第437話 第一章「逮捕」前編

十二月二十七日 午後二時四十分

 終わった訓練の後片づけは、訓練より人数が少ない。

 英雄役を降りた者は帰り、避難者役を務めた者も帰り、観客は最初から片づけの役を与えられていない。

 だから、午後の旧訓練劇場には、役名のない札と、役名のない仕事だけが残っていた。

 竜胆迅は、床へ貼りついた白墨の線を靴底で擦っていた。

 水を含ませた布で拭けば早い。

 だが、床板の継ぎ目へ白い粉が入り込む。

 粉が残れば、次にそこを使う者が、昨日の境界を今日の決まりだと思う。

 迅は踵を横へ滑らせた。

 一度。

 二度。

「数えないで」

 背後から、環玉樹が言った。

 緑のニット帽の下で、左側頭部の髪が薄い。胸より大きな鉄箱を床へ置き、左右で色の違う靴紐を結び直している。

「二回だ」

「二回でも、数えてる」

「床を擦った回数」

「七まで増える?」

「増やさない」

「なら、二で終わりって書いて」

「どこに」

「床」

「消してる途中だ」

「仕事が循環してる」

 タマキは鉄箱を開けた。

 中には、乾いた技能札が六十四枚、紐で束ねて入っている。十二月一日の演習で使った札だ。昨日できたことを、今日もできる保証にしないため、返却日と更新欄が付けられている。

