第347話 第四章「入札者」前編
獅堂凱は、値踏みされることに慣れていた。
王だった頃は、毎日された。
声はどれだけ通るか。
拳はどれだけ重いか。
命令に何人従うか。
裏切った時、何人が困るか。
ただし、それを紙に印刷されるのは初めてだった。
《元白王・成人後初月の能力減衰記憶。採取希望額、二百八十万環》
八月十一日、午前十時。
蔵座記憶競売所の資格審査窓口で、凱は自分の顔が載った募集札を剥がした。
係員が青くなる。
「それは掲示物です」
「俺も掲示物らしい」
「応募者が勝手に作った希望札です。競売所の正式出品ではありません」
「希望なら、貼っていいのか」
「所定の欄へ、所定の手数料を納めれば」
「では、俺が《この札を剥がす希望》を出す。手数料はいくらだ」
係員は答えられなかった。
後ろで迅が笑った。
「元王、安いな」
「おまえはいくらだ」
「聞くな。下がる」
「喋るたびに下がるのは便利だ」
「凱は黙ると上がる。迷惑だな」
七瀬は二人を撮らなかった。
彼女は募集札の端に印刷された小さな番号だけを記録した。発行者は個人。連絡先は代理箱。閲覧目的は《能力研究および成人後減衰の比較》。医療研究に見える。だが備考欄には、《王の敗北感情を含む場合は娯楽価値を加算》とある。
「研究と娯楽を同じ札に書くのは正直ですね」
七瀬が言った。
「正直なら、何を書いてもいいのか」
凱。
「何を書くかと、何をしていいかは別です」
「なら剥がしてもいい」
「それも別です」
「おまえはいつも別だと言うな」
「同じにすると、誰かが余るので」
凱は募集札を元の位置へ戻した。
角だけは直した。
資格審査には三つの条件があった。
一、入札保証金三十万環。
二、競売規約へのまとめ同意。
三、落札後十二時間以内に全額支払う能力。
凱が持ってきたのは、三十万環ではなかった。
期限付き委任の報酬明細、二十一枚。
王位終了後に受けた現場指揮、医療連絡、倉庫棚卸し、避難訓練の対価だ。合計十一万四千環。
残りは借用証書だった。
迅から一万。
轟から三万。
真琴から五万。
南区共同浴場から二万。
赤錆大工場の安全委員会から五万。
白冠時代に凱へ拘束された三人から、合わせて二万。
最後の六千環は、凱が修理した鐘の代金だった。
「借金で入札する王様か」
迅が言う。
「元王だ」
「借金だけ現役だな」
「返済期限は全部違う」
「自慢するところじゃない」
七瀬は証書を見た。
「これを保証金にすると、買うことを前提にします」
「入場するためだ」
「入場資格が入札者しかない制度を認めることになる」
「外から止められるのか」
「止められないから入る、という理屈は分かります」
「分かるなら」
「嫌です」
凱は彼女を見る。
七瀬の左肩には、昨日より厚い固定帯が巻かれていた。カメラは腰の台へ載せ、右手で角度だけ変えている。
「嫌でも必要なことはある」
「その台詞、王だった頃に何回使いました」
「数えていない」
「私は数えます」
「だからおまえは必要だ」
七瀬が一拍遅れて目を細めた。
「褒めて通すのは、命令より悪質です」
「通ったか」
「通っていません」
窓口の奥から、細い女性が出てきた。
白戸依久だった。
第二区の百人会議で、多数の委任を一身に集めた少年は、二年近く経っても細かった。背は少し伸びている。黒い髪を耳の後ろで結び、古い投票札を切った栞を胸ポケットに入れていた。
「凱さん」
「白戸」
「その紙、貸してください」
凱が借用証書を渡す。
白戸は金額を見なかった。
署名者名と、用途欄だけを読む。
「《記憶競売への参加および必要な保全行為》」
「そう書いた」
「落札は保全行為ですか」
「場合による」
「貸した人は、その場合を知っていますか」
