第588話 第四章「北部撤退路」後編
北配給所用の包みを、保留者へ渡すことはできない。
それは差別ではなく、各厨房が自分の在庫と受取先へ負う約束だった。
「全部まとめた方が早い」
隊員が言った。
「早い」
澪は認めた。
「でも、まとめた責任者が要る」
「澪さんが」
「やらない」
「どうして」
「私が食べる量を決める仕事じゃない」
八時十一分。
走者が戻った。
厨房からの返答を、標識の表へ書いている。
《変更受領》
《北配給所+十一、工場宿舎+十八、保留+二十七》
《追加調理は九時四十分》
《空腹申告を受領台で分ける》
通信は戻っていない。
人の足が、回線の代わりをした。
午前十時二十二分。
北部路の移動者は五百六人になった。
中央通知の予測より多い。
澪の予測より四人少ない。
骨折疑いの一人は、病院へ搬送された。
門柱へ肩を当てた女性は、移動をやめ、保留所へ戻った。
白線から最初に出た女性は、北配給所へ着いた後、工場宿舎へ行先を変更した。
帰還確認台には、到着だけでなく、変更と中止が並ぶ。
南野が、札を三つに分けていた。
「着いた。着かなかった。途中で変えた」
「変えたを成功に入れない?」
澪が聞く。
「着いた先が違う。予定だけ見たら失敗。本人だけ見たら成功かもしれない」
「かもしれない」
「本人に聞くまで、運転手は結果を決めない」
「今日は運転してない」
「だから、少し賢い」
午前十時四十六分、雨が降り始めた。
強くはない。
白線を消すには十分だった。
中央門前に残っていた線が、灰色の水へ沈む。
西保守路の土が柔らかくなり、車椅子の細い前輪が沈み始める。
同じ時刻、北配給所へ着いた四十一人が戻ってきた。
「何があった」
澪が聞く。
「中央札が無効になる前に、元の住居へ戻れって」
先頭の男が答える。
「誰が言った」
「配給所の画面」
「名前」
「中央」
また同じ答えだった。
四十一人は、保守路を南へ戻ろうとしている。
北へ進む人は、まだ七十六人。
幅二・四メートルの道で、二つの流れが向き合った。
中央なら、どちらかを止める。
帰還者を優先すれば、北へ行く人が雨の中で待つ。
北行きを優先すれば、戻る人が決め直す権利を失う。
「交互」
若い中心隊員が言った。
「六分ずつ」
「基準」
澪が聞く。
「道の長さ二百八十。歩行速度、雨で毎分三十五。八分必要」
「六分じゃ途中で向き合う」
「じゃあ九分」
「車椅子は」
「毎分二十五。十二分」
「歩けない人へ全員を合わせる?」
「合わせないと危ない」
「待機時間が増える」
「じゃあ、どうするんです」
隊員の声が尖る。
中心を任されたばかりで、質問が試験に聞こえている。
澪は笛を見た。
自分が取れば、早い。
だが三声帰路は、もう使わない。
一呼吸の統一を二度目の便利へ変えると、中心を譲った意味が薄くなる。
「途中に退避棚が二つ」
南野が地図を出した。
「一つは壊れてる」
「直す時間」
「二十分」
「待てない」
「なら、食事箱」
空になって戻った折り畳み箱が、二十七個ある。
南野は箱を三段に積み、擁壁側へ仮の退避帯を作った。
中身はない。
空だから、人を止める壁には弱い。
厨房から戻った布帯で箱を連結する。
「ここへ車椅子二台。歩行者は壁際へ一列。向かいを通す」
「箱が倒れたら」
「中へ人を入れない。印だけ」
箱の外側へ黄色い布を張る。
退避位置が見える。
若い隊員は地図を見た。
「北行き七分。南行き九分。車椅子は退避棚で待機」
「待機を本人へ確認」
「危険だから待ってもらう」
「危険の説明と、待つ命令は別」
「また質問ですか」
「変更を作る仕事」
隊員は一度、目を閉じた。
それから車椅子の女性へ説明した。
「南行きが通る間、ここで九分待つ案です。雨避けはありません。先に進むなら、対向列を止めます」
「先に進みたい」
「理由は」
「聞かないで」
「受領。対向列を止めます」
北行きの七十六人へ、赤板。
