第289話 第十一章「最後の一隊」前編
五月三十日 午後六時二十六分
最後の一枚は、いちばん薄い。
だから、いちばん奪いやすい。
竜胆迅は、欠け四角の受領札を右脇へ入れた。
瀬尾に教わった場所。
札には七人の確認がある。
橋守交代班三。
西曲路の監査二。
門から離脱した警備二。
全員、橋を渡った。
全員、受入点で本人確認を受けた。
この一枚が受領台へ戻れば、西採石路は百七十三になる。
北六十四。
南七十五。
三つを足せば、三百十二。
紙がなくても、人はいる。
だが紙が戻らなければ、固定命令網は「撤退未完」と発表できる。未完の名簿には、行方不明を足せる。行方不明には捕虜を足せる。捕虜には尋問と交換条件を足せる。
人間が一人も欠けていなくても、空欄は人を奪う。
「受領時刻」
迅。
西受入点の担当者が読む。
「十八時二十二分」
「七人」
「七人」
「本人確認」
「個別。負傷、なし。経路変更、二名。変更先も受領済み」
「復唱」
「西採石路、最後の七人。受領時刻十八時二十二分。本人確認済み。負傷なし。経路変更二、変更先受領済み」
「署名」
担当者が書く。
迅の背中ではない。
木箱を机にする。
油紙を折る。
文字を内側。
折り目を上。
紐は紙へ触れさせない。
タマキの手順。
「誰から」
担当者が訊いた。
「最後の七人と西受入点」
「誰へ」
「青石台受領台」
「何のため」
「空欄を零にする」
「大きいな」
「紙は小さい」
「戻すもの」
「札。俺」
「順番は」
「俺が先」
最後の七人は、同じ場所から来たわけではなかった。
橋守交代班の三人は、石樋橋の南北から一人ずつ戻り、中央監査が最後に来た。
西曲路の監査二人は、崩落した第二曲路を閉鎖した時刻と、閉鎖後に迂回した人数を持ってきた。
門から離脱した警備二人は、凱より先に退いた者ではない。負傷者の搬送へ付いて門を外れ、受入点まで戻った者だった。
七人のうち、一人が受領札への署名を拒んだ。
「帰ったことは認める」
橋守の女が言った。
「でも、橋を明け渡したとは書かない」
西受入点の担当者が困る。
「この欄は帰還確認です」
「見出しが《撤退受領》になってる」
「同じ意味です」
「違う」
迅は札を覗く。
細い字。
《西採石路 撤退受領》
「何が違う」
「帰ったのは私。橋を捨てる決定へは署名してない」
「橋、残ってる」
「だから余計に。撤退受領って書くと、橋守を終えたように読まれる」
「終わってない?」
「六月七日まで交代で見る」
担当者が頭を抱えた。
「書式を変える時間が」
「字を足す」
迅。
「どこへ」
「撤退の前」
「何を」
「青石台から」
女が首を振る。
「それでも橋守の撤退に見える」
「じゃあ、何て書く」
「本人到着」
「短い」
「短くて足りる」
担当者は真琴へ通信を入れた。
返事はすぐ来ない。
追撃の時間は近い。
「迅、持って行って、向こうで直して」
「本人が署名してない」
「口頭確認は取れた」
「紙にない」
「時間がない」
「じゃあ、ここで書く」
迅は札の余白へ、左手で大きく書いた。
《この欄は橋守任務の終了を意味しない。本人が西受入点へ到着した事実のみを確認する》
「字が汚い」
女。
「読める?」
「読める」
「署名」
女は自分の名を書いた。
「迅も」
「俺?」
「文を足した」
「権限ない」
「書いた責任はある」
迅は余白の下へ、小さく名を書く。
《追記筆記:竜胆迅。解釈承認ではない》
「長い」
「真琴ならもっと長い」
「それはそう」
次の一人は、受入時刻を訂正した。
十八時二十一分ではなく、二十二分。
「一分なら同じ」
担当者。
「橋の中央を出た時刻と、ここへ入った時刻は違う」
「どっち」
「本人到着は二十二。橋離脱は十七」
「両方書く」
最後の一人は、経路変更先の照合番号を公開しないと決めた。
七人を一枚へ戻すまで、六分かかった。
早く走るために、紙を薄くしなかった。
「これで最後」
担当者。
「何が」
「西の確認」
「札が戻るまで、最後じゃない」
「面倒だな」
「人気ある」
「何が」
「正しいこと」
誰の台詞だったか、迅はもう覚えていない。
借りた言葉は、返す相手が分からなくなるほど使うと、自分の癖になる。
迅は走った。
西受入点から受領台まで、通常なら十二分。
今は、道が通常ではない。
雨で採石路が滑る。
第二曲路の一部が崩れ、迂回に百四十メートル。
橋の可逆障害は閉じている。
門は追撃側へ渡った。
最短路は、敵の前を通る。
戻りやすい路は、長い。
迅は長い方を選んだ。
右環指と小指の感覚が薄い。
