第587話 第四章「北部撤退路」前編
七月三日 午前五時三十八分
北へ行く人は、北を見ていなかった。
全員、足元の白線を見ていた。
中央の古い誘導線。
幅十二センチ。
四列。
白線の先には、閉じた照合門がある。
門の上の表示は、《中央認証待機》のまま止まっていた。
「白線から出て」
風祭澪が言った。
列は動かない。
「聞こえてない?」
南野が受領台から聞いた。
「聞こえてる。従う理由がない」
澪は右耳へ手を当てなかった。
聞こえない音を探す動作をすると、周囲は声量を上げる。
声量が上がると、言葉の違いが消える。
彼女は青い色板を頭上へ上げた。
《移動準備》
若い隊員が、同じ板を五十メートル先で掲げる。
列の前にいた女性が言った。
「中央から、白線で待てと来た」
「誰の通知」
「画面に出た」
「名前は」
「中央」
「人の名前」
「知らない」
「待つ期限」
「七月七日まで」
「四日ここに立つ?」
女性は答えなかった。
後ろから男が叫ぶ。
「先に動いたら配給が止まる!」
「待っても止まる」
澪が返した。
「じゃあどうしろっていうんだ!」
「どこへ行きたい」
「北の配給所!」
「北配給所は今日、受入れ百八十。今いるのは三百二十七」
「早い者勝ちか!」
「違う。受入れ先を分ける」
「中央の札なら全部通る!」
「七日から通らない。今通っても、着いた先に食料がなければ札は食べられない」
澪は白線の外へ、三色の布を置いた。
青――北配給所。
黄――旧工場宿舎。
白――行先保留。
「行先を決めた人だけ布の前へ。決めない人は白。中央の札は確認資料には使う。命令には使わない」
列はまだ崩れない。
白線に並んでいる限り、何かに従っている安心がある。
線から出ると、自分で行先を選んだ責任が生まれる。
責任は、足の裏から重くなる。
午前五時四十五分。
澪の腰の通信板が震えた。
迅からの短文。
《中央塔の反証経路確認まで、北部の大規模移動を六時間保留できるか》
澪は読んだ。
返信欄へ書く。
《できない》
理由。
《現在三百二十七。午前八時予測五百十。待機域安全上限四百。雨予報。照合門前に幼児十一、酸素使用二、車椅子七》
送信。
十七秒後。
《中央停止と同時に門が誤作動する可能性》
《だから先に門を使わない経路を開く》
《反証の登録者が北部へ含まれる》
《登録者を理由に全員を止めない。医療確認を分ける》
《了解。必要なら呼べ》
澪は少しだけ眉を上げた。
迅は、自分の案を拒否された時、二度目の命令へ言い換えない。
以前は違った。
以前の迅は、命令を嫌うあまり、拒否された後に無言で先回りした。
今は、呼ばれるまで来ない。
それは成長というより、足止めを覚えたのだと澪は考えている。
人は、前へ進むより、他人の前へ出ない方が難しいことがある。
「開く」
澪は言った。
南野が受領台の横から顔を出した。
「中央の門を?」
「使わない」
「西保守路」
「幅二・四。車椅子は交互。傾斜六度。雨で八度相当」
「運転車は」
「入れない」
「じゃあ俺の出番は」
「受領」
「一番向いてない仕事を固定されたな」
「車を降りても必要とされたいって言った」
「誰に」
「台帳に」
「台帳は口が軽い」
南野は額の古い縫合痕を指で掻いた。
運転へ復帰している。
ただし、その朝はハンドルを握らない。
北保守路に車両が入れないからではない。
受領台で、行先変更を記録できる人間が足りなかった。
「名前、全部取る?」
「公開名は取らない。行先、受取先、戻る予定、医療支援だけ」
「戻らない人は」
「戻らないと書く」
「帰路班なのに?」
「帰る場所をこちらが決める班じゃない」
「名前が詐欺だな」
「仕事の名前は、だいたい半分だけ本当」
六時〇二分。
澪は隊員を集めた。
十二人。
最年少は十六歳。
最年長は南野だが、受領台へ残る。
笛を持つ隊員は、澪を含めて四人。
澪は自分の銀笛を外した。
若い隊員へ渡す。
「今日、中心をやって」
隊員の顔が固まった。
「私が?」
「復唱」
「進行、一短音。停止、二短音。帰還、一長音」
「高音は使わない」
「澪さんの耳のため?」
「私だけじゃない。高音が聞こえない人は十七人確認済み。低音笛と色板、足板の振動を併用」
「中心は、澪さんが」
「今日はあなた」
「でも能力は」
「私にある。中心はあなた」
「矛盾してます」
「してない。能力を使う時も、命令を出すのは現場の中心。私は条件を確認する」
澪は右耳を指した。
「高い笛は欠ける。人が多いと、右からの声を左の声と取り違える。昨日まで隠してない。でも、知ってるのと、任せるのは別だった」
