第293話 第一章「雨の匂い」前編
六月十二日 午前六時六分
雨は九日目になると、空から落ちているのか、街から滲んでいるのか分からなくなる。
七曲低地の屋根は、どれも同じ鈍い音を立てていた。
低地は、避難先としては評判が悪かった。
雨が溜まる。
階段が多い。
正式な地図と住民の地図で、道の名前が三割違う。
外環から来た人間に貸せる部屋はあるが、乾いた靴を貸せる家は少ない。
それでも、青石台を離れた人の一部はここへ来た。
橋を渡った人。
橋を渡せなかった遺体を待つ人。
三つの経路へ分かれ、もう同じ列へ戻る必要のない人。
仮設寝台は、学校、病院の空き会議室、旧工場の管制楼、共同浴場の二階へ置かれた。
避難は終わったと報告された後も、寝る場所は誰かの仕事だった。
七瀬は、前夜の映像を一度だけ見返していた。
青石台の旗竿が地面へ置かれる音。
迅が椅子から立たない姿。
六月七日の期限札。
期限は五日前に切れた。
石樋橋の可逆障害は撤去された。
九床診療点は閉じ、薬品は阿久津サナの立会いで用途ごとに返された。
三経路台帳は失効した。
終わった手順を終わらせる仕事まで終わった。
だから次の朝は、普通の朝になるはずだった。
普通の朝は、後から名前を付けられる。
その最中には、大抵ただ眠い。
七瀬も眠かった。
左肩の炎症で寝返りを打つたび目が覚め、午前四時から映像機の支持具を直していた。胸部固定帯の留め具は、父から届いた無言の部品包みに入っていた物を削った。父の意図は知らない。部品は意図より先に働く。
迅は共同宿舎の窓際で、母からの手紙を一通だけ開けたらしい。
内容は聞いていない。
彼も言わない。
聞かないことと、興味がないことは違う。
七瀬はその違いを、撮らない画面のように持っていた。
獅堂凱の左膝は、六月上旬までの荷重制限を終えた。終えたから新品になったわけではない。装具を外す時間が一日に二十分増えただけだ。
伏見轟は、青石台から戻した足場材の請求書へ、撤去費の欄が空いていると怒っていた。
環玉樹は、三経路の受領札を返した先から、空になった封筒だけを集めていた。
朽葉真琴は、失効した台帳を捨てるのではなく、個人情報を分離した上で「使えなくなった手順」として保管した。
生活は、事件の後ろ姿でできている。
雨は、その後ろ姿を区別なく濡らした。
亜鉛板を叩く音。
割れた瓦の下へ潜る音。
排水樋を満たし、途中の継ぎ目から溢れる音。
火群七瀬は、そのうち三つを撮った。
一つ目は、東側学校の庇から落ちる雨。
二つ目は、環水三号塔の外周歩廊を洗う雨。
三つ目は、旧貨物線の錆びた枕木に当たり、赤茶色の飛沫へ変わる雨。
四つ目は撮らなかった。
共同厨房の裏で、宮浦節子が濡れた雨合羽を縫っていたからだ。
「また撮らないのかい、記録屋」
節子は針から目を上げずに言った。六十九歳。小さな裁縫箱を膝へ載せ、銀色より少し暗い錫の指貫を右中指へはめている。
「撮影許可を聞いてません」
「聞けばいいだろ」
「今、針を口に入れました」
「映えるよ」
「衛生上、映えません」
節子は、針を口から出した。
「若い人は、都合の悪いものを撮らない時に衛生を使うねえ」
「年上の人は、撮られたい時だけ若い人をからかいます」
「正解」
七瀬は手回し式撮影機を腰高の三脚へ固定した。左肩は、朝から鈍く熱を持っている。雨の日は機材より先に身体が天気を告げる。便利だが、気象台から給料は出ない。
節子が縫っている合羽は、青石台から来た子どもの物だった。背中に三角形の裂け目がある。葦名透子なら、色ではなく形で言って、と怒るだろう。
「匂うね」
節子が言った。
「何が」
「雨。鉄だよ」
七瀬は掌を上へ向けた。
雨粒が二つ、三つ、皮膚で割れる。
鼻へ近づける。
濡れた硬貨。
古い血。
線路工房で削ったばかりの金属粉。
記憶は匂いに似ている。来る時は勝手で、帰す時の窓口がない。
「黒雨とは違います」
「誰も黒雨だなんて言ってない」
「言う顔でした」
「顔に字幕を付けるな」
「顔は編集できません」
