第383話 第十章「監視塔への潜入」前編

九月二十四日 午後十時三十七分

 王をやめると、扉は開かなくなる。

 獅堂凱は、旧広告塔の正面で三度説明した。

「私は、東部監視制度の監査協力者として、物理保存庫への立入りを求める。理由は、午後十時三十一分から閲覧ログの一斉削除が始まったためだ。令状に相当する緊急保全申請は、朽葉真琴と真壁梓が提出している」

 扉の向こうに、若い警備員が二人。

「許可がありません」

「誰の許可が必要だ」

「中央運用です」

「担当者名は」

「非公開です」

「受領番号は」

「発行されていません」

「申請を受け取っていないのか」

「確認中です」

「確認者は」

「非公開です」

 三度目も、同じだった。

 王だった頃なら、二度目はなかった。

 凱が名を呼び、退けと言えば、扉の内側に道ができた。

 命令が正しいからではない。正しいか確かめる前に、人が退く声だったからだ。

 今、胸に白冠の鐘はない。

 長い白外套も、裾を切ってある。

 左膝に黒い装具。

 王位を終えたあとも、立ち方だけは簡単に終わらなかった。

 監視レンズが正面から凱を捉えている。

 肩が勝手に開く。

 顎が上がる。

 見られた姿勢へ、身体が戻る。

「凱」

 迅が横で言った。

「何だ」

「固い」

「扉がか」

「顔」

「顔へ責任を」

「ある」

「どちらだ」

「今日は、ある」

 迅は扉の蝶番を見る。

「壊す?」

「壊さない」

「遅い」

「その言葉は、おまえが使うと信用できない」

「俺も」

 凱は一歩、扉から退いた。

 警備員がわずかに安堵する。

 それを見逃さない。

「あなたたちは、ログ削除の命令を受領したか」

「答えられません」

「受領した時刻だけでいい」

「機密です」

「削除される記録には、あなたたちの勤務も含まれる」

「だから何です」

「あなたが誰の命令で扉を閉じたかも消える」

 左の警備員が瞬きをした。

「消えれば、責任を問われない」

「功績も消える」

「功績なんか」

「この塔で事件を止めたことはないのか」

 右の警備員が答える。

「あります」

「何件」

「言えません」

「あなたが止めたのか」

「監視員が」

「あなたは」

「出入口を封鎖した」

「その記録も消すのか」

「今夜の削除は、個人情報保護です」

「誰の個人情報だ」

「市民の」

「監視員の」

「両方です」

「違法な優先順位変更も」

 警備員は黙る。

 凱は扉へ近づかない。

「あなたが今、開ければ、命令違反になる可能性がある。閉じ続ければ、証拠保全妨害になる可能性がある。俺は、どちらが安全かを保証できない」

「だったら、何を求めるんです」

「自分の名で選べ」

「元王が、簡単に言うな」

 左の警備員が吐き捨てる。

「命令した側は、いつもそうだ。自分で決めろって最後に言う」

「そうだ」

「認めるのか」

「俺は、それをしてきた」

「じゃあ帰れ」

「帰らない」

「勝手だな」

「俺が入る責任は、俺が持つ。あなたが開ける責任まで、俺へ渡すな」

 扉の内側で、短い警報が鳴った。

《物理保存庫・削除率 一二パーセント》

 十二。

 凱の背後で、イオが時刻を言う。

「午後十時三十九分十四秒。三分で十二パーセント」

「全削除まで」

 タマキ。

「単純計算、二十二分。ただし後半加速の可能性」

「話してる時間ない」

「話さず入る方法はある」

 迅。

「使わない」

 凱。

「聞いただけ」

「おまえは、聞いた後にやる」

「学習してる」

「俺がな」

 左の警備員が、扉横の小窓を開けた。

「保全申請の写しを」

 真琴が紙束を差し込む。

 警備員は読む。

 急いでいる。

 だが、飛ばさない。

「申請者に、監視被害当事者がいない」

「非公開二名。二鍵封印です」

「確認できない」

「あなたの権限では、できません」

「なら、紙だけだ」

「紙も、誰かが書きました」