 いちばん上は、水科イオの札だった。

《膝硬直》

《能力強化なし》

《重量物なし》

《不整脈薬 午前七時/午後七時》

 その本人は、舞台袖で巻上機の小歯車を分解していた。

 濃い青緑の髪。

 左右で裾の長さが違う黒い作業着。

 白い靴と黒い靴。

 左前腕の真鍮装具には、もう動作を強める光が戻らない。

「私の札を上に置くと、悪い知らせから配る人みたい」

 イオは歯車から目を上げずに言った。

「良い知らせある?」

 タマキ。

「巻上機は直る」

「人の話」

「午前二時十三分、膝の硬直が九分で終わった」

「良い?」

「昨日は十一分」

「じゃあ良い」

「零時一分の私には、二分でも仕事」

 イオが小歯車を光へ透かした。

 能力を失って二十六日。

 能力喪失は、翌朝一度だけ起きる事件ではなかった。

 起きるたび、持てない物がある。

 頼まれない仕事がある。

 昨日なら右腕で締められたボルトを、今日は左手と万力へ分ける。

 終わった後には、終わった能力より多くの作業が残った。

 迅は床の線をもう一度擦った。

「三」

 タマキが言った。

「黙れ」

「配達記録」

 劇場の外扉が、四回叩かれた。

 一回目と二回目の間が短い。

 二回目と三回目は長い。

 四回目は、返事を待たずに来た。

 迅は白墨から足を離した。

 旧英雄役の動作なら、扉へ最短で五歩。

 迅の歩幅なら四歩半。

 七歩を取るには狭い。

 その計算が出た自分に、少し腹が立った。

 タマキが鉄箱の蓋を閉める。

「誰から」

「まだ知らない」

「誰へ」

「ここへ」

「何のため」

「叩き方だと、説明するため」

「説明する人は、四回目を急ぐ」

 迅が扉を開けた。

 灰色の防刃上着を着た人物が、両手を肩の高さへ上げていた。

 顎で切りそろえた黒髪。

 右頬の細い紙切り傷。

 灰緑の瞳。

 左肘は完全には伸びず、上げた両手の高さが少し違う。

「笠井透」

 タマキが言った。

「敬称」

「笠井透さん」

「受取人確認が先なのは成長ですが、用件確認が後です」

 笠井は両手を下ろさない。

「中央行政の事情聴取です。対象は竜胆迅、環玉樹、水科イオ。任意同行。予定三時間。紙燕護送隊から私を含む四名が移送を担当します」

「送り主」

 タマキ。

「中央臨時安全審査室」

「受取人」

「同室の聴取官」

「目的」

「十二月一日の能力停止事故と、以後の能力状態の確認」

「帰り」

「予定では午後六時二十分までに同じ場所へ戻します」

 笠井の返答は速い。

 途中で停車できる列車の説明を覚えた人間の速さだった。

 イオが歯車を万力へ置いた。

「予定では」

「審査側の延長権限があります。最大二時間。延長時は理由を本人へ提示する」

「無期限は」

「書面にありません」

 イオは午前も午後もない顔で笑った。

「書面にないことを、人はよくやる」

「私は書面にある隊務を説明しました」

「書面にないことが起きたら」

「私は反対する。私の名で」

 笠井の口癖は、誓いではない。

 だから光らない。

 光らない言葉は、便利だった。

 破っても身体から血が出ない代わりに、記録と仕事へ傷が残る。

 迅は笠井の背後を見た。

 白い収容車が一台。

 扉は開いている。

 車内に三列の座席。

 窓へ細い銀網。

 屋根の四隅に、誓痕抑制具〈ミュート〉の箱が取り付けられている。

「事情聴取に、抑制具が要るか」

「対象の状態が不明だからです」

「イオは終わった」

「申告では」

 笠井の返答に、イオが歯車を一度だけ机へ置いた。

 硬い音。

「終わった能力を、申告扱いされる日が来た」

「否定の意味ではありません」

「そういう意味じゃない言葉は、意味が多くて便利」

 タマキが鉄箱を背負った。

「これも持ってく」

「私物検査があります」

「六十四人の札。私物じゃない」

「記録物」

「じゃあ持ってく」

「検査は受けてください」

「開ける人は」

「あなたの前で、目的を言ってから」

「合格」

「採点権はあなたにない」

「ある。荷物は私の」

 笠井は右頬の傷へ触れかけ、止めた。

 嘘ではないらしい。

 迅は舞台袖を振り返った。

 誰も、待っていろとは言わなかった。

 カナタは足首の診察で不在。

 犬飼豪は犬舎。

 凱と七瀬と真琴は、再演事故の責任記録を中央区へ提出している。

 帰着予定は、午後六時二十分。

 戻る予定がある。

 予定は、出口ではない。

「行く」

 迅が言った。

「理由」

 タマキ。

「行かないと、行かなかったことが危険理由になる」

「悪い仕組み」

「悪い仕組みほど、入口は丁寧だ」

 笠井が両手を下ろした。

