第361話 第十一章「所有者を分ける」前編
火群七瀬は、母の記録を手に入れた。
正確には、母が映る記録のうち、一部を共同で保管する話し合いへ参加する権利を得た。
言い換えると、ずいぶん小さくなる。
小さくなるから、正確になる。
八月十八日、午前九時。
蔵座記憶競売所の円形会場から、入札板は外されていた。
十二の容器は吊られていない。
床の中央に、十二の低い台が置かれている。誰も見上げなくてよい高さ。台ごとに、原本、複製、閲覧、廃棄、費用の五枚の札。
競売人の席は空だった。
価は病院から参加する。
画面の中で、硬性装具を胸の下から骨盤まで着けていた。緑の上着は着られず、病院着の上へ薄い毛布。寝台を三十度まで起こし、それ以上は医療者が許可しない。
「商品を床へ置くなんて、見栄えが悪い」
価が言う。
「人が上を見なくて済む」
凱。
「元王が言うと営業妨害」
「元だから言える」
「便利」
「便利に使っている」
価は笑い、すぐ腰を庇って息を止めた。
イオが画面外から言う。
「笑いは一回三秒」
「医療指示にある?」
「今作った」
「同意してない」
「撤回する?」
「後で」
巴が中央台へ立つ。
右人差し指は副木のまま。左手で札をめくる。
「これは落札結果ではありません」
手話と字幕。
「誰か一人が十二ロットの所有者になる手続きでもありません。原本の保管、複製の作成、閲覧、廃棄、費用負担を分けます。回答しないことは、以前の契約への同意になりません」
榊が脇へ立っている。
「本日の語の定義へ協力します。ただし、最終解釈者ではありません」
真琴が後方で小さく言った。
「その一文、私の文より良いのが腹立たしい」
「聞こえています」
巴が振り返る。
「あなたに聞こえないはずでは」
「七瀬さんが字幕にしました」
七瀬はカメラを腰の固定台へ載せている。
「記録として有用でした」
「感情は記録しないでください」
「今のは感情だと確認しました」
「削除を」
「検討します」
「削除してください」
「拒否を記録」
「あなたとは一生合わない」
「予定は未定です」
迅が欠伸を噛み殺した。
「始めろ」
「あなたの欠伸から始めますか」
「撮るな」
「拒否を確認」
「今の便利だな」
「便利に作りました」
一番《母の椅子》。
出品者の老女へ返却。
住所部分の複製は削除。
既に支払われた前金は、競売所の誤説明負担と老女の受領済み生活費に分け、返済を求めない。研究者が負担を申し出た住所除去費は受け取らず、競売所の保全費へ振り替える。
「売れなかったのに、お金を返さなくていい?」
老女が聞く。
価が答える。
「説明を間違えた側が払う。あなたが食べた朝食を、後から吐き出させても金にはならない」
「下品だね」
「競売人なので」
「関係ある?」
「今作った」
一番、返却。
二番《右腕の終業》。
秋庭リクへ返却。
研究所には、本人が別に許可した身体検査の統計だけ。記憶像は渡さない。前金六万環は就労補償基金と競売所の仲介責任で清算する。
イオがリクへ聞く。
「戻ってきたら、見る?」
「見ない」
「壊す?」
「今は壊さない」
「売る?」
「今は売らない」
「右腕は」
「ない」
「仕事は」
「明日、電球を替える」
「二日だけ?」
「三日に増えた」
「良かった?」
「給料は少し」
「質問は感想じゃない」
「分かってる。良かった」
二番、返却。
三番《朝四時の別れ》。
白戸依久が代理署名をしなかったため、競売所は本人探索費を自分で負担した。出品者本人は別地域の療養所で生存確認。売却委任をしていないと回答した。
返却。
白戸は本人の回答書へ、自分の名を書かなかった。
