第346話 第三章「石英の保管庫」後編

 言い終わる前に、階段の扉が内側へ膨らんだ。

 迅が七瀬の前へ出る。

 綺理は出なかった。

 彼女は左側の棚へ走った。

 走ると言っても、三歩だけだ。透明な雨衣の裾が石床を擦る。棚の脚へ足を掛け、最下段の真鍮輪を引く。

 棚が沈んだ。

 四十七本の瓶が、壁の中へ一斉に引き込まれる。

 扉が破れた。

 灰色の作業服が二人。顔を布で覆い、手には短い楔と搬送鉤。

 迅が一人目の手首を受ける。

 打たない。

 楔の先を床へ落とさせ、その足を扉の外へ向ける。二人目が壁の黄色い糸へ手を伸ばした。

 タマキが空箱を蹴った。

 箱は糸の手前で立ち上がる。

 作業員の指が箱を掴む。

「宛先違い」

 タマキが言った。

 迅が背中で押す。作業員は箱ごと壁から離れた。

 綺理は限定照合室の遮断板を下ろす。

 向こう側から糸が一度だけ引かれた。

 了解。

 一人目が迅の肋へ膝を入れた。

 迅は息を吐き、半歩退く。

 一歩。

 綺理には分かる。

 彼が数えている。

 だが迅は、二歩目を踏まなかった。

 床に落ちた楔を踵で滑らせ、扉の蝶番へ噛ませる。外から入ろうとした三人目が扉に挟まれ、進めなくなった。

「七歩いらないの」

 イオが聞く。

「ここで七歩取ったら棚に当たる」

「賢い」

「褒めるな。調子が狂う」

 巴が左手で警報板を叩いた。

 文字が点灯する。

《持ち出し対象は何か》

 二人目の作業員が目を逸らす。

 迅が腕を捻った。

「答える義務はない」

 迅は言った。

「でも答えないなら、帰る方向だけ教える」

 足払い。

 倒さない。

 身体を扉の外へ回し、そのまま肩で押し出す。

 綺理は最後の棚が壁へ収まったのを確認した。

 保管庫へ残ったのは、石英机と、空の床と、七人の呼吸だけだった。

 侵入者は二分二十七秒で退いた。

 奪われた瓶はゼロ。

 壊れた瓶もゼロ。

 だが、石英机の右端にあった管理鍵の照合板が一枚、なくなっていた。

 七瀬が床を見た。

「いつ」

「扉が破れた時ではありません」

 綺理は空いた溝を指でなぞる。

「昨日、移された」

「なぜ気づかなかった」

「形は残っていた」

 溝には、薄い石英の偽物がはめられていた。

 厚みは同じ。

 重さも同じ。

 触れなければ分からない。

 触れなかった。

 保管者が、鍵を信じた。

 綺理は笑った。

 笑い声は出なかった。

「私が預かっていたのは、鍵の形でした」

「責めてる場合じゃない」

 迅が言う。

「責めています」

「誰を」

「私を」

「じゃあ後でやれ」

「後なら、正確になりますか」

「飯を食うと少し優しくなる」

「私は食後の方が厳しいです」

「じゃあ今でいい」

 七瀬が偽物の照合板を撮ろうとした。

 綺理は手を出した。

「止めません」

 七瀬の指が止まる。

「ただし、撮影目的を言ってください」

「盗難の証拠」

「公開範囲」

「管理者、所有者、監査者」

「一般公開は」

「しない」

「期限」

「競売終了と返却確認まで」

 綺理は手を引いた。

 七瀬は一枚だけ撮った。

 二枚目は撮らなかった。

 綺理は偽物の照合板を封じる前に、保管庫の勤務記録を開いた。

 昨日の担当は三人。

 綺理。

 墓地管理人の松葉。

 夜間設備係の恩田。

「二人を疑う?」

 七瀬が聞く。

「三人を調べます」

「自分も」

「はい」

「自分の机なのに」

「自分の机だから」

 綺理は自分の入室時刻、休憩、洗眼、食事、右目の点眼時刻まで書き出した。

「病状まで必要?」

 イオ。

「午後五時十七分、点眼で右目を閉じた。三分二十秒」

「その間に交換された可能性」

「ある」

「誰かに見張らせなかった?」

「一人で十分だと思った」

「保管者の傲慢」

「はい」

 綺理は反論しなかった。

 イオの方が困った顔をする。

「認めれば終わりじゃない」

「分かっています」

「次は」

「点眼時、机を閉じる。閉じる操作を別の人が確認する」

「別の人がいない時」

「机を使わない」

「仕事が遅れる」

「遅延を記録」

「急ぎの返却があったら」

「返却者へ選んでもらう。待つ、別の保管者を呼ぶ、封印状態だけ確認して内容は動かさない」

「最初からそれができた?」

「できたかもしれない」

「じゃあ、なぜしなかった」

「私が一人で守れると思った」

 綺理は勤務記録の自分の名へ、赤い線を引いた。

《単独確認を過信》

 七瀬がカメラを向ける。

「撮影目的」

 綺理。

「保管者自身の過失記録」

「公開範囲」

「管理者、監査者、鍵が複製された当事者」

「一般公開は」

「原因確定までしない」

「私の顔は」

「右からだけ」

 綺理は右側を向いた。

 一枚だけ撮られる。

 過失を認める顔は、謝罪の代わりではない。

 それでも、鍵の形だけを守った保管者が、次は自分の正しさの形だけを守らないために必要だった。

 午前九時五分。

 偽物の照合板を石英机へ置くと、光は蔵座記憶競売所の方向へ伸びた。

 十二本の線が、地下の壁を越えて同じ一点へ集まっている。

 そして一点から、二十三本の細い枝が外へ広がっていた。

 競売を止めれば、鐘は止まる。

 だが、もう鳴った音は戻らない。

 綺理は一本目の枝へ、赤い糸を結んだ。

 返却要請。

 二本目にも。

 三本目にも。

「全部ですか」

 七瀬が聞く。

「全部ではありません」

 綺理は答えた。

「返してほしいと言った人の分だけです」

 石英の偽物が、机の上で乾いた音を立てた。

 鍵の形をした、空っぽの音だった。