「同意したと記録しますか」

「同行には」

 迅は収容車へ向かった。

「その先は、着いてから聞く」

 車は午後三時九分に出た。

 笠井は進行方向へ背を向けて座った。

 乗り物酔いを隠す人間の座り方だったが、迅は言わなかった。

 代わりに窓の銀網を見た。

 交点は縦十六、横九。

 上端だけ二重。

 指を入れられる幅ではない。

 タマキは鉄箱を膝へ抱え、三度、留め具を鳴らした。

「怖い?」

 イオが聞く。

「荷物が返ってくるか不安」

「本人は」

「本人も荷物」

「料金は」

「自分で払う」

「高い」

「だから返してもらう」

 イオは窓へ額を付けた。

 左目だけを細くする。

 白い車内灯が、薬剤で光に弱くなった目へ刺さる。

「午後三時十二分」

「何が」

「右膝硬直、開始」

「薬」

「七時」

「止まるまで」

「車が先に着く」

「予定では」

「それ、流行ってる?」

 笠井は口を閉じた。

 収容車は中央環状路を北へ進まなかった。

 事情聴取室のある行政庁舎は北だ。

 車は西へ曲がる。

 旧配送地下道へ入る。

 迅は床の振動を数えた。

 レール継ぎ目。

 四秒。

 六秒。

 三秒。

「笠井」

「はい」

「行き先が違う」

「変更通知は受けていません」

「窓の外」

「見ています」

 笠井が腰の通信機を取った。

 返事はない。

 一度。

 二度。

 三度目に、運転席との間の小窓が閉じた。

「私は反対する」

 笠井が言った。

「まだ理由ない」

 タマキ。

「経路変更の通知がない」

「誰に反対」

「運行責任者と、変更を命じた者」

「名前」

「確認中です」

「名前がない反対」

「今は記録時刻を残す」

 笠井は袖口を裏返した。

 十二号車の制動手順の隣へ、細い鉛筆で書く。

《15:19 経路変更。通知なし。笠井透、異議》

 イオが腕の真鍮刻印へ触れた。

「午後三時十九分。私も異議」

「理由」

「予定の終了時刻が、経路から消えた」

 迅は赤い手首紐を親指で押さえた。

 地下道の出口に、白い壁が見えた。

 壁ではない。

 箱だった。

 窓がなく、継ぎ目だけがある。

 雪の中へ置かれた巨大な白い容器。

 外側の角が丸くない。すべて直角。入口の上には黒字で、正式名称だけが記されていた。

 中央抑制拘置所〈ホワイト・ボックス〉

「事情聴取室じゃない」

 タマキが言った。

「見れば分かる」

「分かったなら、帰る?」

「扉が開けば」

「開けさせる?」

「まだ聞く」

 車が止まった。

 午後三時二十三分。

 外扉が開く。

 白い所長服の女性が立っていた。

 黒髪に銀が混じり、後頭部で低く束ねている。

 右膝に薄い装具。

 左手へ番号札の束。

 右手へ折り畳み定規。

 怒鳴らない人間の立ち方だった。

 怒鳴らなくても、周囲が先に背筋を伸ばす。

「竜胆迅さん。環玉樹さん。水科イオさん」

 個人名を言う前に、一瞬だけ息を吸う。

「中央抑制拘置所所長、賀茂冬実です。経路変更の事前通知がなかったことを確認しました。移送担当へ記録させます」

「帰る時刻」

 イオ。

「本日、暫定令が発効しました」

「時刻」

「午後二時五十分」

「私たちが同行を決めた後」

「発効は後です」

「帰る時刻」

 冬実は番号札を揃えた。

 端を定規で押す。

「個別の危険審査が終了するまで」

「日付」

「現時点で確定していません」

 予定では、が消えた。

 代わりに、終わるまで、が来た。

 タマキが車から降りなかった。

「送り主」

「中央臨時安全審査室」

「受取人」

「中央抑制拘置所」

「目的」

「能力不安定者と関連者の保護、および危険審査」

「本人は受取人じゃない」

「あなたは保護対象です」

「荷物の話。受取人が受け取るって言ってない」

「人は荷物ではありません」

「なら、運ばれる前に聞いて」

 冬実の眉は動かなかった。

「外は安全ではありません」

「ここは?」

 タマキ。

「外より制御されています」

「安全か聞いた」

 冬実は、答える前に右手の定規を畳んだ。

「危険を減らす施設です」

 答えなかった。

 迅が車を降りた。

 床へ銀の線が三本。

 一歩目で、右手首の赤紐の下が冷えた。

 二歩目で、背骨の奥にあった七つの距離がほどける。

 三歩目で、どこへ退いても、返す力がないと分かった。

 力を奪われる感覚ではない。

 遠くで自分の名を呼んでいた群衆が、一斉に口を閉じる感覚だった。

 証者とのつながりが切れる。

 無証者地帯〈デッド・オーディエンス〉

 迅は踵で床を擦った。

 ただの音がした。