「確認者欄があります」
係員が言う。
「私は確認していません」
「書類をここへ運んだ」
「運搬です」
「代理で受け取った」
「封筒を受け取った。意思は受け取っていない」
「細かい」
「細かくないところへ、人の名前を書く方が大きすぎる」
三番、返却。
四番《赤錆炉の三分》。
出品者へ返却。
義足費用は労災未払い分と競売仲介手数料から再計算し、本人の記憶売却を担保にしない。出品者は夢を見続けている。返ってきた媒体を、娘の義足の横へ置かないと決めた。
五番《借りた名字の夕食》。
取材対象本人へ返却。
本名は公開しない。借りた名字も、現在の呼称も、返却箱の外へ書かない。七瀬は返却時刻だけを撮った。
五つの返却が確定した。
返却という言葉は、物を元の場所へ戻すように聞こえる。
だが、記憶には元の棚がない。
一番の老女は、二十年前と同じ椅子をもう持っていなかった。
二番のリクは、抽出前と同じ右腕を持っていなかった。
三番の本人は、朝四時に別れた相手と同じ町へいなかった。
四番の炉工は、記憶を売った時の家を出ていた。
五番の取材対象は、返却箱へ書ける名前を一つも選ばなかった。
折部は五枚の経路票を広げた。
「一番。住所へ運ぶ」
老女が首を振る。
「家へ持ってこないで」
「受取場所を」
「駅前の理髪店」
「本人確認は」
「店主が私の耳を知ってる」
「耳?」
「左だけ、上が尖ってる。昔、椅子から落ちた」
タマキが老女の耳を見ようとし、七瀬に額を押し戻された。
「今、確認しない」
「なぜ」
「映像に残る」
「見ただけ」
「あなたは見たことを顔へ出す」
「どんな顔」
「耳の顔」
「分からない」
老女が笑った。
「それなら、理髪店でいい。あの子は耳を見ても髪型しか考えない」
返却場所は家ではなく、本人が選んだ第三の場所になった。
二番のリクは、受取箱を職場へ送らないよう求めた。
「理由は」
折部。
「能力を失ったことは知ってる。記憶を売ったことは知らない」
「家は」
「弟がいる」
「弟は」
「知ってる。でも、箱を見ると開ける」
「悪い人?」
タマキ。
「親切。だから困る」
受取場所は、公営浴場の休憩室になった。番台が封を預かり、リク本人が営業時間外に取りに来る。
「湯気、大丈夫?」
轟が聞く。
「防湿箱を二重にする」
折部。
「重くなる」
「義足は」
「運べる」
「無理なら分ける」
「箱を分けたら、封印も分ける」
「じゃあ台車」
「浴場の階段が三段」
「斜板を作る」
返却ひとつに、轟の斜板が要った。
健脚の者が数えない三段も、義足には三段のままだ。
三番の療養所は、本人の所在を外へ出さない条件で受け入れた。
白戸依久は、運搬票の《立会人》欄へ線を引く。
「消すのですか」
係員。
「この欄は要りません」
「規則で」
「何を立ち会う」
「本人が受け取ることを」
「本人と療養所職員が確認する。私は封筒を持っていくだけです」
「第三者が必要です」
「第三者という名前で、本人より強い人を置かない」
「では監査は」
「封が開いていないことを、発送時と到着時の二地点で別々に記録する。人が付き添う必要はない」
真琴が書式を見た。
「規則の目的は、運搬者の持ち逃げ防止です」
「私は持ち逃げするかもしれない」
白戸。
係員が目を見開く。
「だから、私を信頼する署名ではなく、箱の状態を照合する」
「自分を信用しないんですか」
「信用を仕事の代わりにしない」
白戸は封筒を持つ。
本人の意思は持たない。
四番の炉工は、返却日時を夜勤明けへ指定した。
「寝てからでは」
小麦が聞く。
「寝たら、受け取れない気がする」
「眠い時に決めるのは危ない」
「受け取るだけだ」