不満の声が上がる。
「一人のために?」
「一人のために全員を止めるのか!」
若い隊員は笛を吹く前に言った。
「先に行く人が一人だから止めるんじゃない。すれ違う余地がないから止める。次は南行きの一人が待つかもしれない」
「公平じゃない!」
「同じ待ち時間にはしない。危険が違う」
言い切った。
澪は口を出さなかった。
低い二短音。
北行きが止まる。
車椅子が進む。
退避箱の横で前輪が泥へ取られた。
隊員二人が持ち上げようとする。
「触らないで!」
女性が叫んだ。
二人は手を止めた。
「押す場所を言って」
若い中心が聞く。
「後ろの横棒。右だけ。左は痛い」
右後方から、一人だけが押す。
前輪が泥を越える。
女性は自分の手で車輪を回し続けた。
最初のすれ違いは成功した。
二回目で、中心は間違えた。
北行きの進行笛を、南行き最後尾が退避棚へ入る二秒前に吹いた。
前列が動く。
戻る老人の肩が、北行きの荷へ当たる。
老人が膝をついた。
骨折はない。
右手を擦りむいた。
中心の隊員が笛を外した。
「交代します」
「理由」
澪が聞く。
「失敗した」
「失敗した人は、交代する決まり?」
「中心に向いてない」
「何を間違えた」
「最後尾確認の前に吹いた」
「次は」
「最後尾の白板を見てから」
「なら、変更を言って」
隊員は老人の前へ行った。
「私が二秒早く進行を出しました。右手を傷つけました。次から最後尾の白板を確認してから吹きます。交代を希望しますか」
老人は傷を洗っていた。
「俺が決めるのか」
「被害を受けた人の意見を聞く」
「辞めろと言ったら」
「交代します」
「続けろと言ったら、許したことになる?」
「なりません」
「じゃあ続けろ。次にまた早かったら、俺が笛を取り上げる」
「あなたに権限は」
「今作った」
老人は笑った。
隊員は笑わなかった。
交代表へ、《本人希望で継続。次回同誤り時、被害者から停止要求可》と書く。
澪は銀笛を取らなかった。
雨は強くなった。
九分、七分、十二分。
同じ周期にはならない。
空の食事箱が、二つの流れの間で黄色い壁になった。
正午までに、南へ戻ったのは三十七人。
四人は退避棚で待つ間に、もう一度行先を変え、北へ戻った。
帰還を選び直した人を、優柔不断とは記録しない。
雨中すれ違いによる新規負傷は、擦過傷一人。
中心の誤笛、一回。
変更手順、一件。
正午、通信が復旧した。
中央から最初に届いたのは、事故への謝罪ではなかった。
《北部路の独自運用は、中央互換性を損なう可能性がある》
澪は返信した。
《損なった項目を具体化せよ》
《現在確認中》
《確認期限》
返事は来ない。
若い隊員が、銀笛を外そうとした。
「返します」
「まだ」
「中心は終わりました」
「帰還確認が残る」
「それは澪さんの仕事」
「今日は、中心が変更を最後まで受け取る」
「私が?」
「嫌なら断って」
隊員は銀笛を見た。
「断らない。でも、一時間後に交代」
「理由」
「口が痺れてきた」
「受領」
澪は交代表へ時刻を書いた。
以前なら、自分が笛を取り戻した。
自分の耳の欠けを知っていても、自分の手順の方が速いと考えた。
今は、中心を譲ったまま、命令変更と帰還確認へ回る。
笛が自分の首にないことを、少し寂しいと思った。
寂しさは、役割を取り返す理由にはならない。
午後一時四分。
七瀬の記録室へ、北部路から最初の完全な報告が届いた。
映像は足元だけ。
白線を外れた靴。
青、黄、白の布。
若い隊員の銀笛。
空になって戻る食事箱。
画面の外で、澪の声が数字を読む。
「移動五百六。到着四百二十一。保留六十三。中止二十二。負傷十九。搬送七。通信断二時間十七分。中央門使用、〇」
最後に、別の声が入った。
若い隊員。
「中心交代、一回。次の交代、十四時四分」
澪の報告ではない。
北部路の報告だった。
映像の端で、銀笛が揺れた。
澪は画面に入らなかった。