第287話 第十章「殿」前編

五月三十日 午後五時四十分

 最後の門には、最後まで残りたい人間が集まる。

 獅堂凱は、それを勇気だと思っていた。

 今は、時間を守れない理由にもなると知っている。

 青石台の下段門は、石壁の間へ鉄扉を二枚差しただけのものだ。門と呼ぶには低く、砦と呼ぶには薄い。

 それでも、門の内側に立つと人は守られている気がする。

 門の外に立つと、追い出された気がする。

 構造より、立つ場所が意味を作る。

「西第三隊、最終尾が第二曲路を通過」

 真壁梓が報告した。

 右手首の時計、十七時四十一分。

 左手首は二分三十七秒遅い。

「南七十五、受入点の確認は」

 凱。

「七十二。残り三は梯子上」

「北六十四」

「受領済み。ただし一名、重傷で受入先変更。本人確認、医療確認、受入確認は済んでいる」

「帰還名簿の空欄」

「十八」

「多い」

「最後の警備・橋守・伝令を含みます」

 凱は門の外を見た。

 追撃隊の先頭は、下の舗装路へ現れている。

 車両二。

 徒歩十八前後。

 旗はない。

 腕章もない。

 所属を消すことで、命令者を消す。

 しかし、武器は消えていない。

「障害」

 伏見轟が門の横で鉄鎖を締めた。

「第一、車止め。第二、門扉の斜め固定。第三、崩れ石。全部、外す順を記録した」

「何分」

「知らん者で十二。壊せば五」

「壊される」

「壊す場所を選ばせる」

「どういう意味だ」

「門柱は残す。交換できる木栓を目立たせた。急ぐ者はそこを打つ」

「罠か」

「壊しても人へ落ちん。構造の誘導だ」

「敵へ選択肢を与える」

「壊す自由まで奪えん」

 轟は左肩を上げず、右手で最後のピンを差した。

「俺の離脱時刻は、十八時十分」

「早い」

 凱。

「俺が残れば、門を使う」

「俺が使う」

「左膝で?」

「膝は門を持たない」

「体はつながっとる」

「知っている」

「知っとる人間の立ち方じゃない」

 凱は左膝を伸ばした。

 装具の内側で、熱が始まっている。

 痛みは三。

 まだ、走れる。

 走れることと、走ってよいことは違う。

「迅は」

「最後の受領札へ回した」

 真壁。

「本当に殿へ戻さない?」

「戻しません」

「敵の数が増えたら」

「増えます」

「その答えは」

「予測です。固定命令網の目的は門を取ることだけではない。撤退の最後で、署名者と受領札を分断すること。迅をここへ置けば、札が薄くなる」

「俺をここへ置く理由は」

「あなたが自分で希望した」

「止めなかった」

「止める条件が揃っていなかった」

「今は」

「十七時五十八分に退却命令を出します」

「俺がまだ必要でも」

「必要だから、時刻を守らせる」

 真壁は命令書の写しを胸ポケットへ入れた。

「私はあなたの王ではありません」

「知っている」

「あなたは私の王でもない」

「それも知っている」

「なら、現地指揮責任者の署名を読めます」

「読める」

「従えますか」

 凱は、すぐに答えなかった。

 轟が門柱へ耳を当てる。

「車、一台加速」

 質問の時間が終わった。

 午後五時四十四分。

 殿の十七人は、一か所へ集められていない。

 北二。

 西八。

 南七。

 最後の門にいるのは西の八人と、交代を確認する真壁、障害を調整する轟、離脱時刻を監査する二人だけだった。

「十八人いる」

 凱が数えた。

 門内の石壁へ、もう三人が立っている。

 旧白冠の兵だった者たち。

「名簿には入っています」

 真壁。

「殿ではない」

「本人たちは残ると言っています」

「理由」

 凱は三人へ向いた。

 一人目が胸を張る。

「王を一人にしない」

「不採用」

 言い切ると、男の顔が赤くなった。

「なぜです」

「私を一人にしないことは撤退目的ではない」

「なら、門を守る」

「担当は八人」

「増えれば長く持つ」

「帰還確認が増える」

「たった三人です」

「三人の受領札、介助、負傷時の搬送、交代判断が増える」

「俺たちは兵です」

「今は何を担当している」

 男は詰まった。