札は右脇。
赤紐は左手で結び直した。
第一曲路を抜ける。
背後に足音。
一人ではない。
四。
速度は速い。
追撃班は、迅を捕まえるためではない。
胸と脇を見ている。
「札を置け!」
「受領者は」
迅は走りながら言った。
「何だ!」
「誰へ渡す」
「黙れ!」
「何のため」
石が飛ぶ。
迅は頭を下げた。
「質問に答えられない配達は、受けない」
「おまえの札が戻らなければ、撤退は終わらない!」
「分かってるんだ」
「だから置け!」
「持って帰る」
第一の追手が距離を詰める。
長い脚。
右利き。
腰に短刀だが、抜かない。
札を傷つけたくないのは向こうも同じ。
迅は足場の悪い右側へ寄った。
追手は中央を取る。
合理的。
曲がりで差が縮む。
拳が来る。
迅は一歩下がる。
紙を脇へ挟んだまま。
二歩。
相手の左肩が前へ出る。
三歩。
後ろの二人が左右へ広がる。
四歩。
暴力の源は、札を奪う命令か。
目の前の拳か。
未完を作る制度か。
決めきれない。
それでも、目の前の行為へだけ返すことはできる。
五歩。
右環指が痺れる。
六歩。
一還の線が見えた。
前の男の胸。
後ろの二人の重心。
濡れた斜面。
七歩目へ退けば、三人を一列へ入れられる。
一撃で道を作れる。
その一撃には、上体の回転が要る。
右脇が開く。
油紙が落ちる。
雨が札へ入る。
迅は六歩で止めた。
「怖いか!」
男が来る。
「紙が濡れる」
迅は拳を使わない。
路肩に張られた白い案内布を左手で引いた。
撤退列が曲路を見失わないための布。
もう全員が通った。
役目を終えた布を、別の役目へ使う。
引き抜く。
地面へ低く流す。
先頭の男が跳ぶ。
迅は布を上げない。
跳んだ足の後ろへ滑らせ、着地の瞬間だけ引く。
男の足が前後へ開く。
転ぶ。
頭は打たせない。
迅は肩へ手を置き、泥へ回す。
二人目が布を踏む。
三人目は避ける。
四人目が横から腕を伸ばす。
迅は白布の端を石の突起へ一周させた。
簡単な滑車。
二人目の足元と、四人目の手首を同じ布がつなぐ。
一人が引けば、もう一人が崩れる。
「子どもの遊びか!」
「案内」
「何の!」
「遅れる方向」
迅は走る。
追手は布を切れば出られる。
短刀がある。
時間は一分も稼げない。
一分を何に使う。
橋へ着く。
石樋橋の可逆障害は、まだ閉じていた。
歩行者幅、九十センチ。
橋守は撤退済み。
標板だけが雨の中に残る。
《歩行者・小型手押し車通行可》
迅は細い通路へ入った。
追手四人のうち、三人が戻ってくる。
一人は布を外している。
九十センチなら、一列。
殴るには向いている。
札を守るには、悪い。
欄干の下から、水音。
雨で谷川が増えている。
迅は橋中央で止まった。
「逃げないのか」
先頭の男。
「走ると紙が揺れる」
「渡せば終わる」
「終わらせるために持ってる」
「土地はもう取った」
「取ったな」
「おまえたちは負けた」
「そうかも」
「なら、札一枚に何の意味がある」
「七人」
「七人は逃げた」
「帰った」
「同じだ」
「違う」
「言葉遊びか」
「逃げた人は、逃げたことにされる。帰った人は、受け取った人がいる」
「王も逃げた」
「現地指揮の命令で退いた」
「おまえは」
「札を戻す」
「誰の命令で」
迅は答えた。
「俺が署名した仕事」
先頭が来る。
橋では横へ避けられない。
迅は前へ出た。
退かない。
相手の拳を、左前腕で内へ流す。
肘を抱え、欄干へ当てない角度で肩を落とす。
膝を使わない。
倒れた相手を越える。
二人目と入れ替わる。
狭い道では、強さより順番が支配する。
二人目は腰を低くし、迅の脇へ手を伸ばした。
札の位置を知っている。
迅は右腕を閉じる。
痺れた指では掴まない。
赤紐の端を相手の親指へ掛け、手を外へ開かせる。骨を折らない。指先が札へ届かない幅だけ。
三人目が後ろから押す。
先の二人も押される。
三人の重さが、迅へ来る。
橋の障害へ背が当たる。
鉄枕木。
壊れない。
轟が作った場所。
迅は自分で全部を受けない。
腰を落とし、背の力を枕木へ逃がす。
橋へ衝撃を伝えすぎないよう、足裏で分ける。
「伏見の真似か!」
「借りた」
迅は前の男の腰帯を外した。
武器ではない。
布帯。
橋の歩行者欄へ通し、三人の前へ横に張る。
相手は切れる。
短刀を抜けば。
だが抜いた瞬間、札を無傷で奪う条件が崩れる。
先頭が迷った。
迷った一秒。
迅は橋を抜けた。
橋から受領台まで、残り一・一キロ。
脚は動く。
呼吸も。
紙もある。
追手はまだ来る。
