第155話 第四章「西市場の偽票」前編
十二月二十七日 午前十時十七分
偽票は、本物より几帳面に並んでいた。
西環・魚棚市場会議所の長卓。
朽葉真琴は、同じ番号を持つ三枚の票を、白い手袋の上へ置いた。
番号は《西―四一七》。紙の色、厚さ、透かし、端の切り欠き。どれも同じだ。印刷のずれまで一致している。
違うのは、折り目だった。
一枚は縦に二つ折り。
一枚は四つ折り。
一枚は丸めて伸ばした跡がある。
「本物はどれだ」
魚屋の女主人が訊いた。
馬瀬鈴。四十六歳。鱗の付いた前掛けの上へ、会議所の青い腕章を巻いている。市場で声の大きさが信用になると信じており、実際、彼女が怒鳴ると荷車が二列に割れる。
「質問が一つ早いです」
真琴は票を鼻先へ近づけた。
強い近視のため、眼鏡を掛けても細かな繊維は近づけた方が見える。
「最初に確認すべきは、この番号を渡された人が何人いるかです」
「一人に決まってる」
「決まっていたなら、三枚ありません」
「偽造犯を捕まえれば分かる」
「犯人が本物を選ぶのですか」
「吐かせる」
「吐いた言葉を、なぜ本物と呼べます」
馬瀬の声が一段上がる。
「じゃあ、何も信じない気か」
「信じる順番を変えます」
真琴は三枚を透明袋へ別々に入れた。
「紙より先に、人へ訊く」
「全員に?」
「番号四一七を受け取ったと申し出る人へ」
「三人いたら」
「三人の意思を確認します」
「票は一つだ」
「意思が三つなら、番号の方が足りません」
市場の男たちが笑った。
馬瀬は笑わない。
「票を増やすのか」
「参加資格を確認します。資格が三人にあるなら、三人へ別番号を発行する。ない者がいるなら、その理由を記録する」
「偽票を持った奴を得させる」
「偽物を持たされた被害者かもしれません」
「市場でそんな甘い話が」
「市場だからです。中身より札を先に信じると、偽札を作る者が勝つ」
真琴は左手で記録紙を引き寄せた。
右手は署名の時だけ使う。
子どもの頃、左利きを矯正され、名前だけ右で書けるようになった。今では、内容を作る手と責任へ署名する手が分かれている。その分離を、本人は便利とも不気味とも思っている。
「番号四一七の呼び出しを」
「市場じゅうに流す?」
「投票内容は言わない。番号だけ」
「逃げるぞ」
「逃げたことも情報です」
馬瀬は舌打ちし、場内放送の鐘を三回鳴らした。
《西―四一七の整理札を持つ者。魚棚市場会議所、二階確認窓口へ。処罰のためではなく、重複確認。》
真琴が書いた文を、そのまま読む。
三分後、一人目が来た。
干物屋の老人。
五分後、二人目。
市場へ住み込みで働く十六歳の少女。
七分後、三人目。
灰色の帽子を目深に被った若い男。
三人とも、四一七の票を持っていた。
午前十一時四十二分
三人を同じ部屋へ入れない。
互いの答えを見れば、それが新しい圧力になる。
真琴は魚の冷蔵庫、帳場、空の競り場へ一人ずつ案内した。扉の外に証者〈スタンド〉を二人置く。市場側一人、旗へ属さない住民一人。
最初は干物屋の老人だった。
「番号はどこで受け取りました」
「配給棚」
「誰から」
「若い奴。顔は見てない」
「この票へ何か書きましたか」
「まだだ」
「参加根拠は」
「西環で店を四十二年」
「所属旗は」
「紙燕だった。今は抜けた」
「今回の議題を、自分の言葉で説明できますか」
「旗のない連中を、地区の相談へ入れるか。入れた後に地区が嫌だと言えるか」
真琴は証者を見る。
二人がうなずく。
「仮番号を発行します。元の票は保全します」
「俺が偽者かもしれないぞ」
「あなたの意思は紙の真贋と別です」
「便利だな」
「不便です。仕事が増えます」
「信用は、仕事を減らすためにある」
「信用が壊れた日は、増えるのが正しい」
