第382話 第九章「見ない当番」後編

「誰といる」

「公開されていません」

「俺へ連絡を」

「本人へ、あなたが連絡を希望していると伝えます。返答するかは本人が決めます」

「ふざけるな」

 男は婚姻票をつかむ。

「紙には夫と書いてある」

「所在の鍵とは書いてありません」

 真琴。

「家族を壊すのか」

「既に離れる意思がある時、監視で戻すことを家族保護とは呼びません」

「おまえに何が分かる」

「分かりません」

 真琴は言った。

「だから、本人の返答を待ちます」

 男は出ていった。

 警備員は追わない。

 見ない当番室の外で、彼の顔を常時追跡へ登録しない。

 ただし、机を蹴ろうとした時刻と、所在開示を強く求めた事実は、本人の安全連絡先へ限定通知する。

「危険人物?」

 ユウ。

「決めない」

 綺理。

「でも、知らせる」

「行為を」

「顔は」

「本人が必要と判断した時、警備照合へ使える封印欄」

「妻が《見ないで》と言ったら」

「消す?」

「事故が起きたら」

「また戻った」

 綺理はガラス棒を二本並べた。

 一つは、安否確認。

 一つは、追跡。

「同じ箱へ入れない」

「箱、多い」

「人、一人」

「一人なのに」

「一人だから、目的を分ける」

 午前十時二分。

 安全連絡先から返答が来た。

《本人は安全》

《夫への連絡を希望しない》

《三日後、荷物受取方法だけ第三者を通じて協議》

《現在地・同行者・勤務先は非公開》

 男へ伝えるのは、最初と三番目だけ。

《連絡を希望しない》は?」

 ユウ。

「伝える」

 真琴。

「最初と三番目だけじゃない」

「非公開なのは現在地等です。拒否は伝えなければ、連絡要求が続きます」

「拒否を言うと、怒る」

「怒りを避けるため、本人の拒否を消してはいけません」

「危ない」

「だから警備へ、受取協議の日だけ限定立会いを依頼する」

「本人が嫌なら」

「別の方法」

 綺理は返答札へ、公開範囲の縁を付けた。

 夫へ伝える欄は三角。

 警備だけは波形。

 誰にも出さない欄は切れ目なし。

 色ではなく、触って分かる。

「監視映像、一枚も見なかった」

 ユウ。

「安否は分かった」

「いつも、こうできる?」

「できない」

「連絡先がなかったら」

「事故情報から」

「それもなかったら」

「本人が見つからない」

「全部見れば」

「見つかるかもしれない」

「じゃあ、次は」

「その時の危険と、本人の過去の拒否を並べる」

「答え、ない」

「当番だから」

「当番、答える仕事じゃないの」

「鍵を開ける前に、質問を残す仕事」

 午前十時五十分。

 十二件の保存箱を確認する時刻になった。

 見ない当番は、十二件の保存状態を監査した。

 内容を見たのは、子どもの捜索一件だけ。

 削除予定時刻のずれ、二件。

 無記名の閲覧試行、三件。

 保存期限の無断延長、一件。

 無記名試行のうち、一件は中央運用。

 残り二件は、権限番号が空白だった。

「薄墨」

 七瀬。

「決めつけない」

 綺理。

「技術鍵の形式が同じです」

「同じ形式を使える人は」

「公営映像局出身者、少なくとも二十七人」

「なら、二十七人から」

「先に箱」

 綺理は三番箱を指す。

 正面表示が、おかしい。

《開鍵回数:〇》

 しかし封印線が、わずかに弛んでいる。

「開いてないのに、動いた」

 ユウ。

「箱ごと」

 轟が床の擦れを見る。

 台車は固定されたまま。

 箱だけ、二ミリ右へ。

「誰か触った」

「映像」

 ユウが言いかけ、止まる。

 この部屋の監視端末には布が掛かっている。

「見る?」

 七瀬。

「見たら、見ない部屋じゃなくなる」

 ユウ。

「緊急例外?」

 梓。

「箱の改変は進行中?」

 真琴。

「分からない」

「分からないことを理由に、全部見られる」

 綺理。

「じゃあ、何で確かめる」

 轟が床へ耳を当てた。

 返り音。

「人、一人」

「どこ」

「壁の向こう」

 見ない部屋の東壁。

 古い空調路。

 綺理はガラス棒を床へ置いた。

 一本。

 二本。

 三本。

 壁の前へ、等間隔。

「罠?」

 タマキ。

「音」

「踏んだら割れる」

