第499話 第八章「朝の命令書」前編
三月二十日 午後四時三分
命令書には、書かれたことしか残らない。
書かなかった理由。
添付しなかった事情。
急いだ人の顔。
反対した人が口を閉じた時刻。
それらは、別の紙へ移されない限り、最初から存在しなかったことになる。
御厨朝は、中央行政棟の四階へ戻った。
回廊の事故現場から、直線で二百六十メートル。
階段は三十二段。
両ふくらはぎの痛みは、二から三へ上がっている。
歩ける。
走らない。
朝は手すりを使わない。
三段目で、自分の癖に気づく。
調停官の制服で手すりを使う姿を、人へ見られたくなかった。
理由は安全ではない。
権威の見栄えだ。
朝は左手を手すりへ置いた。
青い指跡が、金属へ薄く付く。
「清掃へ怒られます」
後ろの係官が言う。
「私の名前を伝えて」
「汚した責任者として?」
「落ちない場合は」
「青墨は落ちます」
「では、不要」
「名前を出したいのか、出したくないのか」
「必要な時だけ出します」
「事故命令にも?」
朝は振り返る。
係官は、午前中からついてきた青年だ。
名札は裏返っている。
「あなたの名前は」
「現場では不要です」
「今、私はあなたへ質問しています」
「……久世直人」
「久世さん。別紙四号を最後に見た人を、見つけましたか」
「一人」
「名前」
「中央文書分配、片瀬蓉子」
「どこ」
「地下保管区。午前六時四十八分、別紙を本書から分離」
「理由」
「安全別紙の一部に、旧中央設備の権限名が残っていた」
「修正のため?」
「はい」
「修正後、戻した?」
「戻していません」
「なぜ」
「本書の配布時刻に間に合わなかった」
「誰が、別紙なしで配布すると決めた」
「複数部署です」
「名前」
久世が書類を差し出した。
五名。
御厨朝も入っている。
「私は、別紙が付いていると確認した」
「午前六時十二分の版には」
「その後の分離を知らなかった」
「知るべきでしたか」
「署名が使われ続けるなら」
「署名後の変更を、署名者が全部追うのは不可能です」
「不可能だから、変更通知が必要だった」
「制度の不足です」
「制度が不足しても、署名は私の名前です」
「全部、あなたの責任と?」
「全部ではない。私の範囲を薄めない」
会議室へ入る前に、朝は地下保管区へ連絡した。
片瀬蓉子は、画面を使わなかった。
《顔を公開しない》
最初に言う。
「受領。音声は」
《記録してよい。声質の加工を希望》
「本人確認」
《久世直人と、保管鍵二名で》
久世が確認する。
「片瀬さん。別紙四号を本書から分離した時刻」
《午前六時四十八分十三秒》
「理由」
《旧中央設備の権限名が三か所。停止帯の位置図が、改修前》
「修正担当」
《私と、文書技術二名》
「配布時刻」
《七時》
「十二分で修正できないと」
《判断した》
「誰が」
《私》
「配布を止める権限」
《ない》
「別紙なしで配布する権限」
《ない》
「では」
《本書だけを配布箱へ戻した》
「誰へ相談」
《上司へ二回。応答なし》
「名前」
《保管係長・塚本有。行政連絡・稲尾景》
「応答がない時、配布箱へ戻す規則」
《本書を遅らせない》
「別紙を欠いた本書も、本書?」
通信が止まる。
《規則上は》
「あなたは、どう思った」
《危険だと思った》
「なぜ止めなかった」
《私は文書を止める役ではない》
「誰の役」
《分からなかった》
「別紙がないことを、本書へ書いた?」
《配布箱の備考へ》
「本書の表へは」
《書けない》
「なぜ」
《原本改変になる》
「原本を守って、運用を変えた」
《はい》
「責めていますか」
《分かりません》
「私は質問しています。責めるかどうかは、あとで決まる」
《今の声は、責めています》
朝は自分の声を聞く。
硬い。
速い。
「そうですね。私は怒っています」
《私へ》
「あなたへも。応答しなかった二人へも。通知を確認しなかった自分へも」
《全部へ怒ると、誰の責任か分からなくなる》
「分けます」
《私は、別紙を外した》
「はい」
《上司へ連絡した》
「はい」
《本書を配布箱へ戻した》
「はい」
《危険と書いた》
「備考へ」
《本書表へは書かなかった》
「はい」
《それを全部、同じ報告へ》
「一緒に消さないで」
《お願いします》
「顔を出さない理由」
《家族が文書区にいる。報復が怖い》
「名前の公開は」
《今の説明会では、職名と片瀬の姓まで。住所、家族、顔は非公開》
「本人の責任審理では」
《限定公開へ出る》
「受領」
《御厨さん》
「はい」
《あなたの署名を見て、本書を戻した》
朝の青い指が止まる。
《調停官が確認した文書なら、別紙がなくても、後で補えると思った》
「私の署名を、安全の代わりにした」
《はい》
「私は、別紙がある版へしか署名していない」
《知りませんでした》
「知らなかったことを、記録」
《はい》
「私の署名が、あなたの判断へ影響した事実も」
《はい》