「おまえの母親なら、できるって言ったかもね」
七瀬は返事をしなかった。
節子も追わなかった。
針が合羽を抜ける。
錫の指貫が、薄い布を押す。
撮影機の画角から外れた場所で、人の仕事は進んでいた。
午前六時二十八分。
鉄の匂いは、十分で噂になった。
《黒雨が戻った》
旧食堂の壁へ、誰かが炭で書いた。
七瀬が見つけた時には、文字の下へ三つの返事が増えていた。
《井戸を飲むな》
《誓痕が強くなる》
《子どもを外へ出すな》
「どれが本当?」
赤い帽子の子が訊いた。
「今、分かってるのは鉄のような匂いがすること」
「黒雨じゃない?」
「断定してない」
「違うの?」
「違うとも断定してない」
「大人は、分からないって言う時だけ長い」
「短く言う。分からない」
「怖い」
「私も」
七瀬は壁の文字を消さなかった。
「消さないの?」
「誰かが読んだ後だから」
「嘘なのに」
「嘘と決まってない。決まってなくても、飲み水を止める力はある」
文字の横へ時刻を書く。
《六時二十八分時点、黒雨由来と確認されていない》
《飲用井戸は通常検査中。停止命令なし》
《雨水を直接飲まない。これは平時も同じ》
「弱い」
子ども。
「何が」
「黒雨が戻った、の方が強い」
「強い言葉は、足が速い」
「正しい言葉は?」
「靴を履くのに時間がかかる」
タマキが空瓶を六本持って来た。
「雨、採ります」
「誰の依頼」
七瀬。
「井戸番。受取人は病院検査台。目的は、場所ごとの差」
「六本」
「旧貨物線。学校屋根。環水塔。第一口。工場煙突下。共同浴場」
「一つに混ぜない?」
「混ぜたら、鉄がどこから来たか分かりません」
「黒雨かだけ調べるなら」
「黒雨じゃなかった時、何だったかが残りません」
タマキは瓶へ場所と時刻を書く。
子どもが一本を持とうとした。
「手伝う」
「素手で口を触らない」
「子どもだから?」
「検査瓶だから」
「七瀬は触った」
「私は蓋の外」
「じゃあ外を持つ」
「送り主に入る?」
「入る」
「公開名」
「赤帽」
「本名は」
「今日は出さない」
「受けた」
赤帽は学校屋根の瓶を持った。
七瀬は、その姿を撮らない。
「なんで」
「検査に参加することと、映像へ出ることは別」
「出たいって言ったら?」
「顔、声、名前、場所を別々に聞く」
「面倒」
「皆それを言う」
六本の瓶は、別々の雨を受けた。
同じ空から落ちても、屋根、線路、煙突、配管を通れば中身は変わる。
街の噂も同じだった。
最初の一滴より、落ちた場所の形をよく映す。
七瀬は壁の《黒雨が戻った》を撮った。
その下の訂正も、同じ画角へ入れた。
後でどちらかを消さないためだ。
間違いが生まれた時刻と、訂正が追いついた時刻。
正確さは、最初から間違えないことではない。
間違いより遅くても、追いかけるのをやめないことだった。
午前六時四十分。
七曲低地中央配給所の壁には、白い数字が書かれていた。
《六月十二日 午前六時三十分現在》
《登録対象 一一八四》
数字の下へ、十二の欄が並ぶ。
第一口 一四一。
第二口 九八。
第三口 八七。
第四口 一二六。
第五口 八四。
第六口 一〇三。
第七口 一一六。
第八口 七二。
第九口 九五。
第十口 七四。
第十一口 九一。
第十二口 九七。
合計一一八四。
土門小麦が、合計の横へ鍋の絵を描こうとして、やめた。
「壁が帳簿になると、急に食欲なくなる」
環玉樹が言った。
緑のニット帽は、雨を吸って色が濃い。胸より大きい配達箱の角から、水滴が一定の間隔で落ちている。
「帳簿が食欲をなくしてるんじゃない。朝飯を取りに来ない配達員がなくしてる」
「取りに来た」
「食べた?」
「受領はした」
「胃袋へ届けた?」
「配送中」
「口から胃まで何分」
「すぐ」
「すぐって何分」
「それ、俺の台詞」
「料金払って」
小麦は塩パンを二つ、鉄箱の上へ置いた。
能力は使わない。
使う必要がない朝に使えば、必要な夜へ自分の身体を残せない。