「それで信じろと?」

「信じず、時刻だけ止めてください。扉を開けず、削除機へ停止信号を送る権限は」

 警備員が視線を外す。

 ある。

 真琴は声を低くした。

「停止信号を送れば、あなたの勤務番号が残ります。送らなければ、その記録も削除対象です」

「脅してるのか」

「条件を説明しています」

「同じに聞こえる」

「受ける側の恐怖は似ます」

 真琴は、自分が以前言った言葉を繰り返した。

「法的評価は分けます」

 警備員の指が、扉の向こうで動いた。

 停止信号。

 赤い灯。

《権限不足》

「送った」

 彼は言う。

「勤務番号」

 梓。

「東塔警備、九番。氏名は、今は非公開」

「受領。午後十時四十分三秒」

「扉は開けない」

「それも、あなたが選んだ」

 凱。

「嫌な言い方だ」

「知っている」

 迅が扉の上を見る。

 非常排煙口。

「入る?」

「壊すな」

「開いてる」

 扉の警備員が振り向く。

 その一瞬に、タマキが排煙口の点検紐を引いた。

 蓋が十五センチ開く。

「非常排煙の点検です」

 タマキ。

「誰の許可で!」

「紐に《月一回引く》って書いてある。今月、印ない」

「それは保守員が」

「誰が保守員」

「中央運用」

「名前」

「分からない!」

「じゃあ、俺」

「勝手に決めるな!」

「決めてない。点検した」

 排煙口の開きから、轟が細い金属棒を差し込む。

 内側の非常解錠レバーへ届く。

「壊すなと言った」

 凱。

「壊さん。外から点検できる構造」

「誰が作った」

「知らん」

「名前がない」

「後で図面、探す」

 レバーが下がる。

 扉の鍵が外れた。

 警備員二人は、警棒を抜く。

「不法侵入です」

「そう判断する権限はある」

 凱は扉を押す。

「止める権限も」

「止めます」

「来い」

 午後十時四十一分。

 一階ロビー。

 鏡張りの壁。

 床へ埋め込まれた誘導灯。

 天井から、十二秒前の自分たちが見下ろしている。

 警備員の一人が凱へ踏み込む。

 右の警棒。

 肩口を狙う。

 凱は左膝を深く曲げない。

 半歩だけ外へ。

 右前腕で受け、相手の肘へ掌を置く。

「投げるぞ」

「宣言するな!」

「受け身を取れ」

「舐めるな!」

 警備員は肘を引き、膝を出す。

 凱は腹へ受けない。

 腰を回し、相手の腿へ自分の腿を当てる。

 軸をずらす。

 倒れる方向へ、手を添える。

 警備員が床へ転がる。

 頭は打たない。

「拘束しない」

 凱。

「立てるなら、退くか続けるか選べ」

「命令みたいに言うな」

「癖だ」

「直せ!」

「努力中だ」

 もう一人が真琴へ向かう。

 鎖付き筆記具が、警棒へ絡む。

「私は戦闘員ではありません」

 真琴が言いながら、相手の手首を紙束で打つ。

「じゃあ何だ!」

「法務です」

「もっと悪い!」

「職業差別です」

 迅は戦わない。

 ロビー中央の鏡を見ている。

 現在の警備員。

 十二秒前の警備員。

 別角度の迅。

 過去映像の一人が、右へ動く。

 現在の迅は、左へ。

 壁の自動追跡が遅れる。

「階段、北」

 迅。

「エレベータは」

 タマキ。

「監視される」

「階段も」

「鏡少ない」

「何階」

「十四」

「高い」

「凱、膝」

「上る」

「聞いてない」

「上れる。速さは落とす」

 凱は倒れた警備員へ手を伸ばす。

「立つか」

「敵の手は借りない」

「では、自分で」

「言い方!」

「すまない」

「謝罪も命令みたいだ」

「知っている」

 警備員は自分で立った。

 追ってこない。

 もう一人は、真琴の鎖から警棒を外し、壁際へ下がる。

「削除率、二十一パーセント」

 イオ。

「加速」

 タマキ。

「四階に一次制御。八階に分配。十四階に物理保存」

 綺理が薄墨の図を見る。

「図、信用できる?」

「使った範囲だけ、正しい」