「私は、署名を使われた被害者ではありません。署名が、他人へ判断を預けさせる力を持つと知っていました」
《では、署名しない?》
「必要な時はする。版、期限、添付、変更通知を、今より細かく」
《それでも外れたら》
「また責任を分ける」
《終わらない》
「文書は、人が使う限り終わりません」
《文書係には、嬉しくない名言》
「名言ではありません」
《そういうことにします》
通信が終わる。
朝は、片瀬の説明を一枚に要約しない。
時刻。
行為。
連絡。
不応答。
判断。
恐怖。
署名への依存。
別欄へ分ける。
会議へ持っていく。
「片瀬さんを、主因にしますか」
久世が訊く。
「しません」
「原因では」
「一つです」
「では、何個」
「今は数えない」
「迅の影響?」
「違います。数を決めると、そこまでで捜索を止める」
「期限は」
「三月三十日までに一次整理。その後も追加可」
「永久が嫌い」
「人が変わることを信用している」
「さっき聞きました」
「繰り返しました」
「意図的?」
「はい」
久世は記録する。
意図的な反復は、削除しない。
四階の会議室。
扉の前に、黒い投票箱が三つ並んでいる。
継続。
停止。
修正。
今日の命令をどう扱うか、中央調整会が集計している。
朝は箱を見る。
「また三択」
「修正があります」
久世。
「修正の中身は」
「会議で」
「箱へ入れる前にはない?」
「提案票ごとに」
投票箱の横へ、細い紙片が積まれている。
修正案二十七。
歩調を八十へ。
歩調を七十二へ。
階段だけ停止。
駅前だけ継続。
介助者を増員。
警備線を強化。
朝は一枚ずつ見る。
「拒否と保留の保存は」
「修正箱の自由記入へ」
「自由記入は、集計時に要約される」
「全件を読む時間が」
「読まないなら、書かせるな」
会議室へ入る。
十六人。
白い長机。
中央には、事故映像の全景が映されている。
千二百四人が、一つの波に見える映像。
「止めて」
朝が言う。
映像担当が再生を停止する。
「全景を使わないでください」
議長が眉を上げる。
「全体把握に必要です」
「足元映像も同時に」
「画面が小さくなります」
「人も小さく見えています」
七瀬の低位置映像が追加される。
黄色い靴。
装具。
杖。
倒れた指。
議長が咳払いする。
「御厨調停官。現場状況は」
「一つの状況ではありません。AからHまで別です」
「要約を」
「要約すると、また一つになります」
「会議は判断のために」
「判断を急ぐほど、要約の外に人が落ちます」
「では、八区画を簡潔に」
朝は説明する。
簡潔ではない。
数字。
停止帯。
負傷。
選択。
未選択。
札なし。
列車延期。
振動板の状態。
十五分かかる。
途中で二人が時計を見る。
朝は止める。
「今、時計を見た方」
二人が顔を上げる。
「責めません。何の時刻ですか」
「列車接続」
「次の配給調整会」
「記録してください。判断を急がせる別の期限です」
議長が言う。
「期限はあります。だからこそ、一つの命令が必要です」
「一つの命令で事故が起きました」
「運用ミスです。同期そのものではない」
「別紙があれば防げた、と?」
「少なくとも、停止帯は」
「別紙がなくても、前の人と歩幅が違うことは見えた」
「現場係員へ、千二百四人の個別判断を求めるのは不可能です」
「全員を一人ずつ管理しろとは言っていません。違いを消すなと言っています」
「言葉遊びです」
「人を同じに扱うことと、同じ人として扱うことは違います」
「では具体案を」
朝は黒い紙束を机へ置いた。
歩幅札の写し。
停止札。
介助札。
札なし運用。
「現場発の暫定方式です」
「非公式」
「はい」
「誰が作った」
「タマキ、中尾弦、柏木秋枝、馬瀬鈴、紙屋セツほか。全員の範囲は確認中」
「能力者の配達員が」
「能力使用は一件だけ。札制度そのものには使っていません」
「一件だけなら、ほかへ不公平です」
「能力を使うと公平になる、という前提が間違っています」
「だが、使える力を使わないのは」
「黒雨記念日から二年目の公開審査を見ましたか」
「二十歳の公開審査で、迅は六歩で止まりました」
「その話は今」
「使える力を使わないことが、常に怠慢ではない例です」
議長は指を組む。
「あなたの能力は使ったそうですね」
「一度」
「成功した」
「一動作だけ」
「では、同じ方法を区画ごとに」
「しません」
「なぜ」
「一度使ったことで、次も使えると思っている自分がいるから」
「感情の話では」
「能力運用の判断者が私なら、私の感情も条件です」
「専門家らしくない」
「専門家が自分を条件から外した結果が、反証の転嫁です」
会議室が静かになる。
中央回収炉の事件は、まだ近い。
「提案します」
朝は紙を開く。
「現行同期命令を、区画ごとの内部停止へ切り替える。移動者は、歩幅、停止、介助、保留を変更できる。変更による列車、配給、登録上の不利益を禁止する。拒否、退出、保留、再確認請求を、集計から消さず保存する」
「拒否者名簿を作る?」