第292話 第十二章「捨てた土地、残った人」後編
次の異議は、数字ではなく言葉だった。
「帰還名簿って名前を変えて」
剛嶺式家標を持っていた石工が言った。
「俺は帰ってない」
「西受入点へ到着した」
南野。
「到着と帰還は違う。家は向こうだ」
「青石台からは帰った」
「どこへ」
「ここへ」
「ここは家じゃない」
由良は説明所へ出る前で、赤索を肩へ掛けていた。
「名簿の表題は、撤退対象者帰還確認」
「だから帰還が違う」
「何なら」
「到着」
「逃げて着いただけに聞こえる」
「そうだ」
「それでいい?」
「今は」
真琴が表紙を見る。
「表題を変えると、既に発行した受領札との照合が」
「変えられない?」
石工。
「変えられます。ただ、変更理由を表紙へ残す」
「俺一人のために」
「あなた一人で始まった異議です。他に同じ人がいるか訊く」
凱が拡声器へ手を伸ばし、止めた。
「私が読むと命令に聞こえる」
「学んだ」
由良。
「誰が読む」
「石工本人」
「名前は」
「出していい」
男は自分の名を言い、短い紙を読んだ。
《私は西受入点へ着いたが、故郷へ帰ったとは考えていない。帰還という語を到着へ変えることを求める》
手が上がった。
十七。
下がったままの手もある。
北の患者の一人が言う。
「私は帰った。病院へ」
南路の母親は言う。
「私は、子どもがいる場所へ帰った」
同じ言葉を全員から奪う必要はない。
表紙は二行になった。
《三経路到着確認》
《本人が帰還と呼ぶ場合を含む》
「長い」
迅。
「短くすると誰か消える」
七瀬。
「今日、それ多い」
「人が多いから」
「生存者総数」
「言葉も全員分?」
迅は変更札の束を見る。
「全部は数えられない」
表題を変えても、数字は変わらない。
言葉だけが、人の着いた場所へ少し近づいた。
午前十一時四十八分。
冷たい食事を配る前に、厨房係が訊いた。
「重傷者へは温めますか」
「温める」
ミソラ。
「全員同じじゃなくなる」
「必要が違う」
「温かい方を欲しい人が出る」
「欲しいと言っていい」
「足りない」
「足りないと答える」
遮熱釜一つだけへ火を入れる。
煙はもう敵へ位置を知らせる問題ではない。
それでも燃料が少ない。
嚥下しにくい者、低体温の者、薬と合わせる者の分だけ温める。
迅が釜を見た。
「俺は」
「噛める」
「寒い」
「外套がある」
「王は」
「王ではない人も噛める」
凱が冷たい椀を受け取った。
「私を使うな」
「比較」
「便利な言葉だな」
温かい椀を持つ人と、冷たい椀を持つ人が同じ机へ座る。
公平に見えない。
必要を同じに見せない食事だった。
厨房係は、温めた食数と理由を残置一覧ではなく診療記録へ書く。
冷たい食数は厨房記録へ。
一つの鍋でも、責任の行先は分かれた。
正午。
食事は冷めていた。
乾燥粥を朝に水で戻したもの。
塩漬け野菜。
硬い穀物餅。
温める火はある。
今日は、温めても位置を知られる段階ではない。
それでも温めなかった。
診療点の薬品引継ぎ。
橋の交換木栓。
受領札の複写。
それらを先にした。
「失敗?」
凱が冷たい粥を見た。
「何が」
ミソラ。
「温められるのに温めなかった」
「優先を間違えた可能性はある」
「正解は」
「食べた後に考える」
「逃げた」
「食事へ」
凱は左膝を伸ばしたまま座る。
「俺の命令で温める、とは言わない」
「成長」
迅。
「嫌味か」
「事実」
「七瀬みたいに言うな」
「出典、俺」
由良は粥を半分だけ食べた。
赤索は外して乾かしている。
肋骨の痛みは三。
「写しを持って帰る」
真琴へ、署名書の複写を示す。
「どこへ」
「故郷側へ説明できる場所」
「安全な場所ですか」
「分からない」
「共同保管を」
「しない」
「紛失したら」
「私の責任」
「凱の写しを一部」
「要らない」
「まだ提案していません」
「する顔」
凱が椀から顔を上げた。
「顔で責任は分からない」
「分かりやすい」
「私は何も言っていない」
「言わないのも、少し慣れた」
由良は自分の写しだけを油紙へ包んだ。
迅は椅子へ座っている。
誰かが立てと言わない。
自分でも立たない。
「殴らないの」
タマキ。
「今、敵いる?」
「粥」
「強い」
「七歩いる?」
「歯がいる」
穀物餅が割れた。