「説明した」
「全員に」
「全員に」
「落札後、記録を公開しない場合もあると」
「伝えた」
「あなたが途中で競売を降りる場合も」
「伝えた」
「王だった人の《伝えた》は、相手の《断れなかった》と区別しましたか」
凱の指が止まった。
迅は笑わなかった。
白戸は証書を返す。
「二十一人のうち、三人はあなたに断りにくい」
「誰だ」
「それを私が言えば、私が代理になる」
「ではどうしろ」
「本人へ、もう一度返してください。私の判断を間へ入れないで」
「競売開始まで三時間だ」
「時間が短いと、委任は強くなるんですか」
凱は答えなかった。
白戸は資格審査窓口の臨時確認員だった。競売所は、出品者本人と連絡がつかないロットについて、過去の代理人や地域代表へ署名を求めていた。
白戸の前にも、一枚の書類が置かれている。
《三番ロット・朝四時の別れ》
出品者は、現在連絡不能。
最後の居住区は第二地区。
当時の住民委任記録に、白戸の名がある。
署名欄には、《地域代理人》と印刷されていた。
「これは署名しないのか」
凱が聞く。
「しません」
「出品者へ医療費が支払われない」
「私が署名すれば、出品者の記憶を私が売れます」
「本人は過去に、おまえへ委任した」
「会議参加の委任です。思い出の売却ではない」
「連絡できないなら、誰かが決める必要がある」
「決めない結果もあります」
「医療費が止まる」
「それは競売所が止める。私の拒否が止めるんじゃない」
白戸は書類の余白へ、自分の名を書いた。
代理署名欄ではない。
《白戸依久は、本人から記憶売却の委任を受けていないため署名しない。医療費支払停止の判断者は競売所であり、白戸ではない》
「ずいぶん長いな」
迅が言う。
「短くすると、誰かが便利に使う」
「真琴と気が合いそうだ」
「合いません。句読点の位置で二時間止められました」
「もう会ったのか」
「二度と会いたくないです」
その時、待合席の端で、女が咳をした。
三十代半ば。左頬に古い火傷。膝の上には酸素補助器の小型缶。隣には十歳くらいの男の子が座っている。
女は資格審査の書類を握っていた。
《八番ロット・七番水門、声だけ》
凱は、視線を逸らさなかった。
女の方が言った。
「見てもいいですよ」
「あなたの記録か」
「夫のです。声だけ。死んだ人の声は、相続できるんでしょう」
白戸が首を横へ振る。
「できる場合と、できない場合があります」
「じゃあ私の場合は」
「まだ分かりません」
「皆、分からないって言う」
女は笑った。
「病院は来週までに十六万。息子の吸入器も壊れた。分からないって、便利ですね。払わなくて済む人の言葉みたい」
凱はしゃがもうとした。
左膝が止めた。
装具の金具が小さく鳴る。
彼は近くの椅子を引き、座った。相手より少し低い位置になった。
「名前を聞いていいか」
「売り物に付けるなら嫌です」
「今話すために」
「海老名サチ」
「海老名さん。八番を売る理由は、十六万と吸入器か」
「それだけなら格好がつくんですけどね」
サチは酸素缶の弁を閉じた。
「夫の声を、もう聞きたくない。あの人は水門で死ぬ前、私に戻ると言った。戻らなかった。声だけ残った。約束は破ったのに、声は毎晩同じところから始まる」
男の子が靴先を揃えた。
「僕は聞きたい」
サチの指が止まる。
「一回も聞いたことないから」
「あなたは、聞かせたくない」
凱が言う。
「そう」
「息子は聞きたい」
「そう」
「競売所は、一人へ売る」
「そう」
「それで、どちらかが勝つ」
「そういう場所でしょう」
凱は窓口を見た。
競売資格の札。
保証金。
まとめ同意。
支払い能力。
勝てる人間だけが、選べる場所だった。
「競売を全面禁止したら」