隊員が笛を握った。
「怖いです」
「何が」
「間違えるのが」
「間違える」
即答した。
「じゃあ」
「変更を言う。変更理由を残す。間違えない中心はいない」
「澪さんは」
「何度も間違えた。帰還笛を早く吹いて、患者を揺らした。搬送を続けて、病院の人手を奪った。自分の耳を知ってる人にしか位置取りを頼まなかった」
「最後のは、事故になってない」
「事故にならなかった失敗もある」
若い隊員は笛を首へ掛けた。
「指示をください」
「最初の指示。私に聞きすぎない」
「難しいです」
「中心の仕事は、難しいと言えること」
澪は三歩下がった。
笛の中心から外れる。
代わりに、帰還確認台へ立った。
六時十三分。
青板が上がる。
低い一短音。
白線の外へ、最初の女性が出た。
北配給所の青布へ。
続いて三人。
黄布へ七人。
白の保留へ、一人の少年。
列が少しずつほどける。
そこへ、中央照合門が突然開いた。
誰も操作していない。
表示が、《認証済み》へ変わる。
白線に並んでいた人々が、前へ動いた。
「停止!」
若い隊員が二短音を吹く。
聞こえた者は止まった。
聞こえなかった者、聞いても中央門を信じた者、後ろから押された者は進む。
四列が、幅一・六メートルの門へ一斉に縮んだ。
圧力は後ろから来る。
最前列の女性の肩が門柱へ当たる。
子どもが足を浮かせる。
車椅子の右輪が白線の縁へ乗り上げた。
「赤板!」
澪は叫んだ。
若い隊員が赤板を上げる。
見えない。
人の背中で隠れる。
「足板、停止!」
隊員が床の振動盤を踏む。
二回。
ドン、ドン。
足裏へ届く。
それでも、前列は止まれない。
後ろの力が残っている。
澪は笛を取らなかった。
中心は若い隊員だ。
代わりに、門の脇へ走った。
右耳側から「子ども」と声が飛ぶ。
聞き取れない。
左へ顔を向ける。
南野が受領台の上へ立ち、黄色い板を振っていた。
《中央門を使わない》
澪は門の非常閉鎖レバーへ手を伸ばした。
閉じれば、最前列を挟む。
開いたままでは、狭窄へ人が流れ続ける。
「中心!」
若い隊員を呼ぶ。
「進行、停止、帰還の意味を復唱させて!」
隊員は一瞬、澪を見た。
笛を口へ当てる。
低い声で叫ぶ。
「一短音、進行! 二短音、停止! 一長音、帰還! 聞こえた人、言って!」
近くの隊員が復唱する。
「進行、停止、帰還!」
列の人々も、ばらばらに繰り返す。
「進行、停止、帰還!」
意味が共有される。
若い隊員が、二短音を吹いた。
澪の胸元に、三本の淡い線が灯る。
三声帰路〈スリー・コールズ〉。
進行、停止、帰還。
三つを自分の言葉で復唱した者だけが、一呼吸の間、同じ停止を選べる。
能力は、押す力を消さない。
足を止める。
身体の向きをそろえる。
次の一歩を出さない。
それだけだ。
一呼吸。
四百人近い群れのうち、意味を復唱した百三十九人が止まる。
後ろの圧力が一瞬だけ薄くなる。
「車椅子、左へ!」
澪が叫ぶ。
隊員二人が右輪を白線から下ろす。
「子ども、頭を上げない!」
母親が自分の胸へ引き寄せる。
「門脇の十二人、後退じゃない、横へ!」
横の余地へ流す。
若い隊員が赤板を頭上ではなく、地面へ水平に出した。
背中の隙間から見える。
正しい。
澪は言わない。
今は褒めるより、次の変更を伝える。
「中央門、閉じない! 西保守路へ案内!」
「白線を切ります!」
若い隊員が答えた。
「誰が」
「私が責任者!」
隊員は白線の上へ、黒い布を三枚置いた。
中央の線が途中で途切れる。
人々は初めて、線の外へ出る理由を目で見た。
三分四十秒後。
門前の圧縮は解けた。
倒れた人、十九。
救護必要、七。
骨折疑い、一。
意識消失、〇。
仮設の観察台から、白い杖が二度、床を叩いた。
八城レムだった。
右膝には、黒い装具。
前十字靱帯の手術から七か月。歩ける。長く立てる。走らない。急な方向転換をしない。
以前なら、群衆の初動を八拍で数え、次の動きを先に言った。
今日は、数えかけた指を三本で止めた。
「同じ歩幅を作らないでください」
若い中心隊員が振り返る。
「止めるには、そろえるしかない」
「一呼吸は。次からは違います」
レムは観察台を降りなかった。
降りれば、誰かより早く正しい位置へ入りたくなる。
右膝も、それを許さない。
「車椅子は一・一メートル。荷車は一・四。杖の人は、止まった後の再発進が遅い。三つの再開印を分けて」
「色?」
「色だけでは見えない人がいます。板の形も」
レムは白墨を投げようとし、やめた。