「踏まなくても、避ければ見える」

「何が」

「選んだ道」

 室内灯を落とす。

 綺理の左目は暗所に強い。

 右目の弱視を、特殊な能力にはしない。

 見える範囲が違うだけ。

 七瀬はカメラを持たない。

 迅は入口の手すりへ手を置く。

「来る」

 轟。

 壁の通気蓋が、音もなく開いた。

 誰も出てこない。

 しかし、床の埃が一筋動く。

 足音が薄い。

 昨日、旧広告塔で一度見た現象。

 薄墨が二度目の《画角外》を使った。

 レンズにも、直接の視線にも入らない間だけ、足音と直前の目撃が薄くなる。

 存在は消えない。

 埃は残る。

 箱の封印線も残る。

「右」

 迅が言う。

「見えた?」

 タマキ。

「床」

 迅は踏み込まない。

 七歩を取れば、誰の視線を源とするか誤る。

 この部屋では、見ている者と見ていない者が意図的に混在している。

 彼は手すりを一度叩いた。

 金属音が壁へ走る。

 轟が反対側を叩く。

 振動の間に、人の重さが入る。

「三番箱の前」

 イオ。

 影が動く。

 綺理は見ようとしない。

 ガラス棒の一本目が、かすかに転がった。

「一歩」

 二本目。

「二歩」

 三本目は鳴らない。

 避けた。

「左へ寄った」

 綺理。

 タマキが非常紐を引いた。

 赤灯。

 手動ベル。

 音は大きくない。

 室内の全員へ、同じ時刻を伝える。

「侵入者一人。箱へ接近。カメラ再開しない」

 ユウが宣言する。

「代替、床振動、封印線、ガラス棒、在室者の位置共有」

 画角の外にいた薄墨が、立ち止まった。

 全員の視線が一点へ向く。

 能力が不安定になる。

 煤色の上着が、箱の横に現れた。

「見つけた」

 タマキ。

「見つかった」

 薄墨。

 声は息が多い。

 片側の遮光眼鏡。

 左手に、三番箱の閲覧札がある。

「盗んだ?」

 綺理。

「拾った」

「どこで」

「机の下」

「誰の机」

「三十八番席」

 ユウの顔が固まる。

「私の?」

「おまえが落とした」

「返せ」

「持ち主は箱だろう」

「札の管理は私」

「失くした」

「それで中身を見る理由にはならない」

「見ていない」

「箱を動かした」

「開いていない」

「何のため」

 綺理の質問は、内容ではなく条件から始まる。

 薄墨は札を指で回した。

「緊急例外の試験」

「頼んでない」

「本物の侵入者は頼まない」

「あなたは本物」

「そう記録するなら」

「する」

「なら、試験成功だ」

「侵入成功?」

「見ない当番が、内容を見ず侵入を検知した」

「あなたが入らなくても、試せた」

「本番の動きは、案では出ない」

「他人の安全を、勝手に本番へした」

 薄墨の口元が歪む。

「監視と同じ、と言うか」

「似た言葉」

「綺理まで、七瀬の真似をする」

「七瀬は、すぐ見る」

「聞こえてます」

 七瀬。

「今は見てない」

 綺理。

「はい」

「怒らない?」

「後で」

「時刻」

 イオ。

「決めません」

「珍しい」

「流行らせないでください」

 薄墨は札を床へ置いた。

「内容を見なければ、緊急事態に対応できない場合はある」

「ある」

 綺理。

「認めるのか」

「子どもを探した」

「全部見なかった」

「必要な場所を増やした」

「墓地へ入った後は、カメラが役に立たなかった」

「墓守がいた」

「いない場所は」

「案内者」

「案内者もいない時」

「非常呼出」

「呼べない時」

「例外」

「誰が決める」

「三者」

「三者が揃わない時」

「一人が開ける。後で、なぜ一人だったか残す」

 綺理は初めて、設計を曲げた。

 真琴が眼鏡の左つるを上げる。

「単独緊急開鍵ですか」

「はい」

「悪用されます」

「される」

「では」

「開けた人の名、時刻、範囲。自動通知。次の鍵を持つ人が、あとから閉じる。開けた内容を持ち出せない」

「持ち出したら」

「箱に傷」

「記録が消されたら」

「別の場所へ、開鍵記録だけ送る」

「送信先が同じ運用なら」

「三か所」

「全部、止められたら」

「その時、失う」

「諦める?」

「失う可能性を、ないことにしない」

 薄墨は綺理を見る。