「受け取った後、見るでしょう」
「見ない」
「眠い人の《見ない》は、箱の前で変わる」
「じゃあ、飯を食ってから」
「何を」
「何でもいい」
「何でもいいは禁止」
小麦は夜勤明け用に、塩を薄くした豆粥と、固い干し肉を用意した。
「干し肉、噛めない」
「眠い時に噛める硬さにした」
「柔らかくしろ」
「噛んでる間は箱を開けない」
「食事で行動を縛るな」
「縛ってない。開けたいなら、口から出して」
「下品だな」
「厨房なので」
「関係あるか?」
「今作った」
価が画面で悔しそうな顔をした。
「その台詞、私の」
「値札を付けた?」
「今は付けない」
五番の返却は、最も短い経路票になった。
《本人が指定する受領点へ。呼称記載なし。外箱の印なし。配達者は、到着場所を帰路で記録しない》
折部が最後の一文へ線を引く。
「帰路を記録しないと、迷った時に戻れない」
「戻らないでください」
匿名監査者が答える。
「事故が起きたら」
「箱を保管庫へ戻す。受領点へ再訪しない」
「本人が待っていても」
「待つ期限を本人が指定する」
「二十分」
「短い」
「本人の指定です」
折部は頷いた。
「到着を善にしない。戻るのを失敗にしない」
タマキが言う。
「師匠みたい」
「今、呼んだ?」
「みたい」
「半分料金」
「払わない」
五つの返却は、五つの箱を出せば終わる仕事ではなかった。
受取場所を選び、見られたくない相手を避け、三段へ斜板を作り、代理人を置かず、食べてから受け取り、辿った道を忘れる。
返すとは、過去の持ち主へ戻すことではない。
今の持ち主が受け取れる形へ、道を作り直すことだった。
折部翼が、五つの箱を一つに積まなかった。
五人へ、五つの経路。
「一緒に運べば早い」
タマキが言う。
「早い」
「じゃあ」
「一緒にすると、一人が受取拒否した時、全部止まる」
「分ける」
「師匠と呼ぶ?」
「呼ばない」
「教えたのに」
「料金払って」
「弟子が取るのか」
「弟子じゃない」
「面倒だな」
「前から」
六番《青い薬包四十二》。
七番《灰色廊下の投与列》。
限定閲覧。
藍本人、指定医療者一名。姉・名取志保は、自分が映る区間と、藍がその都度認めた重複区間だけ。法的氏名、顔、所在は公開しない。研究利用は別申請。
藍は服薬を続けている。
通信画面には心拍八十六。
「これで終わり?」
志保が聞く。
「終わらない」
藍。
「薬を変える。記録を見るか、その時また決める。姉と一緒に見るかも、また決める」
「家族なのに、毎回?」
「家族だから毎回」
志保は泣かなかった。
「分かった」とも言わなかった。
「次は、呼び方を間違えない」
「次があるかは、今決めない」
「うん」
六番、限定閲覧。
七番、限定閲覧。
八番《七番水門・声だけ》。
共同保管。
海老名サチ、息子、地域記録所、保管監査者の四者。サチは今は聞かない。息子は一度だけ聞く。聞いた後、母へ内容を話さない。二人のどちらも、相手へ次の閲覧を強制しない。
「聞いて、父親が嫌いになったら?」
サチが息子へ聞く。
「分からない」
「好きになったら」
「分からない」
「聞くのをやめたら」
「それも決めていい?」
「いい」
サチは、自分へ言うように答えた。
九番《編集卓十五分》。
共同保管。
灯里の遺族である七瀬、映像に含まれる薄墨影治、取材対象側の匿名監査者、石英保管庫。誰か一人の鍵で開かない。
薄墨本人は会場にいない。
技術鍵の写しを持ち出した事実だけが、時刻とともに記録されている。
彼の共同鍵は、既に持っていた編集卓鍵を一要素として扱う。逃げたことで権利が消えるわけではない。盗んだことで責任が消えるわけでもない。