厨房の奥では十二人が働いていた。青石台から移ってきた調理者。七曲低地の共同食堂。環水塔の配給当番。誰も同じ旗ではない。
同じ鍋で煮ていても、同じ事情ではなかった。
「雨量、三時間で四十一」
朽葉真琴が紙を濡らさないよう、胸へ抱えて入ってきた。
「単位」
小麦。
「ミリです。食材ではありません」
「四十一ミリの芋なら薄切り」
「どうして料理人は、すべてを切る前提なのですか」
「法務が全部を文字にするのと同じ」
「私は文字にしないと、誰かが『そんな意味ではなかった』と言うからです」
「私は切らないと、誰かが丸ごと鍋へ入れるから」
迅が入口に立った。
色褪せた紺の学ラン。右手首の赤い七結び。濡れた前髪の一房だけ、雨空より灰色だった。
「今のところ、法務が負けてる」
「勝敗を付ける議論ではありません」
「負けた人は大体そう言う」
「では質問です。あなたは朝食を取りましたか」
迅は踵で床を一度擦った。
「雨、鉄臭い」
「主語が逃げました」
「雨」
「朝食の主語ではありません」
小麦が塩パンを投げた。
迅は左手で受けた。
右手ではない。
右環指と小指は、雨の日にわずかに遅れる。
「食べながら聞いて」
小麦が言う。
「中央から通常避難の予告。まだ命令じゃない。十二口を順番に開ける。厨房は三つ閉じて、九つを高所へ移す」
「閉じる三つ、誰が決めた」
「今から決める。だから食べて」
「食うと賛成?」
「ならない。食べないと頭が悪くなるだけ」
「元からなら」
「二個食べる」
迅は一口かじった。
七瀬は撮らなかった。
食事は撮らない。
食べ終えた器なら撮る。
「鉄の匂いは、線路の削れと、北側の工場排水」
真琴が資料を開いた。
「現時点では黒雨との同一性を示す資料はありません」
「同じじゃない、までは言える?」
七瀬。
「異なる、とはまだ。原因未確定です」
「映像の字幕は《原因未確認》」
「《黒雨ではない》とも書かないでください」
「書かない」
「約束ですか」
「記録」
「違いは」
迅が塩パンを飲み込んだ。
「約束は破ると返ってくる。記録は残すと後から殴ってくる」
「あなたは何でも殴打へ戻しますね」
「分かりやすい」
「暴力的です」
「法文より短い」
外で警報鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
避難予告。
凱の声ではない。
中央指揮所の録音だった。
《七曲低地の住民および滞在者へ。通常避難段階一。登録された避難口へ、地区係の誘導に従って移動してください。荷物は両手を空けられる量に限ってください》
録音は正確だった。
正確な言葉は、正しい時刻に届かなければ、古い間違いになる。
壁の十二欄へ、緑の丸が付いた。
列が動き始める前、七瀬は配給所の入口へ小さな紙を貼った。
《鉄臭い雨。原因未確認》
《黒雨との同一性、未確認》
《皮膚症状・呼吸症状がある場合、医療台へ》
「二つ目、怖くない?」
小麦。
「書かない方が噂になる」
「書いても噂になる」
「なる。違いは、訂正する場所がある」
紙の下へ、時刻を書く。
《午前六時五十五分》
五分後、誰かが横へ書き足した。
《黒雨が戻った》
署名はない。
真琴が消そうとする。
「待って」
七瀬。
「虚偽です」
「誰がそう思ってるかの記録」
「残せば公式情報に見える」
「線で囲って《住民書込み・根拠未確認》」
「消す方が早い」
「噂は消すと、隠した証拠になる」
真琴は唇を引き結んだ。
丁寧な声になる。
「では、同じ大きさで反証を書きます」
《現時点で黒雨と確定する資料なし》
《採取者:朽葉真琴/火群七瀬》
《検査先:東門水質台》
《次の更新:午前八時》
「採取したの?」
小麦。
「今から」
「先に書いた」
「これから行う作業予定です」
「法務が未来を捏造した」
「予定と事実を同じ欄へ書かないでください」
迅が空瓶を三本持って来る。
「どこから取る」
真琴。
「線路、屋根、排水」
「素手で触らないで」
「もう触った」
「何のための注意ですか」
「次から」
「あなたは前の失敗を、次の善行で帳消しにしようとしますね」