凱は聞いた。
「十六万は」
「払えない」
「許可したら」
「夫の声は誰かのものになる」
「落札して返したら」
「返すって約束、信じろってこと?」
サチは笑った。
「元王様の約束なら、重いんですか」
「今は軽い」
凱は答えた。
「俺が王位をやめたからではない。約束の中身が、まだ何も決まっていないからだ」
「じゃあ決めて」
「あなたの代わりには決めない」
「役に立たない王様」
「元だ」
「そこは細かい」
「細かいところで、人を踏むからな」
サチの息子が、初めて少し笑った。
凱は立ち上がった。
「競売を止めるなら、医療費を止めない仕組みが先だ」
七瀬が言う。
「だから買うんですか」
「買わない」
「さっきは入札すると」
「参加資格を使う。価格を上げない。落札を成立させないための時間を買う」
「三十万で?」
「三十万は帰ってくる保証がない」
「借りた人にどう説明します」
「もう一度する」
凱は証書を集めた。
「白戸。窓口を借りる」
「命令ですか」
「依頼だ。断っていい」
「用途は」
「二十一人へ連絡する」
「三時間しかありません」
「時間が短いと、委任は強くならない」
白戸は少しだけ目を細めた。
「椅子は曲げないでください」
「曲がっている」
「だからです」
凱は二十一人へ連絡した。
三人が撤回した。
一人は金額を半分にした。
五人は用途欄へ、《落札禁止》を追加した。
赤錆大工場の安全委員会は、貸付ではなく監査費へ変更した。
保証金は二十六万八千環になった。
資格条件に三万二千足りない。
「足りませんね」
係員が言う。
蔵前価が窓口の奥から現れた。
緑の上着。靴底には鉛の薄板。腰の両側に、白い値札銃。
「足りない人は、入れません」
声は小さい。
小さい声ほど、周囲は静かになる。
「規則か」
凱。
「価格です」
「三万二千の不足で、俺の意見は価値がない?」
「意見は無料。入札席は有料」
「無料の意見を聞く席は」
「外」
「外の意見で競売は止まるか」
「止まらない」
「便利な価格だな」
「便利に作った」
価は凱の背後にある募集札を見た。
「あなたの減衰記憶、三百二十万まで上がっています」
「さっきは二百八十だった」
「本人が来たから」
「本人が来ると高くなるのか」
「拒否する顔が見られる」
迅が一歩出た。
凱が手を上げる。
止めるためではない。
迅に、見える位置で意思を示すためだった。
「俺を出品したら、保証金はいらないか」
価は即答しなかった。
「記憶採取は医療行為です。本人同意、採取者、保管契約が要る」
「同意はしない」
「なら売れない」
「三万二千不足した俺の意見は外。三百二十万の俺の拒否は中へ入る」
「そう」
「価格は意見を比べると言ったな」
「言った」
「比べる前に、値が付かない人間を外へ出している」
「全員を入れたら、会場が壊れる」
「なら会場が小さい」
「都市はいつも、会場より人が多い」
価の返答は早かった。
「だから椅子に値段を付ける。誰が一番必要としているか、支払う痛みで測る」
七瀬が言った。
「支払える人が、一番痛いとは限りません」
「だから私の《値札》は重くなる」
「重いものを持てる人が勝つ」
「持てないなら、誰かと持つ」
「誰かと持つ契約も、値段ですか」
「無料だと、持った人が黙って潰れる」
価は海老名サチへ視線を移した。
「八番が売れれば、医療費は払える。売れなければ、払えない。私は綺麗じゃない。でも、払う」
凱は思った。
王だった頃、自分も似たことを言った。
命令は綺麗ではない。
だが人を動かす。
動かさなければ死ぬ。
正しさの前に、今夜を越えろ。
その言葉で救った人間がいる。
その言葉で、置いていった人間もいる。
「蔵前」
「価でいい」