「使ってない範囲は」

「分からない」

「行く」

 午後十時四十三分。

 二階から四階。

 階段幅、一・一メートル。

 踊り場ごとに鏡。

 壁面端末が、侵入者の過去映像を流す。

 凱が白王だった頃。

 人々が道を空ける。

 彼が指を上げる。

 若者が拘束される。

《危険人物:獅堂凱》

《指揮行動を検知》

《群衆への影響に注意》

 現在の凱の肩が固くなる。

「見るな」

 迅。

「見えている」

「床」

「おまえの真似はしない」

「膝」

「動いている」

「音、変わった」

 左膝装具の金属音。

 上りの一段ごと、少し高い。

「速度を落とす」

 凱は自分で言った。

 以前なら、遅れを隠した。

 今は、隊列へ渡す。

「タマキ、先行。迅、後ろ。真琴と綺理は中央。イオ、俺の速度に合わせる必要はない」

「命令?」

 タマキ。

「提案だ」

「嫌なら?」

「別案を」

「俺、先行でいい」

「受領」

「それ、梓の真似」

「感染した」

「病気みたいに言うな」

 三階踊り場。

 上から、重い防火幕が落ちた。

「止まれ!」

 凱。

 タマキが一段下へ飛ぶ。

 幕の下端が鼻先を通る。

 轟は外部から保守回線へつないでいる。

『重量、八十。手で上げるな』

「迂回」

 真琴。

「西の保守廊下」

 綺理。

「図にある」

「監視」

「四節点」

 迅が幕の端を触る。

「隙間」

「何センチ」

 イオ。

「七」

「通れない」

「布、通る」

 タマキが配達箱から、舞台の黒幕を出した。

「何で持ってる」

 凱。

「鏡へ掛ける」

「誰から」

「カナタの小劇場」

「何のため」

「顔を増やさない」

「返却」

「九月二十六日」

「先の予定を、今は話すな」

「返す日」

 タマキは幕の七センチの隙間へ布を滑らせる。

 反対側へ出す。

 保守廊下の鏡へ、下から順に掛けるための引き紐。

「俺が行く」

 迅。

「七センチ」

「下の点検口」

 幕の横。

 幅四十五センチ。

「狭い」

「通る」

「閉じたら」

「タマキ、紐」

「誰から、誰へ」

「俺から、俺へ」

「何のため」

「道を作る」

「受領」

 迅は点検口へ身体を入れる。

 右肩。

 頭。

 腰。

 右手の環指と小指が、金属縁で痺れる。

 左手へ持ち替える。

 凱は、自分が行くと言わない。

 体格も膝も向かない。

 向かない役へ入ることを、勇気とは呼ばない。

 迅が反対側へ出る。

 黒幕を引く。

 保守廊下の四枚の鏡が、一枚ずつ覆われる。

 反射像が減る。

 壁面端末は、過去の迅を映す。

 迅は見ない。

「開ける」

 防火幕の手動解除を回す。

 幕が上がる。

 イオが時刻を言う。

「十時四十六分十九秒。削除率三十四」

「速い」

 タマキ。

「次、一次制御」

 午後十時四十七分。

 四階一次制御室。

 扉は開いていた。

 中に、監視員が六人。

 全員、若い。

 うち三人は、昨日まで第三閲覧室にいた。

 画面には、削除対象が流れる。

 閲覧者名。

 優先順位変更。

 住民の拒否票。

 目的外検索。

 事件通報。

「止めて」

 イオ。

「止められない」

 席の一人が答える。

「停止命令を出した」

「権限不足」

「手動」

「触れば、全消去へ切り替わる」

「誰が設計した」

「中央運用」

「名前」

「知らない」

「薄墨は」

「上」

「削除を命じた?」

「個人情報保護のため、と」

「自分のログも」

「入ってる」

「止めたい?」

 監視員は答えない。

 イオは制御盤を見る。

 四系統。

 映像本体。

 閲覧ログ。

 通報順位。

 従事者名簿。

 削除は同期している。

「止められる」

「さっき無理って」

 タマキ。

「能力なら」

「使う?」

 イオは左前腕の真鍮装具を触る。

 終了時刻を先に言わなければならない。