「発動できません」

 冬実。

「見れば分かる」

「確認は必要です」

「俺のために?」

「施設全体のために」

「主語が大きい」

「七十二人を収容します」

「もう決まってる」

「暫定令の対象です」

 イオがゆっくり車を降りた。

 右膝が伸びきらない。

 左右の違う靴が、銀線の手前で止まる。

「私の能力は、十二月一日零時に終わった」

「再発現可能性と、能力関連施設への接触歴が審査対象です」

「終わった証明は」

「審査します」

「終わってない証明は」

「同じく」

「ないものを、あるかもしれないで閉じる」

「外で再発現した場合、あなたと周囲を守れません」

「ここで不整脈が出たら」

「医療室があります」

「医療室があると、閉じる理由になる?」

「閉じることと治療は別です」

「別なら、同じ扉に入れないで」

 冬実は番号札を一枚抜いた。

《B-16》

 裏面は見えない。

「水科イオさん。区画B、十六室」

「名前を知ってるのに、番号を渡す」

「公開範囲を守るためです」

「誰から」

「他の収容者と外部から」

「私からも隠す?」

「札の裏に氏名があります」

「裏は誰が見る」

「私と登録担当者です」

「安全な秘密」

「管理された情報です」

「同じ言葉じゃない」

 笠井が最後に車を降りた。

「移送完了を記録します。その後、経路変更異議を提出します」

 冬実が別の札を抜く。

《C-04》

「笠井透さん」

「私は移送担当です」

「暫定令の関連者欄に、対象として記載されています」

「根拠」

「能力不安定者の継続移送、身体接触、経路変更への命令拒否」

「命令拒否が危険理由ですか」

「関連性の確認事項です」

「私は反対する。私の名で」

「記録します」

「移送任務は」

「他の隊員が引き継ぎます」

 笠井の両手が、また肩の高さへ上がった。

 降伏ではない。

 自分の手が、誰にも勝手な理由を与えない位置だった。

「私物と制服の管理記録を要求します」

「用意します」

「期限」

「収容中」

「日付を」

「審査後です」

 笠井の右頬の傷が白くなった。

 迅は、冬実の鍵束を見た。

 大きくない。

 番号札ほど多くない。

 用途別に色が違う小さな鍵が、四つだけ。

 その後ろに、壁沿いへ立つ女がいた。

 顎で四角く切った栗色の髪。

 格子縫いの黒い短衣。

 方眼の手袋。

 青灰色の目。

 久我檻。

「久しぶり」

 迅が言う。

「十九日ぶりではない」

「数えてるのか」

「鍵の返却日から」

「今度は、誰の鍵」

「用途ごと」

「答えになってない」

「一人分の答えにするな」

 檻は、迅の足元を見た。

 銀線。

 右靴の踵。

 出口。

「出口、見たな」

「見えるように作ってある」

「そこは閉じる」

 檻が言いかけ、舌を噛んだ。

「閉じていいか」

「聞く相手が違う」

 迅は冬実を見た。

「収容理由を、本人ごとに見せろ」

「審査後に提示します」

「先に閉じて、後で理由」

「先に外へ出して、後で死ぬよりよい」

 冬実の声は変わらない。

 変わらない声ほど、過去を持っている。

 迅はそれ以上聞かなかった。

 身体検査は、午後四時十八分に始まった。

 赤い七結びは外さなかった。

 外せと言われ、誓痕抑制具ではないと確認させた。

 右手の古い神経症状、右眉の視野欠け、深水反応、肋骨の既往なし。

 タマキの鉄箱は、本人の前で開けられた。

 六十四枚の技能札は一枚ずつ数えられ、番号を振られ、保管庫へ移された。

「返却先」

 タマキが聞く。

「本人の退所時」

「日付」

「審査後」

「その答え、安売りしてる」

 左耳の圧外傷、前庭機能障害、火傷痕、空腹時失神傾向。

 タマキは帽子を自分で取った。

 見せろと言われる前にではない。

 見せるか聞かれた後に。

 イオの真鍮装具は、工具として没収された。

 能力装置ではないと説明しても、電極接続の可能性を理由に保管された。

「空の装具を怖がる」

「空かどうかを確認します」

「中身がない物は、検査が長い」

 薬は七錠。

 午後七時の一錠だけ、医療担当の前で渡す。

 笠井は制服の腰縄を外し、紙燕を一枚だけポケットから出した。

 最後の羽が折られていない。

「死者用ですか」

 看守が聞く。

「未完成用です」

「意味が分かりません」

「分からなくても、保管できます」

 午後五時五十六分。

 迅はB-17の独房へ入った。

 幅、二・四メートル。

 奥行き、三・一メートル。

 天井、二・七。

 寝台は壁へ固定。

 配膳口は胸の高さ。

 排水口は床の奥。

 扉は外開き。

 蝶番三つ。

