第286話 第九章「由良の印」後編

 午前十一時二分。

 公開説明の前に、由良は水四十八リットルを取りに行った。

 署名者が演壇へ立ち、他の者が水を運ぶ方が早い。

 それでも行った。

 塩路から戻った空容器は、共同倉庫の裏に十二本ある。一本二十リットル。全部を取れば、倉庫の清掃と厨房の予備がなくなる。

「三本」

 由良。

 倉庫係は首を振る。

「二本」

「二十二人に四十八リットル必要」

「一日半なら六十六」

「西の共用分へ十八ある」

「その十八は、元からいる百五十一人の分だ」

「二十二人も元からいる」

「名簿では」

「腹でも」

「理屈は分かる。水は増えない」

「三本借りる。六十。十二は共用へ戻す」

「洗浄が終わってない」

「一緒に洗う」

「今から?」

「今から」

 由良は袖をまくった。

 左脇腹が痛む。容器を持ち上げない。床へ転がし、洗浄台へ寄せる。

 倉庫係が笑う。

「斥候は水瓶も転がすのか」

「音を出さないなら」

「今は音を出していい」

「苦手」

 二人で栓を外す。

 前の油分を湯で流す。

 湯気が出る。

 敵へ見つからない位置まで屋根布を下ろす。

 由良は容器の内側を指で擦った。

「まだ匂う」

「三回目で消える」

「四回」

「水を使う」

「飲む水へ油を残すより」

「撤退する人は、全部きれいな物を持てると思う?」

「思わない」

「じゃあ三回」

「匂いが残ったら」

「受取側が拒否できる」

「拒否した水は」

「清掃へ戻す」

 由良は三回で止めた。

 完璧にする時間を、他人の水から借りない。

 容器へ書く。

《飲用。洗浄三回。油臭確認なし。受領時に再確認。拒否可》

「署名」

 倉庫係。

「私」

「洗ったのは俺も」

「なら二人」

「共同署名、嫌いじゃなかった?」

「同じ作業をした範囲なら」

「王とはしない」

「凱は水瓶を洗ってない」

「そこか」

「そこ」

 倉庫係は自分の名を書いた。

 三本の容器を荷車へ載せる。

 由良は持ち上げない。

 斜板を使い、一つずつ転がす。

 名誉は軽い。

 水は重い。

 署名が必要なのは、たいてい重い方だった。

 午前十時十六分。

 無記名放送が、由良の印を先に公開した。

 通信丘の古い拡声器が鳴る。

《剛嶺の鷹取由良は、天環拠点の撤退命令へ署名した》

《巌門崇牙は、剛嶺南区間を敵軍の退路として提供した》

《故郷を売り、土地を捨てる印である》

 紙の一部だけが、拡声器の声へ変わる。

 署名範囲は読まれない。

 二十二人の本人確認も、受入側の名も、期限も、拒否も消える。

 由良は椅子から立った。

 九分の休息は終わっていない。

「座って」

 七瀬。

「読む」

「何を」

「全部」

「今だと、位置が」

「経路は読まない。署名範囲と、言われてること」

「公開場所」

「採石機の下。移動前の二十二人」

「撮影」

「する。顔は本人が選ぶ」

「休息は」

「あと三分」

「待つ」

 由良は座り直した。

 拡声器は、同じ言葉を繰り返す。

 裏切り。

 売った。

 捨てた。

 三分は長い。

 由良は立たない。

 早く反論するために、身体を借金へしない。

 午前十時二十三分。

 二十二人と、西受領側の十四人が集まった。

 由良は無記名放送を、自分の声で最初から読んだ。

「今、こう言われてる」

 誰も笑わない。

「次に、私が署名した範囲を読む」

 由良は紙を開く。

「剛嶺式家標を持つ二十二人について、本人が選んだ当日の受入点へ接続する。私は、その聞き取りと経路照合に署名した。剛嶺全体を代表しない。天環全体の撤退へ署名しない。永住先を決めない。帰郷を約束しない。三到着点の受入確認は取った。道中の安全は保証しない」

「随分、保証しないな」

 石工が言った。

「できない」

「何ならする」

「間違えたら、私の名で訂正する。到着しなければ、受領台へ戻る。故郷で訊かれたら、私が押したと言う」

「故郷へ戻れると思う?」

「分からない」

「怖い?」

「怖い」

「それでも押した」

「押した」

 母子の母が手を上げた。

「私たちが西へ行くことも、敵へ協力?」

「誰かがそう呼ぶ」

「あなたは」

「今夜の寝床へ行く」

「逃げたことにならない?」

「逃げた。危険から」

「負けた?」

「土地は失う」

「人は」

「まだ着いてない」

 由良は、成功という言葉を使わなかった。

 使うには、二十二人の足がまだ青石台側にある。

「巌門の印は」

 別の者が訊く。

「南稜線の梯子、通行安全、障害撤去へ押した。私と同じ紙にはない」

「二人で裏切ったんじゃ」

「別々に引き受けた」

「凱は」

「共同署名を申し出た」

「受けた?」

「断った」

「なぜ」

「凱の名で、私の判断を薄めたくなかった」

 ざわめきが起きる。

「王を嫌ってる?」

「時々」

「友達?」

「今それを決める必要ある?」

 小さく笑う声が一つ出た。

 由良も笑わない。

「私の印は、正しい証拠じゃない。私がした証拠。後で反対する人は、反対していい。今、ここで受入先を変える人も言って」

 一人が手を上げた。

 保留を選んだ者だった。

「西へ行く」

「保留をやめる?」

「今夜だけ」

「受けた」

 由良は札の内側の横線を消さない。

 一本線で残し、横へ時刻と変更を書く。

 決めなかった時間も、その人の判断だった。

 七瀬の撮影機は低い位置にある。

 顔を映す者は、札を胸へ表にした。

 映したくない者は、裏返した。

 由良は自分の札を表にする。

 名前。

 印。

 範囲。

 裏切りと呼ばれる余白まで、表にした。

 正午。

 二十二枚の札は、中央から左右へ移された。

 十七枚が西。

 三枚が南。

 一枚が北。

 一枚も保留ではなくなった。

 ただし、保留をやめた時刻は残る。

 西受領責任者が、由良の署名の隣へ自分の名を書いた。

「寝床十七。記録係一名は車庫前。雨天時は受領台の庇を延長」

「受けた」

 由良。

「あなたも戻る?」

「三到着点を見届ける」

「故郷へ説明は」

「その後」

「怖いのに」

「賢いから」

 責任者は初めて笑った。

「自分で言う人、二人目だ」

「一人目は」

「黒い制服の伝令」

「迅か」

「殴らずに走ってた」

「珍しい」

「それも記録する?」

「しない」

「なぜ」

「珍しいって言うと、普段殴ってるみたいになる」

「普段は」

「殴る」

 西路の出発鐘が一度鳴った。

 百七十三人の最初の列が、採石坂へ向かう。

 由良は先頭へ立たない。

 受領札の最後が戻るまで、中央にいる。

 地図上では三本の赤い線が消えている。

 印だけが残った。

 道は人を運ばない。

 署名も人を救わない。

 それでも、誰が戻るかを曖昧にしないためには、消えないものが一つ必要だった。