第591話 第六章「平文室と放送所」前編

七月四日 午前九時十二分

 一文字巴は、五つの条件へ番号を付けなかった。

 番号には順番ができる。

 順番には、先に守るものと、後回しにしてよいものができる。

 本人確認。

 拒否窓口。

 期限。

 異議受領。

 再交渉日。

 五枚の札を、円形の机へ置いた。

「円にすると、始まりがない」

 助手が言った。

「円にも上があります」

「上を決めなければ」

「見る人の位置で変わります」

「それがいい?」

「いいとは限りません」

 巴は机を回した。

 五枚の札が少しずつ動く。

「固定しない方が公平、という決まりも作らない」

「じゃあ何をするんです」

「地域文書を読む」

 平文室には、九地域から届いた文書が並んでいた。

 北部帰路は三枚。

 十二厨房は十二枚。

 病院は患者情報を除いた運用文四枚。

 記憶庫は二枚。

 剛嶺は車輪拓本と石灰板。

 水上区は水位札と四つの本文。

 放送所は退出条件と技術進行表。

 決裁中継室は、まだ下書き。

 中央塔からは、七十八頁の統一文案。

 七十八頁の方が、一枚に見えるよう綴じられている。

 十二厨房の十二枚は、机を一周しても収まらない。

 量が少ない方が、統一されて見える。

 統一は、内容より製本技術で作られることがある。

「中央案、平文にしますか」

 助手が聞いた。

「しません」

「読めない人が」

「説明はする。平文へ直すと、中央案が一つの理解可能な選択肢として強くなる」

「難しい文のままなら、反対しやすい?」

「難しいから反対、も同意ではありません」

 巴は中央案の最初の頁を開いた。

《全地域の生命、財産、移動および将来利益を一体として保護するため――》

 主語が大きい。

 大きな主語は、文章の中で人を小さくする。

 巴は赤鉛筆を取った。

 右人差し指は布で固定している。

 左手で書く。

《誰が「全地域」を確認したか》

《将来利益の期間》

《一体で保護できない場合の優先》

《拒否した地域の扱い》

 頁をめくる。

《各地域は中央継続席の判断を最終的な安全確認として受領する》

《受領しない場合、互換性を保証しない》

 巴は止まった。

「受領と同意を一つにしている」

「百人会議の時みたいですね」

「似ています。だから同じ解き方は使いません」

「委任を返す?」

「今回は委任前です。入口で止める」

 入口。

 中央案の最終頁に、小さな欄があった。

《説明済み》

《理解済み》

《受領済み》

《継続に同意》

 四つの印が、一つの押印で付く。

 中央継続局は、各地域へ説明員を送っている。

 説明員が「読みましたか」と聞き、相手がうなずけば、四つすべてが成立する仕組みだ。

「今、何件」

 巴が聞く。

「中央発表では、説明開始三百十二。押印済み七十六」

「押印した本人の説明記録」

「中央保管」

「地域へ写しは」

「なし」

 巴は固定した右手を机へ置いた。

 能力を使えば、理解していない契約を止められる。

 ただし、巴が理解の入口になる。

 巴の言葉で説明できない者は、契約から外れる。

 守るために作った入口が、認証権力になる。

「使いますか」

 助手が聞いた。

「一度」

「中央案全部を」

「まとめ押印だけ」

「内容は」

「止めない」

 巴は五枚の札を机から外した。

 能力の範囲へ入れない。

 中央案の押印欄だけを、白い枠で囲む。

「説明してください」

 助手へ言う。

「何を」