「気に入りません」
七瀬が言う。
綺理が答える。
「私も」
「なら外す?」
「外さない」
「逃げたのに」
「映っているから」
「鍵を盗んだ」
「別に追う」
「一緒にした方が捕まえやすい」
「捕まえるために、記憶の権利を人質にしない」
七瀬は反論しなかった。
九番、共同保管。
十番《黒雨前夜の配給会議》。
共同保管。
会議参加者のうち、生存確認できた五人。死亡者二人の遺族。地域配給所。個人名の公開は別同意。政策検証へ使う場合、発言者の声を消して内容だけ使う選択も可。
凱が言う。
「俺は閲覧を申請する」
「なぜ」
真琴。
「白冠の配給方式に、同じ判断が残っている可能性がある」
「王だった自分を正当化する材料になるかもしれない」
「なるかもしれない」
「なら、利益相反」
「監査付きで見る」
「拒否されたら」
「見ない」
「期限は」
「決めない」
「便利な言葉を覚えましたね」
「おまえたちが教えた」
十番、共同保管。
共同保管という言葉は、仲良く同じ箱を持つことではない。
八番、九番、十番の鍵を机へ並べると、それがよく分かった。
八番の鍵は四枚。
海老名サチの青い札。
息子の白い札。
地域記録所の木札。
監査者の金属札。
四枚を重ねれば、ひとつの輪になる。
「きれいですね」
係員が言った。
サチは輪を崩した。
「きれいにしないで」
「鍵として安定します」
「息子と私が同じ考えみたいに見える」
「開ける時は四枚必要です」
「私は聞かない。息子は一度聞く。違うでしょう」
巴が輪の留め金を外した。
「重ねず、四方向から差す形へ変更します」
「面倒では」
係員。
「違う意思を、きれいな輪にしないための面倒です」
息子が白い札を指で弾く。
「僕が聞いた後、母さんへ話したくなったら」
「話さない約束」
「守れなかったら」
「あなたが悪い」
「鍵を取り上げる?」
「その時、また決める」
「母さんは、何でも後で決める」
「前に一度、先に決めて失敗した」
「父さんのこと?」
「今は決めない」
息子は笑わなかった。
白い札を自分の胸ポケットへ入れた。
九番の鍵は、もっと不格好だった。
七瀬の共同鍵。
薄墨が残していた編集卓鍵。
匿名監査者の封印糸。
綺理の保管鍵。
薄墨の鍵だけ、本人が不在のまま机へある。
七瀬が言う。
「逃走中の人の鍵を、会場へ置いていいんですか」
「置かないと、彼の不在を理由に他の人が代行します」
綺理。
「代行は禁止」
「だから、鍵を封じたまま置く」
「本人が撤回したかもしれない」
「撤回窓口へ来ていない」
「来られないだけかも」
「なら開けない」
「一生?」
「期限を決める?」
七瀬は答えない。
見たい人ほど、期限を短くしたくなる。
その自覚が、喉に引っかかった。
綺理は薄墨の鍵の上へ、透明な箱を被せた。
《本人不在。代行不可。撤回確認不能。開封条件未成立》
「これだと、私が生きている間に見られない可能性があります」
「はい」
「母の映像なのに」
「取材対象の映像でもある」
「知っています」
「知っていて、嫌?」
「嫌です」
「記録します」
「感情を?」
「管理者の利害を」
七瀬は少し考えた。
「大きく書いてください」
綺理は札へ付け足す。
《火群七瀬は閲覧を強く望んでいる》
会場の何人かが七瀬を見る。
七瀬は目を逸らさなかった。
欲望を隠すより、鍵の外へ書いた方が安全なこともある。
十番の共同鍵では、凱が自分の申請札へ赤い縁を付けた。
「何です」
真琴。
「利益相反」
「自分で?」
「おまえが付けると、喧嘩になる」
「私は職務で付けます」
「俺は自覚で付ける」
「二重にします」
「目立ちすぎないか」