「価。入札席を一つ、時間貸しできるか」
「何分」
「最初の一時間」
「誰が使う」
「俺だけではない。出品者、取材対象、遺族、保管者が交代で座る」
「入札は」
「しない」
「席を何に使う」
「拒否を言う」
「拒否に価格は付く?」
「付けない」
価の眉が動いた。
「それは、うちの帳簿にない」
「作れ」
「命令?」
凱は胸の割れた鐘へ触れそうになった。
手を止めた。
「提案だ。断っていい」
「断る」
「理由は」
「無料の席が一つあると、全員が無料を欲しがる」
「全員に作ればいい」
「建物が壊れる」
「また建物か」
「建物を軽く見る人は、雨の日に泣く」
迅が小さく笑った。
「それ、轟に言わせたいな」
価は窓口の計算板へ指を走らせた。
「入札席一時間。最低価格三万二千」
凱は彼女を見る。
「不足分と同じだな」
「偶然」
「嘘が下手だ」
「市場で上手な嘘は、価格に入ってる」
白戸が隣から紙を差し出した。
「私が払います」
凱が首を振る。
「委任されていない」
「私の判断で払う。三番へ署名しなかった仕事の報酬を、拒否席に使う」
「それで三番の本人は救われるか」
「救われません」
「では」
「救われないから、やらない理由にはしない」
白戸は三万二千環の支払票へ、自分の名を書いた。
代理人欄ではない。
支払者欄だった。
午前十一時二十八分。
凱は二十一人への再確認を始めた。
連絡方法は、全員同じではない。
赤錆大工場は、作業休止の正午に共同回線。
南区共同浴場は、湯を止めないため帳場の手旗。
旧白冠の三人は、凱の声を聞くと反射的に《了解》と言うので、白戸が文字だけを運んだ。
一人目。
『用途は分かった。返してもらえる?』
「落札しなければ保証金は戻る。規約違反で没収される可能性はある」
『その可能性、何割』
「分からない」
『王様が分からないって言うの、まだ慣れないな』
「元だ」
『そこは慣れた』
貸付継続。
二人目。
『母の記憶を守る娘へ使うんだろ』
「それだけではない。母に撮られた人の拒否も守る」
『じゃあ娘の敵になるかもしれない』
「なる」
『返して』
「撤回を記録する」
三人目。
凱がかつて違法検問で三時間拘束した男だった。
『あんたに貸したのは、今度は正しい側へ立つと思ったからだ』
「正しい側は決まっていない」
『じゃあ何で入る』
「決められない人が外へ出されない席を作るため」
『あんたが座る?』
「交代で使う」
『また王様みたいに真ん中へ座るなら返せ』
「最も遠い席へ置く」
『本当に?』
「席の位置を図で送る」
『図が嘘なら』
「七瀬の撮影記録と照合できる」
『あの子は、あんたの味方だろ』
「俺と意見が違う時の方が多い」
『それなら少し安心だ』
貸付継続。ただし落札禁止。
四人目は、凱が救護命令を出した時に妹を助けられた女性だった。
『何に使ってもいい』
「それでは使えない」
『信じてる』
「範囲を決めろ」
『面倒ね』
「信頼を範囲なしの委任にしない」
『昔のあなたなら喜んだ』
「昔の俺が喜んだものほど、今は確認する」
『じゃあ、拒否席の費用。落札はだめ。乱闘が起きたら医療へ回して』
「乱闘を前提にしない」
『起きないと思ってる?』
「思っていない」
『正直になった』
「遅い」
凱は一件ごとに、用途欄を直した。
文字が増える。
王命は一行で済む。
委任は、何行書いても足りない。
白戸は、凱の横で確認時刻だけを記録した。
「意見を言わないのか」
「頼まれていません」
「今、頼む」
「何について」
「俺の聞き方」
「相手が《信じる》と言った時、あなたは困った顔をしました」
「悪いか」
「信頼されるのが嫌なんじゃない。信頼を使う自分が怖い」
「心理分析を頼んでいない」