老人は鼻を鳴らした。
「若いのに、年寄りみたいなことを言う」
「視力は年寄りより悪いです」
二人目の少女は、議題を説明できなかった。
「親方に、賛成へ丸を付けろと言われました」
「意味は聞きましたか」
「店が困らない方だって」
「あなたは、どうしたいですか」
「それを聞かれると思ってなかった」
真琴は平文用紙を出した。
秋の市場契約事件で使ったものと同じ形式だ。
《残したいこと。》
《終えたいこと。》
《まだ決めたくないこと。》
《記録されたくないこと。》
《自分だけでは判断できないこと。》
「投票用紙ではありません」
「何を書くの」
「質問を書いてもいい」
「分からないって書いたら、票がなくなる?」
「保留になります。後で変えられます」
「親方に分かる?」
「公開範囲を選べます」
「隠したら、怪しまれる」
「怪しむ人のために、あなたの考えを渡す必要はありません」
少女は鉛筆を持ったまま、長く止まった。
真琴は待った。
待つことは得意ではない。
空白を見れば、但書〈ファイン・プリント〉を入れたくなる。意味を確定し、逃げ道を減らす。曖昧さを放置すれば、強い者が使うと知っているからだ。
しかし、言葉を急がせるのも強さになる。
少女は《まだ決めたくないこと》へ書いた。
《親方と違う答えを出した後も、店で働けるか。》
真琴はその一行を読んだ。
「投票の問題ではないですね」
「じゃあ書いちゃ駄目?」
「逆です。投票だけ解決しても、残る問題です」
「どうするの」
「労務確認を別に作ります。今日中には終わらない」
「役に立たない」
「はい」
真琴は認めた。
「でも、終わっていないと書けます」
少女は仮番号を受け取った。
少女が部屋を出たあと、真琴は平文用紙の余白を見た。
質問は六つ。
自分では少ないつもりだった。
扉の外で、魚住ミヨが少女へ温かい茶を渡している。
「泣かせたね」
ミヨが言った。
「泣いていません」
「泣かないように喉を固めてた」
「本人の希望を確認しました」
「親方と違う答えを出したら働けるか、って質問を、投票の部屋で一人で書かせた」
「個室は圧力を減らします」
「市場の子は、個室へ呼ばれると処分だと思う」
真琴は競り場、冷蔵庫、帳場の三室を見た。
すべて扉が閉まる。
守秘には向く。
逃げ場には見えない。
「どこなら」
「魚を選ばせな」
「魚?」
「冷蔵庫で鯵を数えながら話す。手が仕事してれば、口だけ試験されてる感じが減る」
「注意が分散します」
「その方が本音を言える人もいる」
「記録精度が」
「おまえは、人を正確に怖がらせるね」
真琴は反論しなかった。
正確さは、相手の負担を減らすとは限らない。
「本人に選んでもらいます」
「最初からそうしな」
「選択肢を知らなかった」
「今、知った」
ミヨは鰤の尾を持ち上げた。
「魚は三枚に下ろせても、人は質問で三枚にするな」
「骨は残します」
「そういう返し、嫌いじゃない」
真琴は確認窓口の札を書き換えた。
《話す場所を選べます》
《扉の閉まる部屋》
《帳場の端》
《作業をしながら》
《紙だけ渡す》
《今日は話さない》
少女を呼び戻さない。
後から選択肢を増やしたからといって、さっきの面談をやり直させれば、負担が二回になる。
代わりに、用紙へ追記した。
《十一時五十三分以前の確認者には、場所の選択肢を示していない。希望者のみ再確認。》
干物屋の老人が札を読んだ。
「俺もやり直せる?」
「希望するなら」
「冷蔵庫は寒かった。帳場がよかった」
「答えは変わりますか」
「変わらん」
「では、やり直す理由は」
「茶が出る」
「面談ではありません」
ミヨが茶を置いた。
「市場では、理由が一つとは限らない」
老人は帳場で同じ説明をした。