迅は途中の通信丘へ上がらない。最短だが、旧門から見える。
仮設住居の間を通る。
もう人はいない。
戸が開いている。
鍋が残っている。
洗濯紐だけが風へ鳴る。
土地は空になったのではない。
置いていった生活がある。
迅は、椅子へ引っ掛かっていた白布をもう一本取った。
案内標識。
使い終えた物。
仮設住居列の先に、受領者が立っていた。
少なくとも、そう名乗った。
灰色の雨具。
胸に丸札。
手に閉鎖印。
「青石台受領台は移動した」
男は言った。
「固定命令網の接収が始まった。札はここで受ける」
迅は止まらない。
男が前へ回る。
「聞こえなかったか」
「聞いた」
「渡せ」
「誰から」
「西受入点」
「誰へ」
「臨時受領台」
「誰が受ける」
「私だ」
「名前」
男は名を言った。
知らない。
「目的」
「撤退完了確認」
「戻すもの」
「札」
「俺は」
「運搬担当はここで解任」
「誰が決めた」
「命令書がある」
男は油紙を出した。
印は本物に見える。
真壁梓の現地印。
だが、紙の折り方が違った。
文字が外。
折り目が下。
紐が紙へ直接触れている。
タマキの手順を知らない。
「見せて」
「渡したら」
「封を開く」
「命令違反だ」
「受領者が命令を読ませないのは?」
「時間がない」
「人気あるな」
「何が」
「その言い訳」
男の右手が動く。
閉鎖印の柄が、短い棍になっている。
迅は一歩、横へ動いた。
退かない。
背後には白布。
前には男。
相手の腕が伸びる。
迅は柄を掴まない。
右手の痺れがある。
左掌で手首の外側へ触れ、肘を自分の肩越しへ流す。男の体が前へ出る。
迅は背へ回らない。
札から体を離さない。
「本物なら、受領台で会う」
「待て!」
「待たない」
「命令だ!」
「受領者は命令しない」
男が閉鎖印を投げた。
迅は避ける。
印は柱へ当たり、丸い墨を残した。
同じ印が、命令書にもある。
形は本物。
使い方が偽物だった。
男は脇から札を奪おうとする。
迅は白布を引き、二本の柱の間へ張った。
見える高さ。
「また布か!」
「余ってる」
「旗じゃないのか!」
「案内」
「何へ!」
「本物の受領台」
迅は布の端を、男の雨具の留め金へ一度だけ巻いた。
縛らない。
追えば、雨具が開く。
脱げば追える。
男は一瞬、自分の顔を覆う布と、雨具の留め金を見た。
匿名の追撃者は、顔を隠す方を選んだ。
その一秒で、迅は角を曲がった。
旧配給所の前で、もう一つの声が飛んだ。
『西受領札は既に到着した。運搬担当は停止せよ』
放送筒。
迅の足が少し緩む。
既に届いたなら、この紙は重複になる。
重複した札は、別の番号へ差し替えられたと言われる。
人間が二重になる。
迅は胸の札を触らない。
触れば位置を教える。
「西の最後は何人!」
走りながら叫ぶ。
放送は答えない。
「受領時刻!」
答えない。
「経路変更!」
同じ文を繰り返す。
『西受領札は既に到着した』
「誰から、誰へ、何のため」
返事はない。
タマキの質問は、嘘を見破る魔法ではない。
嘘をつく人間にも答えは作れる。
それでも、答える範囲を増やすほど、嘘は重くなる。
放送は重くなるのを拒んだ。
「まだ着いてない」
迅は速度を戻す。
足音が二つ、後ろへ増える。
前の男が回り込んだ。
札を取る手。
迅は七歩を取らない。
もう六歩で止めた。
一度止めた判断を、格好のためにやり直さない。
配給所の空樽を蹴る。
樽は男へ当たらず、石畳を横に転がる。
音が大きい。
追手の一人が反射でそちらを見る。
迅は逆へ。
視線と足が分かれた一人を、肩で押して壁へ向ける。
もう一人の袖を、空樽の縄へ掛ける。
縄は切れる。
切れるまでの半秒が、道になる。
能力ではない。
使い終えた物と、相手の反射と、教わった質問。
借り物ばかりだった。
自分の拳だけで勝つより、軽かった。
札は濡れていない。
追手二人が住居列へ入る。
一人は橋で残った。
「止まれ!」
「受領者を言え」
「命令だ!」
「誰の」
「撤退未完を確認する!」
「確認じゃない。作るんだろ」
迅は白布を二本の柱へ渡した。
胸の高さではなく、膝の少し下。
見えるようにする。
罠にしない。
追手は布を見た。
一人が飛び越える。
もう一人は切る。
選択が分かれた。
飛んだ一人だけが先へ来る。
迅は柱の陰へ入った。
相手が曲がる。
肩が先。
迅は拳ではなく、掌で顔の横を押す。
視線だけを壁へ向ける。
足は走る方向のまま。
人は、自分の足と目が別の方向へ行くと止まる。
相手が壁へ手をつく。
迅は抜ける。
殴らない日が、もう一日を越えた。