 中央の蝶番だけ、ねじの頭が新しい。

 迅は扉へ近づいた。

 右足を後ろへ置く。

 一歩。

 扉まで、あと六歩取れる。

 普通の拳でも、上の蝶番を外すなら三打。

 寝台の脚を使えば二打。

 新しい中央ねじは、逆に弱い。

 配膳口の向こうから、金属を三度鳴らす音がした。

 タマキの鉄箱ではない。

 没収されている。

 たぶん、食器。

「数えるな」

 壁越しの声。

「聞こえるのか」

「床を擦る音」

「二回」

「その後、止まった」

「耳、戻ったな」

「左は揺れる。右で聞いた」

「扉、壊せる」

「壊さないで」

「理由」

「帰りの住所、まだ聞いてない」

「外だ」

「外のどこ」

 迅は答えなかった。

 外は広すぎる。

 出口が多すぎる。

 久我檻なら、呼吸が浅くなる広さだ。

 扉の下から、紙が一枚滑り込んだ。

《予防収容通知》

 氏名欄は番号。

 収容理由欄には、こうある。

《能力不安定者および関連者として、周囲への危険を予防するため》

 具体的行為。

 空欄。

 開始時刻。

 十二月二十七日、午後三時二十三分。

 終了予定。

 空欄。

 迅は紙を床へ置いた。

 赤紐を押さえる。

 扉を壊せば、空欄の理由を埋めてやることになる。

 危険だから閉じた。

 閉じたら壊した。

 だから危険だった。

 輪になる。

 床の白い箱は、循環が好きだった。

 午後六時八分。

 独房の配膳口から、夕食より先に一枚の用紙が入った。

《緊急連絡先》

 欄は三つ。

 氏名。

 関係。

 連絡してよい内容。

 迅は三つ目の欄を見た。

 普通の用紙なら、住所か電話を書く場所だった。

 この紙には、何を伝えてよいかを書く。

 丁寧だった。

 丁寧な扉は、乱暴な扉より開けにくい。

「書かない場合、連絡を拒否したと扱います」

 配膳口の向こうで、若い職員が言った。

「誰が連絡する」

「登録担当です」

「名前」

「公開廊下では勤務番号を」

「俺に知らせる名前」

 職員は迷った。

 迷った後、自分の氏名を言った。

 迅は紙へ書く。

《獅堂凱》

《仕事仲間》

《予定帰還時刻を過ぎたこと。拘置所名。収容理由と終了日は未提示であること》

「救出要請は」

「書かない」

「なぜです」

「俺の名で頼んでない」

 職員が紙を受け取る。

「連絡が届かなかった場合」

「届かなかった時刻と理由を返せ」

「理由が不明なら」

「不明って書け」

 配膳口が閉じる。

 隣室では、タマキが同じ紙を三度返していた。

「連絡先、一人で」

 職員。

「四十七人」

「代表者を」

「代表、決めてない」

「では共同世帯の窓口」

「窓口は日替わり」

「本日の担当者」

「午後六時に交代」

「現在の担当者」

「帰ってないから分からない」

 少しして、紙がこちらの配膳口の前も通った。

 タマキの三つ目の欄は長かった。

《共同世帯の掲示箱へ、本人が午後六時二十分までに帰還していない事実だけを入れる。能力、病歴、収容番号、左耳、鉄箱の内容は書かない。掲示箱から誰が読むかを拘置所が選ばない》

「長い」

 職員が言う。

「短くすると、勝手に届く」

 イオは連絡先へ《明日班受付》と書いた。

 連絡内容には、薬の名前を書かない。

《本日午後七時の服薬は施設医療担当が管理。明朝以降の薬剤数を本人と照合する。住居の鍵を取りに来ないこと》

「鍵を取りに来ない?」

「来たら、私が外へ出られる前提になる」

「受入れ準備のためには必要です」

「準備と決定、分けて」

 若い職員は、三枚を重ねなかった。

 一人分ずつ透明袋へ入れ、受領時刻を書く。

 迅は、その手元を見た。

「所長の指示か」

「様式は所長が改訂しました」

「前は」

「連絡先だけでした」

「良くなった」

 職員が顔を上げる。

「それでも閉じる」

「はい」

「良くした人間は、悪いことをしないと思うか」

「思いません」

 答えが早かった。

 迅は少しだけ職員を見る。

「名前、もう一度」

 職員は言った。

 迅は覚えた。

 味方の名としてではない。

 紙を受け取った人間の名として。

 午後六時十五分、薄い豆の煮込みと麦飯が来た。

 温度は一定だった。

 量も足りていた。

 匙の縁に欠けはなかった。

 迅は食べた。

 食べることは、閉じられることへの同意ではない。

 食べないことも、抗議として正しく届く保証はない。

 空腹は、主張より先に身体へ届く。

 午後六時二十分まで、あと五分。

 迅は匙を置き、白い扉を見た。

 連絡が届いても、扉は開かない。

 届かなければ、外では帰還予定だけが過ぎる。

 予定の時刻が来た。