前回より二分長く、途中で干物の値段を三度挟んだ。
結論は同じ。
記録には、《場所変更後、意思変更なし。茶一杯》と残った。
真琴は茶の記録を消そうとした。
「残せ」
老人。
「採決と関係ありません」
「次に呼ばれる奴が、茶が出ると分かる」
「誘導になります」
「茶一杯で変わる票なら、先に知った方がいい」
真琴は残した。
制度は、大きな不正だけで歪まない。
寒い部屋。
閉まる扉。
茶が出るか。
質問する人が立っているか座っているか。
正解を急ぐ声が丁寧か。
そういう小さな傾きが、最後には一票分の坂になる。
三人目の若い男は、競り場へ入るなり出口を見た。
迅ほど露骨ではない。
だが右足を扉へ向け、帽子の鍔を下げる。
「名は」
「言わない」
「参加資格を確認できません」
「票を返す」
男は四一七を卓へ置いた。
「これでいいだろ」
「どこで受け取りました」
「拾った」
「折り目がありません」
「何だよ」
「拾った紙は、床か手の中で曲がります。これは印刷後に平らなまま運ばれた」
男の肩が上がる。
逃げる前の呼吸。
真琴は扉を塞がない。
「あなたを拘束する権限はありません」
「じゃあ帰る」
「帰れば、票を持ち込んだ事実だけ残ります」
「脅しか」
「選択肢です。話せば、指示した者と運んだ者を分けられる。話さなければ、分けられない」
「分けて何になる」
「罰を分けます」
男が笑った。
乾いた笑いだった。
「結局、罰じゃないか」
「免責を交渉します」
「できるのか」
「まだできません」
「役に立たない眼鏡だな」
「視力補助です。司法権はありません」
男は帽子を取った。
二十歳前後。左のこめかみに、紙の切り粉が付いている。印刷所か票の裁断場へいた。
「中尾弦」
「受渡者ですか。印刷者ですか」
「運んだだけ」
「送り主は」
「言ったら、俺だけじゃなく妹も市場から出される」
「妹は仕事をしていますか」
「帳場で」
「指示者と同じ店?」
「……そうだ」
真琴は証者二人を見る。
「ここから先は、現行規則では自白として扱われます」
中尾の顔が硬くなる。
「なら終わりだ」
「だから止めます」
「何を」
「質問を」
真琴は記録紙へ線を引いた。
《十一時五十八分。処分範囲の合意前につき、指示者確認を停止。》
中尾は信じない顔をした。
「犯人を知りたくないのか」
「知りたいです」
「じゃあ訊けよ」
「知りたい者が訊くと、答える者の逃げ道を消します」
「正義ぶるな」
「正義ではなく、証拠能力です。脅して取った証言は、指示者が一番喜びます」
真琴は立ち上がる。
「免責の範囲を決めるまで、あなたの名と顔は非公開。市場から追い出す処分も保留。代わりに、票の経路と枚数だけ話してください。指示者名は後です」
「誰と決める」
「地区責任者、被害を受けた参加者、処分を受ける可能性のある運搬者。三者です」
「時間がかかる」
「はい」
「採決に間に合わない」
「間に合わせるために、あなた一人を急がせません」
中尾は帽子を握った。
その指に、赤いインクが染みている。
午後二時十六分
七瀬とタマキが市場へ来たのは、免責交渉が始まって一時間後だった。
七瀬は腰高の三脚を右手で押し、左肩へ負担を掛けない。タマキは鉄の配達箱を背負い、緑の帽子へ雪を載せている。
「撮影は廊下まで」
真琴が言う。
「中尾本人の同意前は、顔と声を入れません」
「同意済みです」
七瀬は紙を見せた。
《手元、票、経路図のみ撮影可。顔、声、妹の職場は不可。公開は地区確認終了後。》
中尾の署名がある。
「早いですね」
「タマキが訊きました」
「何を」
「送り主、受取人、目的」
タマキが配達箱を下ろす。
「中尾さんは送り主じゃない。受取人でもない。目的を知らずに運ばされた」