「西第二隊の荷締め補助」

「荷締めは終わったか」

「はい」

「次の仕事」

「受入点の屋根布設置」

「終わっていない」

「他の者が」

「あなたの署名は」

「俺です」

「なら戻れ」

 二人目は反論した。

「陛下が最後に残るなら、我々が先に戻るのは恥です」

「陛下と呼ぶな」

「凱様」

「様も要らない」

「では凱。あなたが残るなら」

「私は遅滞担当へ署名した。あなたは屋根布へ署名した」

「仕事の重さが違う」

「濡れる百七十三人の前で言えるか」

 男は口を閉じた。

 三人目は、何も言わず門の外を見ていた。

「あなたは」

 凱。

「怖い」

「何が」

「戻った後、逃げたと言われること」

「誰に」

「残った人に」

「残る人は、命令違反になる」

「それでも、門にいれば戦ったことになる」

「屋根布を張っても戦ったことになる」

「見えない」

「見えない仕事は負けか」

「そう思っていた」

 男は過去形で言った。

 凱は拡声器を取らなかった。

 この三人だけに届く声で言う。

「私もそう思っていた。だから、退けなかった」

「今は違う?」

「違うと言いたい」

「言いたいだけ」

「そうだ」

「じゃあ、証明して」

「どうやって」

「俺たちより先に退いて」

 真壁が時計を見る。

「それは命令時刻で行います。今、三人は西受入点へ」

 三人目が凱を見た。

「退きますか」

「現地指揮が命令したら」

「王だからじゃなく」

「担当だから」

 三人は走らなかった。

 屋根布の受入札を持ち、石壁から離れる。

 門に残る人数は、予定どおりへ戻った。

 戦う人数を減らしたことで、後ろの屋根が三人ぶん早く張られる。

 時間は門だけで稼ぐものではない。

 第一車両は、車止めへ正面から来た。

 運転手は止まらない。

 鉄板で覆った車首が、木製の斜材へぶつかる。

 衝撃。

 門柱の粉が落ちる。

「柱、無事!」

 轟。

 木栓が一本割れた。

 交換できる場所。

 車体が斜めに止まり、後続の徒歩隊が左右へ散る。

 凱は門の外へ出ない。

 内側の狭い区間へ、相手を一人ずつ入れる。

 最初の兵は長棒。

 凱の左膝を狙う。

 合理的だ。

 知られた弱点を使わない戦場はない。

 凱は左足を引かず、右足を半歩前へ置いた。棒を黒手袋で受けるのではなく、前腕の外側へ滑らせる。相手の肩が開く。

 右掌を胸へ当てる。

 押す。

 倒さない。

 門外へ戻す。

 二人目が横から入る。

 轟が木栓抜きの長柄を足元へ置く。相手は跳ぶ。跳んだ体は、空中で方向を変えられない。

 凱は腰へ手を当て、回転だけ加える。

 石壁ではなく、濡れた土へ落とす。

「丁寧だな!」

 相手が吐き捨てる。

「門を壊したくない」

「俺の心配じゃないのか」

「あなたの頭も壊したくない」

「王様らしい!」

「王ではない」

 三人目の拳が来る。

 凱は主語を訂正した一拍ぶん、遅れた。

 頬へ当たる。

 口内に血の味。

 返す拳は、相手の顎ではなく肩へ入れた。

 動きを止める。

 勝つためではなく、門の中へ二人を入れないため。

 後ろで真壁が時刻を読む。

「十七時四十八分。西受領、百七十三のうち百六十六」

「残り七」

 凱。

「伝令含む」

「南」

「七十五、全員受領」

「北」

「六十四、全員受領」

「門内残留」

「十一」

 数字が減る。

 敵は増える。

 守るという動詞は、人数が減るほど美しく見える。

 それが危険だった。

 午後五時五十二分。

 二台目の車両は、門へ突っ込まなかった。

 最初の車を盾にし、その後ろから鉄索を投げる。

 鉤が、門扉を斜めに固定している交換木栓へ掛かった。

「引くぞ!」

 追撃側の声。

 車両が後退する。

 門扉を倒すのではない。

 壊してよい場所を見抜き、そこだけを抜く。

「二番へ荷重!」

 轟。

 門守が予備楔を持って走る。

「入れるな!」

 轟の声が、凱より先に届いた。

 今、楔を足せば、扉は持つ。

 同時に、離脱する人の幅が二十センチ狭くなる。

