第590話 第五章「十二の厨房」後編
百九十四人の空腹を、既に食べた二千五百人余りへ薄く分ければ、一人あたりの痛みは小さくなる。
「誰と誰を同じ鍋にする」
小麦が聞いた。
「食べた人全員」
「乳児も」
「名前を言えないから対象外」
「家族が代わりに言う?」
「できるなら」
「できない。本人が名を告げる能力」
「じゃあ、言える人だけ」
「透析中の人も。夜勤の運転手も。発熱した調理者も。中央塔で明日戦う人も」
「空腹を分ければ動ける」
「疲労も分かれる」
「元気な人が引き受ける」
「元気って、誰が決める」
助手は答えなかった。
厨房の外には、三十七人の志願者が集まっていた。
未配給者へ自分の満腹を分けたい、と言う。
一人の男が、空鍋の前へ来た。
「名前を言えばいいんだろ」
「食べる物がない」
「水でも」
「同じ鍋の物でないと成立しない」
「じゃあ、麦を一粒ずつ」
「能力のためだけに食べさせない」
「何でだ。百九十四人が腹を空かせてる」
「あなたの満腹を政治へ出すと、断れない人が増える」
「俺は自分で決めた」
「あなたは。隣の人は?」
隣にいた女性が、視線を逸らした。
志願者の列へ、職場の班長に誘われて来た。
「断っていい」
小麦が言う。
「断ると、未配給の人を見捨てたことになる」
「ならない」
「周りはそう見る」
小麦は空鍋を伏せた。
能力の器を使えない形にする。
「今日は使わない」
男が怒る。
「自分が楽したいだけか」
「使えば、私は自分の低血糖をみんなへ分けられる」
「それなら軽くなる」
「私が楽になる」
「それの何が悪い」
「悪くない。悪くないから、未配給者のためだって顔で混ぜない」
小麦は志願者へ、別の用紙を出した。
《夜間作業》
《運搬》
《翌朝の仕込み》
《食材提供》
《何もしない》
「能力で分けない。仕事へ参加したい人は、賃金と時間を書いて。食事を減らしたい人は、同居人を含めて本人確認。何もしない人は帰って寝て」
「何もしない欄があるのか」
「休む人がいないと、明日も百九十四」
三十七人のうち、夜間作業十一。
運搬八。
食材提供六。
何もしない九。
保留三。
何もしないを選んだ女性は、用紙を裏返してから名前を書いた。
「見えないように?」
小麦が聞く。
「班長に見られたくない」
「公開範囲を限定する」
「厨房には分かる?」
「賃金を払わない確認だけ。理由は見ない」
夜間作業へ入った十一人には、先に食事を出した。
「未配給の人より先?」
男が聞く。
「働くから」
「不公平だ」
「働かせて食べさせない方が、厨房には便利」
小麦自身も、自分の皿を受け取った。
最後ではない。
交代表で決めた時刻だった。
発動を待つように見つめられる空鍋の横で、普通に食べる。
麦餅半枚。
漬物。
砂糖水。
能力は動かなかった。
午後七時五十六分。
夜間仕込みで四十六食分の材料が集まった。
同じ時刻、新たな移動者と病院待機者が四十六人登録された。
未配給は百九十四のまま。
「減ってない」
助手が言った。
「四十六人は食べた」
「数字は同じ」
「人が違う」
小麦は未配給一覧を上書きしなかった。
食べた四十六人へ受領印。
新しく待つ四十六人へ、次の確認時刻。
同じ百九十四でも、中身は変わっている。
「能力なら、数字はきれいだった」
「腹も、きれいに薄く痛んだ」
「それでも誰も空腹じゃないって言えた」
「空腹を全員へ配っただけ」
小麦は空鍋を元へ戻した。
伏せたまま。
「均等は、解決じゃない日もある」
午後七時五十八分。
第七厨房から、紙束が届いた。
未配給者百九十四人のうち、二十三人が食事を受け取るための札を返している。
食べ物を要らないと答えたわけではない。
札の下段に、小さく印刷された一文があった。
《本配給を受領した者は、十二厨房による共同運用の継続へ同意したものとする》
「誰が入れた」
小麦が聞いた。
第七厨房の若い会計係が、背中を丸めた。
「旧中央の用紙です。支援物資の受領と、事業継続の確認が一枚で済むので」
「済んでない」
「でも、同じ厨房から食べるなら、続けてほしいってことでは」