「聞かされた目的は」
「投票用紙の不足分。実際は重複票」
「経路は」
タマキは使用済み切符を卓へ並べた。
列車切符、荷物受領札、保守員の臨時通行券。色も年月も違う。彼は端の切り欠きを組み合わせ、一本の環状線にしていた。
「票の紙に、駅の保守印がある」
「どこです」
「透かしの下。見えない?」
「近づければ」
真琴は票を眼鏡へ触れそうな距離まで持ち上げた。
薄い三角印。
中央駅の印ではない。
東環保守庫、西環荷捌所、高架郵便庫。三地点で使う共通の紙束だ。
「中央を通っていません」
真琴。
「通れる」
タマキが訂正する。
「中央を通らない道がある。列車が止まってても、保守台車は回る。先月の証言列車で集めた切符に、途中の切欠きが残ってた」
七瀬は切符を真上から撮った。
「全部つながっていますか」
「一か所ない」
「どこ」
「北から南へ抜ける短い区間。切符がない」
「なら、経路は断絶しています」
「道はある」
「証拠がない」
「僕が通ったことある」
「いつ」
「五年前」
「五年前の記憶は、現在の通行証明になりません」
「映像だって、映ってない角は道がないことになる?」
「なりません。だから未確認と書きます」
「切符も同じにして」
七瀬はクランクを止めた。
タマキの頬は寒さで赤い。怒っている時も同じ色になる。
「未確認区間、と書きます」
「通行不能じゃなく」
「はい」
「じゃあ、確かめに行く」
「一人では駄目です」
「子どもだから?」
「記録者がいないから」
「七瀬が来る?」
「肩が通らない狭さなら、機材だけ渡します」
「壊したら」
「請求します」
「具体的に嫌だ」
中尾が競り場の入口から、切符の輪を見ていた。
「その道」
彼が言う。
「票を運ばされた時に使った」
タマキが振り返る。
「北から南の短区間?」
「そう。途中に古い時刻盤がある。保守員はあれで受渡時刻を書く」
「今も動く?」
「動く。でも中央より少し進んでる」
「どれくらい」
「知らない。一分か、二分」
七瀬の目が細くなった。
「校正後に触れられていますか」
「俺は時計係じゃない」
中尾は両手を見せる。
「票だけだ」
真琴は質問を止めた。
時刻盤の話は、指示者の範囲へ近い。
免責がまだ決まっていない。
「今の発言までを保留記録にします」
「また止めるのか」
馬瀬が廊下から怒鳴る。
「犯人が目の前にいるのに」
「運搬者です」
「同じだ」
「同じにすると、次も運ぶ者しか捕まりません」
「上を逃がす気か」
「上へ届く証言を壊さないためです」
馬瀬は卓を叩いた。
「市場は今日も動いてる! 魚は待たない!」
「証言は腐ります」
真琴も声を強くした。
「急いで切れば、都合のいい部分から腐る」
部屋が静まる。
真琴の胸が少し狭い。
冷えと魚の匂いで、喘息が出かけている。白い手袋の内側へ爪を立て、呼吸を四つ数えた。
怒鳴ると空気を余計に使う。
凱の真似をすると、いつも身体が先に代金を払う。
「免責案を読みます」
真琴は椅子へ戻った。
《偽票の運搬のみを行い、指示内容を知らされず、自発的に経路と枚数を証言した者について、投票妨害の主犯処分を適用しない。市場からの即時排除を禁止する。ただし、本人が票を追加配布した範囲の確認義務は残す。妹その他の家族へ連座処分を行わない。》
馬瀬が読む。
「甘い」
「どこが」
「即時排除を禁止したら、店主が嫌がる」
「妹の職場は別です」
「同じ帳場だ」
「だから連座を止める」
中尾が低く言った。
「俺は運んだ。知らなかったで全部逃げる気はない」
真琴は彼を見る。
「何を引き受けますか」
「配った先を回る。票を回収する。俺が渡したと言う」
「危険です」
「一人では行かない」
タマキが言った。
