第436話 第十二章「名前のない出演者」後編

 イオ。

「針を二時三十六分へ戻すか、三時七分へ残すか」

「人数が多い方の時刻が、本当になる?」

「なりません」

「なら、決め方が違う」

 時計担当者は、三枚の札を並べた。

《二時三十六分――中止宣言》

《三時七分――機構停止》

《現在時刻――作業継続》

「一台の時計へ、三つの仕事をさせたのが問題です」

「展示、制御、現在確認」

 轟。

「はい。黒雨当日の時系列を見せる展示時計。舞台機構と同期する制御時計。事故対応中の現在時刻。それを同じ針へ重ねました」

「便利だった?」

 タマキ。

「事故までは」

「事故まで便利な物は、事故の時に忙しい」

「名言みたいに言わないでください」

「料金は取らない」

 参加者の一人が、三時七分の札を指した。

 西階段の誘導をした女性。

 技能札は《低い声》《階段は一往復》《手袋あり》。

「私は、三時七分を残してほしい。中止後も三十一分、現場にいた。二時三十六分で時計が止まったら、その後は何もなかったみたいに見える」

 別の参加者が、二時三十六分を指す。

「私は、戻してほしい。あの時、演目は終わった。時計が進んだから、放送を聞いても続けろと言われた」

「どちらかを消す必要はない」

 七瀬。

「時計は一台です」

 運営係。

「記録は一つでなくていい」

「見た人は、針を先に見る」

「だから、針の意味を限定する」

 カナタは札を一枚、裏返した。

 白い面へ書く。

《舞台時計の針――演目が中止された時刻》

 もう一枚。

《機構停止板――実際に機械を止めた時刻》

 三枚目。

《運用時計――現在時刻。翌日から再開》

「舞台時計の針を二時三十六分へ置く。ただし、機械がその時刻に止まったとは書かない。三時七分の機構停止板を、針より小さくしない」

「美しくするため?」

 音声回線の参加者。

「演目を止めた時刻を、演目の時計へ置くためです」

「あなたが決める?」

「提案する。時計担当者が設備上の可否を決める。事故記録の扱いは七瀬と調査係。参加者は、自分の働いた三十一分を消す案へ異議を言える」

「異議が一人でもあれば」

「その異議を板へ残す。針を戻せない、ではない。戻した理由を一つにできない、と残す」

 カナタは、自分の署名欄を作る。

《提案者――紅葉カナタ》

《演目中止責任者》

《機構停止時刻を中止時刻と偽らない》

「責任者と書くと、全部あなたの責任になります」

 事故調査の記録係。

「全部ではない」

「では、範囲を」

「演出継続判断、安全確認未了、中止放送、針位置の提案」

「事故原因全体は」

「別」

「負傷補償は」

「別の欄で参加」

「記録できます」

「褒めた?」

「範囲を確認しました」

「今日は、それでいい」

 時計担当者が裏蓋を開ける。

 針を直接つままない。

 歯車へ固定具を入れ、逆回転で軸を傷めないよう、一度機構を解放する。

「これは、演出作業ではありません」

「何ですか」

 カナタ。

「事故後の表示変更。作業責任は私」

「受領」

「補助」

「必要?」

「左側を照らす人」

 カナタは灯りを持つ。

 右足首へ体重をかけすぎない。

 台へ上がらない。

 光を当てる角度だけを、担当者へ訊く。

「もう少し下」

「ここ」

「二センチ右」

「舞台なら、顔が暗い」

「今は歯車を見ます」

「正しい」

「見えます」

 針が戻る。

 三時。

 二時五十分。

 二時四十分。

 二時三十六分。

 担当者が固定する。

「舞台時計、表示時刻二時三十六分。演目中止時刻。機構停止時刻ではない」

 七瀬が復唱する。

「機構停止、三時七分。中止後の事故対応、三十一分。現在時刻は別時計」

 西階段の女性が、板を見る。

「三十一分が残ってる」

「名前は」

「出さない。技能は出していい」

《低い声》

「それだけだと、私がずっと冷静だったみたい」

「追加は」

