第592話 第六章「平文室と放送所」後編
「否定しないのか」
「事実」
「宣伝に使われるぞ」
「宣伝のために事実を変えたら、兄ちゃんの仕事になる」
「俺の仕事を悪の単位にするな」
「責任の単位」
乱馬は反論しなかった。
放送終了は午後二時〇二分。
拍手なし。
視聴者数なし。
最終字幕なし。
最後に映したのは、五枚の条件札だった。
番号はない。
順番も固定されていない。
本人確認。
拒否窓口。
期限。
異議受領。
再交渉日。
カナタは説明した。
「これは同じ答えではありません。違う答えを、違うまま次に開けるための最低条件案です。まだ成立していません」
その下へ、巴が左手で一行を書いた。
《読めた者だけが効くのではない。読めなかったと伝えられる窓口を残す》
放送終了から十二分後、平文室の前へ十四人が来た。
放送を見て来た者、途中で退出した者、見ていない者が混じっている。
最初に入った男は、中央継続局の新しい説明札を持っていた。
《五つの安心》
本人確認。
相談窓口。
有効期間。
ご意見受付。
見直し予定。
「同じ五つですね」
助手が言った。
「似ている」
巴は左手で札を裏返した。
裏面の下端に、小さな文字。
《説明後二十四時間以内に拒否がない場合、継続への暫定同意として扱う》
「拒否窓口があるのに、行かなければ同意」
カナタが隣室から顔を出した。
「相談と拒否も違うね」
「言葉を柔らかくして、効力を硬くした」
巴は札の作成者欄を探した。
中央継続局広報班。
個人名なし。
「これ、放送で訂正する?」
カナタが聞く。
「訂正ではありません。中央側の別案です」
「危険だって」
「言う。だが、私たちの五条件が唯一の正しい意味だとは言わない」
十四人のうち、一人が椅子へ座らなかった。
石工の女。
耳が聞こえない。
手話通訳を拒んだ。
代わりに、袋から五つの小石を出す。
白。
黒。
灰。
赤。
穴の開いた青。
巴は紙へ書いた。
《あなたの本人確認方法》
女は白い石を胸へ当てた。
《公開名は?》
黒い石を伏せる。
名を出さない。
《拒否》
赤い石を机の外へ置く。
《期限》
灰色の石を、窓から入る陽の境目へ置く。
《再交渉》
穴の開いた青い石へ紐を通し、もう一度ほどく。
助手が困った顔をした。
「自分の言葉か手話で説明できていません」
巴の能力条件を、普通の手続きへ持ち込もうとしたのだ。
「能力は終わっています」
巴が言う。
「でも理解確認は」
「言葉と手話だけにしたら、この人の石を私たちが無効にする」
「石の意味を、誰が確認するんです」
女は、白い石を自分へ、赤を出口へ、灰を時計へ、青を巴と自分の間へ置いた。
同じ動作を二度繰り返す。
巴は一つずつ紙へ書いた。
《本人確認――白石を本人が保持》
《公開名――不要》
《拒否――赤石を窓口外へ》
《期限――日光線では不正確。別方法が必要》
《異議受領――青石を相手へ渡し、受領後に返却》
《再交渉――青石の紐をほどき直す》
女は期限の欄だけ首を振った。
腕へ巻いた布を外す。
内側に、七つの結び目がある。
一日一つ解く。
最後の結び目で失効。
「期限七日」
巴が書く。
女は白石を一度叩いた。
「理解した、でいい?」
助手が聞く。
女は首を振る。
巴は書き直した。
《本人が、自分の方法で条件を再現した》
女は白石を二度叩いた。
「理解を、こちらが認定しない」
カナタが言う。
「でも、間違ってたら」
「異議を受ける」
「間違いが命に関わったら」
「説明者の責任も残る」
巴は自分の名前を書いた。
平文は、読みやすくした人を無罪にしない。
次に、放送を途中退出した少年が入った。
「見なかったから、反対?」
「反対に数えません」
カナタが答える。
「でも、見てない人の意見は弱い?」
「弱くしない」
「全部見た人より?」
「放送を見た長さと、生活の重さを交換しない」
「じゃあ、見る意味ない」
「情報を受け取る意味はある。支持になる意味はない」
少年は中央の説明札を出した。
「こっちは、見なかったら二十四時間後に賛成だって」
「それを選ぶこともできる」
「どっちが正しい」
カナタは答えようとして止まった。
舞台なら、迷わない台詞を言う。
迷いを見せると客が不安になる。
今は客ではない。
「僕は、返事をしない人を賛成に入れる放送は作りたくない」
「僕は、どっちを選べばいい」
「それを僕が言ったら、今の答えと矛盾する」
「役に立たないね」
「うん」
カナタは受け入れた。
「でも、分からないって書く手伝いはできる」
少年は《保留》を選んだ。
理由欄へ、《どちらも役に立たない》と書いた。
乱馬が覗き込み、言った。
「正直でいい」
「兄ちゃんは、どっち」
「拍手を使った側」
「今は」
「使わない側」
「変わった?」
「変えた。昔の分は消えてない」
少年は乱馬の顔を見た。
「悪い人?」
「便利な聞き方だな」
「答えは」
「悪いことをした人。今も、しないとは保証できん」
「じゃあ見張る」
「賃金を払え」
午後三時〇一分。
中央継続局の職員が、録音拍手線の返却を求めて来た。
「中央設備です」
「証拠保全中」
乱馬が透明袋を見せる。
「不正に抜線した」
「挿した記録を出せ」
「返却後に監査します」
「返したら、なくなる」
「中央を信用しないのですか」
「してない。自分もしてない」
職員は袋へ手を伸ばした。
乱馬は奪い返さず、机の上へ置いたまま両端を押さえた。
「持っていくなら受領票」
「設備返却に不要です」
「いつ、誰が、どこへ、何のために持つ」
「中央保守」
「名前」
職員は黙る。
カナタが放送機を起動しようとした。
乱馬が止める。
「生中継するな」
「隠す?」
「職員の顔を見世物にするな。机と線だけ記録」
七瀬の固定機がない。
平文室の助手が、紙へ時刻を書く。
職員は最終的に名を出した。
返却先は中央保守第六室。
目的は導線監査。
期限は七月八日正午。
異議窓口は中央保守監査。
再確認は七月八日午後一時。
五条件が揃った。
それでも乱馬は線を渡さなかった。
「何で」
「写しがない」
導線の両端、封印状態、断線なしを、三者で確認する。
透明袋へ新しい封印。
一つは中央職員。
一つは放送所。
一つは平文室。
ようやく返却した。
「五つ揃えば、何でも成立するわけじゃないんですね」
助手が言った。
「最低条件」
巴が答える。
「入口が開くだけ。中で何を受け渡すかは別」
右手の冷却材が温くなっていた。
巴は自分で替えず、助手へ頼んだ。
その依頼も記録しなかった。
すべての生活を台帳にすると、台帳が生活の許可証になる。
放送が切れた後、乱馬は録音拍手の赤い線を机へ置いた。
切断しない。
いつ、誰が、どの回線から挿したかを調べるため、両端を封印する。
「捨てないの」
カナタが聞いた。
「証拠だ」
「拍手なのに」
「音は悪くない。使ったやつがいる」
「兄ちゃんも使ってた」
「知ってる」
「責任、消えない?」
「消す気なら、もっと格好よく切る」
乱馬は赤い線を透明袋へ入れた。
隣の平文室では、巴の右手から固定布が外され、冷却材へ替えられていた。
五枚の札は、円のまま机にある。
誰も中央の一枚へ綴じなかった。