第589話 第五章「十二の厨房」前編
七月三日 午後二時十七分
十二の厨房で、同じ時刻に火を点けることはできなかった。
第一厨房は薪。
第二厨房は廃油。
第三厨房は地域暖房の余熱。
第四厨房は電熱。
第五厨房は、鍋底へ敷いた黒い石が温まるまで待つ。
第十二厨房だけ、火を使わない。
水が足りない日の冷製粥を作る。
「だから、《全厨房十四時点火》は消す」
土門小麦は、中央から送られた運用案へ太い赤線を引いた。
紙の見出しは、《統一配給継続手順》。
十二厨房へ、同じ献立、同じ開始時刻、同じ一食量を求めている。
「同じにした方が数えやすいよ」
助手が言った。
「誰が」
「中央」
「食べる人は?」
「数えなくていい」
「数えなくていい人を、数えやすい形へするのが好きだね」
小麦は紙を四つに裂いた。
献立。
開始時刻。
一食量。
配給対象。
そのうち、共通化する項目を別紙へ書く。
《受取人数》
《在庫原価》
《調理者の休憩》
《拒否・保留理由》
四つだけ。
「塩分は?」
「各厨房。病院分はミソラ側」
「器の大きさ」
「各厨房」
「中央塔の人へ優先」
「しない」
「でも、迅たちが負けたら」
「腹が減ったから負けた、って言わせない量は出す」
「優先じゃない?」
「最低を切らない。上乗せしない」
「難しい」
「だから値段と量を書く」
第一厨房の壁には、十二枚の鍋帳が掛かっていた。
一枚につき一厨房。
食材の量だけではない。
誰が何時間働いたか。
何分休んだか。
誰が受取を拒否したか。
なぜ断ったか。
容器が何個戻っていないか。
料理は、食べると消える。
消える仕事ほど、記録がないと、善意だけが残る。
善意は腐らない。
だから、腐った食材より長く人を苦しめる。
午後二時二十二分。
鳥飼澄江が、乾物袋を二つ抱えて入ってきた。
「買う?」
「何」
「干し豆。一袋二十三斤。今日の価格、四十二」
「昨日は三十九」
「運河の運賃が上がった」
「中央停止の便乗?」
「便乗なら五十にする」
「正直」
「正直じゃない。計算」
澄江は値札を小麦の鼻先へ出した。
小麦は袋を開け、豆の匂いを嗅いだ。
「湿ってる」
「下の二斤だけ」
「二十三斤で売る?」
「湿った二斤は煮崩れ用。価格に入れてない」
「書いてない」
「今、書く」
澄江は値札の裏へ、《湿り二斤/煮崩れ用/無償》と追記した。
「二袋買う。第一と第六」
「中央塔へ送る?」
「第一は北部路。第六は保留所」
「中央塔は」
「第九厨房から冷えた麦餅」
「かわいそうに」
「値段を下げる?」
「かわいそうと値引きは別」
澄江は四十二の札を外さなかった。
午後二時三十六分。
十二厨房の回線が開いた。
映像はない。
小麦が決めた。
鍋の湯気や空の棚は、見た人の罪悪感を煽る。煽られた寄付で一食は増えるが、翌日の原価が消える。
音声と数字だけ。
「第一、在庫」
《豆四十六斤、麦七十二、塩九、油六。調理者十一。休憩不足三》
「第二」
《芋百二十斤。油なし。薪八時間分。調理者七。休憩不足〇》
「第三」
《病院余熱停止の可能性。米四十三。魚粉十二。調理者九。うち一人発熱》
「第四」
《電熱認証、七日以後不明。今日分は可。麺九百食。休憩不足四》
「第五」
《点火待ち。黒石温度四十一度。受取予定六十四》
「第六」
《保留所。人数が読めない。今、百三十七。出入りあり》
「第七」
《放送所へ二十。地域へ三百十。中央へは出さない》
小麦の鉛筆が止まった。
「理由」
《地域の幼児食が足りない》
「中央へ出さないのは、作戦への反対?」
《違う。足りない》
「誰の判断」
《第七厨房、責任者三名。署名あり》
「迅たちへの評価は」
《聞いてない》
「分かった。鍋帳へ《地域優先、作戦評価なし》」
助手が小声で言った。
「裏切りって言われる」
「言わせる」
「守らないの」
「厨房名を隠すと、あとで見つけた人が余計に怒る。出す。ただし理由と在庫も同じ大きさ」
回線の向こうで、第七厨房の責任者が言った。
《名前も出して》
「三人全部?」
《厨房で決めた。全員》
「受領」
「第八」