「経路を知ってる僕が行く」
「あなたは十四歳です」
真琴。
「切符は年齢を見ない」
「人は見ます」
「だから、もう一人つける」
七瀬が撮影機を指した。
「私は経路の入口まで。市場内は固定カメラを受渡者へ。顔を撮らず、票番号と時刻だけ」
中尾は七瀬へ訊いた。
「俺が逃げたら」
「逃げた方向を撮ります」
「止めない?」
「私は警備ではありません」
「冷たいな」
「役割を増やさないだけです」
真琴は免責案の末尾へ、中尾の申し出を加えた。
右手で署名する。
中尾も署名した。
馬瀬は最後まで不満そうだったが、地区責任者として署名した。
「これで偽票が消えるのか」
「消しません」
真琴は三枚の四一七を持ち上げた。
「偽票は偽票として残す。本人の意思は別番号で残す。混ぜない」
「見栄えが悪い」
「見栄えのいい帳簿ほど、魚の腹に氷を詰めます」
馬瀬が目を丸くした。
「魚を悪く言うな」
「迅も同じことを言われたそうです」
「南の有名人と話したのか」
「記録で」
「人づきあいが寂しいね」
「便利です」
十二月二十七日 午後九時二十一分
魚棚市場は、店を閉めた後の方が音を立てた。
氷を割る。
床を流す。
明日の札を吊るす。
売れ残った魚を塩へ移す。
昼間の市場が金の音なら、夜は道具の音だった。
中尾弦が案内した棚と受渡所を回ると、重複番号は四一七だけではなかった。
五〇二。
六一九。
三三八。
同じ番号を持つ紙が、別の帳場、住み込み部屋、配給棚から出る。
午後九時の時点で二十七枚。
真琴は枚数を黒板へ書いた。
《重複票 二十七》
《本人の意思 未確認》
《運搬経路 確認中》
《指示者 聴取範囲外》
馬瀬鈴が腕を組む。
「二十七枚なら、全部捨てて刷り直せ」
「捨てれば、誰へ渡ったかが消えます」
「本人へ新しい紙を出す」
「本人を、古い番号へ照らして探す必要があります」
「探し終わったら捨てる」
「捨てた時刻と理由を残します」
「捨てるのに紙が増える」
「はい」
「おまえの法律は、紙を食う魚だな」
「魚を悪く言うな、と先ほど言われました」
「法律を悪く言ってる」
冷蔵庫前の床へ、四つの籠を置いた。
丸い取手。
三角の取手。
四角い取手。
長い布だけを結んだ、空の籠。
《書いて答える》
《石を置いて答える》
《証者へ口頭で答える》
《今日は答えない》
魚住ミヨが籠を一周し、目を細めた。
「暗い倉庫じゃ、色札は見えないよ」
「形で分けました」
「手袋をしてても?」
真琴は厚い作業手袋を借りた。
丸。
三角。
四角。
長い布は分かる。
「分かります」
ミヨも試す。
「四角と三角、魚の脂が付くと滑る」
「切り欠きを足します」
「今?」
「今、分かったので」
住み込みの少女が、空の籠の前へ立つ。
「これ、何も入れなくていいの」
「はい」
「立ったことは残る?」
「時刻だけ。理由は要りません」
「来なかった人と、同じにされない?」
「別にします」
「後で変えられる?」
「変えた前後を両方残します」
少女は長い布を一度握り、離した。
「本番でも、これがいい」
「本番用は別の札へします」
「また紙」
「籠は運べないので」
「市場は、だいたい運べるよ」
馬瀬が口を挟む。
「鮪も運ぶ」
「鮪で投票しません」
「見た目は強い」
笑いが起きた。
少女だけは笑わなかった。
「親方と違う答えにしたら、働けなくなるかもしれない」
真琴は、すぐに《保護》と書きかけた。
書けば約束になる。
市場の雇用を、彼女一人では守れない。
「その危険を、なくせるとは言えません」
「じゃあ、選べない」
「選べない状態だと記録できます。投票とは別に、労務の確認を始める」
「別にしたら、後回しになる」
「なります」
真琴は認めた。
