第154話 第三章「北塔の遅刻」後編

 少年は唇を尖らせた。

「じゃあ、何ならいい」

「並ぶ人へ番号札を渡す。薬袋へは触れない。番号と、待ち始めた時刻を言ってもらう」

「時刻、ずれてる」

「どの時計を見たかも書け」

「面倒」

「薬を間違えるより軽い」

 少年は、木札の束を持って列の後ろへ行った。

 白冠時代なら、凱が一声で配薬補助を十人出した。

 今は、誰が何を知っているかを先に分ける。

 名前を読める者。

 薬袋へ触れる資格がある者。

 棚の並びを知る者。

 受取人の顔を知る者。

 受け取った後、家まで運べる者。

 五つは同じ仕事に見え、失敗した時の責任は違う。

 葛城央――まだ凱が名を訊き直していない青年――が、薬局側の帳簿を抱えて来た。

「配薬窓口を先に進めれば、会議の説明へ戻れません」

「戻れない人は、戻らなくていい」

「参加者が減ります」

「薬を受け取る人も参加者だ」

「採決の説明を聞けません」

「後で聞く」

「他地区の発言が先に入るかもしれない」

「入った時刻を書く」

「何でも書けば済むと思っていますか」

 央の声には、朝よりはっきり不満がある。

「済まない」

 凱は答えた。

「書いても、薬は増えない。雪も止まらない。聞いた言葉を忘れることもある」

「では、なぜ」

「済まなかった場所を、次に同じ失敗へ使わないためだ」

「次がある保証は」

「ない」

「あなたは、保証のないものへ人を付き合わせる」

「王だった時もそうした。違うのは、保証がないと言わなかったことだ」

 央は帳簿を強く抱えた。

「格好のいい反省です」

「そう聞こえるか」

「ええ」

「なら、格好を悪くする。俺は今日、配薬の順番を知らない。名前も半分分からない。左膝で階段を何度も上れない。だから、進行役には向かない」

「そこまで言わなくても」

「言わなければ、皆が勝手に補う。王だから分かる。王だからできる、と」

 薬剤師が窓口から顔を出した。

「言い争うなら、袋を棚へ運んでください。凱は下段だけ。青年は上段。少年は薬へ触らない」

 命令は短い。

 理由も、担当も見える。

「受けます」

 凱が言う。

 央も一拍遅れて頷いた。

 上段の青袋を取るには、肩を上げる。

 下段の白袋を取るには、膝を曲げる。

 凱は右膝を床へ着かず、壁へ右手を添え、左脚を前へ伸ばして腰を落とす。装具が深く曲がらない分、身体を斜めにする。袋は一度に二つ。多く持てば速いが、名前を取り違える。