《市場残飯の回収待ち。受取人数二百。調理者五。休憩不足五》
「全員休憩不足じゃん」
《休んだら腐る》
「半分交代。回収を二便に」
《遅れる》
「何分」
《四十分》
「食中毒と四十分、どっちを選ぶ」
《質問がずるい》
「ずるい。答えは」
《交代》
「変更理由を書いて」
「第九」
《中央塔へ麦餅四十。冷却済み。水七》
「少ない?」
《そこに何人いるか、中央が答えない》
「四人と、現地技術・医療・警備。人数未確定」
《未確定へ温かい食事は出せない。四十だけ》
「受領」
「第十」
《水上用。塩分調整中。船員四十八、透析関係十九、家船百六》
「第十一」
《剛嶺行き。運搬路が閉鎖。乾燥食二百三十。運転手待機》
「第十二」
《冷製粥。水が足りない》
「何食」
《二百八十。器が百九十》
「器を回す?」
《洗浄水がない》
「葉包みは」
《葉が食料》
「乾いた布」
《返却が要る》
「返却所を作る」
《誰が》
「中央じゃない人」
回線の向こうで笑いが起きた。
笑いは同意ではない。
でも、疲労が一瞬だけ形を変えることはある。
午後三時〇四分。
中央継続局から、十二厨房へ共通命令が届いた。
《中央塔・決裁中継室・放送所への優先配給を実施せよ》
《上記三拠点の機能停止は全地域の損失となる》
小麦は返信した。
《優先しない。最低量は出す》
中央から返る。
《全地域の損失を理解しているか》
《全地域って誰》
タマキの言葉を借りた。
《十二厨房の受取先合計二千四百十三人。中央三拠点の人数を提示せよ》
《安全上、非公開》
《人数不明へ優先量は決められない》
《中央命令である》
《発令者名》
《中央継続局》
《人の名前》
返事は止まった。
「みんな同じこと聞くね」
助手が言った。
「名前が出るまで、何度でも聞く」
「出たら従う?」
「名前が出るのは入口。中身は別」
「面倒」
「名言は使用停止」
小麦は自分で言ってから、少し笑った。
午後三時十七分。
第七厨房の外へ人が集まり始めた。
中央塔への配給を拒否した厨房名が、公開掲示へ出たからだ。
最初は八人。
十分後には二十六人。
「迅たちを飢えさせるのか!」
「街を助ける人へ飯を出さないのか!」
「第七だけ勝手をするな!」
第七厨房の責任者三人は、扉を閉めなかった。
代わりに、在庫板を外へ出した。
《乳児食 残り四十九》
《一般食 残り百十二》
《中央塔予定 〇》
《放送所 〇》
《地域幼児・妊婦・高齢者 百六十一》
合計は一致する。
「迅たちは四人しかいないだろ!」
「四人じゃない。警備も技術もいる!」
「じゃあ、ほかの厨房が出せ!」
「出す」
小麦が人垣の後ろから言った。
足が痛い。
踵から土踏まずへ、細い針が並んだような痛み。
歩幅を狭くする。
急がない。
「第九が四十。第一が戻り容器次第で二十追加。第七は出さない」
「何で許すんだ!」
「許す権限がない」
「おまえがまとめてるんだろ!」
「まとめてるのは、人数、原価、休憩、拒否理由。献立と配る相手は各厨房」
「そんなの、ばらばらじゃないか!」
「ばらばら」
「それで街が動くか!」
「動いてる」
小麦は第七厨房の戸口を指した。
中では、乳児用の穀粉を量っている。
一袋ずつ。
受取人ごとに濃度が違う。
「中央塔が止まったら、ここも止まる!」
「止まる部分はある。だから中央へ最低量を出す厨房もある。第七まで同じにする必要はない」
「英雄を見殺しにする気か!」
「英雄は、四十枚の冷えた麦餅を食べる」
「冷えた?」
「温かい食事を優先する理由がない」
誰かが笑った。
別の誰かが怒鳴った。
笑い声を侮辱と受け取った男が、在庫板へ手を伸ばした。
第七厨房の若い調理者が前へ出る。
小麦は、その腕を掴んだ。
「殴らない」
「板を取られる」
「板は作り直せる」
「在庫を隠したって言われる」
「記録は十二か所に写しがある」
男は在庫板を引いた。
釘が外れる。
板の裏から、小さな紙片が床へ散った。
受取札。
乳児の家族名は書かれていない。
必要量と受取時刻だけ。
男の足が、その一枚を踏みかける。