「元王が、元王政の配給会議を見るのです。目立ってください」
凱の札は、赤い縁が二重になった。
「祭りの札みたいだ」
迅が言う。
「おまえの偽物よりましだ」
「俺のじゃない」
「岳の声を使った」
「だから俺のじゃない」
迅の返事は早かった。
まだ十二番の判定前だ。
それでも、声と命令を分ける準備は、既に始まっていた。
共同保管の鍵は、揃えるための道具ではない。
揃っていないことを、勝手に埋めないための道具だった。
十一番《西階段の二度目》。
所有者による破棄。
破棄証明だけを残す。七瀬は、失われた母の声を取り戻さない。所有者の名も、現在地も知らない。
十二番を台へ載せる前に、照合者は四人へ分けられた。
凱は岳の話し方。
七瀬は映像機材。
轟は第七水門の構造音。
迅は、最後に本人の声を聞いた人。
四人を同じ部屋へ入れない。
先に誰かの答えを聞けば、自分の記憶が相手へ寄るからだ。
凱へは音声だけ。
『迅。七歩目は――』
凱は一度で停止を求めた。
《声質は岳に近い。語順は本人が使ったものと一致する可能性。呼気の切れは、私が覚える水門前の発話と違う》
「違うと言い切らない?」
係員。
「二年前の呼吸を、今の俺が正確に持っているとは言わない」
七瀬へは無音映像だけ。
撮影機の揺れ。
画面端の水滴。
岳の口元。
《機材型式は事故二年後の発売。水滴の方向と画面振動が一致しない。口形は《迅、七歩目は源を》まで読める可能性。音声の《見ろ》とは母音長が違う》
七瀬は《可能性》を二度書いた。
自分が偽物だと証明したい側へ寄っていることも添える。
轟へは背景音だけ。
低い金属振動。
三秒ごとの水撃音。
遠くの警報。
「七番水門じゃない」
轟は即答した。
「なぜ」
「七番は支持柱が五本。水撃が戻る間隔は二・七秒。この音は三・一。八番か、模型」
「確実?」
「模型なら材質が違う。八番の旧弁室に近い。ただし、別録りした音なら場所は決まらない」
迅へは、音も映像も別々に一度ずつ。
彼は音声を聞き、何も書かなかった。
映像を見て、右手を開いた。
「答えは」
真琴が聞く。
「兄貴に見える」
「声は」
「兄貴に聞こえる」
「命令は」
「兄貴のじゃない」
「根拠」
「俺へ《七歩目は》で止めない」
「続きが切られただけかもしれない」
「なら、切った奴の命令だ」
「岳本人が、途中で言葉を失った可能性」
「それでも《最後の命令》って題は、後から付けた」
「声の真正性と、記録全体の真正性を分ける?」
「分ける」
迅は最後に一行だけ書いた。
《兄の声が含まれていても、俺への命令として受け取らない》
四人の結果を重ねても、作成者の名は出なかった。
出たのは、別々の時刻、別々の機材、別々の場所から集められた材料だった。
本物の破片は、全体を本物にしない。
全体が偽物でも、盗まれた声の持ち主は消えない。
十二番《竜胆岳・最後の命令》。
会場が静かになった。
迅は中央台の前へ立つ。
容器は小さい。
中には、岳の口の動きと、別時刻の声。
七瀬が照合結果を読む。
「口形と音声のずれ、〇・一三秒。映像側の撮影機は、第七水門事故時に使われた型と一致しません。発売時期は事故の二年後」
迅の右手が開く。
「声は」
「岳本人の可能性があります。別の記録から切った」
「何を言ってる」
「《迅、七歩目は》まで。続きは合成」
「本人の声が入ってても、偽物?」
榊が言う。
「本物の材料で作った偽物です」
「誰が」
「確定しません」
「薄墨は」
七瀬。
「編集形式の一部を知っていた。作成者だとは認定できない」
迅は容器を見る。
「壊す?」
綺理。
「証拠として残す」
「見る?」
「見た」