 能力ができるのは、宣言した作業の開始と停止を、時刻どおり揃えること。

 消えたものを戻さない。

 止めたあとを、直さない。

 右腕の強化は、もう戻らない。

 それでも《終業刻》は残っている。

「止めた後、誰が保存する」

 イオ。

「綺理」

 タマキ。

「私だけじゃない」

 綺理。

「見ない当番、外部監査、当事者鍵」

 真琴。

「何分必要」

「最短十一分」

 綺理。

「最長」

「決められない」

「能力は、終わりを決める」

「十一分で、全部は無理」

「全部を守ると言わない」

 イオは自分へ言った。

 監視員の一人が立つ。

「俺の名簿、消してほしい」

「理由」

「報復される」

「残す範囲を選べる」

「信用できない」

「今、消える方を選ぶ?」

「選びたい」

「あなたの名簿だけ切れる?」

「できない」

「他の人の責任も消す」

「じゃあ、俺は自分を守れないのか」

 イオは答えるまで五秒かかった。

「今、この一斉削除では、あなただけを守れない」

「ひどいな」

「そう」

「止めるのか」

「止める」

「俺の反対を残せ」

「名前は」

「非公開」

「勤務番号」

「四階六番」

「受領」

 イオは制御盤へ左手を置く。

 右は震えを抑えるため、肘を身体へ付ける。

「作業名。監視記録の一斉消去停止。開始、午後十時四十九分〇秒。終了、午後十一時〇分〇秒」

 十秒前。

「終わったら」

 ユウの声が通信へ入る。

『私たちが引き継ぐ』

「できる?」

『分からない。勤務だから、やる』

「嫌な言葉」

『あなたが言った』

 五秒。

 四。

 三。

 二。

 一。

「終業刻〈ラスト・シフト〉

 真鍮装具の刻印が、一斉に光る。

 四系統の削除バーが止まった。

 三十九パーセント。

 消えた三十九は戻らない。

 残り六十一。

 時計の秒針だけが進む。

「十一分」

 イオ。

「先へ!」

 凱は命令し、すぐ言い直す。

「俺は先へ行く。同行する者は」

「全員」

 タマキ。

「四階の人は」

「残る」

 六番席の監視員。

「俺の反対も、保存する」

「受領」

 午後十時五十分。

 五階から八階。

 警備員は、もう待っていない。

 代わりに、自動防衛機がある。

 床から上がる低い柵。

 壁から出る拘束索。

 白い点滅灯。

 薄墨の光過敏を考えた設計ではない。

 侵入者の視界を奪うため。

 凱は点滅へ顔を背ける。

 迅が壁のスイッチへ手を伸ばす。

「切る?」

「警報線と共用」

 タマキ。

「また同じ箱」

「布」

 黒幕を点滅灯へ掛ける。

 光は弱まる。

 拘束索が凱の右腕へ飛ぶ。

 掴まない。

 腕を引けば巻き付く。

 凱は前へ出る。

 索の根元へ近づき、肘で射出口を押さえる。

「後ろ、通れ」

「命令?」

 タマキ。

「頼む」

「短い」

「急いでいる」

「受領」

 迅が低い柵を飛ばない。

 跳べば、上のカメラへ全身が入る。

 柵の横、保守隙間。

 手すりを使い、身体を横へ滑らせる。

 右手の握力が抜ける。

 左へ持ち替える。

 柵の向こうで、二人の警備員が待つ。

 一人は盾。

 一人は短棒。

 迅は七歩を取らない。

 退路が鏡とカメラで増えて見える。

 暴力の源は、人だけではない。

 削除機。

 命令。

 恐怖。

 彼は一歩だけ退く。

 短棒が伸びる。

 手すりを叩く。

 金属音。

 凱が位置を知る。

「右二」

 迅。

「盾、一」

 凱。

 タマキが鏡へ布を投げる。

 反射が消える。

 空間が一つになる。

 迅は短棒の内側へ入る。

 右拳を作らず、左掌で肘を押す。

 足首へ自分の踵を掛ける。

 相手が倒れる。

 盾が横から来る。

 凱は左膝を守り、右足で盾の下端を踏む。

 上から押さえない。

 相手が力を入れるほど、盾が床へ固定される。