「この押印で何が起きるか」

「説明済み、理解済み、受領済み、継続同意が一度に付く」

「誰が説明したか」

「記録されない」

「誰が理解したと判断する」

「説明員」

「本人は、どれか一つだけ拒否できる」

「できない」

「では、あなたは理解しましたか」

「はい。だから、押しません」

 巴はうなずいた。

 右手の固定布の下で、誓痕が熱を持つ。

 読めた者だけ〈リード・イン〉

 白い枠が、中央の文書網へ広がった。

 説明員の前に置かれたまとめ印が、押せなくなる。

 紙が硬くなるのではない。

 印を押しても、四つの効果が一度に成立しない。

 説明済み。

 理解済み。

 受領済み。

 継続同意。

 本人が自分の言葉か手話で、一つずつ説明した項目だけが効く。

 午前九時十七分。

 中央発表の押印済み件数が七十六で止まった。

 巴の右人差し指へ、鋭い痛みが走る。

 固定布の内側で、腱が硬くなる。

 彼女は左手で終了時刻を書いた。

《能力使用開始 九時十七分十一秒》

《対象 まとめ押印欄のみ》

《協定内容、地域文書、署名判断へ効力なし》

「いつまで」

 助手が聞く。

「各地域が、説明方法と拒否窓口を用意するまで」

「何時」

「未定」

「能力を使い続ける?」

「十二時間を上限。先に普通の停止手続きを作る」

「右手は」

「筆記しない」

「痛い?」

「痛い」

「休む?」

「十五分後」

「今じゃない理由」

「停止通知を出す」

「誰かに任せる」

 巴は助手を見た。

「できますか」

「さっき説明した」

「では、任せます」

 巴は右手を胸元へ抱えた。

 自分しかできない仕事を、能力で増やしてはいけない。

 午前十時〇四分。

 水上区から、紬の文面が届いた。

 紙ではない。

 薄い木札四枚。

 上流。

 下流。

 商船。

 病院。

 それぞれ、同じ言葉を使っていない。

 上流文には、《止める前に代替賃金》

 下流文には、《最低水量を切らない》

 商船文には、《積荷の受取拒否も運賃対象》

 病院文には、《洗浄水と治療水を分けない》

「同じ意味へ直す?」

 助手が聞く。

「直さない」

「相互参照できない」

「番号だけ付ける」

 巴は、内容の順番ではなく、木札の物理位置へ参照記号を付けた。

 水上・上流・左上。

 水上・下流・右上。

 水上・商船・左下。

 水上・病院・右下。

「左上って、回したら変わる」

「木札へ穴を開ける」

「紬が嫌がる」

「確認する」

 返事。

《穴は可。色は不可。濡れると見えない》

 巴は形の違う穴を四つ開けた。

 丸。

 三角。

 四角。

 二つ穴。

 同じ言葉へ直さず、互いを指せる。

 午前十一時二十八分。

 水科イオから、中央塔の技術資料が届いた。

 題名は、《決裁環反証解放手順》

 頁の半分が黒塗り。

 残った図には、中央塔の銀具と、各地の反証登録盤を結ぶ線が描かれている。

「破壊すれば止まる?」

 助手が聞く。

「止まりません」

 巴は図を読んだ。

「銀具は反証を溜める容器ではない。行先を決める分配器」

「壊したら」

「行先未設定の反証が、登録順へ戻る」

「誰に」

「過去に中央系統へ登録された能力者、元能力者、代替受領者」

「四十八人?」

「それだけではない。回収炉の四十八人は一系統。旧病院、訓練所、拘置所もある」

「人数は」

「黒塗り」

「迅へ、壊すなって」

「既に伝えます」

 巴は短文を送った。