右膝を捻る動作になる。
「取ってください」
近くの隊員へ頼んだ。
隊員が墨を拾う。
丸、三角、横棒。
歩行。
車椅子。
荷車。
床へ三種類の再開印が描かれた。
「八拍じゃないのか」
迅の通信音声が聞いた。
「八拍にすると、私が一番分かります」
「悪い?」
「今日は、私が一番分かる必要がない」
レムは右膝の固定帯を一段緩めた。
腫れが増している。
「十五分休む」
「まだ事故解析が」
「続ける人を三人決めた。私は十五分後に、三人の記録を読む」
膝装具は、英雄の傷ではない。
仕事を人へ渡す時刻を、本人より先に知らせる道具だった。
中央照合門は、開いたまま誰も通らなかった。
表示だけが、《認証済み》と光っている。
「誰が開けた」
南野が聞く。
「中央の自動時刻」
隊員が端末を見た。
「六時十五分に、試験開放が設定されてた」
「通知は」
「ない」
「中央は、待てと言って門を開けた」
南野が笑わずに言った。
「命令と設備が喧嘩してる。どっちも名前がない」
澪は中央へ事故報告を送った。
《試験開放により圧縮。北部は中央門を使用停止。西保守路を開始》
迅から返信。
《了解。止めた人の名前を残して》
澪は若い隊員を見た。
「公開名は」
「出します」
「能力を使った私の名前も出る」
「はい」
「命令変更はあなた」
「はい」
「負傷者の責任を一人で取ると言わない」
「……はい」
「今のは理解?」
「真琴さん、嫌われますよ」
「もう嫌われてる」
澪は銀笛を返してもらわなかった。
若い隊員の首へ残した。
午前七時四十二分。
西保守路の移動が始まる。
幅二・四メートル。
片側は古い排水溝。
もう片側は高さ一・二メートルの擁壁。
車椅子一台と歩行者二列が限界。
中央の四列より少ない。
速度も遅い。
しかし、途中に三つの横道がある。
北配給所。
旧工場宿舎。
保留受領所。
戻る道も一本残る。
「厨房の食事、何人分」
澪が通信した。
小麦の返事は数字だった。
《現時点で二百四十。八時半に+九十。北配給所へ百二十、工場宿舎へ百、保留へ二十。乳児食十一、糖尿病食七、嚥下調整四》
「移動見込み三百八十九」
《全員へ持たせない》
「足りない」
《食事済みを分けて》
「確認に時間」
《空腹を均等にしない》
「能力は」
《使わない》
「同じ釜なら」
《疲労も空腹も均等になる。今、妊婦と運搬係と待機者の必要量が違う》
「分かった。受取時刻を」
《厨房ごとに違う》
「一番早い」
《七時五十八分》
「あと十六分」
《南野へ言って。空車で来るな》
「車は入れない」
《じゃあ荷車。帰りに空容器を返す》
「了解」
七時五十一分。
通信が切れた。
中央の回線だけではない。
北部路と厨房を結ぶ地域線が、急に無音になった。
再接続。
失敗。
別周波数。
雑音。
隊員が言う。
「中継塔の電力が落ちてます」
「中央へ照会」
「中央互換が応答しません」
澪は時計を見た。
食事は七分後。
人数変更を送れない。
中央がなければ、全体が止まる。
冬城の言葉が、頭の中で正しい形を取ろうとする。
澪はその正しさを否定しなかった。
「走者」
三人が手を挙げる。
「一人。残りは路へ」
「一人で足りますか」
「足りなければ二人目を出す。最初から三人を消さない」
南野が受領台の下から古い道路標識を出した。
黄色い菱形。
「厨房との約束、手で書く?」
「人数、経路、変更時刻」
「雨が降る」
「裏へ油紙」
澪は標識の裏へ書いた。
《七時五十五分現在》
《北配給所百三十一》
《工場宿舎百十八》
《保留四十七》
《食事済み九十三》
《乳児食十一、糖尿病食七、嚥下四》
《通信断。次回確認、受領時》
「送り主」
走者が聞く。
「北部路、風祭澪。数字確認、南野。運ぶ目的、厨房配分変更」
「受取人」
「土門小麦か、各厨房の受領係。小麦だけに限定しない」
「期限」
「八時十二分。過ぎたら、古い数字として渡す」
走者は標識を背負った。
能力は使わない。
普通に走る。
七瀬の記録室へも、同じ通信断が届いた。
しかし北部路は止まらなかった。
色板。
足板。
笛。
走者。
紙。
遅い。
重い。
人が疲れる。
中央回線より劣る部分が、いくつもある。
それでも、一つ切れたから全部が止まることはなかった。
八時〇五分。
最初の荷車が保守路へ入った。
湯気の立つ豆と麦の包み。
水筒。
空容器を返すための折り畳み箱。
荷車の前に、厨房の札が付いている。
《第一厨房――北配給所のみ》
《第三厨房――工場宿舎》
《第六厨房――保留者優先》
同じ献立ではない。
同じ量でもない。