小さく乾いた音だった。
午後三時五十八分。
青石台九床診療点から、往復札が戻った。
サナ。
佐渡。
患者四人。
空床五。
薬品封、確認。
井戸水、煮沸中。
敵影、橋の南に二。武器を置かず接近したため、診療点へ入れず。
「負傷者では」
ミソラ。
「遠目では歩行可。本人から治療要請なし。橋守が、武器を置くか橋の外で話すよう伝えた」
「追い返した?」
「橋の外で待機」
「白衣路は」
「開いてない」
「正しい」
「正しいで終わらせないで」
サナの伝言を、伝令が読む。
《日没前に再確認。治療を求めた場合、武器保管と本人確認を別に行う。入れない判断者:佐渡。再確認者:阿久津サナ》
「受けた」
ミソラは、次番の欄へ自分の名を書かなかった。
「行かない?」
迅。
「今夜は別の医療者」
「ミソラの診療点じゃない」
「そう」
「寂しい?」
「少し」
「轟も言ってた」
「何を」
「自分がいなくても橋が直って、少し寂しい」
「人の寂しさを配達しないで」
「宛先違う?」
「本人から本人へ戻して」
「難しい」
「仕事」
白衣路は地図へ線として残さない。
明日、患者と医療者と搬送側と受入側が選んだ時だけ開く。
午後五時十二分。
七瀬が青石台の地図を外した。
地名は破らない。
《第六臨時拠点》の札だけを剥がす。
下には、古い文字があった。
《青石台共同井戸》
拠点になる前の名前。
「戻った?」
タマキ。
「拠点の札を外しただけ」
「共同井戸へ」
「戻ったと言うと、戦いの前と同じみたいになる」
「違う?」
「橋に傷がある。診療点がある。人が移った。署名が残った」
「じゃあ、何になった」
「今、青石台」
「説明してない」
「地名は、説明より長く残る」
七瀬は、外した拠点札を持ち帰らない。
所有者は現地運用部。
撤退命令へ付属していた物だ。
真壁梓が、札の返却先を確認する。
「中央運用局へ?」
「現地倉庫」
「敵に使われる」
「使われる可能性はある」
「破棄は」
「命令なし」
「私が決める?」
「現地指揮責任者として」
真壁は札を見た。
「文字面を下にして、倉庫の備品棚へ置く。使用する者は、使用時刻と目的を記録」
「持ち去らない」
「持ち去れば、拠点をまだ所有している形になる」
「受けた」
札は倉庫へ戻された。
旗竿も倒す。
白布は旗として残さない。
洗って、診療点の仕切り布へ回すかどうかを、サナへ訊く。
《血液・薬品の識別に白は使わない。間仕切りなら可。患者が旗と感じて拒否する場合は使わない》
返事は長かった。
タマキは全部読んだ。
短くしなかった。
日が沈む前、旧計量所の机が片づけられた。
南野は最後の椅子を持ち上げる。
「これはどこへ」
タマキ。
「西採石所の備品庫」
「誰から」
「青石台受領台」
「誰へ」
「次に座る記録係」
「次がいる?」
「分からない」
「じゃあ、目的」
「椅子として戻す」
「期限」
「ない」
「便利なものは腐る」
「椅子も?」
「座りっぱなしなら」
南野は笑った。
迅が椅子の片側を持とうとする。
「一人で持てる」
「頭」
「椅子は運転じゃない」
「転ぶ」
「転ばない」
「保証?」
南野は少し考えた。
「片側を頼む」
「受けた」
二人で運ぶ。
一人でできる仕事を二人ですると、遅い。
遅くても、次の仕事へ一人で戻れる方がいい時がある。
夕暮れ。
机に残ったのは、三つだった。
冷めた食事。
六月七日の期限札。
空欄のない到着確認名簿。
迅は椅子へ座っている。
右足を引かない。
左足も。
七歩の始点を作らない。
内ポケットには、封を切っていない母からの手紙が三通ある。
受領札とは別の油紙。
《私信・未開封・本人受領前》と、透子の字で書かれている。
迅は一通を取り出した。
「読む?」
七瀬。
「帰ってから」
「帰った」
迅は名簿を見る。
生存者全員。
空欄、零。
重傷三。
軽中等傷二十。
新規死亡、零。
九床の診療点。
六月七日の橋。
「どこへ」
「決めてない」
「じゃあ、まだ帰ってない?」
「今日は、ここまで」
手紙を膝へ置く。
開けない。
捨てない。
ミソラは冷たい粥を、もう一口食べた。
青石台の地図から、拠点の札は消えている。
到着確認名簿の名前は、消えていない。
窓の外で、旗竿が地面へ置かれた。
倒す音は小さかった。
迅は立たなかった。