《銀具を急破壊しない。固定解除後、地域別受領確認を待って段階返却。未処理反証は登録者へ戻る》

 迅から返事。

《外すのは》

《可。破壊不可。外した後も決裁環から離さない》

《冬城の腕ごと?》

 巴は一秒、考えた。

《本人を壊さない》

《分かってる》

《確認です》

《殴るなとは》

《言っていない》

 送ってから、巴は額へ左手を当てた。

 助手が言う。

「殴るの、許可したんですか」

「許可権はありません」

「止めなかった」

「物理的な中断が必要になる可能性を認めました」

「長い」

「短くすると、殴れになります」

「興行の題名みたい」

「字幕にはしないでください」

 壁一枚を隔てた放送所では、紅葉カナタが原稿を捨てていた。

 午後零時十九分。

 最初の原稿。

《天環の命運を懸けた最後の七日――》

 破棄。

 二枚目。

《今、九つの場所で英雄たちが――》

 破棄。

 三枚目。

《一つになれない街が、一つの未来を――》

 破棄。

「全部、うまい」

 乱馬が照明卓の後ろから言った。

「うまいから捨てる」

「捨てたことを褒められるぞ」

「それも嫌」

「面倒な役者だ」

「兄ちゃんが育てた」

「育てた責任と、育った責任は別だ」

「使える言葉」

「使うな。字幕になる」

 乱馬は録音拍手の入力端子を、赤い封印布で包んだ。

 視聴者数表示の導線も抜く。

 放送画面の右上には、普通なら数字が出る。

 今は空白。

「数字がないと、届いてるか分からない」

 技術員が言った。

「受領確認は地域ごとに取る」

 乱馬が答える。

「何人見たかは」

「必要なら放送後に監査。放送中は使わん」

「人気がないように見えます」

「人気が必要な内容じゃない」

 カナタは椅子へ座った。

 右足首を伸ばす。

 腫れは軽い。

 長く立てば痛む。

 以前なら、痛みを舞台袖へ置いて出た。

 今は、画面に入る椅子を選ぶ。

「座ると弱く見える?」

 乱馬が聞く。

「見える」

「立つか」

「座る」

「理由」

「痛い」

「もっと格好いい理由は」

「ない」

 乱馬はカメラの高さを下げた。

「顔を大きくするな」

「してない」

「今、二ミリ寄った」

「椅子の背が高い」

「切れ」

「備品だ」

「映像で切れ」

 技術員が画角を広げた。

 カナタの背後へ、三つの退出扉が入る。

 放送開始。

 午後一時ちょうど。

 カナタは笑わなかった。

「現在時刻、七月四日午後一時。順番は重要度ではなく、受領確認が済んだ順です」

 北部帰路。

「中央門は使用停止。西保守路で移動継続。移動五百六。到着四百二十一。保留六十三。中止二十二。負傷十九。通信断二時間十七分。中心交代一回」

 病院。

「患者ごとの停止条件を確認中。人数と病棟は非公開。中央停止時刻への同意はまだない」

 厨房。

「十二厨房は統一献立を拒否。配給二千五百三十一。未配給百九十四。第七厨房は中央塔への支援を拒否し、地域幼児食を優先。理由と在庫を公開」

 剛嶺。

「代表委任、未成立。統一協定への回答、未回答」

 水上。

「同じ削減率を拒否。上流、下流、商船、病院の本文は別。通行と医療水を止めない条件を協議中」

 記憶庫。

「所有者拒否の記憶は提出しない。空白の旗側の要請も拒否」

 カナタは一度、原稿から目を上げた。

「ここまでの内容は、互いに矛盾しています。矛盾しているため、中央は一つの賛否へ変換できません。矛盾が正しいという意味ではありません。誰が何を拒否したかを、拒否したまま伝えています」