 門守は楔を止めた。

 鉄索が張る。

 交換木栓が抜けた。

 木が裂ける。

 受け板が跳ねる。

 門守は右へ避けた。

 だが、抜けた交換木栓の受け板が回転し、右下腿を門柱との間へ挟んだ。

 布が切れる。

 血が石へ落ちる。

 脛の中央に白いものが見えた。

「歩ける!」

 本人が先に言い、立とうとして膝から崩れた。

「言う前に確認!」

 真壁梓が応じる。

「意識あり! 右下腿開放骨折疑い。荷重禁止、止血、固定。殿を外す。搬送二名!」

「二人も減る!」

「立てる人を全部、立たせておく命令ではない」

 真壁は右時計を読む。

「十七時五十三分。門守一名、重傷。右下腿開放骨折疑い。交代は入れない。搬送担当二名は百メートル線で引き渡し後、そのまま離脱」

「一人減る!」

「減らす」

 凱が答えた。

 追撃兵二人が、広がった通路へ入る。

 一人目は負傷した門守を狙う。

 弱い所を突く、合理的な動き。

 凱は間へ入らない。

 入れば、自分が最後の壁になる。

 代わりに、門扉を右掌で押した。

 固定を失った扉が、十五センチだけ内側へ回る。

 追撃兵の肩が扉面へ当たる。

 凱は押しつぶさない。

 扉と門柱の間に、人の胸幅を残す。

「そこは交換できる」

 轟が言った。

「人はできん」

 二人目が短棒を振る。

 凱は黒手袋で柄を受け、手首を返さず下へ流す。

 棒の先が交換木栓の穴へ入る。

 抜こうとした相手の姿勢が止まった。

「武器を置け」

 凱。

「命令か!」

「通路を出る条件だ」

「王が逃げ道を売るのか!」

「王ではない」

「なら何だ!」

「今は、十八時に退く者だ」

 相手は棒を捨てず、強く引いた。

 柄が穴から外れ、後ろへよろける。

 門守が追おうとした。

「追うな!」

 真壁。

「取れる!」

「取る目的がない!」

 追撃兵は外へ戻った。

 凱は倒せた。

 倒さなかったのではない。

 倒した後に運ぶ人手を、今は持っていなかった。

 負傷した門守が百メートル線へ向かう。

「代わりを戻すな」

 凱が言う。

「誰の命令で」

 真壁。

「提案だ」

「受けます。門の殿を七名へ減員。前隊からの補充なし。理由、負傷者離脱と通路幅確保」

 凱の名ではない。

 真壁の命令として、時刻が付く。

 木栓は抜けたままにした。

「交換は」

 凱。

「しない」

 轟。

「直せる」

「直す間に、退く道が狭くなる」

「壊れたまま使う」

「使える範囲で」

 壊れた物を直すことが、いつも正解ではない。

 直すために残る人が出るなら、壊れたまま手放す方がいい時もある。

 午後五時五十六分。

 追撃側が次に狙ったのは、門ではなかった。

 真壁が掲げていた撤退命令書だった。

 細い鉤が飛ぶ。

 魚を取るような返しのついた鉄鉤。

 紙の上端へ刺さり、油布ごと外へ引かれる。

「放せ!」

 凱が手を伸ばす。

 真壁は命令書を放した。

「なぜ!」

「私が引けば裂けます!」

 鉤を投げた兵が索を巻く。

 紙が門外へ滑る。

 命令書を奪えば、撤退命令そのものを無かったことにできるわけではない。

 写しは六部ある。

 だが、現場に掲げた原本が消えれば、「命令は偽造だった」と叫ぶ材料にはなる。

 凱は前へ出かけた。

 胸の鐘が、まだ低く鳴っている。

「行くな」

 真壁。

「原本だ」

「写しがあります」

「おまえの署名が」

「同じです」

「原本を捨てるのか」

「紙を追って、担当を捨てない」

 鉤の索が門外へ消える。

 轟が足元の木栓片を拾った。

「紙だけは行かん」

 右手で投げる。

 木片は鉤の索へ当たらない。

 索の下へ落ち、濡れた地面の溝へ挟まる。

 引かれた索が木片の角へ擦れ、向きを変えた。

 命令書が門柱の低い突起へ巻きつく。

「構造の誘導」

 凱。

「紙にも効く」

 追撃兵がさらに引く。

 油布が張る。

 裂ける前に、門守の一人が腹這いで手を伸ばした。

 鉤を掴まない。

 紙の下へ板を差し、荷重を板へ移す。