 央は四つ持とうとした。

「二つ」

 凱が言う。

「命令ですか」

「俺も二つにしている」

「理由は」

「三つ目から、字を見るより早く手が動く」

 央は二つ戻した。

 列の先頭で、耳の遠い老人が番号を聞き違えた。

 少年は大声を出さない。

 木札を老人の掌へ置き、指で数字をなぞる。

「七」

「一じゃないのか」

「七。時計は、あれ」

 少年は北塔の白い文字盤を指した。

「中央じゃないのか」

「ここで見た時間」

 老人は時計と木札を見比べた。

「二秒、進んでるぞ」

「知ってる」

「直さないのか」

「書いてから」

 少年は朝の秋枝と同じことを、誰に教わるでもなく言った。

 午後二時三十一分。

 配薬列はなくなった。

 会議へ戻った者は十一人。

 家へ帰った者は四人。

 その場で休んだ者は二人。

 全員を同じ部屋へ戻せなかった。

 央は受付板へ記す。

《午後説明、参加者十七名中、配薬対応十一名。一時離席。復帰十一。帰宅四。休息二。各人の再説明時刻は別紙。》

「長いですね」

「事実が多い」

「短くできない?」

 装具の少年が訊く。

 凱は考えた。

「薬を選んだ人がいた」

「会議より?」

「薬と会議を同じ秤へ乗せるな」

「また別」

「別にして、両方の時間を書く」

 少年は、自分の木札へ小さく時刻を書いた。

 数字は一つ、鏡文字になっていた。

 央が直そうと手を伸ばす。

 少年は先に言う。

「間違えたって、横に書く」

 央の手が止まった。

 北塔の時計は、相変わらず二秒進んでいる。

 待つ人の前では速く、記録する人の前では、少しだけ遅く見えた。

 十二月二十七日、午前六時三十分。

 凱は北塔の会議室へ一人で来た。

 今度は一時間早い。

 椅子が三十四脚、半円に並んでいる。

 昨夜、青年たちが自分で並べた。

 一本だけ曲がっていた。

 凱は手を伸ばす。

 止めた。

 曲がった椅子の座面には、紙が貼ってある。

《足の装具を横へ置くため、斜め》

 理由がある。

 凱は直さない。

 代わりに、自分の椅子を探した。

 前にはない。

 入口近くにもない。

 三十四脚すべて、同じ低い背もたれ。

「どれだ」

 誰もいない部屋で訊く。

 答えはない。

 凱は、空いている一脚へ座った。

 左膝を伸ばせる角度へ、少しだけ斜めにする。

 誰かが来て理由を訊けば、答える。

 訊かれなければ、そのまま会議が始まる。

 窓の外で、雪は中央時計と関係なく降っていた。

 午前七時十二分。

 最初に来たのは、昨日「陛下」と呼んだ青年だった。

 凱が入口近くへ座っているのを見て、部屋の前で止まる。

「そこは受付です」

「そうか」

「中央に、席を用意します」

「要らない」

「声が届きません」

「届かなければ、近い者が聞き返す」

「時間がかかる」

「かける」

 青年は不満を隠さない。

「昨日から、わざと不便にしていませんか」

「そう見えるか」

「あなたが決めれば一分で済むことを、全員に訊いて十分使う」

「一分で済ませた結果を、俺がいない日に誰が使う」

「記録がある」

「命令の記録は、判断の練習にならない」

「でも、人が死ぬ時に練習はできない」

 凱は青年を見る。

 白冠時代、彼は配給列の先頭にいた。凱の手信号を最も早く読み、混乱した人間を列へ戻す役だった。

「名は」

「昨日も言いました」

「もう一度」

「葛城央」

「央。緊急時、俺の命令を待つか」

「待ちます」

「俺が来なければ」

「代理者を」

「誰が決める」

「あなたが事前に」

「代理者も倒れたら」

「次の代理者」

「何人まで作る」

「必要なだけ」

「それは、順番を長くした王だ」

 央の顔が固まる。

「では、どうしろと」

「危険の種類ごとに、止められる者を決める。火なら炊事班。階段なら管理班。医療なら救護。互いに上書きできる範囲を記録する」

「命令が衝突する」

「する」

「混乱します」

「混乱を一人へ隠すより、どこで衝突したか見える」

「あなたは、王をやめた自分を正しいことにしたいだけでは」

 凱はすぐに答えなかった。

 青年の言葉は、命令ではない。

 だから、退けにくい。

「そうかもしれない」

 央が驚く。

「否定しないのですか」

「否定する証拠がない」

「では、信用できない」

「しなくていい」

「それでは指揮できない」

「指揮と信用を同じにするな」

 凱は自分の左膝を伸ばした。

「俺の指示が役に立つ時は使え。間違っていれば止めろ。好きか嫌いかは、その後に残る」

「そんなに簡単ではない」

「知っている」

 央は中央の空いた場所を見た。

「今日の進行役を、私がしても?」

「俺へ訊くな」

「会場へ訊きます」

「そうしろ」

 午前七時三十分。

 三十四人が揃った。

 央が進行役へ立候補する。

 二人が反対した。

 一人は、彼が旧白冠の命令を忠実に実行しすぎたから。

 もう一人は、声が大きくて質問を急かすから。

 央は反論した。

 凱は口を出さない。

 最終的に、央は一人で進行せず、屋上班の女と二人で担当することになった。

 央が時刻を読む。

 女が、質問を止める権限を持つ。

 試験説明は前日より六分長くなった。

 質問数は十二増えた。

 間違いも二つ増えた。

 それでも、凱を待つ時間はゼロだった。

 窓の外では、雪が誰の到着も待たずに降り続いていた。