瀬が記録を確認する。

「南二番浴場。獅堂凱」

 全員が凱を見る。

「返した」