第294話 第一章「雨の匂い」後編
「子どもからだ!」
旧白冠の係が叫ぶ。
「歩ける高齢者を先にして!」
別の地区係が返す。
「何が正しいんだ!」
誰かが怒鳴った。
七瀬は、固定台の撮影機へ目を向けた。
レンズは全部を撮っている。
全部ではない。
第一口の正面だけだ。
右商店路の先に何があるか。
点検扉の内側で越智が生きているか。
節子がどの方向へ流されたか。
画面の外だった。
「自力歩行、右。介助が要る人は柵沿い。子どもは同行者から離すな」
七瀬が言った。
「誰の命令だ」
「命令じゃない。今、そこが空いてる」
「責任は」
「私が言った時刻を残す」
撮影機が回っている。
午前七時十二分二十一秒。
七瀬は、自分の声が記録される位置へ立った。
「第一口。逆流。右商店路へ局地退避。発言者、火群七瀬。全体安全は未確認」
「長い!」
凱。
「後で短くされるよりいい!」
「今は人が詰まる!」
「じゃああなたが言って!」
凱は一秒だけ黙った。
「第一口は使えない。右へ移る。俺が言った。安全は保証しない」
人が動いた。
保証しないという言葉で、人が動くこともある。
保証された嘘より、立つ場所を選べるからだ。
水面へ、小さな裁縫箱が浮いた。
七瀬は見た。
節子の物だった。
蓋が開き、木綿糸が一本ずつ水へほどけている。
拾いに行こうとした子どもを、タマキが止めた。
「誰から、誰へ」
「節子さんの!」
「節子さんへ返す。今は俺が預かる」
「本人いない!」
「だから探す。箱は逃げない」
タマキは配達箱の蓋を開け、濡れた裁縫箱を入れた。
宛先欄は空けた。
迅が点検扉へ近づく。
扉の隙間から水が噴いている。
「越智!」
返事はない。
扉の向こうで、金属が三度鳴った。
点検の合図か。
助けを求める音か。
水に流された工具か。
分からない。
分からない音は、希望にも死亡確認にもしてはいけない。
「開けるな」
轟の声が背後からした。
黒い作業着の肩から、雨水が流れている。左肩を高く上げない姿勢で、扉の蝶番と石壁を見た。
「内側の水圧が高い。今開けば、ここが全部点検路になる」
「人がいる」
「いる。だから開け方を作る」
「何分」
「四分。支えがあれば三分」
「二分にしろ」
「凱、構造に命令するな」
「三分で一人死ぬかもしれない」
「二分で四十人巻き込む」
「数字で人を止めるな」
「人がいるから数字を出してる」
二人の間へ、真琴が割り込んだ。
丸眼鏡は雨で曇っている。
「質問。点検扉内の一名を救出するために扉を開放した場合、現在右商店路へ移動中の人数へ生じる危険は」
「浸水域が十二メートル伸びる。転倒は読めない」
「支えを設置した場合」
「六メートル。開口二十センチ」
「救出できる幅ですか」
「人による」
「越智さんの肩幅」
「知らん」
タマキが配達箱から帳票を出した。
「排水点検員登録。越智誠。肩幅、作業着支給寸法で四十六」
「なぜ持ってる」
「点検鍵の受領票を昨日届けた」
轟が扉を見る。
「二十じゃ無理だ。三十二。支え二本」
「何分」
「三分」
凱が鉄柵を持ち上げた。
「一本はこれで足りるか」
「曲がってる」
「真っ直ぐにする」
「それでまた曲げる気か」
「使える形にする」
「物は王に従わないぞ」
「人より素直だと思っていた」
「見込み違いだ」
二人が柵を扉へ噛ませる。
迅は右足を半歩引いた。
七瀬が見た。
「使うの」
「使えない」
「源が分からない?」
「分かりすぎる」
雨。
保守不足。
中央鍵。
避難を急がせた録音。
待てなかった人。
止め切れなかった人。
どれか一つを殴れば、残りが正しかったことになる。
迅は足を戻した。
「普通に持つ」
「右手」
「左で持つ」
「右も使うでしょ」
「使う」
「痛い?」
「質問が多い」
「記録屋です」
「今は支えろ」
七瀬はカメラへ戻らなかった。
鉄柵の端を両手で押さえる。
左肩へ負荷を掛けない角度を轟が示す。
「肘を下げろ。肩じゃなく腰」
「撮影より親切」
「機械は文句言わん」
「壊れるまで言いません」
「人も同じだ」
三分では開かなかった。
三分四十秒で、扉は二十八センチ開いた。
内側から泥水が噴き、支えが軋む。
「越智!」
迅が腕を入れる。
指先が何かへ触れた。
布。
引く。
黄色い雨具の袖だけが出た。
中身はない。
袖は肩口から裂けていた。
黄銅の点検鍵もない。
「もう一度」
凱が言う。
「今の開口では腕だけ」
轟。
「もう一度だ」
「支えが持たない」
「何秒」
「十五」
「十五で見る」
迅が止めた。
「凱」
「生きているかもしれない」
「そうだ」
「なら」
「今、後ろに百人いる」
凱の顎が動いた。
王だった男は、命令を出す前に胸の割れた鐘へ触れる。
今は触れなかった。
「閉じろ」
轟が支えを抜く。
扉が水圧で閉まった。
音は、棺の蓋に似ていなかった。
ただの鉄扉の音だった。
似せる必要はない。
第一口の登録一四一人。
右商店路へ移動確認、一二六。
現地待機、九。
負傷搬送、四。
所在確認中、二。
宮浦節子。
越智誠。
死亡ではない。
無事でもない。
所在確認中。
言葉は人を救わない。
だが、早く死者へ変えることも、早く生存者へ変えることも止められる。
真琴が濡れた紙へ二人の名を書いた。
七瀬は固定台へ戻った。
撮影機は回り続けている。
レンズへ雨粒が付いていた。
拭けば画面は見やすくなる。
拭く間の数秒は消える。
七瀬は、雨粒を残した。
第一口の列は、前へも後ろへも進めない。
七瀬の撮影機は、固定台の上で回っている。
画面の端から、人の流れが止まった。
中央の緑灯だけが、雨の中で《通行可》を示していた。