小麦は板を追わず、紙片を拾った。
「それ、何だ」
「飯を待ってる人」
「名前がない」
「名前を見せ物にしないため」
「本当にいる証拠は」
「受取時に二鍵確認」
「そんな面倒な」
「帰って」
小麦の声が低くなった。
「何だと」
「あなたへ説明するために、乳児食を止めない」
「街のために来た!」
「ここも街」
男は板を持ったまま立っていた。
小麦は取り返さなかった。
「持って帰るなら、裏に今日の在庫を書いて。明日、数字が違ったらあなたも確認者」
「脅しか」
「仕事」
「俺に責任を押しつけるのか」
「板を持つなら」
男は板を床へ置いた。
怒りは消えていない。
だが、板から手を離した。
ほかの人々も、すぐには帰らなかった。
小麦は在庫板を戸口へ戻さず、人垣の真ん中へ立てた。
「中央塔分四十。地域分百六十一。足りない。どっちも足りない。第七は地域を選んだ。第九は中央へ出す。意見がある人は、自分がどの厨房の何食を変えるか、数字で書いて」
「中央を優先しろって書いたら」
「受け取る。従うとは限らない」
「何のための意見だ」
「あとで、聞かなかったことにされないため」
一人の女性が、紙を取った。
《中央へ十食追加。自分の家の二食を減らす》
小麦は首を振った。
「家族の食事を、政治の証明にしない。減らすなら本人全員の確認」
「じゃあ、どうすれば」
「食材を持ってくる。調理を手伝う。運搬する。休憩を代わる」
「金は」
「払う。無償の熱意は在庫に入れない」
午後四時十一分。
人垣のうち、六人が運搬へ登録した。
三人が乾物を持ってきた。
十四人は不満を残して帰った。
男は在庫板の裏へ、自分の名前を書かなかった。
代わりに、《説明を受けたが納得しない》と記した。
小麦は消さなかった。
午後四時三十七分。
第一厨房で騒ぎが起きた。
中央継続局の臨時輸送班が、乾物袋を積んだ荷車を中央塔へ移そうとしていた。
命令書はある。
発令者名はない。
輸送班は武装していない。
手には封印具と運搬票だけ。
だから、止める側も殴れない。
「全地域の機能維持に必要です」
輸送班の男が言う。
「何食分」
小麦が聞く。
「中央塔の必要量」
「人数」
「非公開」
「持っていく量」
「乾物袋十六」
「一袋何斤」
「規格品です」
「規格番号」
「中央四号」
「中身」
「乾燥豆」
小麦は袋を一つ持ち上げようとした。
重い。
腰を入れる。
左足の裏へ痛みが走る。
袋は床から三センチしか上がらない。
「三十斤じゃない」
「規格品です」
「水を吸ってる」
袋の底から、黒い染みが広がっている。
午前の雨で、倉庫の端が濡れた。
「このまま中央へ運んだら、腐敗検査で全部止まる」
「中央で検査します」
「運搬票に湿潤記録がない」
「緊急時です」
「湿った豆は緊急時に乾かない」
輸送班が荷車を押した。
小麦は前へ立たなかった。
荷車の車輪へ、秤台を入れた。
「重量を測る」
「どいてください」
「持っていくなら重量と状態を記録する」
「命令妨害になります」
「何分遅れる」
「十五分」
「腐敗したら何食失う」
「不明」
「じゃあ測る」
輸送班の二人が、荷車の左右へ回った。
厨房の調理者が前へ出る。
小麦は手を上げた。
「押し合わない。鍋が倒れる」
「でも」
「荷車だけ止める」
厨房の床には、排水溝がある。
小麦は木栓を抜いた。
洗浄水が細く流れ、荷車の前輪だけを濡らす。
滑らせるためではない。
車輪の泥を落とし、秤台へ正確に載せるためだ。
輸送班が押せば、前輪は秤台の溝へ入る。
入った。
荷車は動かなくなる。
「設備への妨害です!」
「計量」
「解除を」
「重量確認後」
小麦は秤の目盛を読む。
四百九十八斤。
規格なら四百八十。
「水分十八斤。少なくとも下四袋は分ける」
「中央で」
「ここで」
「命令を拒否する?」
「湿った四袋を拒否。乾いた十二袋は、受取人数と用途を出せば検討」
「全部必要です」
「必要って、何食」
男の額に汗が浮く。
彼も、悪意で来たわけではない。
命令書を持ち、中央塔が止まれば街が止まると教えられ、乾物を運べと言われた。