「腹が減ったことと、私の運営を支持することを一緒にするな」
会計係は黙った。
小麦は二十三枚を机へ並べた。
返却理由は、ばらばらだった。
《共同運用に反対》
《支持の意味が分からない》
《名前を残したくない》
《食べたいが署名したくない》
《班長に見られる》
《受領すると空白の旗側と記録される》
一枚には、文字がなかった。
受領欄を爪で何度も擦った跡だけがある。
「二十三人を未配給のままにした?」
「返却だから、拒否と」
「食事の拒否と、文書の拒否を分けた?」
「……分けてません」
「今、分ける」
小麦は受領札を中央から裂いた。
上半分。
《食事を受け取った》
下半分。
《共同運用への意見》
「紙を破っていいんですか」
「一枚にした方が間違いだった」
「正式様式がなくなります」
「正式に腹を空かせるよりまし」
七瀬が横から口を挟んだ。
「受領者の名前は公開する?」
「しない。厨房は食数確認に必要な番号だけ」
「アレルギーと病歴は」
「別札。本人が出した範囲だけ。献立板へ出さない」
「同じ番号で照合できる?」
「厨房内の二鍵。二十四時間で切る」
「二十四時間後に症状が出たら」
「医療鍵は本人が持つ。厨房側の公開名簿は残さない」
「手間が増える」
「食べる人を支持者へ変えるより安い」
厨房の入口にいた男が、腕を組んだ。
「俺は玉葱を四十キロ出した」
「受領してる」
「なら、今夜の食事は優先されるよな」
「されない」
「寄付したぞ」
「寄付と食事を交換するなら、最初から売買だ」
「善意を馬鹿にするのか」
「善意へ値札を付けたのは、今のあなた」
男の顔が赤くなる。
「返せ」
「残ってる十六キロは返せる。使った二十四キロは、代金を払う」
「金が欲しいんじゃない」
「優先が欲しい?」
「……自分が役に立ったと分かりたい」
声が小さくなった。
小麦は一拍置いた。
「玉葱を切った人の名も、煮た人の名も、運んだ人の名も残ってる。あなたの四十キロも残す。でも、食べる順番にはしない」
「それじゃ、寄付した意味が」
「二十四キロ分、誰かが食べた」
「誰が」
「公開しない」
「礼も言われない?」
「言いたい人は言う。言わせない」
男はしばらく黙り、返却欄へ指を置いた。
「十六キロは」
「返す?」
「明日の分へ残す」
「条件は」
「優先なし」
「受領」
小麦は寄付台帳と配給台帳を、机の左右へ離した。
近いと、また誰かが重ねる。
二十三人には、新しい二枚の札を届けた。
食事受領の札と、運用意見の札。
片方だけ返していい。
両方返していい。
どちらも返さなくていい。
最初に戻ってきたのは、食事受領だけだった。
共同運用への意見は空欄。
次は、食事を保留し、運用へ反対する札。
三人目は、両方を返した。
《粥は欲しい。厨房の統合には反対》
「矛盾してる?」
会計係が聞いた。
「してない」
「食べるのに」
「今日の粥と、明日の仕組みは別」
二十三人のうち、十九人が食事を希望した。
三人は保留。
一人は食事そのものを拒否した。
その一人について、小麦は理由を聞かなかった。
未配給百九十四人の数は、今夜すぐには減らない。
新しい札を作っても、鍋の中身は増えない。
ただ、二十三人が食べなかった理由を、《空腹ではない》へ変えずに済んだ。
会計係が破った旧様式を拾おうとした。
小麦が止める。
「捨てない」
「間違った紙ですよ」
「間違いがあったことを残す」
「また使われませんか」
「中央へ穴を開ける」
小麦は二つの文をつないでいた箇所へ、包丁の先で大きな穴を開けた。
食事と支持を、二度と一枚に戻せない穴だった。
午後八時。
十二の厨房から、十二種類の音が記録室へ届いた。
薪が爆ぜる音。
油炉の低い唸り。
余熱管の鳴り。
電熱器の切れる音。
黒石へ水が落ちる音。
包丁。
秤。
蓋。
空容器。
値札を打つ音。
休憩札を裏返す音。
冷製粥を布へ包む音。
一つの鍋の音にはならなかった。
第一厨房の中央には、大きな空鍋が一つ置かれていた。
小麦の《同じ釜》は使われていない。
空鍋の底には、白い紙が一枚だけある。
《同じにしなかった理由を、同じ場所へ残す》