「離せ」

「おまえが踏んでる!」

「盾を」

「足をどけろ!」

「同時に」

「数えるぞ」

「三」

「いきなり三か!」

「二」

「普通は一からだろ!」

「一」

 凱が足をどける。

 警備員も盾を離した。

 盾だけ床へ残る。

「変な王だな」

「王ではない」

「見たことあるぞ」

「過去映像だ」

「同じ顔だ」

「同じではない」

「証明できるか」

「今、盾を離した」

「王でもできる」

「そうだ」

 凱は否定しない。

「王だった俺がしたことと、今したことを、同じ顔で分ける」

「面倒だな」

「同意する」

 警備員は追わなかった。

 午後十時五十四分。

 八階分配室。

 ここで、保存経路は三つへ分かれる。

 市民記憶庫。

 外部監査所。

 当事者鍵箱。

 しかし、転送口は閉じている。

《受取側同意なし》

「綺理」

 凱。

「私だけじゃ開かない」

「誰が必要」

「見ない当番。外部監査。当事者側」

「通信は」

 タマキが三本の線をつなぐ。

 ユウ。

 梓。

 スエ。

 共同浴場のスエが当事者側代表として呼ばれている。

『何で私なの』

「監視同意を部分指定した利用者」

 真琴。

『難しい言葉で、風呂上がりを呼ぶな』

「現在、入浴中ですか」

『服着てるよ!』

「確認です」

『何を押す』

「受取に同意する範囲。内容は今見ません。保存期限と、後から本人が変更できることを確認してください」

『全部来るのか』

「残り六十一パーセントのうち、目的外閲覧ログ、優先順位変更、拒否記録。私生活映像本体は別」

『言い直しな』

 真琴が一度、息を止める。

「誰が、何の理由で、どの映像を先に見たか。その記録を預かります。映像の中身は、今は開きません」

『最初からそう言いな』

「努力します」

『いつまで預かる』

「七日。延長は本人側の再確認」

『消す時は』

「削除記録を残す」

『削除した中身は残さない』

「はい」

『なら押す』

 三鍵。

 ユウが勤務番号。

 梓が二時計。

 スエが浴場の木札を、受取端末へ当てる。

 転送口が開く。

「動いた」

 タマキ。

「速度」

 イオ。

『毎秒〇・八パーセント』

 ユウ。

「残り時間、六分」

「全部は無理」

 綺理。

「優先」

 真琴。

「誰が決める」

 凱。

 一瞬、全員が黙る。

 以前なら、凱が決めた。

 今、決めないことも、誰かへ押しつける選択になる。

「削除権限と優先順位変更を先」

 凱は言った。

「理由。映像本体は、別の物理媒体がある。誰が見たかは、この経路しかない」

「反対」

 綺理。

「理由」

「本人の拒否記録を先。誰が見たかより、誰が見られたくないと言ったか」

「両方は」

 イオ。

「帯域不足」

「交互」

 タマキ。

「一秒ずつ?」

「一件ずつ」

「遅い」

「全部同じ順番にしない」

 凱はタマキを見る。

「採用」

「誰が決めた」

「俺が賛成した。綺理は」

「賛成」

「イオ」

「一件交互。転送時刻を別記録」

「真琴」

「法的には非効率ですが、責任の二種を並列に保全する合理性があります」

「短く」

「賛成」

「タマキ」

「俺が言った」

「受領」

 転送順が変わる。

 拒否記録。

 権限記録。

 拒否。

 権限。

 全ては救えない。

 何を先にしたかは残る。

 午後十時五十七分。

 九階から十四階。

 薄墨は、塔内放送へ出た。

『転送を止めろ』

「理由」

 七瀬の声が外部回線から返る。

『私生活映像が外部へ流れる』

「映像本体は転送していません」

『ログから被写体を逆算できる』

「できます」

『なら止めろ』

「違法な閲覧の証拠も消えます」

『守るために見た記録も消える』

「同じ監査へ残します」

『簡単に言うな』

「簡単ではありません」

『外から撮っているだけだ』

「今は撮っていません」

『信じろと?』

