第288話 第十章「殿」後編
「追撃が再開する」
「橋障害と西曲路で遅滞する」
「俺が残れば、さらに稼げる」
「何に使う時間ですか」
由良と迅が使った問い。
真壁が、凱へ返した。
「最後の受領札を戻す」
「その担当は迅」
「あなたが残ると、旧白冠兵が残る」
凱は門内を見た。
離脱時刻を過ぎた三人が、まだ立っている。
彼らは自分の命令ではなく、自分の姿へ従っている。
「俺が退けば、門が薄くなる」
「あなたが退かなければ、命令が空白になる」
「真壁」
「私は署名した。失敗すれば、私の名が残る」
「俺が負えば」
「奪わないでください」
真壁の声が初めて揺れた。
「私が決めた失敗を、王の美談にしないでください」
凱の胸で、鐘が鳴る。
前へ進めと、誓痕が言う。
群衆の期待が、背中を壁にする。
凱は拡声器を取った。
「俺は獅堂凱だ」
呼吸を一度。
「現地指揮責任者、真壁梓の署名済み撤退命令を受領した」
門内の旧部下が見ている。
追撃側も。
七瀬の記録機は、顔ではなく時刻板と足元を撮っている。
「俺の任務は十七時五十八分に終わった。俺は退く」
『王は退かない!』
外から叫び。
「王ではないから退くんじゃない」
凱は言った。
「責任者の命令を受けたから退く」
右足を後ろへ引く。
誓痕が抵抗した。
前へ進んだ距離が、全部、左膝へ戻る。
関節の内側で熱が弾けた。
視界が白くなる。
それでも、もう一歩。
後退。
歓声が止まる。
旧部下の一人が、凱を支えようとする。
「触るな」
「陛下!」
「名前で呼べ」
「凱!」
「あなたも退け」
「命令?」
「真壁の命令を復唱している」
「受けた」
三人が動く。
凱が後ろへ歩くたび、《王路不退》の反証が左膝を締めた。
退くことを罰する能力。
凱自身が作った王の形。
百メートル線まで、三十七歩。
数える。
一。
二。
途中で膝が折れかける。
轟が左側ではなく右側へ立つ。
支えない。
倒れたら受けられる距離。
「使っていいぞ」
凱。
「何を」
「肩を」
「自分で歩ける」
「なら歩け」
「冷たいな」
「左肩が悪い」
「右を貸せ」
「命令か」
「頼みだ」
「聞こえん」
「伏見轟。右肩を貸してくれ」
「受けた」
轟の右肩へ、凱は掌だけを置いた。
体重全部は預けない。
歩く判断を他人へ渡さない。
三十七歩目。
百メートル線を越える。
真壁が時刻を書く。
「十八時零分十二秒。十二秒遅れ」
「記録しろ」
「しています」
「命令違反?」
「遅延。理由、誓痕反証による歩行低下」
「王だったから、では」
「それは原因説明ではありません」
門の向こうで、追撃隊が木栓を壊した。
正しい場所を壊している。
門柱は残る。
障害は五分で抜かれる。
凱は振り返らなかった。
振り返れば、また前になる。
午後六時九分。
凱は西受領点の椅子へ座った。
左膝は腫れ始めている。
ミソラが装具を外さず、周囲を冷やした。
「構造損傷の兆候は薄い。滑膜炎の増悪。六月上旬まで荷重制限」
「明日までじゃないのか」
「六月上旬」
「長い」
「王路不退へ言って」
「俺の能力だ」
「なら自分へ」
凱は冷却布を受け取った。
「新規負傷者」
真琴が確認する。
「門戦、重傷一。軽中等傷五」
ミソラ。
「内訳」
「重傷は青石台側一。右下腿開放骨折。軽中等傷は青石台側三、追撃側二。新規死亡なし」
「凱の膝」
「既存傷の一時増悪。新規負傷数へは入れない。別記」
「正確だな」
凱。
「痛みは数字じゃなくてもいい」
サナ。
「六」
「数字で言ったね」
「癖が移った」
真壁が命令書を凱へ見せた。
彼の離脱欄には、完了時刻と十二秒の遅れ。
署名者は真壁梓。
「取り消しますか」
「何を」
「撤退命令に従った記録」
「なぜ取り消す」
「あなたが王命ではなく、私の命令で退いたことを利用される」
「利用される」
「私が王を退かせた、と」
「おまえは退かせた」
「王ではないと言ったでしょう」
「なら、獅堂凱を退かせた」
「それも事実です」
「残せ」
「責任を」
「おまえの名前から奪わない」
真壁は紙を閉じた。
門は、もう見えない。
土地は追撃側へ渡りつつある。
凱の任務は終わった。
終わった任務へ戻らないために、彼は椅子から立たなかった。
午後六時十二分。
凱が椅子へ座った後、先に戻した三人が来た。
屋根布を張り終え、手に泥と縄の粉がついている。
「退いた」
三人目の男が言った。
「見た」
凱。
「格好悪かった」
「知っている」
「十二秒遅れた」
「記録された」
「俺たちの屋根は、予定より四分早く終わった」
「それも記録しろ」
真壁が横から答える。
「既に」
一人目が膝を冷やす布を見る。
「能力を使ったのですか」
「不完全に反応した」
「王路不退」
「名前を呼ぶな、とは言わない。ただ、力が出たことを正しさにしない」
「敵を押し返した」
「退却命令を十二秒遅らせた」
「十二秒で誰も死んでない」
「結果が無事なら命令違反が消えるのか」
「消えない」
三人目が先に言った。
「でも、従ったら全部正しいわけでもない」
「そうだ」
「真壁さんが間違えていたら」
「異議を言う」
「聞かれなかったら」
「名前を残して従わない」
「王の時と同じじゃないですか」
「違う。王の時は、私が間違いの責任まで奪った」
「今は」
「真壁が自分の失敗を私へ渡すのを拒んだ」
真壁は命令書を閉じた。
「まだ失敗していません」
「土地を取られた」
一人目。
「撤退命令の目的は土地の維持ではありません」
「敗北じゃない?」
「軍事的には敗北です」
真壁は言葉を丸めない。
「対象者の生存到着は、まだ確認中です。成功とも言いません」
「じゃあ今、何なんです」
「途中です」
三人は黙った。
途中という言葉は、歓声を作らない。
だから、次の仕事を残す。
ミソラが門守七番の搬送札を持ってきた。
「受入先を南の手術所へ変更。本人確認、医療確認、受入確認。出血は制御。意識清明」
「凱の膝」
「既存傷の一時増悪。別記」
「肩」
「打撲。軽傷数へは入れない?」
「既存の七人に含むほど治療が必要ではない。冷却、可動確認。本人が悪化を申告するなら更新」
「申告する」
凱。
「痛み」
「肩二。膝六」
「肩は経過観察。膝は六月上旬まで荷重制限」
三人目が笑った。
「王でも六月には勝てない」
「王ではない」
「そこは速い」
「退くのは遅かった」
「次は」
「次の現地責任者が決める」
「自分で決めない?」
「自分の範囲は決める。他人の時刻は奪わない」
一人目が、屋根布の受領札を机へ置いた。
「西受入点。百七十三人ぶんの雨除け。設置完了、十八時四分。俺たち三人、受領済み」
「受けた」
南野が椅子の上から時刻を書く。
門で立っていた姿ではなく、屋根を張った仕事が三人の帰還を証明した。
凱は立たない。
彼らより先に退いたことを、座ったまま受け取った。