「だから期限を付ける。雇用上の不利益を受けたと申し出る窓口を、投票前に決める。私が全部守る、とは書かない」
「役に立たない」
「今は」
「あとで役に立つ?」
「期限を守れば」
「誰が守るの」
真琴は馬瀬とミヨを見る。
二人とも、視線を逸らさなかった。
「市場側二名。地区外一名。私ではなく、三人で確認します」
「法律屋なのに、入らない?」
「手順を作った人が、訴えも裁くと、私の手順へ反対しにくい」
「自分を信用してないの」
「信用しているから、範囲を決めます」
少女は、空の籠から長い布を抜いた。
「これ、借りる」
「何に」
「親方と話す時、机に置く。今日は答えないって」
真琴は貸出札を書いた。
「そこまで記録する?」
「返ってこなければ、空の籠だと分からなくなります」
「布がなくても空だよ」
「意味がなくなります」
「意味って、物より面倒」
「人が使うので」
午後十時四十八分
最初に燃えたのは、偽票ではなかった。
確認済みの仮番号票だった。
競り場の端で、清掃係の男が鉄桶へ紙束を入れ、灯油を垂らした。古い廃棄印の付いた灰色札が、箱の蓋へ載っている。
《重複票および仮票を、確認終了後に廃棄》
署名はない。
印だけ。
火が紙の角を青く舐めた。
「水!」
真琴が走る。
冷気を吸い込み、胸が狭くなる。
左足で水桶を蹴った。
桶は重い。倒れず、半分だけ水がこぼれる。
住み込みの少女が、魚を洗う長柄杓で残りをすくい、火へ投げた。
蒸気。
清掃係は驚いて手を離す。
馬瀬が濡れた布を被せた。
炎は三呼吸で消えた。
「何をしてる!」
「邪魔になる紙を処分しろって札が」
「誰から」
「回収箱に入ってた。中央の印だ」
理由は、完全な嘘ではない。
同じ大きさの紙が増えれば、本番用の票へ混じる。
保全を増やしすぎた結果、別の誤配を呼んでいた。
真琴は吸入器を一度使った。
隠さない。
呼吸が戻るまで、ミヨが男へ訊く。
「捨てる紙と、残す紙をどう見分けた」
「袋の字」
「暗くて読めた?」
「読めなかった。札が付いてた箱を全部」
少女が四つの籠を指した。
「袋にも形を付ける」
「籠と同じ?」
真琴。
「同じなら、触って分かる」
丸い穴――重複票。
三角の穴――本人確認済み仮票。
四角い穴――運搬記録。
長い布――未確認。
「採用します」
「私が決めていいの」
「保管を使う人の提案です。清掃係と二人で試してください」
男が自分を指す。
「俺も?」
「捨てる作業を知っている」
「燃やしかけた」
「だから、文字だけでは止まらないと知った」
「罰は」
「火気使用は別に確認。命令札の出所も別。今、混ぜません」
「別ばっかりだな」
真琴は呼吸を四つ数えた。
「混ぜると、強い罪が弱い理由を食べます」
中尾弦が、焦げた仮票を拾おうとした。
七瀬が止める。
「手袋」
「俺の配った紙かもしれない」
「だから素手で触らない」
中尾は作業手袋を借りた。
焦げた紙の番号を読む。
「五〇二。俺が荷捌所へ置いた束だ」
「誰へ渡したか」
「受取人は知らない。棚へ置けと言われた」
真琴は質問を一つで止めた。
免責範囲は、指示者名までまだ届いていない。
「明朝、回収先を回ります」
中尾が言う。
「俺が渡したと言う。顔は出さない。妹の店名も出さない」
「一人では行かせません」
「見張り?」
「証者と、経路を知る人」
タマキが切符の輪を持ち上げる。
「僕」
「十四歳を危険な回収へ」
真琴が眉を寄せる。
「切符は年齢を見ない」
「人は見ます」
「だから、僕一人にしない」
中尾が笑った。
「同じ言葉、返されたな」
真琴は返事をしなかった。
役割を分ける考えは、自分だけのものではない。
自分の言葉が他人へ渡り、別の意味で戻るなら、所有を主張するより使い方を記録した方がよかった。