「停止札を公開しています」

『見えない場所で回せる』

「回していないことを、映像では証明できません」

『なら、おまえの方法は終わりだ』

「一つの方法が終わりました」

 凱は階段を上る。

 左膝の熱が増す。

 十一階で、一度止まる。

「休む」

 自分で言う。

 迅も止まる。

「先、行け」

「嫌」

「理由」

「鏡」

「タマキがいる」

「凱、声いる」

「命令?」

「位置」

 迅は手すりを叩く。

 上から返る音。

「三人」

「警備か」

「一人、軽い」

「薄墨?」

「分からない」

「分からないと言えるようになったな」

「前から」

「嘘だ」

「記録ある?」

「ない」

「じゃあ、分からない」

 凱は膝へ手を置く。

 十秒。

 イオの能力終了まで、二分四十秒。

「行く」

 十二階。

 警備員三人。

 そのうち一人は、小柄な女性だった。

 盾ではなく、削除鍵を持っている。

「近づくな」

「鍵を捨てろとは言わない」

 凱。

「奪う気だろ」

「保全へ使う」

「おまえらが持てば、公開される」

「公開範囲は三鍵」

「信じない」

「信じなくていい」

「なら、退け」

「退かない」

 王だった頃の言葉が、喉へ戻る。

 凱は一度、息を吐く。

「俺は、十四階へ行く。あなたは、鍵を持ったまま同行できる。渡さなくていい」

「監視する気か」

「互いに」

「私が削除したら」

「止める」

「力で?」

「先に説明する。間に合わなければ、身体で」

「正直だな」

「状態だ」

「それ、流行ってるのか」

「嫌われている」

 女性は鍵を握ったまま、道を空けない。

 横の警備員が凱へ殴りかかる。

 短い拳。

 凱は頬で受けない。

 右肩を入れ、相手の腕を外へ流す。

 左膝を曲げず、上体だけで距離を詰める。

 胸と肩がぶつかる。

 相手が後ろへ下がる。

「退け!」

 警備員。

「あなたが言うのか」

「何だよ」

「いい言葉だ」

「馬鹿にしてるのか!」

「俺には、難しかった」

 凱は相手の手首を取り、壁へ押さえる。

 痛めない角度。

 逃げられる余地。

「続けるか」

「離せ」

「離したら」

「殴る」

「受領」

 離す。

 警備員は本当に殴る。

 迅が横から、拳の軌道へ黒幕を投げた。

 視界が消える。

 拳は凱の肩をかすめる。

 迅は相手の袖を掴み、手すりへ巻く。

「見えない時、殴るな」

「おまえらが隠した!」

「だから」

 相手は幕を外し、今度は殴らなかった。

 鍵を持つ女性が道を空ける。

「同行する」

「氏名」

 梓が通信で訊く。

「非公開」

「勤務番号」

「十二階保全二番」

「受領」

 午後十時五十九分二十秒。

 十四階。

 旧広告塔の最上部。

 円形の部屋。

 壁の半分が鏡。

 半分が街の監視映像。

 中央に、薄墨影治。

 煤色の上着。

 遮光眼鏡。

 左手で物理削除レバーを押さえている。

「遅い」

 薄墨。

「三十九パーセント消えた」

 イオ。

「残った方が多い」

「消した理由」

 七瀬の声。

「おまえらが全部公開するからだ」

「全部は公開しません」

「言葉を信じろと?」

「信じなくていい。鍵を見てください」

 綺理は三本の鍵を見せる。

「おまえが持つ」

「一つだけ」

「他も奪える」

「奪ったら、記録が残る」

「残す装置ごと消せる」

「今、してる」

「そうだ」

 薄墨は主語を消さなかった。

「俺が、消している」

 七瀬の呼吸が通信で一度止まる。

「私生活を守るためと、自分の違法な優先順位変更を隠すため。両方ですか」

「両方だ」

「どちらが何パーセント」

「測れるか」

「測れません」

「なら、並べるだけか」

「はい」

「それで、人は簡単な方を見る」

「見た人を残します」

「また人を監視する」

「閲覧者本人が選べる範囲で」

「選ばない者は」