「帳消しにならないなら善行じゃない?」
「なりません」
「じゃあ普通に取る」
迅は瓶へ雨を受けた。
一本目、旧貨物線。
二本目、共同厨房の屋根。
三本目、排水溝の跳ね返り。
タマキが瓶へ札を付ける。
「送り主」
「雨」
迅。
「雨は署名しません」
「空」
「同じ」
七瀬が答える。
「採取者を送り主にする。採取場所、時刻。受取人は東門水質台。目的は原因照合」
「受けました」
タマキは三本を鉄箱へ入れる。
「割れない?」
小麦。
「割れたら、割れたことを届けます」
「中身は」
「失います」
「正直」
「配達は、無事だけを報告する仕事ではありません」
その時、入口の外で男が叫んだ。
「黒雨だ! 西へ逃げろ!」
人の頭が同じ方向へ向く。
まだ避難予告の鐘しか鳴っていない。
七瀬は男へ撮影機を向けなかった。
「根拠」
真琴が訊く。
「匂いだ!」
「ほかに」
「昔と同じだ!」
「あなたは昔、どこにいましたか」
「北環」
「この雨を採取しましたか」
「そんな暇があるか!」
「では、あなたの経験として記録します。全市判断としては使いません」
「俺を嘘つきにするのか」
「しません。あなたがそう感じたことと、現象が同一であることを分けます」
「言葉遊びだ」
「言葉で人が西へ走ります」
男の後ろで、老人が荷物を抱え直している。
西へ行くべきか迷っている。
七瀬が老人へ言う。
「通常避難は、登録口。変更する場合は、変更先の受入れを確認してから」
「黒雨なら?」
「原因は未確認」
「怖くないのか」
「怖い」
「なら逃げるだろ」
「逃げ先を決める」
恐怖を否定しない。
恐怖へ地図を渡す。
老人は登録札を見る。
「第一口」
「今は通行可表示」
「今は?」
「表示時刻、六時五十八分。現地確認はまだ」
「じゃあ待つ」
「待つ場所は屋根の下」
小麦が椅子を出す。
避難は、走り出した人だけの行動ではない。
まだ決めない人へ、濡れない場所を作ることも含まれる。
午前七時、中央の録音が流れた。
十二の緑丸が点いた。
男は西へ走った。
老人は第一口の列へ入った。
七瀬は、どちらを正解にも不正解にもしなかった。
時刻だけを撮った。
午前七時二分。
人は訓練どおりに動いた。
それが、最初の問題だった。
七曲低地は、その名のとおり地面が七度曲がる。
古い川筋を道路へ変え、道路の上へ住宅を建て、住宅の間へ排水路を通し、排水路を跨いで線路を敷いた。地図では一枚の低地だが、歩くと七つの底がある。
十二の公式避難口は、その底を避けて高所へ出る。
第一口は旧貨物線の下を抜ける石造りの通路。
第二口は東門設備区。
第三口は病院南斜路。
第四口は環水三号塔の外周坂。
以下、十二。
訓練では、近い口へ行く。
雨の日も同じ。
夜も同じ。
火災でも同じ。
同じであることは、覚えやすい。
覚えやすいことは、壊れる時も一緒だった。
七瀬は第一口へ向かう列の横を歩いた。
撮影機は三脚から外し、胸部支持へ替えた。左肩へ重さを掛けすぎない。クランクは右。足元と顔を同じ画角へ入れない。避難する人間の表情は、後から「恐怖の象徴」に使われやすい。
節子が、縫い終えた合羽を子どもへ着せている。
「背中、もう裂けない?」
子どもが聞いた。
「次に裂けるなら、縫ったところ以外だね」
「安心していい?」
「服に人生を預けるな」
その後ろで、越智誠が排水溝の蓋へ耳を当てていた。
黄色い雨具。
腰に黄銅の点検鍵。
四十二歳。低地の排水設備員。
「越智さん」
七瀬が呼ぶ。
「今、話せる?」
「三十秒なら」
「雨の鉄臭さ、設備由来?」
「半分は。線路の粉と、錆止めの流出。半分は分からん」
「排水」
「遅い」
「詰まり?」
「逆だ」
越智は蓋を指で叩いた。
中から、ごぼ、と音がした。
「下が満ちてる」
「外へ出てない?」
「外から入ってる」
七瀬は時計を見る。
午前七時八分。
「第一口、通行可の表示」
「表示は上の水位を見る。下の腹までは見ない」
「閉める?」
「中央鍵が要る」
「現地鍵は」