 視聴者数は出ない。

 拍手もない。

 受領灯が、地域ごとに点く。

 第一厨房。

 北部路。

 病院。

 水上はまだ。

 カナタは待たず、次へ進まない。

 沈黙。

 二十二秒後、水上受領。

「水上、受領確認」

 放送は続いた。

 午後一時十六分。

 放送所の外扉が同時に閉じた。

 三つの退出扉。

 赤い施錠灯。

 技術員が立ち上がる。

「中央非常封鎖です」

「火災?」

「火災信号なし。放送妨害認定」

 カナタの声が一瞬止まった。

 放送中だ。

 画面には、退出扉が映っている。

「現在、放送所の三出口が中央非常封鎖されました」

 隠さない。

「放送は継続します。退出を希望する人は、今、希望を示してください」

 技術員二人が手を挙げた。

 乱馬は挙げない。

「退出経路がない」

 技術員が言う。

「作る」

 乱馬が照明卓の下へ潜った。

「兄ちゃん」

「放送続けろ」

「何をする」

「舞台の非常幕は、閉じるだけじゃない」

 放送所は旧劇場の一部を転用している。

 壁の裏に、幕を逃がす重量路がある。

 乱馬は床板を二枚外した。

 左肩に古い痛みが走り、顔が歪む。

「持つ」

 カナタが立とうとする。

「座れ」

「兄ちゃんの肩」

「おまえの足」

「二人とも痛いなら」

 技術員が間へ入った。

「私が持ちます」

 乱馬は一瞬、手を離せなかった。

 自分の舞台装置を、他人へ渡す癖がない。

「荷重、十八キロ」

 技術員が言う。

「知ってる」

「じゃあ渡してください」

 乱馬は渡した。

 床下の重量路を開く。

 狭い。

 高さ九十センチ。

 退出希望の二人が這って入る。

 外へ出られる保証はない。

「受取先」

 カナタが放送中に聞く。

「平文室の裏廊下」

 巴の助手が壁越しに答えた。

「受入れ確認」

「二人。這行可。負傷なし。途中撤回可」

「目的」

「退出」

 能力は使わない。

 技術員二人は普通に這って、放送所を出た。

 その間、中央回線が放送へ割り込んだ。

《当放送は一部地域の未確認情報を含む》

 カナタは原稿を置いた。

「中央から訂正が入りました。未確認情報があるとのことです。項目名を求めます」

《統一性を欠く情報は、住民の混乱を招く》

「項目名を」

《中央継続席の説明を受けてください》

「誰が話す」

《中央》

「人の名前を」

 返事の代わりに、録音拍手が流れた。

 大きい。

 客席四千人分。

 抜いたはずの入力端子ではない。

 中央回線へ組み込まれた音だ。

 画面右上へ、視聴者数が表示される。

《一八四、二〇七》

 数字が秒ごとに増える。

 カナタの背筋が、反射的に伸びた。

 拍手が来ると、声が舞台の高さへ上がる。

 次の三動作を予告したくなる。

 誓痕が、古い傷の奥で反応する。

 予告拍手〈コール・アンド・クラップ〉

 使えば、放送を奪い返せる。

 観客が覚えて待つほど、言葉と動作は正確になる。

 ただし、録音拍手の向こうに、誰がいるか分からない。

 カナタは息を吸った。

「次は――」

 口癖が出る。

 そこで止めた。

 乱馬が床下から叫ぶ。

「言うな!」

「分かってる」

「分かってない声だ!」

「兄ちゃんの声もうるさい!」

 カナタは画面右上の数字を、自分の手で覆った。

「現在、録音拍手と視聴者数表示が中央回線から挿入されています。こちらでは正当性の根拠に使いません」

 拍手は続く。

「放送を見ている人へ。拍手しなくていい。退出していい。聞いていないことも回答です。ただし、退出した人数を賛成や反対へ換算しません」

 カナタの声は舞台語ではなかった。

 少し息が上がっている。

 右足首が痛む。

 椅子へ座り直す音も入った。

「北部路の報告を、もう一度読みません。繰り返すと、ほかの地域より重要に見えるからです。次は、平文室の現在状態」

 巴の音声が入る。

「中央案のまとめ押印を停止しました。協定内容を決めたのではありません。説明済み、理解済み、受領済み、継続同意を一度に処理できないようにしました。右手の痛みが増悪したため、現在、筆記を交代しています」

 録音拍手の音量が上がる。

 乱馬が床下の配線を追う。

「中央線、切るぞ」

「全部切ったら受領確認が」

「拍手線だけ探す」

「何秒」

「分からん」

「分からないって放送する」

「するな」

「もうした」

 乱馬が舌打ちした。

 舞台袖なら、進行不能を観客へ見せない。

 今日は、隠した進行を正当性にしない。

 床下で、二本の同じ灰色線が交差している。

 一つは受領確認。

 一つは録音拍手。

 印字が消されている。

 乱馬は耳を当てない。

 拍手の振動は両方へ伝わる。

「技術員」

 平文室へ出た二人へ連絡する。

「外側の分配盤、三番と四番。どっちが受領」

《番号が削られてます》

「線を引け」

《一本ずつ?》

「一本ずつ。切るな」

 外から線が引かれる。

 床下で、片方がわずかに動く。

 乱馬は赤布を結ぶ。

 もう一本。

 青布。

「受領試験」

 カナタが言う。

「水上、聞こえたら、返事を一度」

 二秒。

 低い水音が一回。

 青布が震えた。

「青が受領」

 乱馬は赤布の線を抜いた。

 録音拍手が途切れた。

 視聴者数表示も消える。

 静けさ。

 その静けさへ、誰も拍手を足さなかった。

 午後一時二十九分。

 退出扉の封鎖は続いている。

 放送は、床下の重量路を退出路として継続した。

 全員が残ったわけではない。

 技術員二人。

 清掃員一人。

 放送補助一人。

 四人が退出した。

 カナタは人数を読み上げた。

「退出四。放送継続七。退出理由は、閉鎖への不安三、家族確認一。賛否には換算しません」

 中央回線が、最後に文字を出した。

《空白の旗側は内部でも意見不一致》

 カナタは読んだ。

「はい。不一致です」

 乱馬が床下から顔を出した。