「見ない当番」

「緊急時は見る」

「見た理由を残す」

「理由を書けば、覗き見が正義になる」

「正義にはしません」

「言葉だけだ」

 薄墨が削除レバーを引こうとする。

 十二階保全二番の女性が、鍵を上げた。

「引けば、物理鍵を切る」

「おまえは運用側だ」

「保全担当です」

「俺の命令を」

「受けていません」

「中央運用の命令だ」

「担当者名がない」

 女性の声が震える。

「私は、十二階保全二番。今、切断を選びます」

「職を失う」

「あなたも?」

「俺は、もう失っている」

「だから、私も?」

「違う」

「なら、引かないで」

 薄墨の指が止まる。

 午後十時五十九分四十八秒。

 イオが制御盤へ手を置く。

「あと十二秒」

「転送率」

 タマキ。

『五十七パーセント』

 ユウ。

「残り四」

 綺理。

「全部は無理」

「優先を変える?」

「変えない。一件交互」

「終了後は」

「手動でつなぐ」

「誰が」

「外の人」

 薄墨が笑う。

「塔の頂上まで来て、最後は外か」

「最初から、外」

 迅。

「おまえは何をしに来た」

「位置」

「俺の?」

「レバー」

 迅は薄墨ではなく、削除レバーを見る。

 七歩は取らない。

 一歩、右。

 鏡の反射で、迅が三人に増える。

 タマキが黒幕を投げる。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 鏡が消える。

 迅は一人になる。

 薄墨がレバーから手を離し、部屋の端へ動く。

 視線が追う。

 彼はその視線の隙間を読む。

 三度目の《画角外》が発動した。

 足音が薄くなる。

 直前に見た位置が、頭の中で曖昧になる。

「左」

 凱。

「違う、右」

 真琴。

「床」

 迅は手すりを叩く。

 円形の部屋へ、音が走る。

 返りが一か所、遅れる。

「南西」

 イオ。

 凱は、そこへ拳を振らない。

 説明する時間はない。

 それでも、声を使う。

「薄墨。削除レバーから離れた。逃げるのか、別の停止へ向かうのか、言え」

 返事はない。

「言わないなら、逃走として扱う」

「勝手だ」

 声が右後ろからする。

「位置」

 迅が手すりを二度叩く。

 タマキが床へ配達箱を滑らせる。

 箱の角が、見えない足へ当たる。

 薄墨の身体が現れる。

 その瞬間。

 塔の全警報音が、彼の耳の内側で鳴った。

 今まで《画角外》の間に薄めた足音。

 消した呼吸。

 覚えられなかった金属音。

 旧広告塔の鏡廊下。

 見ない当番室の手動ベル。

 今夜の警棒、手すり、警報。

 蓄積した音が、一度に返る。

 薄墨が両耳を押さえた。

「――っ」

 声にならない。

 左耳から、細い血。

 膝が崩れる。

 迅は殴らない。

 飛び込んで、頭が床へ当たる前に肩を受ける。

「触るな!」

 薄墨の声は、自分にも聞こえていない。

 迅は口を大きく動かす。

「耳。血」

 薄墨は右耳を押さえたまま、左手で迅を突く。

 力が入らない。

 七瀬の声が通信へ入る。

「強い音を止めて。警報を切ってください」

「警報線は」

 タマキ。

「安全灯を残し、音だけ」

 轟が外から回線を切り分ける。

 警報音が止まる。

 薄墨の耳鳴りは止まらない。

 午後十一時〇分〇秒。

 イオの能力が終了した。

 削除機が再び動き出す。

「止める!」

 十二階保全二番の女性が物理鍵を切る。

 一系統停止。

 八階で、ユウたちが転送線を手動固定する。

 二系統。

 四階六番の監視員が、自分の反対記録を残したまま、削除電源を抜く。

 三系統。

 最後の一系統だけ、削除が進む。

 綺理は薄墨の横を通り、中央盤へ行く。

 能力は使わない。

 三鍵を別々の差込口へ。

「一人足りない」

「誰」

「当事者側」

 スエの回線が切れた。

 通信混雑。

「私が代わる」

 七瀬。