《途中で怒鳴った》

「技能?」

「事実」

「残す」

 札へ一行増える。

《途中で怒鳴った。二人が振り向いた》

 成功とも失敗とも書かない。

 その声で人が止まり、別の人が驚いた。

 午後一時四十二分。

 舞台時計の針を封印。

 機構停止板を同じ大きさで設置。

 現在時刻用の白い時計を、少し離れた柱へ掛ける。

 同じ壁に、三つの時間。

 過去を一つへ整えるより、見にくい。

「見にくいですね」

 カナタ。

「見間違えにくいです」

 時計担当者。

「両立しない?」

「たまにします。今日はしません」

「失敗作」

「時計は動きます」

「演出は」

「止まっています」

「正しい」

 誰も拍手をしない。

 時計は、それで困らない。

 時計の確認が終わると、技能札の扱いを決めた。

 役札のように、次の人へそのまま渡さない。

 身体条件は変わる。

 できる回数も変わる。

 昨日できた担架一回が、明日もできるとは限らない。

 全員の札へ、期限欄を追加する。

《本事故記録のみ》

《本人確認後に訓練利用可》

《公衆展示不可》

《匿名なら可》

《返却》

《保留》

「技能を残せば、また型になる」

 八城レムの音声。

 病院から、二度目の短い接続。

「だから、期限を入れる」

 イオ。

「期限が来たら、技能が消える?」

「札の効力が切れる。人の技能は本人が申告し直す」

「私の予測表も?」

「事故記録として残る。次の現場で、そのまま使うのは禁止」

「禁止の根拠」

「身体が変わった」

 レムは、自分の右膝を見られない。

 画面は音声だけ。

「分かりやすい根拠です」

「痛いから?」

「それもあります。昨日の私と今日の私で、同じ旋回表は使えない」

「研究は」

「続ける。英雄の型ではなく、型が外れた時に誰が訂正したかを調べる」

「成功へ直す?」

「直さない。私は、成功した研究者役を降ります」

「役名?」

「今、言って気づきました。撤回します」

「早い」

「訂正は、早い方が資料が短い」

 カナタが回線へ近づく。

「次の演目は、ありません」

「聞いていません」

「私が言いたかった」

「では記録します。紅葉カナタは、次の成功を私へ約束しなかった」

「変な記録」

「必要です」

 回線が切れる。

 技能札へ、有効期限を一律に書かない。

 医療条件は診察日まで。

 設備技能は再点検まで。

 本人の拒否は、本人が変更するまで。

 公開保留は、自動解除しない。

 期限が違う。

 同じ札の中でも、行ごとに違う。

 タマキが眉を寄せる。

「配達より面倒」

「配達は、一通ずつだから」

 イオ。

「これも一行ずつ」

「だから面倒」

「料金」

「今は事故処理」

「無料?」

「賃金に入れる」

「正しい」

 札の束を、参加者の完成形にはしない。

 昨日の役を捨てた代わりに、今日の技能へ閉じ込めることもしない。

 六十四枚の技能札が、乾燥用の紐へ吊られている。

 役名はない。

《声》

《担架一回》

《索八秒》

《地図は苦手》

《左耳、方向確認》

《休憩》

《撮影停止を選べる》

《旧定義作成者》

《説明が長い。止めてよい》

《七歩を期待しない》

《分からない》

 技能だけで、人間全部を表せない。

 しかし、役よりは現在に近い。

 タマキが黒い境界を越える。

 一歩。

 止まる。

 二歩。

 右靴の踵で床を擦る。

 左足へ体重を移す。

 方位板を見る。

 天井の梁を見る。

 風を頬で受ける。

「北」

 言う。

 その後で、防水札を一枚出す。

 送り主、環玉樹。

 受取先、返却所。

 目的、技能札の返却。

 受取係が受入れを示す。

 封を閉じる。

 細い経路感覚が戻る。

 タマキは光を見ない。

 まず足を出す。

 舞台時計は、午後二時三十六分のまま。

 その下で、役名のない札が風に揺れた。

 誰も、英雄の帰還を告げなかった。