「声を返してほしい?」
「誰に」
「分からない」
迅は少し笑った。
「じゃあ、偽物でいい」
「岳の声が使われている」
「声が本物でも、命令は偽物だ」
七瀬は分類札へ書いた。
《偽物認定》
十二番、偽物。
十二ロットの結果が揃った。
返却、五。
共同保管、三。
限定閲覧、二。
所有者による破棄、一。
偽物、一。
合計、十二。
競売は一件も成立しなかった。
だからといって、金銭が消えるわけではない。
午後一時から、清算が始まった。
入札保証金は返金。
ただし乱闘で設備を壊した者の弁償は別。
出品者へ支払われた医療費と生活前金は、返却を理由に即時回収しない。
虚偽説明をした仲介人、抽出費を取った採取業者、競売所の手数料、研究者の準備費を一つずつ分ける。
美しい権利論は、請求書の前でよく転ぶ。
最初に転んだのは、抽出費だった。
採取業者は、《記憶抽出は適法な技術提供であり、競売契約の無効とは別》と主張した。
真琴が請求書を一枚ずつ並べる。
「抽出前説明に、《本人の記憶から消える》とあります」
「一般向けの表現です」
「実際には消えない」
「主観的な距離が生まれる」
「距離を、消失と書いた」
「顧客が理解しやすいように」
巴が左手で字幕を出す。
《理解しやすさのため、事実と異なる語を使用した》
採取業者の代表が眉を寄せた。
「悪意はありません」
「悪意の費用を計算しているのではありません」
真琴。
「誤説明によって、誰が何を払ったかを計算しています」
「全額返金は会社が潰れる」
「潰れない額なら、誤説明が適法になる?」
「雇用があります」
「だから分割する」
価が病院画面から口を挟む。
「現金返還、保全作業、再説明、将来手数料の免除。会社を残す費用と、被害を受けた人へ払う費用を同じ袋へ入れない」
「競売所も責任を」
「取る」
価は即答した。
「仲介手数料は全額返還。設備保全費は競売所。出品者へ渡した生活前金は回収しない。研究者から受け取った準備金は、本人確認費へ回す。私の治療費は私」
イオの声がする。
「最後、違う」
「能力の反証は私」
「業務中」
「人へ勝手に値を付けたのは業務規定外」
「競売所の能力を、競売所で使った」
「でも」
「本人負担をゼロにするとは言ってない。競売所負担と、あなたの過失分を分ける」
「いくら」
「治療が終わってから」
「値段が決まらない」
「身体が決まってない」
価は黙った。
次に転んだのは、保管費だった。
共同保管には、棚、監査者、本人確認、鍵の交換、医療回線、匿名窓口が要る。
「永久に?」
係員が聞く。
「永久という契約はしない」
綺理。
「では何年」
「一年ごとに、費用と管理者を再確認」
「所有者へ毎年連絡?」
「連絡を望む人だけ」
「望まない人の更新は」
「保管だけ継続。閲覧条件は広げない」
「費用が払えなければ」
「勝手に売らない」
「廃棄?」
「勝手に壊さない」
「では誰が払う」
価が答える。
「保管基金。足りなければ、閲覧を止める。保管を止める前に公開審理」
「閲覧料を上げる?」
「本人が許可した閲覧だけ」
「市場ですね」
「市場です」
「嫌いではない?」
綺理が聞く。
「嫌いなら、もっと下手に使う」
価は帳簿を拡大した。
金額の隣に、誰が決めたかを書く欄。
その隣に、誰が拒否したか。
さらに、決め直す日。
「値段は答えじゃない」
価が言う。
「質問を忘れないための数字にもできる」
真琴が言う。
「今のは、少し名言を狙いましたね」
「腰が痛いと、人は短く話す」
「迅みたいです」
「それは侮辱」
「聞こえてるぞ」
迅は後ろの椅子から言った。
「なら、あなたの治療費も議題へ」