 その瞬間、石片が飛んで額へ当たる。

 浅い裂創。

 血が眉へ流れる。

「下がれ!」

 凱。

「命令?」

「負傷確認」

「現地指揮は真壁!」

 門守は真壁を見る。

「撤退命令書の保全を終了。百メートル線へ後退。受領後、治療」

「受けた!」

 門守は板ごと紙を内側へ滑らせ、後退する。

 鉤は油布の端だけを引きちぎって外へ戻った。

 命令書には穴が一つ。

 署名は残る。

 真壁は原本を拾い、穴の位置と時刻を書く。

「修復する?」

 凱。

「しません」

「読みにくい」

「署名欄は読める。奪取未遂の痕を消さない」

「格好が悪い」

「命令書へ格好は要りません」

「私には」

「もっと要りません」

 凱は反論しかけ、門外の動きを見た。

 鉤を巻く間、追撃側の正面圧力が弱まっている。

「今なら押せる」

「何のため」

 真壁が訊く。

 凱は答えを探した。

 敵を門外へ戻す。

 威勢を示す。

 原本を守った意趣返し。

 どれも、帰還札の空欄を減らさない。

「押さない」

「受けた」

「正しい顔をするな」

「していません」

「している」

「出血者を見ています」

 額を切った門守は、自分で布を押さえながら百メートル線へ向かっている。

 原本の穴より、人の傷の方が先に治療される。

 命令は、その順番を守るためにある。

 追撃側は門を攻めるだけではなかった。

 外の放送車が、低い鐘音を流した。

 凱の胸の割れた青銅鐘と、よく似た音。

 旧白冠の集合音だった。

 門内に残っていた元白冠兵が、反射的に背を伸ばす。

『白王は最後まで退かない』

 偽の声。

『王が立つ限り、青石台は敗れていない』

「放送を切る?」

 真壁。

「届かない」

 凱。

「こちらから訂正」

「する」

 凱は門脇の手動拡声器を取った。

 旧部下たちが見る。

「俺は獅堂凱だ」

 主語を置く。

「青石台の撤退発令者ではない。現地指揮責任者は真壁梓。北医療路は時雨ミソラ。南区間は鷹取由良と巌門崇牙。橋は伏見轟と橋守交代班。俺は、最後の門の遅滞担当だ」

『白王!』

 外から声が返る。

 追撃側にも、旧白冠の者がいる。

『王なら退くな!』

 門内の一人が叫んだ。

「陛下、我々は残れます!」

「名前を言え」

「旧白冠北五班――」

「個人名」

 兵は自分の名を言った。

「あなたの離脱時刻は」

「十八時十分」

「誰が署名した」

「真壁副隊長」

「なら従え」

「陛下は!」

「俺の時刻は、真壁が言う」

「王は退かない!」

 誰かが唱えた。

 一人。

 二人。

 外と内の声が重なる。

「王は退かない!」

 凱の胸の鐘が鳴った。

 触れていない。

 誓痕が、左膝から背骨へ熱を走らせる。

 王路不退〈キングス・ロード〉

 王と呼ぶ者の前で退かず、進んだ距離を力へ変える。

 凱の右足が、前へ出た。

 出すつもりより速い。

 追撃兵の棒を肩で弾く。

 次の一歩。

 木製障害へぶつかった車体を、掌で押し戻す。

 車輪が泥を削る。

 周囲から歓声。

「白王!」

 力が増す。

 前へ進むほど、身体が正しいと言う。

 退く理由が、膝の痛みより遠くなる。

 凱は三歩目を出した。

 追撃隊が下がる。

 門が守られる。

 撤退時刻が近づく。

「凱!」

 轟の声。

「聞こえている!」

「聞いとらん!」

 四歩目。

 前へ出れば、敵を車まで押し返せる。

 五歩目へ体重が乗る。

 真壁が拡声器を取った。

「獅堂凱」

 声は大きくない。

 主語と名前が、門の中へ落ちた。

「現地指揮責任者、真壁梓が命令する」

 凱の足が止まる。

「命令書番号、青石台段階撤退・現地第六。署名時刻、五月二十二日十四時二十三分。変更二回。現在有効」

 真壁は紙を高く掲げた。

「最後の門の遅滞担当、獅堂凱は、五月三十日十七時五十八分をもって任務を終了。十八時零分までに門内百メートル線へ後退。十八時十分までに西受領点へ移動する」

「敵が門前にいる」

 凱。

「確認済み」

「障害が一本壊れた」

「伏見轟が交換可能と確認」