「点検扉だけだ。避難口の主軸は中央」
「誰へ」
「指揮所へ送った。返事待ち」
「待ってる間」
「人を止める」
越智が立ち上がった。
列の先頭へ走る。
七瀬は撮影機を上げた。
その瞬間、第一口の上にある緑灯が点滅した。
一度消えた。
また点いた。
《通行可》
列が進む。
「止めて!」
越智の声は、屋根を打つ雨に削られた。
七瀬は撮影機を腰へ下ろした。
記録より先に、通路脇の警報板へ走る。
迅が反対側から来た。
「何人」
「一四一。第一口」
「出口」
「一つ。後ろの商店路は幅二・一」
「水」
「下から」
迅は説明を聞き終える前に、人の流れへ横から入った。
「前へ行くな!」
怒鳴らない。
先頭の三人の肩へ触れ、身体を九十度回す。
「右の壁へ寄る。戻らない。横へ抜ける」
「避難口は前だぞ!」
「今は水の入口だ」
白い外套の裾が雨を払った。
凱が柵を一本、地面から抜く。
「第一口の列、右商店路へ移す。走るな。荷物を捨てる者は壁側へ置け。拾うな」
声が通る。
旧白冠の腕章を付けた二人が、反射的に復唱した。
「右商店路! 走るな!」
その声を聞いて、別の旗の係が眉を上げる。
「白冠の命令か」
「今は俺の名だ」
凱が答える。
「拒否するなら、代わりの列を作れ。三十秒で」
係は凱を睨み、次に水路を見る。
「右壁へ寄せる! うちの者は荷物を持て!」
「持たせるな」
「盗られる」
「手が塞がる」
「白冠に預けろと?」
「地面へ置け。所有者名を書け」
七瀬は撮影機を固定台へ載せた。
広い画角。
顔へ寄らない。
第一口の全体、緑灯、排水溝、列の曲がりが入る。
クランクを回す。
「七瀬!」
迅。
列の中央で、子どもの赤い帽子が落ちた。
しゃがもうとする。
「帽子を拾うな!」
七瀬は撮影機から手を離した。
子どもの襟を掴む。
左肩が熱く裂ける。
「帽子は後」
「名前、書いてある」
「じゃあ帰ってくる」
「帽子が?」
「名前が」
自分でも意味が分からない。
子どもは分かった顔をした。
その時、排水溝の蓋が持ち上がった。
最初は一センチ。
越智が見た。
「全員、壁から離れろ!」
蓋が跳ねた。
黒い水柱が、人の腰まで噴き上がった。
悲鳴。
緑灯は点いたまま。
第一口の石床を、水が出口側から入口側へ走る。
人の流れと逆向きに。
迅は七瀬と子どもの前へ入った。
両足を前後へ開く。
一歩、退く。
水圧を受ける。
だが、二歩目は取らない。
暴力の源は人ではない。
雨でもない。
排水路でもない。
今、殴れるものはない。
「凱、柵!」
凱が抜いた鉄柵を横へ倒す。
人がそれへ掴まる。
七瀬は子どもを柵の向こうへ押す。
左肩が抜けそうになる。
宮浦節子が、子どもの背中を掴んだ。
「縫ったばかりだ、破るんじゃないよ!」
その声の直後、二度目の逆流が来た。
今度は泥と木片を含んでいた。
節子の足が滑る。
七瀬は手を伸ばす。
指先が、合羽の袖を擦った。
届かない。
越智が点検扉を開け、黄銅の鍵を差し込む。
「主軸、手動へ落とす!」
「一人で行くな!」
凱。
「一人しか入れん!」
越智の黄色い背中が、点検扉の内側へ消えた。
扉が水圧で閉じる。
第三波。
石床の継ぎ目が割れた。
割れ目は、人の足首を選ばない。
先頭にいた男の靴が挟まった。
身体だけが水へ押され、膝が逆へ折れかける。
迅がしゃがんだ。
「靴、捨てる」
「新品だ!」
「足とどっちが高い」
「靴だ!」
「じゃあ足を売れ」
「冗談だ!」
「今言うな」
紐を引きちぎる。
右手の小指が遅れた。
左手で踵を抜く。
男の身体が水に持っていかれる。
凱が外套の襟を掴み、鉄柵へ叩きつけるように戻した。
「右商店路、今何人通った」
「三十四!」
「数え直せ」
「三十四だ!」
「後ろ向きの者を含めたか」
係が口を閉じる。
「三十一!」
「復唱。三十一。次の十人を動かす」
凱の声が列を分ける。
命令の声だった。
その声へ従う者がいる。
従わない者もいる。
従わない者を殴れば、列は一つになる。
だが一つになった列は、間違った時に全員で同じ水へ入る。