運ばなければ、自分が街を止めた者になる。
小麦は、その恐怖を免責にはしない。
だが、敵の顔にも使わない。
「あなたの名前」
「何のために」
「受取人数を聞いた人」
「答えられない」
「答えられないと記録する」
「処分されます」
「私も止めたと記録する」
「同じじゃない」
「同じにしない。別欄」
男は黙った。
やがて、運搬票の裏へ名前を書いた。
中央塔の現地人数は、百三十六。
うち医療・技術・警備が百二十九。
迅たち四人。
冬城の医療班三人。
「百三十六なら、四十食じゃ足りない」
助手が言う。
「一食を全部厨房から出す前提が違う。中央塔には備蓄がある」
「どれくらい」
「確認する」
中央塔の備蓄は、乾燥食二百八十食、水百六十人分。
小麦は計算した。
「乾いた十二袋は出さない。第九の四十に、第一から三十追加。中央備蓄を先に使う。医療食は病院から別便」
「命令と違います」
「違う」
「責任は」
「第一厨房責任者二名、私、備蓄情報を出した中央担当。あなたは運搬票の確認者」
「俺も?」
「名前を書いた」
男は苦い顔をした。
「名前って、重いですね」
「袋より軽い」
「今、名言?」
「計量結果」
午後五時二十九分。
中央塔へ送る食事は七十食になった。
温かくはない。
麦餅、干し豆、塩漬け野菜、水。
迅から音声が来た。
《飯、減った?》
「増えた」
《冷たい》
「中央塔に加熱設備」
《使うと警報が鳴る》
「鳴らして。技術担当に確認」
《敵に位置がばれる》
「もう塔に入るって公開してる」
《そうだった》
「誕生日の人へ杏はない」
凱の声が遠くから入る。
《昨日食べた》
「来年分も」
《来年の話を――》
「その台詞、迅から聞いた」
《迅》
《俺じゃない》
「二人とも食べて。足りなければ、中央備蓄を開ける。厨房へ英雄料金はない」
《英雄じゃない》
迅と凱が、ほぼ同時に言った。
「なら普通料金」
小麦は回線を切った。
午後六時〇二分。
低血糖の兆候が来た。
手が冷える。
視界の端が白くなる。
言葉が短くなりすぎる。
小麦は、それを気合で隠さなかった。
「交代」
助手が時計を見る。
「まだ休憩表では」
「症状。十五分」
「今、中央塔分の受領が」
「私じゃなくていい」
「でも、小麦さんの判断を」
「判断は紙にある」
小麦は椅子へ座った。
砂糖水を飲む。
足を上げる。
助手が受領台へ立つ。
中央塔分の七十食を、現地輸送班へ渡す。
湿った四袋は別棚。
乾いた十二袋は第一厨房の在庫へ戻す。
小麦が見ていなくても、数字は動いた。
少し悔しい。
その悔しさを、休憩中止の理由にはしない。
「十五分経ったら戻る」
「症状確認してから」
「誰が決める」
「私と、小麦さん」
「医療は」
「必要なら呼ぶ」
「合格」
「何の」
「私を止める試験」
「受けた覚えないです」
「現場の試験は、だいたい急に始まる」
助手は笑わず、砂糖水の残量を確認した。
午後七時十九分。
十二厨房の配給が、最初の一巡を終えた。
中央塔――七十。
北部路――三百二十九。
病院――二百一。
放送所――二十。
平文室――十八。
剛嶺向け――百八十六。
水上区――百七十三。
地域内配給――千四百二十七。
保留――百七。
合計二千五百三十一。
朝の見込みより百十八多い。
不足は、百九十四食。
不足を隠さない。
食べられなかった人を、《次便》という希望へ丸めない。
次便の時刻がある人だけ、次便欄。
時刻がない人は、未配給。
小麦は十二枚の鍋帳へ、同じ見出しを追加した。
《次の確認時刻》
第七厨房だけ、中央塔欄が〇のまま残る。
小麦はその〇を赤で囲まなかった。
裏切りの印にしない。
別の厨房の七十食を、忠誠の印にもしない。
午後七時三十一分。
未配給百九十四人の一覧を見た助手が、第一厨房の空鍋を指した。
「《同じ釜》を使えば」
室内の手が止まった。
能力名を口にしただけで、鍋の中身が増えるわけではない。
それでも、増えたように感じる方法はある。
同じ鍋から、名前を告げて食べた者の疲労、寒さ、空腹を均等にする。