 右目の六角眼鏡ではなく、左目を。

「保管者らしくない」

「全部守れるって言う人、嫌い」

「七瀬も?」

「前は」

「今は」

「あとで怒る人」

「分類が雑です」

 七瀬。

 薄墨が小さく笑う。

 その笑いは、訓練された平板な声より早い。

「緊急例外を作れば、例外が入口になる」

「入口には、扉がいる」

 轟。

「鍵を増やす話か」

「蝶番も」

「建築の話はしていない」

「全部、建築になる」

「嫌な大男だ」

「本日、初めて」

 真琴。

「数えるな」

 薄墨の視線が、部屋の隅へ動いた。

 逃げ道を測っている。

 迅は塞がない。

「返す物」

 迅が言う。

「札は置いた」

「他」

「ない」

「箱、二ミリ」

「戻せと?」

「触った奴」

 薄墨は箱へ手を掛けた。

 百八十キロの台車ではない。

 一箱だけなら、十二キロ。

 元の線へ、二ミリ戻す。

「これで、責任を取った?」

 七瀬。

「取っていない」

「自分で言うんですね」

「言えば、取ったことになるか」

「なりません」

「便利だ」

「誰に」

 タマキ。

 薄墨は答えず、通気口へ戻らない。

 普通の扉へ歩く。

 綺理が言う。

「待って」

 薄墨の足が止まる。

「拘束する?」

「あなたが使った道を、図にして」

「自分で探せ」

「また誰かが使う」

「それが死角だ」

「あなたのものじゃない」

「街のものか」

「使う人のもの」

「犯罪者も含む」

「含む」

「正直だな」

「状態」

「それ、流行ってるのか」

「嫌い」

 薄墨は、煤色の上着から細いフィルム片を出した。

 裏面へ、通気口から箱までの線を描く。

 曲がり角。

 天井高。

 音が返る場所。

 人の視線が重なる場所。

「全部?」

 綺理。

「使った範囲」

「他も知ってる?」

「知っている」

「書かない?」

「今は」

「理由」

「交渉材料」

「自分の安全?」

「そうだ」

「他人の危険でもある」

「そうだ」

「片方で片方を消さない?」

「その言葉、嫌いになってきた」

「状態?」

「感想だ」

 薄墨は扉へ手を掛けた。

「次に入ったら」

 ユウ。

「見つける?」

「見ないまま、止める」

「矛盾してる」

「仕事だから」

「嫌な言葉だ」

「あなたが作った仕事」

 薄墨は出ていった。

 追わない。

 彼の靴底から落ちた吸音布の繊維が、床へ一本残る。

 綺理はそれを瓶へ入れない。

 紙袋へ入れる。

《物証》

《所有者不明》

《内容ではなく、通過の痕跡》

 午後一時四十四分。

 見ない当番の規則は、書き直された。

 通常開鍵。

 三者。

 緊急開鍵。

 一者でも可能。

 ただし、対象時間、対象場所、理由を先に入力する。

 入力できないほど急ぐ場合、開鍵後三十分以内。

 内容の持出し不可。

 別系統三か所へ開鍵記録。

 本人または代理へ通知。

 通知延期には三者の署名。

「結局、見る」

 ユウ。

「必要な時」

「必要って、便利」

「だから、誰が言ったか残す」

「残せば、正しい?」

「正しくない」

「じゃあ」

「間違った人へ戻れる」

 ユウは三十八番箱の前へ座った。

 画面は内容を映さない。

 保存灯。

 削除予定。

 封印状態。

「暇」

「いいこと?」

「仕事で暇だと、不安」

「見るものを作りたくなる?」

「なる」

「何を見る」

「削除予定が三分ずれてる」

「直す?」

「勝手に?」

「申請」

 ユウはずれを記録し、修正申請を出す。

 開鍵しない。

 午後二時。

 見ない当番、正式な試験勤務へ移る。

 給料は八割のまま。

 生活保障は未決。

 宿舎審査も止まっていない。

 成功とは呼ばない。

 ただ、三十八番席のユウは、十二時間ぶりに人の顔を見ず、仕事の記録を一頁埋めた。

 最後の欄。

《本日、見なかった内容》

 書けるはずがない。

 ユウは空欄にした。

 綺理が、その空欄へ赤字を入れない。

 代わりに、欄の名前を変えた。

《本日、開けなかった箱》

 数字だけなら、書ける。

 十一。

 一箱は、子どもを探すために開いた。

 十一箱は、開けなかった。

 どちらも、同じ勤務表へ残った。